
木原均(きはら ひとし)は、明治時代後期の1893年(明治26)10月21日に、東京市の芝白金に生まれ、麻布中学校を経て、1912年(大正元)に東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)大学予科に入学しました。1913年(大正2)に大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当、1915年(大正4)には、農学科第三部(のちの農業生物学科、現在の応用生命科学科)に進学し植物生理学を専攻します。
1918年(大正7)に卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学、1920年(大正9)に京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、1922年(大正11)には講師に昇進しました。1924年(大正13)に「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、助教授(農林生物学第三講座)に昇進、1925年(大正14)からドイツ、イギリス、アメリカに留学します。
1927年(昭和2)に教授(実験遺伝学講座)に昇進、1940年(昭和15)には、京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞しました。1942年(昭和17)に財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務め、1943年(昭和18)に「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞、1944年(昭和19)には、パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見します。
太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文化勲章を受章、1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1955年(昭和30)に京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となります。
一方で、スポーツに熱心で、1958年(昭和33)に全日本スキー連盟会長(1968年まで)となり、1960年(昭和35)の第8回冬季オリンピック(スコーバレー)、1964年(昭和39)の第9回冬季オリンピック(インスブルック)では、日本選手団団長となり、1972年(昭和47)の第11回冬季オリンピック(札幌)では、組織委員を務めました。1974年(昭和49)に麻布学園理事長となり、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章を受章、1977年(昭和52)には、アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞します。
1985年(昭和60)に今までの業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立されましたが、1986年(昭和61)7月27日に、神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈されました。
1918年(大正7)に卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学、1920年(大正9)に京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、1922年(大正11)には講師に昇進しました。1924年(大正13)に「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、助教授(農林生物学第三講座)に昇進、1925年(大正14)からドイツ、イギリス、アメリカに留学します。
1927年(昭和2)に教授(実験遺伝学講座)に昇進、1940年(昭和15)には、京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞しました。1942年(昭和17)に財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務め、1943年(昭和18)に「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞、1944年(昭和19)には、パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見します。
太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文化勲章を受章、1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1955年(昭和30)に京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となります。
一方で、スポーツに熱心で、1958年(昭和33)に全日本スキー連盟会長(1968年まで)となり、1960年(昭和35)の第8回冬季オリンピック(スコーバレー)、1964年(昭和39)の第9回冬季オリンピック(インスブルック)では、日本選手団団長となり、1972年(昭和47)の第11回冬季オリンピック(札幌)では、組織委員を務めました。1974年(昭和49)に麻布学園理事長となり、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章を受章、1977年(昭和52)には、アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞します。
1985年(昭和60)に今までの業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立されましたが、1986年(昭和61)7月27日に、神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈されました。
〇木原均の主要な著作
・『小麦の細胞遺伝学的研究』(1943年)
・『実験遺伝学』(1949年)
・編著『小麦の研究』(1954年)
・『コムギの合成 - 木原均随想集』(1973年)
・『一粒舎主人寫眞譜』(1985年)
☆木原均関係略年表
・1893年(明治26)10月21日 東京市の芝白金に生まれる
・1912年(大正元) 東北帝国大学農科大学(現:北海道大学)大学予科に入学する
・1913年(大正2) 大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当する
・1915年(大正4) 農学科第三部(のちの農業生物学科、現在の応用生命科学科)に進学し植物生理学を専攻する
・1918年(大正7) 卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学する
・1920年(大正9) 京都帝国大学理学部植物学教室助手となる
・1922年(大正11) 京都帝国大学理学部植物学教室講師となる
・1924年(大正13) 「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、京都帝国大学農学部農林生物学科助教授(農林生物学第三講座)となる
・1925年(大正14) ドイツ、イギリス、アメリカに留学する
・1926年(大正15) 実験遺伝学講座へ移る
・1927年(昭和2) 京都帝国大学農学部農林生物学科教授(実験遺伝学講座)となる
・1940年(昭和15) 京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞する
・1942年(昭和17) 財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務める
・1943年(昭和18) 「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞する
・1944年(昭和19) パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見する
・1948年(昭和23) 文化勲章を受章する
・1949年(昭和24) 日本学士院会員に選任される
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1955年(昭和30) 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となる
・1957年(昭和32) 木原生物学研究所が横浜に移設され、スウェーデン王立農大名誉博士となる
・1958年(昭和33) 第4代全日本スキー連盟会長(1968年まで)となる
・1959年(昭和34) 京都大学名誉教授となる
・1960年(昭和35) 日本原子力委員会委員長(1964年まで)となり、第8回冬季オリンピック(スコーバレー)日本選手団団長となる
・1964年(昭和39) 農林省植物ウイルス研究所所長(1968年まで)となり、第9回冬季オリンピック(インスブルック)日本選手団団長となる
・1969年(昭和44) 木原生物学研究所三島分室(静岡県三島市)が開設(1978年まで)される
・1972年(昭和47) 第11回冬季オリンピック(札幌)の組織委員となる
・1974年(昭和49) 麻布学園理事長となる
・1975年(昭和50) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1977年(昭和52) アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞する
・1984年(昭和59) 木原生物学研究所を横浜市立大学に移管、横浜市立大学木原生物学研究所が発足、名誉所長となる
・1985年(昭和60) 木原の業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立される(2013年に公益財団法人に移行)
・1986年(昭和61)7月27日 神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1471年(文明3) | 浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てる(新暦8月13日) | 詳細 |
1719年(享保4) | 幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日) | 詳細 |
1835年(天保6) | 日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日) | 詳細 |
1940年(昭和15) | 大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される | 詳細 |
1976年(昭和51) | 田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される | 詳細 |
1995年(平成7) | 人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する | 詳細 |
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