ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2026年08月

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に、隣組が、町内会・部落会と共に、大政翼賛会の下部組織に正式に編入された日です。
 隣組(となりぐみ)は、東京市においては、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、岡田啓介内閣の選挙粛正運動の下部組織として隣保組織の整備が指示されたのをとっかかりとして、1938年(昭和13)5月には「交隣相助、共同防衛」をスローガンに隣組制度が制定され、これが「隣組」の嚆矢とされています。全国的には、1940年(昭和15)9月11日に出された、内務省訓令第17号の「部落会町内会等整備要領」によって、町内会などの下に設けられた最末端の地域組織で、隣保班とも呼ばれていました。1942年(昭和17)8月14日には、隣組が、町内会・部落会と共に、大政翼賛会の下部組織に正式に編入されます。大政翼賛会の末端組織町内会の内部に形成され、戦争総動員体制を具体化したものの一つとなりました。江戸時代の五人組以来の旧慣をなるべく尊重し、採り入れることがうたわれています。1組につき5~10戸程度で構成され、各戸から1名以上が参加する定例集会である常会により運営されました。配給業務や軍人遺家族援護、防空、消火の訓練と実施などの相互扶助的な日常活動が行われ、戦時体制を支える行政の末端組織とされています。

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月14日に、町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。
 しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会関係略年表

<1940年(昭和15)>
・7月26日 近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」を閣議決定し、「国防国家体制」樹立の方針を確定する
・9月27日 閣議で運動体の名称「大政翼賛運動」および中核体の名称「大政翼賛会」がそれぞれ正式決定し、役員も発表され、総裁には近衛首相が就任する
・10月12日 首相官邸大ホールで「大政翼賛会」の発会式が挙行される
・12月14日 「大政翼賛会実践要綱」が発表される
・12月19日 「大政翼賛会実践要綱」が、近衛総裁の裁可を得る

<1940年(昭和15)>
・3月21日 翼賛会の全国の支部の組織、庶務両部長の有志が九段会館で「全国地方支部有志協議会」の会合を実施、改組反対の決議を行う
・4月2日 政府により改組案が発表される

<1941年(昭和16)>
・2月 公事結社と認定されて政治活動を禁止される
・4月 第1回改組によって有馬頼寧事務総長らの近衛側近グループが退陣させられ、内務官僚と警察が主導権を握る行政補助機関となっていく

<1942年(昭和17)>
・1月16日 大政翼賛運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団が結成される
・4月30日 翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図る
・6月23日 従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収める
・8月14日 部落会・町内会の会長を翼賛会の世話役に、隣保班長・隣組長を世話人とすることを決定し、大政翼賛会の下部組織に正式に編入される

<1945年(昭和20)>
・3月23日 鈴木貫太郎内閣のもとで、「本土防衛態勢ノ完備ヲ目標」として国民義勇隊の結成が閣議決定され、大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・大日本婦人会が吸収されることとなる
・6月13日 国民義勇隊に引き継がれることになり、「大政翼賛会」は解散する

☆「大政翼賛会」発足時の近衛総裁挨拶 1940年(昭和15)10月12日

 わが国は正に一大転換期に際会し、外に善隣との盟約を固うし、内に新体制を樹立し、大東亜の新秩序を確立すると共に、進んで世界新秩序の建設に邁進致さねばならない時が参りました。
 政府は聖旨を奉戴し、現時の国際情勢に鑑み、高度国防国家の体制完遂に対して全力を挙げつゝあるのであります。高度国防国家の建設は、政治・経済・文化等の各部面に於て過去に於ける一切の殻を捨て、新らしき目標に向つて一億一心の協力体制を整備し、又国家機構の各部面をして最も円滑なる有機的回転をなさしめることによつて始めて可能となるのであります。
 現内閣成立以来国内を挙げて、新政治体制の実現に対し絶大なる共鳴と協力を得ましたことは、真に感激に堪へません。こゝに本日大政翼賛会発会式を挙げ、万邦無比の國體に基づき世界に比類なき理念の上に、大政翼賛運動を本会の推進によつて発足するに至りましたことは、真に御同慶に堪へないところであります。
 申すまでもなく、今やわが国は、明治維新にも比すべき重大なる時局に直面してをります。わが大政翼賛の運動こそは、古き自由放任の姿を捨てて新らしき国家奉仕の態勢を整へんとするものであります。歴史は今やわが国に対し重大なる時機の到来を告げつゝあります。大政翼賛運動の将来は真にわが国家の運命を決するものであり、しかも本運動の遂行は容易の業ではありません。われ/\は前途に如何なる波乱怒濤起るとも必ずこれを乗切つて進んで行かねばならぬのであります。本運動の発足に当り、私はその推進的原動力となつてこの難事業の完成に協力せられる役員諸君に、衷心より敬意を表するものであります。
 各位はこの重大なる使命達成のため、挺身これに当られ大御心を安んじ奉り、忠誠の実を挙げられんことを切望してやまざる次第であります。
 最後に大政翼賛運動綱領については、準備委員の会合に於ても数次真剣なる論議が行はれたことを承つてをります。しかしながら本運動の綱領は、大政翼賛の臣道実践といふことに尽きると信ぜられるのでありまして、このことをお誓ひ申上げるものであります。これ以外には綱領も宣言も無しと言ひ得るのであります。若しこの場合に於て宣言綱領を私に表明すべしと云はれるならば、それは「大政翼賛の臣道実践」といふことである。「上御一人に対し奉り日夜それ/"\の立場に於て奉公の誠をいたす」といふことに尽きると存ずるのであります。かく考へ来て本日は綱領宣言を発表致さざることに私は決心致しました。このことをつけ加へて明確に申述べて置きます。

☆「大政翼賛会実践要綱」 1940年(昭和15)12月14日発表

 今や世界の歴史的転換期に直面し、八紘一宇の顕現を国是とする皇國は、一億一心全能力を挙げて天皇に帰一し奉り、物心一如の国家体制を確立し、以て光輝ある世界の道義的指導者たらんとす。茲に本会は、互助相誡、皇國臣民たるの自覚に徹し、率先して国民の推進力となり、つねに政府と表裏一体協力の関係に立ち、上意下達・下情上通を図り、以て高度国防国家体制の実現に努む。左にその実践要綱を提唱す。

一、臣道の実践に挺身す。即ち、無上絶対普遍的真理の顕現たる國體を信仰し、歴代詔勅を奉体し、職分奉公の誠をいたし、ひたすら惟神(かんながら)の大道を顕揚す。
二、大東亜共栄圏の建設に協力す。即ち、大東亜の共栄体制を完備し、その興隆を図るとともに、進んで世界新秩序の確立に努む。
三、翼賛政治体制の建設に協力す。即ち、経済・文化・生活を翼賛精神に帰一し、強力なる綜合的翼賛政治体制の確立に努む。
四、翼賛経済体制の建設に協力す。即ち、創意と能力と科学を最高度に発揮し、翼賛精神に基く綜合的計画経済を確立し、以て生産の飛躍的増強を図り、大東亜における自給自足経済の完成に努む。
五、文化新体制の建設に協力す。即ち、國體精神に基き雄渾、高雅、明朗にして科学性ある新日本文化を育成し、内は民族精神を振起し、外は大東亜文化の昂揚に努む。
六、生活新体制の建設に協力す。即ち、翼賛理念に基き、新時代を推進する理想と気魄を養ひ、忠孝一本、国民悉く一家族の成員として、国家理想に結集すべき科学性ある生活体制の樹立に努む。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)藤原良房らが『続日本後紀』20巻を撰上する(新暦9月23日)詳細
949年(天暦3)公卿藤原忠平の命日(新暦9月9日)詳細
1511年(永生8)室町幕府第11代将軍足利義澄の命日(新暦9月6日)詳細
1656年(明暦2)彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の誕生日(新暦10月1日)詳細
1748年(寛延元)大坂・竹本座で、並木宗輔・三好松洛ら合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演される(新暦9月6日)詳細
1885年(明治18)「専売特許条例」に基づいて、日本初の専売特許7件がが交付される(専売特許の日)詳細
1900年(明治33)義和団事件において、日本を含む8カ国連合軍が北京を総攻撃し、義和団が鎮圧される詳細
1945年(昭和20)昭和天皇臨席の第15回御前会議において、無条件でのポツダム宣言受諾を決定し、太平洋戦争に敗れる詳細
1950年(昭和25)文部省が9月新学期より8大都市小学校で、ガリオア資金によるパン完全給食を実施と発表する詳細
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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、東北帝国大学の八木秀次教授が「八木アンテナ」の特許を取得した日です。
 八木アンテナ(やぎあんてな)は、大正時代の1926年(大正15)に、東北帝国大学の八木秀次と宇田新太郎が発明したアンテナで、八木・宇田アンテナとも言われます。平行線路に長さが約半波長の導体を直角につけ、さらにこれと平行に反射・導波の役をする導体棒をつけて指向性を高めたものでした。
 このアンテナは超短波・極超短波帯の高利得アンテナとして優れていて、今日でも、テレビ受信(VHF帯、UHF帯)や無線通信に広く使われています。

〇八木秀次(やぎ ひでつぐ)とは?

 明治時代前期の1886年(明治19)1月28日に、大阪府大阪市東区北浜4丁目において、両替商を営む父・八木忠兵衛、母・みちの三男として生まれました。1903年(明治36)に、北野中学を首席で卒業し、第三高等学校理科に入学します。
 在学中に無線に興味を持ち、1909年(明治42)に卒業、仙台高等工業学校電気科講師となったものの、一年志願兵として中野電信隊に入営しました。1910年(明治43)に陸軍工兵軍曹を経て、仙台高等工業学校電気科教授となります。
 1913年(大正2)に欧米留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事、翌年にスイス滞在中、第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事、1915年(大正4)には、渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事しました。1916年(大正5)に欧米留学より帰国、1919年(大正8)には、東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得します。
 1924年(大正13)に東北帝国大学工学部長となり、1925年(大正14)には、八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、翌年には特許(特許第69115号)を取得しました。1929年(昭和4)に東北帝国大学工学部長となり、1931年(昭和6)には、大阪帝国大学理学部創立委員を受諾、翌年に設立された大阪帝国大学理学部の教授を兼任します。
 1936年(昭和11に東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となり、翌年には電気通信学会会長となりました。1939年(昭和14)に大阪帝国大学理学部長となり、1940年(昭和15)に電気学会会長、1942年(昭和17)には、東京工業大学学長に就任します。
 1943年(昭和18)に日本音響学会会長、1944年(昭和19)には、内閣技術院総裁に就任しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章します。
 1946年(昭和21)に大阪帝国大学総長に就任したものの、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任しました。1951年(昭和26)に日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章します。
 1952年(昭和27)に八木アンテナ株式会社社長に就任、翌年の第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して補欠当選(3年任期)しました。1955年(昭和30)に五島慶太に請われて武蔵工業大学学長に就任、1956年(昭和31)の第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章します。
 1957年(昭和32)に日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任、1958年(昭和33)には、デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」、1962年(昭和37)には、第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受けました。1974年(昭和49)に東北大学名誉教授となりましたが、1976年(昭和51)1月19日に、東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈されています。
 八木‐宇田アンテナの発明、指向性超短波空中線方式、高周波光力変調方式など通信工学の業績が大きかったので、1985年(昭和60)には、特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれました。

<八木秀次の主要な著作>

・『八木秀次随筆集』
・『技術人夜話』

☆八木秀次関係略年表

・1886年(明治19)1月28日 大阪府大阪市東区北浜4丁目において、両替商を営む父・八木忠兵衛、母・みちの三男として生まれる
・1903年(明治36) 北野中学を首席で卒業し、第三高等学校理科に入学する
・1906年(明治39) 東京帝国大学工科大学電気工学科に入学する
・1909年(明治42) 東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、仙台高等工業学校電気科講師、一年志願兵として中野電信隊に入営する
・1910年(明治43) 陸軍工兵軍曹、仙台高等工業学校電気科教授となる
・1913年(大正2) ドイツ留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事する
・1914年(大正3) スイス滞在中に第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事する
・1915年(大正4) 渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事する
・1916年(大正5) 欧米留学より帰国する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得、安部恒子と結婚する
・1923年(大正12) 正五位となる
・1924年(大正13) 東北帝国大学工学部長となり、勲四等瑞宝章を受章する
・1925年(大正14) 八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、指向性短波アンテナの特許を単独名で出願する
・1926年(大正15) 八木・宇田アンテナを特許化(特許第69115号)する
・1928年(昭和3) 従四位となり、勲三等瑞宝章を受章する
・1929年(昭和4) 東北帝国大学工学部長となる
・1931年(昭和6) 大阪帝国大学理学部物理学科の初代主任教授就任を打診されて、一度は断るものの、再度の依嘱により諾意、理学部創立委員を受諾する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学理学部創立委員が正式に決まり、創立委員会が開かれる。10月に大阪帝国大学教授を兼任する
・1933年(昭和8) 正四位となる
・1934年(昭和9) 大阪帝国大学教授兼東北帝国大学教授として更任する
・1935年(昭和10) 勲二等瑞宝章を受章する
・1936年(昭和11) 依願免兼官により、東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となる
・1937年(昭和12) 電気通信学会会長となる
・1938年(昭和13) 従三位となる
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学理学部長となる
・1940年(昭和15) 電気学会会長となる
・1942年(昭和17) 東京工業大学学長に就任する
・1943年(昭和18) 日本音響学会会長。10月に興亜工業大学(現・千葉工業大学)の顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、同大学の相談役に就任する
・1944年(昭和19) 内閣技術院総裁に就任、正三位となる
・1945年(昭和20) 宮中講書始洋書進講、戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章する
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学総長に就任するも、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任する
・1951年(昭和26) 日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章する
・1952年(昭和27) 八木アンテナ株式会社社長に就任する
・1953年(昭和28) 第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して51位で補欠当選(3年任期)する
・1955年(昭和30) 五島慶太に請われて武蔵工業大学(現・東京都市大学)学長に就任する
・1956年(昭和31) 第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章する
・1957年(昭和32) 日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任する
・1958年(昭和33) デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」を受賞する
・1960年(昭和35) 八木アンテナ株式会社社長を辞める
・1962年(昭和37) 第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受ける
・1974年(昭和49) 東北大学名誉教授となる
・1976年(昭和51)1月19日 東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈される
・1985年(昭和60) 特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれる
・1995年(平成7) IEEE(米国電気電子学会)によって八木・宇田アンテナ発明を顕彰するIEEEマイルストーンが、東北大学に設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

842年(承和9)貴族・官僚・書家橘逸勢の命日(新暦9月24日)詳細
1716年(享保元)紀州藩主・徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に就任し、享保の改革が始められることになる(新暦9月28日)詳細
1730年(享保15)大坂の堂島米会所の設置が江戸幕府より公式に認可される(新暦9月24日)詳細
1809年(文化6)幕末明治維新期の熊本藩士・思想家・政治家横井小楠の誕生日(新暦9月22日)詳細
1870年(明治3)日本5番目の洋式灯台である城ヶ島灯台が初点灯する(新暦9月8日)詳細
1928年(昭和3)箱根登山鉄道株式会社が設立される詳細
1952年(昭和27)日本が国際通貨基金(IMF)に加盟する詳細
日本が国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟する詳細
1981年(昭和56)植物細胞学者桑田義備の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、「経済安定本部令」(昭和21年勅令第380号)により、経済安定本部が設置された日です。
 経済安定本部(けいざいあんていほんぶ)は、太平洋戦争敗戦後の経済の安定、復興をはかるため、1946年(昭和21)8月12日に、「経済安定本部令」(昭和21年勅令第380号)により、総理府の外局として設置された行政機関です。物資の生産・配給および労務、物価、金融等に関する経済の緊急施策につき、企画立案、各庁事務の統合調整など経済統制を中心に総合的な経済政策の展開を担いました。
 1947年(昭和22)7月4日には、国民に理解を求める「経済実相報告書」を発表、経済白書の出発点となります。1948年(昭和23)に、経済復興五ヵ年計画、経済復興計画基本方針などを立案、傾斜生産方式の実施を推進しました。
 1949年(昭和24)の行政整理では1官房6局に縮小、1952年(昭和27)7月に廃止され、その事務は、同年8月に発足した経済審議庁に受け継がれます。その後、同審議庁は、1955年(昭和30)に経済企画庁になり、さらに同庁は2001年(平成13)中央省庁の再編統合により内閣府となりました。
 以下に、「経済安定本部令」(昭和21年勅令第380号)を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇経済安定本部関係略年表

・1946年(昭和21)8月12日 「経済安定本部令」(昭和21年勅令第380号)が施行され、第1次吉田内閣にて経済安定本部が発足
・1946年(昭和21)12月17日 経済安定本部は『経済危機突破根本方針』を決定し、傾斜生産方式により経済再建を図ることを発表す
・1946年(昭和21)12月18日 経済安定本部令の一部を改正する勅令(昭和21年勅令第603号)の施行により、総務長官を補佐する次長が置かれることになる
・1947年(昭和22)5月3日 総理庁の発足にともない、経済安定本部は内閣の部局から総理庁の機関となる
・1947年(昭和22)7月4日 『経済実相報告書』(いわゆる「経済白書」)が初めて発表される
・1948年(昭和23)4月14日 政務次官の臨時設置に関する法律(昭和23年法律第26号)の施行により、内閣総理大臣や国務大臣が長を務める行政機関であれば省に限らず政務次官を置くことができるようになる
・1948年(昭和23)4月17日 芦田内閣にて政務次官が置かれることになめ
・1948年(昭和23)10月2日 辞任する騒ぎが起きる
・1948年(昭和23)12月13日 総務長官(大蔵大臣と兼務)の泉山三六が泥酔して女性に抱きついて無理やりキスを迫り、断られると噛みつくなどの猥褻行為を行い、国会キス事件として問題化する
・1948年(昭和23)12月14日 総務長官(大蔵大臣と兼務)の泉山三六が辞任する
・1949年(昭和24)6月1日 「国家行政組織法」(昭和23年7月10日法律第120号)の施行により、「経済安定本部設置法」(昭和24年法律第164号)により、経済安定本部は総理庁の機関から府や省と同等の機関となり、物価庁、経済調査庁は経済安定本部の外局となる
・1952年(昭和27)4月1日 経済安定本部の外局である物価庁の廃止にともない、内部部局として物価局が設置される
・1952年(昭和27)8月1日 経済安定本部の廃止にともない、総理府の外局として経済審議庁が発足する

☆「経済安定本部令」(昭和21年勅令第380号) 1946年(昭和21)8月12日発布

第一条 経済安定本部は、内閣総理大臣の管理に属し、物資の生産、配給及び消費、労務、物価、金融、輸送等に関する経済安定の緊急施策について、企画立案の基本に関するもの並びに各庁事務の綜合調整、監査及び推進に関する事務を掌る。
2 前項の事務を行ふために、特に必要があるときは、内閣総理大臣は、関係各省大臣に対して、必要な事項を命ずることができる。

第二条 前条第一項の事務を分掌させるために、経済安定本部に、内閣総理大臣の定めるところにより、部を置くことができる。

第三条 経済安定本部に左の職員を置く。
 総裁
 総務長官
 部員
 主事
2 前項の職員の外に、部を置いた場合においては、部長を置く。

第四条 経済安定本部に参与若干人を置き、庁務に参与させる。
2 参与は、内閣総理大臣の奏請によつて、学識経験ある者の中から、内閣で、これを命ずる。
3 参与は、その職務に関して知つた秘密を厳守しなければならない。

第五条 総裁は、内閣総理大臣を以て、これに充てる。
2 総裁は、庁務について、その責に任ずる。

第六条 総務長官は、国務大臣を以て、これに充てる。
2 総務長官は、庁務を掌理する。

第七条 部長は、関係各庁二級以上の官吏及び学識経験ある者の中から、内閣総理大臣が、これを命ずる。
2 部長は、総務長官の命を承けて、その部の事務を掌理する。
3 部員は、関係各庁二級以上の官吏及び学識経験ある者の中から、内閣総理大臣が、これを命ずる。
4 部員は、上司の命を承けて、庁務を掌る。

第八条 官吏ではなくて、部長又は部員を命ぜられた者の服務に関しては、官吏服務紀律を準用する。

第九条 主事は、関係各庁の官吏の中から、内閣総理大臣が、これを命ずる。

第十条 経済安定の緊急施策に関する重要事項を審議するために、経済安定本部に、経済安定会議を置く。
2 経済安定会議に関して必要な事項は、内閣総理大臣が、これを定める。

第十一条 この勅令に規定するものの外、経済安定本部に関して必要な事項は、内閣総理大臣が、これを定める。

附 則

1 この勅令は、公布の日から、これを施行する。
2 この勅令は、施行後一年を限り、その効力を有する。

 「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1734年(享保19)儒学者室鳩巣の命日(新暦9月9日)詳細
1893年(明治26)文部省が訓令「小学校祝日大祭日歌詞並楽譜」を布告、「君が代」など8曲を祝日・大祭日の唱歌にする詳細
1899年(明治32)富山明治32年の大火「熊安焼」で、全焼4,697戸、半焼9戸の被害を出す詳細
1905年(明治38)ロシア南下策に対抗する為「日英同盟」の改定(第二回日英同盟協約)が調印される詳細
1943年(昭和18)「金属類回収令」が全面改正されて、公布・内地施行(外地は同年9月1日施行)される詳細
1957年(昭和32)朝日訴訟が提訴される詳細
1978年(昭和53)日本と中国が「日中平和友好条約」に調印する詳細
1985年(昭和60)日本航空123便墜落事故が置き、死者520人を出す詳細
1992年(平成4)小説家中上健次の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1264年(文永元)に、鎌倉幕府第6代執権の北條時頼が病で出家したのに伴い、北條政村が第7代執権に就任した日ですが、新暦では9月2日となります。
 執権(しっけん)は、元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになりました。
 時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となります。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握しました。
 連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きます。

〇鎌倉幕府の歴代執権(北条家)一覧

・初代 時政(ときまさ)1203年(建仁3)~1205年(元久2)
・2代 義時(よしとき)1205年(元久2)~1224年(貞応3)
・3代 泰時(やすとき)1224年(貞応3)~1242年(仁治3)
・4代 経時(つねとき)1242年(仁治3)~1246年(寛元4)
・5代 時頼(ときより)1246年(寛元4)~1256年(康元元)
・6代 長時(ながとき)1256年(康元元)~1264年(文永元)
・7代 政村(まさむら)1264年(文永元)~1268年(文永5)
・8代 時宗(ときむね)1268年(文永5)~1284年(弘安7)
・9代 貞時(さだとき)1284年(弘安7)~1301年(正安3)
・10代 師時(もろとき)1301年(正安3)~1311年(応長元)
・11代 宗宣(むねのぶ)1311年(応長元)~1312年(応長2)
・12代 煕時(ひろとき)1312年(応長2)~1315年(正和4)
・13代 基時(もととき)1315年(正和4)~1316年(正和5)
・14代 高時(たかとき)1316年(正和5)~1326年(正中3)
・15代 貞顕(さだあき)1326年(正中3)
・16代 守時(もりとき)1326年(正中3)~1333年(元弘3)

☆北条政村(ほうじょう まさむら)とは?

 鎌倉時代の1205年(元久2年6月22日)に、第2代執権北条義時の五男(母は伊賀朝光の娘)として生まれました。1213年(建暦3)に元服し、相模四郎政村を名乗り、1224年(元仁元)に父・義時が亡くなると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれたものの、事なきを得ます。
 常陸大掾・式部少丞・右馬助・右馬権頭などを歴任し、1237年(嘉禎3)には、従五位上に叙せられました。1239年(延応元)に幕府の評定衆となり、翌年には、評定衆筆頭に就きます。1244年(寛元2)に従四位下に昇叙、1249年(建長2)に引付頭人を兼務、1256年(建長8)には連署となりました。
 1264年(文永元)に、第6代執権北条長時が亡くなると、第7代執権に就き、1266年(文永3)に、将軍宗尊(むねたか)親王を廃する難局を乗り切ります。1268年(文永5)に、執権職を時宗に譲り、再び連署となり、侍所別当を兼務し、蒙古襲来直前の多難な時期にもかかわらず、よく時宗を補佐しました。
 一方、和歌に優れ、宗尊親王家百首に出詠し、自邸で探題当座千首会を開くなどし、『新勅撰和歌集』、『続千載和歌集』等の勅撰和歌集に40首入集しています。しかし、1273年(文永10)に、病気によって出家して常盤院覚崇を称し、同年5月27日には、鎌倉において、数え年69歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「たかし山 夕越え暮れて 麓なる 浜名の橋を 月に見るかな」(続古今和歌集)
・「今日いくか 野山のあらし 身にしめて 故郷とほく 別れ来ぬらむ」(玉葉和歌集)
・「来し方ぞ 月日にそへて 偲ばるる 又めぐりあふ 昔ならねば」(続拾遺和歌集)

☆北条政村関係略年表(日付は旧暦です)

・1205年(元久2年6月22日) 第2代執権北条義時の五男(母は伊賀朝光の娘)として生まれる
・1213年(建暦3年) 元服し、相模四郎政村を名乗る
・1224年(元仁元年) 父・義時が亡くなると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれる
・1230年(寛喜2年1月13日) 常陸大掾に任官する
・1230年(寛喜2年閏1月4日) 式部少丞に転任する
・1230年(寛喜2年10月15日) 従五位下に叙位される
・1236年(嘉禎2年3月4日) 右馬助に遷任される
・1236年(嘉禎2年4月14日) 右馬権頭に転任する
・1237年(嘉禎3年9月15日) 従五位上に昇叙する
・1238年(嘉禎4年8月28日) 正五位下に昇叙する
・1239年(延応元年10月) 幕府の評定衆と就る
・1240年(仁治元年4月5日) 右馬権頭を辞任する
・1240年(仁治元年) 評定衆筆頭と就る
・1244年(寛元2年6月22日) 従四位下に昇叙する
・1249年(建長2年12月9日) 引付頭人(一番)を兼務する
・1251年(建長3年2月) 常盤(ときわ)の別業(べつぎょう)で和歌会を催す
・1256年(建長8年3月30日) 連署となる
・1256年(建長8年4月5日) 陸奥守に任官する
・1257年(正嘉元年6月12日) 相模守に遷任される
・1264年(文永元年8月11日) 第6代執権北条長時が死去し、第7代執権となる
・1265年(文永2年2月21日) 従四位上に昇叙する
・1265年(文永2年3月28日) 左京権大夫に転任する
・1266年(文永3年3月2日) 正四位下に昇叙する
・1266年(文永3年6月) 将軍宗尊(むねたか)親王を廃する
・1268年(文永5年3月5日) 執権職を時宗に譲り、再び連署と就り、侍所別当を兼務する
・1273年(文永10年5月18日) 出家して、常盤院覚崇を称する
・1273年(文永10年5月27日) 鎌倉において、数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

842年(承和9)貴族・官僚・書家橘逸勢の命日(新暦9月24日)詳細
1716年(享保元)紀州藩主・徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に就任し、享保の改革が始められることになる(新暦9月28日)詳細
1730年(享保15)大坂の堂島米会所の設置が江戸幕府より公式に認可される(新暦9月24日)詳細
1809年(文化6)幕末明治維新期の熊本藩士・思想家・政治家横井小楠の誕生日(新暦9月22日)詳細
1870年(明治3)日本5番目の洋式灯台である城ヶ島灯台が初点灯する(新暦9月8日)詳細
1928年(昭和3)箱根登山鉄道株式会社が設立される詳細
1952年(昭和27)日本が国際通貨基金(IMF)に加盟する詳細
日本が国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟する詳細
1981年(昭和56)植物細胞学者桑田義備の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1828年(文政11)に、P.F.vonシーボルトが、幕府禁制品である日本地図などの持ち出しを図ったものの、船が暴風で坐礁して発覚(シーボルト事件)した日ですが、新暦では9月18日となります。
 シーボルト事件(しーぼるとじけん)は、江戸時代後期の1828年(文政11)に、オランダ商館付のドイツ人医師P.F.vonシーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件でした。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行し、幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの『世界一周記』等と交換に、伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図、蝦夷地図、間宮林蔵『東韃紀行』を贈られ、幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは、開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られます。
 それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されました。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されます。
 また江戸では、高橋景保は1828年(文政11年10月10日)に検挙され、翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けました。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになります。
 尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となりました。

〇 P.F.vonシーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)とは?

 ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言います。1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれます。1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。
 1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ています。1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任しました。
 まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入ります。翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てました。
 1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちます。また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めました。
 帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けます。その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日しました。
 幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しています。尚、『日本』 Nippon(1832~54年)、『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)、『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)など日本関係の論著を多く残しました。

<P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作>

・『日本』 Nippon(1832~54年) 
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年) 
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』 

☆P.F.vonシーボルト関係略年表

・1796年2月17日 南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれる
・1810年 ヴュルツブルクの高校に入学する
・1815年 ウュルツブルク大学に入学、医学のほか生物学、人類学、民族学、地理学などを勉強する
・1820年 ビュルツブルク大学を卒業し、学位を得て、医学博士となる
・1822年(文政5年) オランダ領東インド会社付の医官(陸軍外科少佐)となる
・1823年(文政6年) ジャワに赴任する
・1823年(文政6年7月7日) オランダ商館の医師として来日、長崎出島に入る
・1824年(文政7年) 長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授する
・1826年(文政9年) オランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在する
・1827年(文政10年) 娘いねが誕生する 
・1828年(文政11年) 帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚する(シーボルト事件)
・1829年(文政12年) シーボルト事件で国外追放処分を受ける
・1830年(天保元年)7月7日 オランダに帰着する
・1832年(天保3年) 『日本』が刊行開始される
・1833年(天保4年) 『日本植物誌』が刊行開始される
・1835年(天保6年) 『日本動物誌』が刊行開始される
・1858年(安政5年) 「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除される
・1859年(安政6年) オランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って長崎へ再来日する
・1861年(文久元年) 幕府から江戸へ招かれる
・1862年(文久2年) 日本を去る
・1866年10月18日 ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)「和同開珎」の銅銭が使用開始される(新暦8月29日)詳細
1232年(貞永元)鎌倉幕府3代執権北條泰時が「御成敗式目(貞永式目)」を制定する(新暦8月27日)詳細
1693年(元禄6)俳諧師・浮世草子作家井原西鶴の命日(新暦9月9日)詳細
1920年(大正9)日本初の近代的な道路整備計画が決定する(道の日)詳細
1945年(昭和20)昭和天皇臨席の第14回御前会議において、国体護持を条件として「ポツダム宣言」の受諾を決定する詳細
1950年(昭和25)GHQ指令に基づき、警察予備隊を設置するための「警察予備隊令」が公布・施行される詳細
1956年(昭和31)日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成される詳細
1968年(昭和43)日本初の長距離カーフェリーである阪九フェリー(神戸~小倉)が運航開始する詳細
2003年(平成15)沖縄都市モノレール(ゆいレール)那覇空港~首里が開業する詳細
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