
『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)は、滝沢馬琴著の読本で、江戸時代後期の1814年(文化11)に刊行が開始され、28年をかけて1842年(天保13)に完結した、98巻106冊におよぶわが国最大の伝奇小説でした。中国の『水滸伝』、『三国志』を借り、『里見記』、『里見九代記』、『北条五代記』などを参考にして書かれています。
ストーリーは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳の玉をもつ八犬士を中心に、里見家の再興を描いたものでした。文体は雅俗折衷の華麗な和漢混交文で、物語もまた壮大華麗にして波乱万丈を極め、読者を熱中させ、当時だけでなく、明治時代にまで及ぶ、大ロングセラーとなります。
ストーリーは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳の玉をもつ八犬士を中心に、里見家の再興を描いたものでした。文体は雅俗折衷の華麗な和漢混交文で、物語もまた壮大華麗にして波乱万丈を極め、読者を熱中させ、当時だけでなく、明治時代にまで及ぶ、大ロングセラーとなります。
〇滝沢馬琴(たきざわ ばきん)とは?
江戸時代後期に活躍した読本・合巻作者です。1767年(明和4年6月9日)に、江戸深川において、旗本松平信成の用人の父・滝沢興義、母・もんの5男として生まれましたが、本名は興邦(のちに解、別号は曲亭など)といいました。
1780年(安永9)に主家を出奔し、徒士奉公などで放浪の末に、1790年(寛政2)秋に山東京伝に入門します。翌年には、大栄山人の名で黄表紙『尽用而二分狂言』を発表、1793年(寛政5)には飯田町のはきもの商伊勢屋の入婿になるものの、著述に専念しました。
後に、滑稽本よりも物語性が強い読本に転じ、処女作『高尾船字文(たかおせんじもん)』(1796年)を出し、『椿説弓張月』(1807~11年)で人気を博し、1812年(文化11)より、28年をかけて完成させた大作『南総里見八犬伝』で第一人者となります。後年は、天保の改革による風俗取締りの影響、1835年(天保6)に跡とりのひとり息子宗伯に先立たれ、1839年(天保10)ごろからの眼疾の悪化で失明などの逆境の中にあっても、息子の嫁おみちの献身的な代筆によって、執筆を続けました。
しかし、1848年(嘉永元年11月6日)に、江戸において、81歳で亡くなっています。
1780年(安永9)に主家を出奔し、徒士奉公などで放浪の末に、1790年(寛政2)秋に山東京伝に入門します。翌年には、大栄山人の名で黄表紙『尽用而二分狂言』を発表、1793年(寛政5)には飯田町のはきもの商伊勢屋の入婿になるものの、著述に専念しました。
後に、滑稽本よりも物語性が強い読本に転じ、処女作『高尾船字文(たかおせんじもん)』(1796年)を出し、『椿説弓張月』(1807~11年)で人気を博し、1812年(文化11)より、28年をかけて完成させた大作『南総里見八犬伝』で第一人者となります。後年は、天保の改革による風俗取締りの影響、1835年(天保6)に跡とりのひとり息子宗伯に先立たれ、1839年(天保10)ごろからの眼疾の悪化で失明などの逆境の中にあっても、息子の嫁おみちの献身的な代筆によって、執筆を続けました。
しかし、1848年(嘉永元年11月6日)に、江戸において、81歳で亡くなっています。
<滝沢馬琴の主要な作品>
・黄表紙『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』(1791年)
・読本『高尾船字文(たかおせんじもん)』(1796年)
・読本『椿説弓張月』(1807~11年)
・読本『俊寛僧都島物語』(1808年)
・随筆『燕石雑志』(1811年)
・読本『南総里見八犬伝』(1812~42年)
・読本『朝夷(あさひな)巡島記』(1815年)
・合巻『傾城水滸伝』(1825~35年)
・読本『近世説美少年録』(1829~30年)
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