
北条義時(ほうじょう よしとき)は、鎌倉幕府第2代執権です。1163年(長寛元)に、伊豆国の在地豪族だった父・北条時政の次男(母は伊東入道の女)として生まれましたが、幼名は江馬小四郎と言いました。
1180年(治承4)に、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、父とともにこれを助け、相模の石橋山の戦などに加わります。1184年(元暦元)から翌年にかけて、源範頼に従い平氏討伐のため西国に出陣し、豊後国などで転戦しました。
1199年(正治元)に、源頼朝が没し、子の頼家があとをつぐと頼家の外家である比企能員の勢力が台頭したが、父・時政、姉・政子らはこれを嫌い、頼家がみずから訴訟を裁くのを停め、13人の有力御家人の合議によることとします。1203年(建仁3)に、父・時政は比企氏を滅ぼし、将軍頼家を廃し、その弟実朝を将軍に擁立、初代執権(政所別当)となって、幕府の実権を握りました。
1204年(元久元)に、従五位下・相模守に任ぜられ、翌年には、実朝を廃そうと謀った父を、姉・政子とともに幕府から追放し、第2代執権に就任します。1213年(建保元)には、侍所別当和田義盛を滅ぼし、政所別当に加えて侍所別当をも兼ねるようになりました。
1219年(承久元)に、実朝が鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁に殺され、公暁も三浦義村に殺され、源氏の正統は絶え、京都から九条道家の子頼経を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握します。1221年(承久3)に、後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ、承久の乱がおこり、子の泰時、弟の時房らを大将軍とする大軍を送り、京都を占領ししました。
上皇を隠岐に流し、泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ、朝廷との交渉、京都の警備、西国の政務などに当たらせます。敵方からの没収所領3000余か所に、東国の御家人武士を地頭として送り、幕府の勢力範囲は一段と拡大しました。
承久の乱後3年にして病を得て、1224年(元仁元)6月13日に出家し、同日急死したとされています。
1180年(治承4)に、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、父とともにこれを助け、相模の石橋山の戦などに加わります。1184年(元暦元)から翌年にかけて、源範頼に従い平氏討伐のため西国に出陣し、豊後国などで転戦しました。
1199年(正治元)に、源頼朝が没し、子の頼家があとをつぐと頼家の外家である比企能員の勢力が台頭したが、父・時政、姉・政子らはこれを嫌い、頼家がみずから訴訟を裁くのを停め、13人の有力御家人の合議によることとします。1203年(建仁3)に、父・時政は比企氏を滅ぼし、将軍頼家を廃し、その弟実朝を将軍に擁立、初代執権(政所別当)となって、幕府の実権を握りました。
1204年(元久元)に、従五位下・相模守に任ぜられ、翌年には、実朝を廃そうと謀った父を、姉・政子とともに幕府から追放し、第2代執権に就任します。1213年(建保元)には、侍所別当和田義盛を滅ぼし、政所別当に加えて侍所別当をも兼ねるようになりました。
1219年(承久元)に、実朝が鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁に殺され、公暁も三浦義村に殺され、源氏の正統は絶え、京都から九条道家の子頼経を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握します。1221年(承久3)に、後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ、承久の乱がおこり、子の泰時、弟の時房らを大将軍とする大軍を送り、京都を占領ししました。
上皇を隠岐に流し、泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ、朝廷との交渉、京都の警備、西国の政務などに当たらせます。敵方からの没収所領3000余か所に、東国の御家人武士を地頭として送り、幕府の勢力範囲は一段と拡大しました。
承久の乱後3年にして病を得て、1224年(元仁元)6月13日に出家し、同日急死したとされています。
〇北条義時関係略年表(日付は旧暦です)
・1163年(長寛元) 父・北条時政母・伊東入道の女の子として生まれる
・1180年(治承4) 源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、父とともにこれを助け、相模の石橋山の戦などに加わる
・1184年(元暦元) 源範頼に従い平氏討伐のため西国に出陣する
・1199年(正治元) 源頼朝が没し、子の頼家があとをつぐと頼家の外家である比企能員の勢力が台頭したが、義時の父北条時政,姉北条政子らはこれを嫌い、頼家がみずから訴訟を裁くのを停め、13人の有力御家人の合議によることとする
・1203年(建仁3) 時政は比企氏を滅ぼし、将軍頼家を廃し、その弟実朝を将軍に擁立、初代執権(政所別当)となって、幕府の実権を握る
・1204年(元久元) 従五位下・相模守に任ぜられる
・1205年(元久2) 実朝を廃そうと謀った父を、姉政子とともに幕府から追放し、第2代執権に就任する
・1213年(建保元) 侍所別当和田義盛を滅ぼし、政所別当に加えて侍所別当をも兼ねるようになる
・1219年(承久元) 実朝が鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁に殺され、公暁も三浦義村に殺され、源氏の正統は絶え、京都から九条道家の子頼経を迎え、政子を表面にたて幕政を掌握する
・1221年(承久3) 後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ、承久の乱がおこり。義時は子の泰時、弟の時房らを大将軍とする大軍を送り、京都を占領し、上皇を隠岐に流し、泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ,朝廷との交渉,京都の警備,西国の政務などに当たらせる
・1224年(元仁元)6月13日 急死する
☆執権(しっけん)とは?
元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。
幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになります。
時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となりました。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握します。
連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きました。
☆鎌倉幕府の歴代執権(北条家)一覧
・初代 時政(ときまさ)1203年(建仁3)~1205年(元久2)
・2代 義時(よしとき)1205年(元久2)~1224年(貞応3)
・3代 泰時(やすとき)1224年(貞応3)~1242年(仁治3)
・4代 経時(つねとき)1242年(仁治3)~1246年(寛元4)
・5代 時頼(ときより)1246年(寛元4)~1256年(康元元)
・6代 長時(ながとき)1256年(康元元)~1264年(文永元)
・7代 政村(まさむら)1264年(文永元)~1268年(文永5)
・8代 時宗(ときむね)1268年(文永5)~1284年(弘安7)
・9代 貞時(さだとき)1284年(弘安7)~1301年(正安3)
・10代 師時(もろとき)1301年(正安3)~1311年(応長元)
・11代 宗宣(むねのぶ)1311年(応長元)~1312年(応長2)
・12代 煕時(ひろとき)1312年(応長2)~1315年(正和4)
・13代 基時(もととき)1315年(正和4)~1316年(正和5)
・14代 高時(たかとき)1316年(正和5)~1326年(正中3)
・15代 貞顕(さだあき)1326年(正中3)
・16代 守時(もりとき)1326年(正中3)~1333年(元弘3)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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| 1907年(明治40) | 豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す | 詳細 |
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