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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、家永教科書裁判第二次訴訟で東京地裁が、「教科書検定は教育への国の不当な介入で違憲である」として、検定不合格取消の判決(杉本判決)を出した日です。
 家永教科書裁判第二次訴訟第一審判決(杉本判決)は、国民の教育権論を展開して、教科書検定制度自体は「違憲とまでは言えない」としつつも、教科書の記述内容の当否に及ぶ検定は「日本国憲法」第21条2項が禁止する「検閲」に当たると同時に、「教育基本法」第10条(教育への不当な支配の禁止)にも違反するとし、処分取消請求を認容しました。国家の教育権を否定し、家永教科書に対する検定を「日本国憲法」、「教育基本法」に違反するという、家永の主張をほぼ全面的に認めたものです。
 以下に、家永教科書裁判第二次訴訟第一審判決(杉本判決)要旨を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇家永教科書裁判(いえながきょうかしょさいばん)とは?

 歴史学者家永三郎(当時は東京教育大学教授)が執筆した、高等学校用日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)に対する教科書検定に関して、昭和時代後期に日本国政府を相手に起こした3つの裁判のことです。1965年(昭和40)提訴の第一次訴訟(教科書検定被害に対する国家賠償を請求)、1967年(昭和42)提訴の第二次訴訟(不当な教科書検定行政処分取り消しを請求)、1984年(昭和59)提訴の第三次訴訟(正誤訂正申請不受理処分を対象に国家賠償を請求)がありました。
 これに至る経緯は、1962年度の文部省教科書検定において、『新日本史』が不合格とされ、1963年度には条件つき合格となったものの大量の改善・修正意見がついたことによるものです。これは、「日本国憲法」 21条の表現の自由、検閲の禁止、23条の学問の自由、26条の教育を受ける権利に違反し、また、「教育基本法」 10条に定める教育行政の裁量権を逸脱した不当行為として、提訴したものでした。
 1970年(昭和45)に第2次訴訟で東京地裁が、「教科書検定は教育への国の不当な介入で違憲である」として、検定不合格取消の判決(杉本判決)を出します。しかし、最高裁は「検閲にはあたらない」とし、教科書検定制度を合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、原告の実質的敗訴が確定しました。
 一方、検定内容の適否については、1993年(平成5)東京高裁は「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」の3ヶ所の記述削除を違法とし、1997年(平成9)最高裁はさらに「731部隊」を加えた計 4ヵ所の記述削除を「国の裁量権逸脱」として違法とし、計40万円の支払いを国に命じます。この一連の裁判は、教科書検定制度の問題点を世間に明らかにし、公教育の在り方を広く問うものとなりました。

〇家永教科書裁判第二次訴訟第一審判決(杉本判決)要旨

1 憲法第26条は同25条を受けていわゆる生存権的基本権のいわば文化的側面として、国民とくに子どもの教育を受ける権利を保障し、その反面として国に対し、この権利を実現するための立法その他の措置を講ずべき責務を負わせたものであり、この子どもの権利に対応して親を中心とした国民全体が子どもを教育する責務を負うものであるが、この責務の遂行を助成するために国に与えられる権能は教育を育成するための諸条件を整備することにあり,国が教育内容に介入することは基本的には許されない。 
2 学問の研究者が自らの研究成果に基づき教科書を執筆し出版することもまた憲法21条第1項にいう出版の自由に属する。 
3 学校教育法第21条第1項にいう「文部大臣の検定」は,教科用図書の出版に対する事前許可としての法的性格を有するが、検定をするについての審査が執筆者の思想内容に及ぶものでない限り憲法第21条第2項にいう「検閲」に当たらない。 
4 教科書検定は,国が福祉国家として児童,生徒の心身の発達段階に応じ必要かつ適切な教育を施し教育の機会均等と教育水準の維持向上を図る責任を果たすための一環として行なうものであるから、その限度において教科書執筆、出版の自由が制約を受けてもそれは公共の福祉の見地からする必要かつ合理的な制限というべきであって、憲法第21条第1項にいう「表現の自由」の侵害にならない。 
5 教育基本法第10条の趣旨は、その1,2項を通じ、国の教育行政は教育施設の管理、就学義務の監督その他の教育の外的事項についての条件整備の確立を目標として行なう責務を負うが、教育課程その他の教育の内的事項については指導、助言等は別として一定の限度をこえてこれに権力的に介入することは許されず、このような介入は不当な支配に当たるというにあるから、教科書検定における審査は、教科書の誤記、誤植その他の客観的に明らかな誤り、教科書の造本その他教科書についての技術的事項および教科書の内容が教育課程の大綱的基準の枠内にあるかの諸点にとどめられるべきで、右の限度をこえて教科書の記述内容の当否にまで及ぶときは、検定は教育基本法第10条に違反する。

☆家永教科書裁判関係略年表

・1952年(昭和27) 家永三郎が高校教科書「新日本史」(三省堂)の執筆を始める
・1955年(昭和30) 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立する
・1957年(昭和32) 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出する
・1963年(昭和38) 「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強める
・1965年(昭和40) 国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起する
・1967年(昭和42) 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起する
・1970年(昭和45) 第2次訴訟で東京地裁が、「教科書検定は教育への国の不当な介入で違憲である」として、検定不合格取消の判決(杉本判決)を出す
・1984年(昭和59) 再び国家賠償請求訴訟(第3次)を提起する
・1989年(平成元)6月 第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下される
・1993年(平成5)3月 第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持される
・1997年(平成9) 第3次訴訟は、最高裁で1ヵ所の書き換え処分が違法とされ、国側に40万円の支払いを命ずる“一部勝訴”判決が出る(一連の教科書裁判終結)

☆家永 三郎(いえなが さぶろう)とは?

 昭和から平成時代に活躍した歴史学者・一連の教科書裁判の原告です。大正時代の1913年(大正2)9月3日に、後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれましたが、1921年(大正10)に東京に転居しました。
 1934年(昭和9)に東京高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、1937年(昭和12)に卒業します。教学局日本文化大観編纂助手を経て、1941年(昭和16)に新潟高等学校教授となり、1944年(昭和19)には、東京高等師範学校教授に転じました。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に仙台へ疎開したものの、戦後は東京に戻り、1946年(昭和21)には、文部省教科書編纂委員嘱託として、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆します。初めは実証主義の史家として知られ、やまと絵の研究に関わる『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、1948年(昭和23)に日本学士院恩賜賞を受賞しました。
 1949年(昭和24)に、学制改革により、東京教育大学文学部史学科教授となり、1950年(昭和25)には、学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』により、東京大学より文学博士を得ます。1952年(昭和27)に高校教科書「新日本史」(三省堂発行)の執筆を始め、1954年(昭和29)には、「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加しました。
 1955年(昭和30)に高校教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立、1957年(昭和32)には、第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出します。1959年(昭和34)の東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこない、1963年(昭和38)に「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強めました。
 1965年(昭和40)に国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起、1967年(昭和42)に「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起します。1977年(昭和52)に東京教育大学定年退官後、中央大学法学部教授に就任、1984年(昭和59)に中央大学を定年退職、再び1980年代の教科書検定を対象に国家賠償請求訴訟(第3次)を提起しました。
 1989年(平成元)に第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下され、1993年(平成5)に第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持されましたが、第3次訴訟では、検定制度自体は合憲としながらも1審で1ヶ所、控訴審理で3ヶ所、上告審で4ヶ所の検定意見の違法が認められ、国側に40万円の支払いを命ずる判決が、1997年(平成9)に最高裁で出され、“一部勝訴”となって、一連の教科書裁判は終結します。これによって、当時の文部省は検定制度見直しを迫られ、簡素化を中心にした1989年(平成元)の制度の全面改定につながりました。
 古代から近代にいたる日本思想史の研究、3次にわたる教科書裁判で注目を浴びたものの、2002年(平成14)11月29日に東京において、89歳で亡くなっています。

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