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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、東京の明治神宮外苑に明治神宮競技場が竣功した日です。
 明治神宮競技場(めいじじんぐうがいえんきょうぎじょう)は、東京・青山の明治神宮外苑内にあった陸上競技場施設でした。内務省明治神宮造営局技師の小林政一が設計し、総工費は当時の金額で726万円で、収容人員は65,000人、楕円形のトラックは一周400m、メインスタンド側の直線部分を延長して200mの直線コースをとっています。
 1915年(大正4)に明治神宮外苑造営のために「明治神宮奉賛会」が結成され、1917年(大正6)には、明治神宮造営局に外苑の設計・施工を依頼しました。1922年(大正11)に定礎式が行われたものの、1923年(大正12)の関東大震災により一時工事が中止され、ようやく1924年(大正13)10月25日に、竣功式が行われ、第1回明治神宮競技大会(10月30日~11月3日)が開催されています。
 1930年(昭和5)に第9回極東選手権大会(5月24日~31日)が開催され、1931年(昭和6)の第六回明治神宮体育大会においては、織田幹雄(三段跳び)と南部忠平(走り幅跳び)が世界新記録を樹立しました。1934年(昭和9)に日本で初めてのアメリカンフットボールの公式試合(日本学生選抜対横浜外国人チーム)が行われ、1936年(昭和11)には、ベルリンでのIOC総会で1940年国際オリンピック大会の東京開催が決定したものの、戦争の為に中止となっています。
 1937年(昭和12)に明治神宮奉賛会が解散、1940年(昭和15)に、紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(6月5日~9日)、1943年(昭和18)には、出陣学徒壮行会(10月21日)が開催されました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に進駐軍により接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と呼称され、1952年(昭和27)の接収解除後は、明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となっています。
 同年に、保安隊が発足すると観閲式が行われ、大改修され、日本で初めてアンツーカー舗装が行なわれました。1954年(昭和29)にアジア大会の東京開催決定をうけ、衆議院で国立競技場建設が決議され、1956年(昭和31)には、外苑競技場惜別奉告祭(11月25日)、国立競技場起工式(12月28日)が行われます。
 1957年(昭和32)に明治神宮外苑競技場が解体され、翌年には、国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成(3月30日)しました。

〇明治神宮外苑競技場関係略年表

・1915年(大正4) 明治神宮奉賛会が設立される
・1917年(大正6) 明治神宮奉賛会が明治神宮造営局に外苑の設計・施工を依頼する
・1919年(大正8) 明治神宮外苑競技場の設計が終了する
・1922年(大正11) 定礎式が行われる
・1923年(大正12) 関東大震災により一時工事が中止(翌年再開)する
・1924年(大正13) 明治神宮外苑競技場竣功式(10月25日)が行われ、第1回明治神宮競技大会(10月30日~11月3日)が開催される
・1930年(昭和5) 第9回極東選手権大会(5月24日~31日)が開催される
・1931年(昭和6) 第六回明治神宮体育大会において織田幹雄(三段跳び)と南部忠平(走り幅跳び)が世界新記録を樹立する
・1934年(昭和9) 日本で初めてのアメリカンフットボールの公式試合(日本学生選抜対横浜外国人チーム)が行われる
・1936年(昭和11) ベルリンでのIOC総会で1940年国際オリンピック大会の東京開催が決定する
・1937年(昭和12) 明治神宮奉賛会が解散する
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(6月5日~9日)が開催される
・1943年(昭和18) 出陣学徒壮行会(10月21日)が開催される
・1945年(昭和20) 進駐軍により接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と呼称される
・1952年(昭和27) 接収解除され、明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となり、保安隊が発足して、観閲式が行われ、大改修され、日本で初めてアンツーカー舗装が行なわれる
・1953年(昭和28) サッカー、1954 FIFAワールドカップ・予選、日本対韓国戦が行われるも一分一敗で日本が敗退する
・1954年(昭和29) アジア大会の東京開催決定をうけ、衆議院で国立競技場建設が決議される
・1956年(昭和31) 外苑競技場惜別奉告祭(11月25日)、国立競技場起工式(12月28日)が行われる
・1957年(昭和32) 明治神宮外苑競技場が解体(1月~4月)される
・1958年(昭和33) 国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成(3月30日)する

☆明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)とは?

 東京都新宿区霞ヶ丘町・港区北青山(一部)に所在する緑地です。明治時代は、青山練兵場でしたが、1912年(明治45)に明治天皇が亡くなった時に、葬場殿が設けられ、大葬儀が行われました。その後、明治神宮が国費で造営(内苑)されるにあたって、記念施設として民間の献金により外苑として造成されます。
 1918年(大正7)6月1日に明治神宮外苑地鎮祭で着工されたものの、当初計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとするものでした。1923年(大正12)の関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設、翌年には計画が変更され、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになります。
 1924年(大正13)10月25日に、先行して明治神宮競技場が竣功(戦後に国立競技場として建替)、第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催されました。1926年(大正15)10月22日には、絵画館、野球場、相撲場、児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われます。
 翌日から野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われ、その後は東京六大学リーグ戦の会場となりました。1931年(昭和6)に水泳場、1933年(昭和8)に相撲場併用バスケットボール場設備が出来、1936年(昭和11)には絵画館壁画が完成しています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)の東京大空襲の際に、野球場をはじめ、苑内樹木が被災、戦後はGHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場ともなりました。1952年(昭和27)にGHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場は軟式球場として公開されます。
 1952年(昭和27)に「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となりましたが、1956年(昭和31)に1964年の東京オリンピック開催のため、外苑競技場は国(文部省)に譲渡され、国立競技場に建て替えられました。その後、諸施設が設けられ、洋風庭園としても整備され、現在は面積約30万㎡で、聖徳記念絵画館、明治記念館、明治神宮野球場、明治神宮外苑アイススケート場、日本青年館などのスポーツ、文化施設があります。
 絵画館前へ通ずるイチョウ並木は、東京におけるもっとも美しい街路樹の一つとされ、1982年(昭和57)には「新東京百景」にも選定されました。

<現在の明治神宮外苑の主な施設>

・聖徳記念絵画館 - 1926年竣工。明治天皇にまつわる幕末・明治期の政局を描いた絵画を中心に展示されている
・明治記念館 - 明治神宮による結婚式場として有名、大日本帝国憲法の草案を作った建物も残っている
・明治神宮野球場 - 東京ヤクルトスワローズの本拠地、また全日本大学野球選手権大会の舞台
・明治神宮外苑軟式グラウンド - 絵画館の正面にある野球場。
・明治神宮外苑にこにこパーク - 山やログハウスなど緑豊かな有料児童遊園(大人200円、子供50円)
・明治神宮外苑アイススケート場 - 一年中利用できる室内アイススケート場
・神宮外苑フットサルクラブ - 神宮外苑によるフットサルコート
・明治神宮外苑テニスクラブ - 神宮外苑によるテニスクラブ、1957年設立、室内と屋外の2つがある
・明治神宮外苑ゴルフ練習場 - 神宮外苑によるゴルフ練習場
・明治神宮バッティングドーム - 神宮にある全12打席のバッティングセンター
・日本青年館 - 宿泊・会議などもできる施設
・日本文化芸術研究センター - 2010年7月、京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が共同で設置したサテライトキャンパス
・三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア - 2019年11月22日に開業した三井ガーデンホテルの1つ

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
1907年(明治40)第1回文部省美術展覧会(通称:文展)が東京上野で開催される詳細
1909年(明治42)写真家土門拳の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)を出す詳細
1951年(昭和26)戦後初の国内民間航空会社日本航空が、東京~大阪~福岡間で運航開始する(民間航空記念日)詳細
1991年(平成4)「再生資源の利用の促進に関する法律」(リサイクル法)が施行(公布は前年4月26日)される詳細