
宮城道雄(みやぎ みちお)は、明治時代中頃の1894年(明治27)4月7日に、兵庫県神戸市三宮において、父・菅(すが)国治郎と母・アサの長男として生まれました。生後200日頃から眼病を患い、4歳の頃には、母・アサと離別して祖母・ミネのもとで育てられます。
7歳頃に失明し、8歳の時に、生田流の二代中島検校(けんぎょう)に入門しましたが、2年後に師匠が病没し、3世中島検校に師事、1905年(明治38)に免許皆伝を受け、師匠の「中島」の1字を許されて、芸名『中菅道雄』となりました。1907年(明治40)に、一家の生計を支えるため朝鮮半島に渡り、箏・尺八を教え、1909年(明治42)には、第一作の箏曲『水の変態』を作曲します。
1910年(明治43)に京城(現在のソウル)に移住し、1913年(大正2)に入婿して改姓し、芸名をやめて本名の宮城道雄を名乗るようになりました。1914年(大正3)に尺八家吉田晴風(よしだせいふう)に会い生涯の親友となり、1916年(大正5)には、最高位である “大検校” の称号を受けます。
1917年(大正6)に吉田晴風の招きで上京し、尺八の吉田晴風と新日本音楽を提唱、翌年には、吉村貞子と再婚しました。1919年(大正8)に葛原しげる等の後援により、本郷春木町の中央会堂で第1回作品発表会が開催され、翌年には、本居長世(もとおりながよ)と協同で新作発表会を「新日本音楽」と銘打って開催します。
1921年(大正10)に十七絃(じゅうしちげん)を考案、1923年(大正12)に尺八家の初世中尾都山(なかおとざん)と組んで各地を演奏旅行、1925年(大正14)には、ラジオ試験放送初日に出演しました。1929年(昭和4)に代表曲とされる『春の海』を作曲、1930年(昭和5)に東京音楽学校(現東京藝術大学)講師となり、1932年(昭和7)には、『春の海』が日米仏でレコード発売されます。
1935年(昭和10)に17弦琴と筝とオーケストラの協奏曲を試みるなど邦楽の革新に努め、1937年(昭和12)には、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授に就任しました。太平洋戦争後、1948年(昭和23)に日本芸術院会員となり、1950年(昭和25)には、東京藝術大学専任講師に就任します。
1950年(昭和25)に第1回NHK放送文化賞を受賞、1951年(昭和26)に宮城会が結成され、1953年(昭和28)の夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧、第1位となりました。しかし、1956年(昭和31)6月25日に、東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、刈谷の豊田病院において、62歳で亡くなっています。
没後、日本伝統音楽界への貢献を記念し、1966年(昭和41)に宮城会箏曲コンクールが創設され、1978年(昭和53)には、東京都中野区に「宮城道雄記念館」が開館しました。
7歳頃に失明し、8歳の時に、生田流の二代中島検校(けんぎょう)に入門しましたが、2年後に師匠が病没し、3世中島検校に師事、1905年(明治38)に免許皆伝を受け、師匠の「中島」の1字を許されて、芸名『中菅道雄』となりました。1907年(明治40)に、一家の生計を支えるため朝鮮半島に渡り、箏・尺八を教え、1909年(明治42)には、第一作の箏曲『水の変態』を作曲します。
1910年(明治43)に京城(現在のソウル)に移住し、1913年(大正2)に入婿して改姓し、芸名をやめて本名の宮城道雄を名乗るようになりました。1914年(大正3)に尺八家吉田晴風(よしだせいふう)に会い生涯の親友となり、1916年(大正5)には、最高位である “大検校” の称号を受けます。
1917年(大正6)に吉田晴風の招きで上京し、尺八の吉田晴風と新日本音楽を提唱、翌年には、吉村貞子と再婚しました。1919年(大正8)に葛原しげる等の後援により、本郷春木町の中央会堂で第1回作品発表会が開催され、翌年には、本居長世(もとおりながよ)と協同で新作発表会を「新日本音楽」と銘打って開催します。
1921年(大正10)に十七絃(じゅうしちげん)を考案、1923年(大正12)に尺八家の初世中尾都山(なかおとざん)と組んで各地を演奏旅行、1925年(大正14)には、ラジオ試験放送初日に出演しました。1929年(昭和4)に代表曲とされる『春の海』を作曲、1930年(昭和5)に東京音楽学校(現東京藝術大学)講師となり、1932年(昭和7)には、『春の海』が日米仏でレコード発売されます。
1935年(昭和10)に17弦琴と筝とオーケストラの協奏曲を試みるなど邦楽の革新に努め、1937年(昭和12)には、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授に就任しました。太平洋戦争後、1948年(昭和23)に日本芸術院会員となり、1950年(昭和25)には、東京藝術大学専任講師に就任します。
1950年(昭和25)に第1回NHK放送文化賞を受賞、1951年(昭和26)に宮城会が結成され、1953年(昭和28)の夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧、第1位となりました。しかし、1956年(昭和31)6月25日に、東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、刈谷の豊田病院において、62歳で亡くなっています。
没後、日本伝統音楽界への貢献を記念し、1966年(昭和41)に宮城会箏曲コンクールが創設され、1978年(昭和53)には、東京都中野区に「宮城道雄記念館」が開館しました。
<宮城道雄の代表曲>
・『秋の調(しらべ)』(1919年)
・『落葉の踊り』(1921年)
・『さくら変奏曲』(1923)
・『越天楽変奏曲(えてんらくへんそうきょく)』(1927年)
・『春の海』(1929年)
・『虫の武蔵野(むさしの)』(1932年)
・『道灌(どうかん)』(1936年)
・『日蓮(にちれん)』(1953年)
〇宮城道雄関係略年表
・1894年(明治27)4月7日 兵庫県神戸市三宮において、父・菅(すが)国治郎と母・アサの長男として生まれる
・1901年(明治34) 失明の宣告を受ける
・1902年(明治35) 生田流の二代中島検校(けんぎょう)に入門する
・1905年(明治38) 三代中島検校より免許皆伝を受け、師匠の「中島」の1字を許されて、芸名『中菅道雄』となる
・1907年(明治40) 一家の生計を支えるため朝鮮半島に渡り、箏・尺八を教える
・1909年(明治42) 第一作の箏曲『水の変態』を作曲する
・1910年(明治43) 京城(現在のソウル)に移住する
・1913年(大正2) 入婿して改姓し、芸名をやめて本名の宮城道雄を名のる
・1914年(大正3) 尺八家吉田晴風(よしだせいふう)に会い生涯の親友となる
・1916年(大正5) 最高位である “大検校” の称号を受ける
・1917年(大正6) 吉田晴風の招きで上京し、尺八の吉田晴風と新日本音楽を提唱する
・1918年(大正7) 吉村貞子と再婚する
・1919年(大正8) 葛原しげる等の後援により、本郷春木町の中央会堂で第1回作品発表会が開催される
・1920年(大正9) 本居長世(もとおりながよ)と協同で新作発表会を「新日本音楽」と銘打って開催する
・1921年(大正10) 十七絃(じゅうしちげん)を考案する
・1923年(大正12) 尺八家の初世中尾都山(なかおとざん)と組んで各地を演奏旅行する
・1925年(大正14) ラジオ試験放送初日に出演する
・1929年(昭和4) 『春の海』を作曲する
・1930年(昭和5) 東京音楽学校(現東京藝術大学)講師となる
・1932年(昭和7) 「春の海」が日米仏でレコード発売される
・1935年(昭和10) 創案した17弦琴と筝とオーケストラの協奏曲を試みるなど邦楽の革新に努める
・1937年(昭和12) 東京音楽学校(現東京藝術大学)教授に就任する
・1948年(昭和23) 日本芸術院会員になる
・1950年(昭和25) 東京藝術大学専任講師に就任する
・1950年(昭和25) 第1回NHK放送文化賞を受賞する
・1951年(昭和26) 宮城会が結成される
・1953年(昭和28) 夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧、第1位となる
・1956年(昭和31)6月25日 東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、刈谷の豊田病院において、62歳で亡くなる
・1966年(昭和41) 宮城会箏曲コンクールが創設される
・1978年(昭和53) 東京都中野区に「宮城道雄記念館」が開館する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1734年(享保19) | 読本作者・歌人・国学者上田秋成の誕生日(新暦7月25日) | 詳細 |
1884年(明治17) | 岡倉天心とフェノロサが法隆寺夢殿の救世観音を調査 | 詳細 |
1894年(明治27) | 「(第1次)高等学校令」が公布(施行は同年9月11日)される | 詳細 |
1941年(昭和16) | 第33回大本営政府連絡会議で、「南方施策促進に関する件」が決定され、同日に上奏裁可される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定される | 詳細 |
1993年(平成5) | 「ウィーン宣言及び行動計画」が世界人権会議により採択される | 詳細 |
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