ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2026年03月

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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、島村抱月と松井須磨子が起こした劇団芸術座が、トルストイの『復活』を帝国劇場で初演した日です。
 帝国劇場(ていこくげきじょう)は、東京都千代田区丸の内3丁目にある劇場で、通称「帝劇(ていげき)」と呼ばれています。明治時代後期の1906年(明治39)に、劇場新設のための委員会(委員長は渋沢栄一)が発足し、1907年(明治40)3月9日には、帝国劇場株式会社が正式に成立して、建設が始まりました。
 1911年(明治44)2月10日に落成しましたが、ルネサンス風のフランス様式を模した劇場で、建坪約2,000㎡、観客席は4階まですべて椅子席(1,700席)で、オーケストラ・ボックスを持つ新しい劇場機構、観劇制度が評判を呼びます。同年3月1日に開館し、6世尾上梅幸、7世松本幸四郎が専属となり歌舞伎を上演する一方、翻訳劇や創作劇を並行して取り上げ、帝国劇場付属技芸学校を設立して女優の養成にも乗り出しました。
 大正時代には、エルマン、クライスラー、パブロワら海外の一流音楽家、舞踊家を招くなど文化交流にも尽くします。しかし、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で、隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちたものの、翌年には、横河民輔により改修されて再開しました。
 1930年(昭和5)に松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転用、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となりましたが、1939年(昭和14)には、運営会社を東宝が合併します。翌年に、松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻されたものの、内閣情報部が庁舎として利用することとなり、9月15日の新国劇の上演をもって休演となりました。
 1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦後、初公演として、六世尾上菊五郎一座の「銀座復興」が行われ、て復活します。1955年(昭和30)には、舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じました。
 1964年(昭和39)に映画「アラビアのロレンス」が上映されましたが、翌年には、都市高層化の波で建物が取り壊され、解体されています。しかし、1966年(昭和41)に敷地内(丸の内3丁目)に新築されたビルの中の1,900の客席をもつ大劇場となり、廻り舞台は大小4つの迫りが内部に設置されており、直径16.4m・高さ22mあって、地上1階から地下6階までを貫く構造となりました。
 開場記念公演の「風と共に去りぬ」は6ヶ月のロングランでヒットし、その後ミュージカルや大型娯楽劇を柱に東宝演劇の中心的劇場となります。1969年(昭和44)に「日本レコード大賞」の発表会会場として使用開始(~1984年)され、1989年(平成元)には、「レ・ミゼラブル」が初演され、以後の看板公演になりました。
 2022年(令和4)9月27日に、竣工から約56年を経過したことなどにより、一体的に建て替えることが発表され、2025年(令和7)には、建て替えのために、一時休館の予定(2030年度の開館見込)となっています。

〇帝国劇場関係略年表

・1906年(明治39) 劇場新設のための委員会(委員長は渋沢栄一)が発足する
・1907年(明治40)3月9日 帝国劇場株式会社が正式に成立する
・1911年(明治44) 2月10日に落成し、3月1日に開館する
・1912年(大正元) イタリア人のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを招いて歌劇・バレエを上演する
・1914年(大正3)3月26日 劇団芸術座が、トルストイの『復活』を初演する
・1915年(大正4) ローシー振付 「夢幻的バレエ」が上演される
・1916年(大正5) ロシアの舞踊が上演される
・1922年(大正11) パヴロワ婦人露国舞踊劇一座の上演が行われる
・1923年(大正12) 関東大震災では隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちる
・1924年(大正13) 横河民輔により改修されて再開する
・1929年(昭和4) スペイン舞踏家ラ・アルヘンティーナの来日公演が行われる
・1930年(昭和5) 松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転用、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となる
・1938年(昭和13) 「江口・宮舞踊研究所」旗揚げ公演「麦と兵隊」が行われる
・1939年(昭和14) 運営会社を東宝が合併する
・1940年(昭和15) 松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻されたものの、内閣情報部が庁舎として利用することとなり、9月15日の新国劇の上演をもって休演となる
・1944年(昭和19) 地下食堂が一般人でも利用できる雑炊食堂として供される
・1945年(昭和20) 太平洋戦争敗戦後の初公演として、六世尾上菊五郎一座の「銀座復興」が行われる
・1946年(昭和21) 東京バレエ団の白鳥の湖(8月9日〜30日、日本初演)が行われる
・1947年(昭和21) 「江口・宮舞踊研究所」伊福部昭作曲「イゴザイダー」が上演される
・1948年(昭和21) 貝谷八百子振付「サロメ」伊福部昭作曲が上演される
・1948年(昭和21) 石井漠振付『さまよえる群像』 伊福部昭作曲が上演される
・1949年(昭和21) 貝谷八百子振付「パスカーナ(憑かれたる城)」伊福部昭作曲が上演される
・1950年(昭和21) 「江口・宮舞踊研究所」 伊福部昭作曲「プロメテの火」が上演される
・1955年(昭和30) 舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じる
・1964年(昭和39) 映画「アラビアのロレンス」が上映される
・1965年(昭和40) 都市高層化の波で建物が取り壊され、解体される
・1966年(昭和41) 敷地内(丸の内3丁目)に新築されたビルの中の1,900の客席をもつ大劇場となり、「風と共に去りぬ」が上演される
・1967年(昭和42) 「屋根の上のバイオリン弾き」が上演される
・1969年(昭和44) 「日本レコード大賞」の発表会会場として使用開始される(~1984年)
・1989年(平成元) 「レ・ミゼラブル」が初演され、以後帝劇の看板公演になる
・1992年(平成4) 「ミス・サイゴン」が上演される
・1999年(平成11) オリジナル・ミュージカル「ローマの休日」を上演する
・2022年(令和4)9月27日 竣工から約56年を経過したことなどにより、一体的に建て替えることが発表される
・2025年(令和7) 建て替えのために、一時休館の予定(2030年度の開館見込)となっている

☆島村抱月(しまむら ほうげつ)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人です。明治時代前期の1871年(明治4)1月10日に、島根県那賀郡小国村(現在の浜田市)で、佐々山一平の長男として生まれましたが、幼名は佐々山瀧太郎と言いました。
 小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となり、上京遊学後、1891年(明治24)に島村文耕の養子となります。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科へ入学し、在学中は坪内逍遙、大西祝の指導を受けました。
 1894年(明治27)に卒業後、卒業論文『審美的意識の性質を論ず』や『西鶴の理想』を『早稲田文学』(第1次)誌上に発表、同誌の記者ともなります。1898年(明治31)に読売新聞社会部主任となり、その後母校の文学部講師に迎えられました。
 1902年(明治35)から、早稲田の海外留学生として、イギリス、ドイツで学び、1905年(明治38)に帰国します。早稲田大学文学部教授となり、『早稲田文学』を復刊(第2次)して、同誌上に『囚はれたる文芸』(1906年)、『文芸上の自然主義』、『自然主義の価値』(共に1908年)を掲載して自然主義を論じました。
 一方で、坪内逍遙と文化革新運動をもくろんで、1906年(明治39)に文芸協会を設立し、本格的に新劇運動をはじめます。しかし、坪内逍遙との間で意見が対立、女優松井須磨子との恋愛問題も表面化し、協会幹事を辞任、1913年(大正2)には早稲田大学を去ることにもなりました。
 そして、松井須磨子と共に芸術座を旗揚げし、イプセン作『人形の家』、トルストイ作『復活』などを翻訳・脚色して上演し、評判となります。新劇の大衆化に貢献しましたが、1918年(大正7)11月5日、全世界で大流行していたスペイン風邪が原因で、東京において、48歳で亡くなりました。尚、須磨子もあとを追って、2ヶ月後に自殺しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1205年(元久2)『新古今和歌集』が一応成立し、竟宴が開かれる(新暦4月16日)詳細
1489年(長享3)室町幕府第9代将軍足利義尚の命日(新暦4月26日)詳細
1867年(慶応3)江戸幕府がオランダに発注していた蒸気軍艦「開陽」が横浜港に到着する(新暦4月30日)詳細
1925年(大正14)「衆議院議員選挙法」の全面改正(通称:普通選挙法)が貴族院を通過成立する詳細
1935年(昭和10)小説家与謝野寛(鉄幹)の命日詳細
1962年(昭和37)小説家・詩人室生犀星の命日詳細
1971年(昭和46)東京都南西部の多摩ニュータウンで第一次入居が開始される詳細
1975年(昭和50)「生物兵器禁止条約(BWC)」が発効する詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、博文館より刊行された、永井荷風著の『ふらんす物語』が、風俗を潰乱するとして発禁になった日です。
 『ふらんす物語』(ふらんすものがたり)は、永井荷風著の短編小説集です。永井荷風が1907年(明治40)夏~翌年にかけて、フランスに遊学した経験をもとにして、執筆されました。
 青年時代の荷風が、その体験に基づく随想、短編小説を耽美な文体で書き綴った、初期の代表作です。享楽主義的志向と耽美)的感情が流麗に描かれ、その清新な詩情によるエキゾチシズムは自然主義中心の文壇に新風を吹き込みました。
 同作は「船と車」「ローン河のほとり」「秋のちまた」「蛇つかい」「晩餐」「祭の夜がたり」「霧の夜」「おもかげ」「再会」「ひとり旅」「雲」「巴里のわかれ」「黄昏の地中海」「ポートセット」「新嘉坡の数時間」「西班牙料理」「橡の落葉」「橡の落葉の序」「墓詣」「休茶屋」「裸美人」「恋人」「夜半の舞蹈」「美味」「ひるすぎ」「舞姫」などの話から成り立っています。しかし、1909年(明治42)3月25日に、博文館より刊行された初版本は、その官能性により、ただちに発禁処分となり、1915年(大正4)に、ようやく世に出されました。

〇永井荷風(ながい かふう)とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した小説家・随筆家です。明治時代前期の1879年(明治12)12月3日に、東京市小石川区(現在の文京区春日)で、尾張藩士族出身のエリート官吏の父・久一郎と母・恒(つね)の長男として生まれましたが、本名は壮吉と言いました。
 高等師範附属尋常中学科(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、1897年(明治30)に外国語学校清語科に進みます。しかし、1899年(明治32)に中退して、広津柳浪の門に入り小説家を志しますが、習作のかたわら、落語家や歌舞伎作者の修業もしました。
 1902年(明治35)に小説『地獄の花』を発表、またエミール・ゾラの『大地』、『女優ナナ』などを紹介します。翌年渡米し、フランスへも回って遊学し、1908年(明治41)に帰国します。その後、『あめりか物語』、『ふらんす物語』や『すみだ川』などを執筆し、耽美派の中心的存在となりました。
 1910年(明治43)に慶應義塾大学教授となり「三田文学」を創刊、『腕くらべ』(1916~17年)、『つゆのあとさき』(1931年)、『濹東綺譚 (ぼくとうきたん) 』(1937年)など、随筆や小説等を多く発表します。戦争下では、反国策的な作風のため作品発表の場を失いますが、戦後は、その間ひそかに書きためた『浮沈』、『踊子』、『勲章』、『来訪者』や 1917年以来の日記『断腸亭日乗』を発表しました。
 1952年(昭和27)に文化勲章を受章、1954年(昭和29)に芸術院会員に選ばれましたが、千葉県市川の自宅で自炊生活を続けます。その中で、1959年(昭和34)4月30日に、自宅において、79歳で亡くなりました。

<永井荷風の主要な著作>

・『地獄の花』(1902年)
・『あめりか物語』(1908年)
・『ふらんす物語』(1909年)
・『深川の唄』(1909年)
・『冷笑』(1910年)
・『すみだ川』(1911年)
・『新橋夜話』(1912年)
・訳詩集『珊瑚集』(1913年)
・『腕くらべ』(1916~17年)
・『おかめ笹』(1918年)
・『つゆのあとさき』(1931年)
・『濹東綺譚 (ぼくとうきたん) 』(1937年)
・『ひかげの花』(1946年)
・『問はず語り』(1946年)
・『来訪者』(1946年)
・『浮沈』(1947年)
・『勲章』(1947年)
・『踊子』(1948年)
・日記『断腸亭日乗』(1917~59年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

850年(嘉祥3)第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)の誕生日(新暦5月10日)詳細
1356年(正平11/延文元)二條良基が日本初の連歌選集『菟玖波集』を編纂し、序文が書かれる(新暦4月26日)詳細
1826年(文政9)P.F.vonシーボルトがオランダ商館長に随行して、将軍徳川家斉に謁見する(新暦5月1日)詳細
1906年(明治39)島崎藤村が長篇小説『破戒』を「緑陰叢書」第1篇として自費出版し、自然主義文学の出発点となる詳細
1919年(大正8)建築家・工学博士で、「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の命日詳細
1928年(昭和3)全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成される詳細
1939年(昭和14)「軍用資源秘密保護法」が公布(施行は同年6月26日)される詳細
2005年(平成17)愛知県において、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)が開幕する詳細
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 今日は、平安時代後期の1126年(大治元)に、中尊寺金堂・三重塔の落慶法会が行われた日ですが、新暦では4月18日となります。
 中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある、天台宗東北大本山で、号は関山、本尊は釈迦如来です。寺伝によると、平安時代前期の850年(嘉祥3)に、円仁(慈覚大師)が関山し、弘台寿院を開創したのが始まりとされ、859年(貞観元)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったと伝えられてきました。
 しかし、実質的には、平安時代後期の1105年(長治2)に、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が、後三年の役の戦没者を弔うため、釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが中尊寺の創建と考えられています。その後、1124年(天治元)には、金色堂が建立され、奥州藤原氏三代の栄華を象徴し、そのミイラを収め、平安時代を代表する国宝建造物として知られてきました。
 鞘堂内の金色の堂宇と仏像はまばゆいばかりで、古代人の阿弥陀信仰が目に浮かぶようです。境内は、1979年(昭和54)に国の特別史跡に指定されました。
 尚、2011年(平成23)には、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇中尊寺関係略年表

・850年(嘉祥3) 比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって、弘台寿院が開創される
・859年(貞観元) 清和天皇から「中尊寺」の額を賜わる
・1105年(長治2) 奥州藤原氏の初代・藤原清衡が、後三年の役の戦没者を弔うため、釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」の建立に着手する
・1124年(天治元) 金色堂が建立される
・1126年(大治元) 中尊寺金堂・三重塔の落慶法会が行われる
・1189年(文治5) 源頼朝に攻められて、奥州藤原氏が滅亡する
・1337年(建武4) 火災で多くの堂塔、宝物を焼失する
・1654年(承応3) 仙台・仙岳院が別当寺となる
・1665年(寛文5) 江戸・寛永寺の末寺となる
・1897年(明治30) 金色堂が「古社寺保存法」によって、特別保護建造物に指定される
・1909年(明治42) 本堂が再建される
・1908年(明治41) 経蔵が「古社寺保存法」によって、特別保護建造物に指定される
・1950年(昭和25) 金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施される
・1951年(昭和26) 金色堂が「文化財保護法」による国宝に指定される
・1958年(昭和33) 天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される
・1962年(昭和37) 金色堂の解体修理が開始される
・1968年(昭和43) 解体修理が完成し、金色堂が創建当時の輝きを取り戻すことになる
・1979年(昭和54) 境内が、国の特別史跡に指定される
・2003年(平成15) 白山神社能舞台が重要文化財に指定される
・2011年(平成23) 中尊寺を含む「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」が、世界遺産(文化遺産)に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1887年(明治20)砂防工学者・政治家赤木正雄の誕生日詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1928年(昭和3)東京の上野恩賜公園で、御大礼記念国産振興博覧会が開幕する詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1974年(昭和49)建築家吉田五十八の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1246年(寛元4)に、鎌倉幕府執権・北條經時が重病の為、弟の北条時頼が第5代執権に就任した日ですが、新暦では4月10日となります。
 執権(しっけん)は、元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになります。
 時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となりました。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握します。
 連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きました。

〇鎌倉幕府の歴代執権(北条家)一覧

【初代】時政(ときまさ)1203年~1205年(建仁3~元久2)
・1203年(建仁32) 源実朝が第3代将軍となる
・1205年(元久2) 藤原定家らが「新古今和歌集」を編さんする

【2代】義時(よしとき)1205年~1224年(元久2~貞応3)
・1219年(承久元) 鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏が3代で絶える
・このころ、「保元物語」、「平治物語」ができる
・1221年(承久3) 承久の乱が起きる
・1221年(承久3) 京都に六波羅探題をおく
・1224年(貞応3) 親鸞が浄土真宗を広める

【3代】泰時(やすとき)1224年~1242年(貞応3~仁治3)
・1225年(嘉禄元) 評定衆が設置される
・1227年(安貞元) 道元が宋より帰り、曹洞宗を伝える
・1232年(貞永元) 御成敗式目(貞永式目)がつくられる
・このころ、「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される

【4代】経時(つねとき)1242年~1246年(仁治3~寛元4)

【5代】時頼(ときより)1246年~1256年(寛元4~康元元)
・1247年(宝治元) 宝治合戦が起きる
・1249年(建長元) 引付衆が設置される
・1252年(建長4) 鎌倉に大仏ができる
・1253年(建長5) 南宋より蘭渓道隆を招いて鎌倉に建長寺を建てる
・このころ、日蓮が法華経(日蓮宗)を広める

【6代】長時(ながとき)1256年~1264年(康元元~文永元)
・1260年(文応元) 日蓮が「立正安国論」を著す
・1261年(弘長元) 日蓮が伊豆に流される

【7代】政村(まさむら)1264年~1268年(文永元~文永5)

【8代】時宗(ときむね)1268年~1284年(文永5~弘安7)
・1268年(文永5) 元の使者を追い返す
・1274年(文永11) 第1回元寇(文永の役)が起きる
・1275年(文永12)  異国警固番役が設置される
・1279年(弘安2) 一遍が踊念仏を始める
・1281年(弘安4) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1282年(弘安5) このころ、阿仏尼が「十六夜日記」を著す

【9代】貞時(さだとき)1284年~1301年(弘安7~正安3)
・1285年(弘安8) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元) 鎮西探題が設置される
・1297年(永仁5) 幕府が徳政令を出し、御家人の困苦を救う(永仁の徳政令)

【10代】師時(もろとき)1301年~1311年(正安3~応長元)

【11代】宗宣(むねのぶ)1311年~1312年(応長元~応長2)

【12代】煕時(ひろとき)1312年~1315年(応長2~正和4)

【13代】基時(もととき)1315年~1316年(正和4~正和5)

【14代】高時(たかとき)1316年~1326年(正和5~正中3)
・1317年(文保元) 文保の和談が行われる
・1318年(文保2) 後醍醐天皇が即位する
・1324年(正中元) 正中の変が起きる

【15代】貞顕(さだあき)1326年(正中3)

【16代】守時(もりとき)1326年~1333年(正中3~元弘3)
・1331年(元弘元) 元弘の変が起きる
・1332年(元弘2) 後醍醐天皇が隠岐に流される
・1333年(元弘3) 鎌倉幕府が滅びる

☆北条時頼(ほうじょう ときより)とは?

 鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
 1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
 1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任しました。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼします(宝治合戦)。
 さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めました。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図ります。
 一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされてきました。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てています。
 1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与しました。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、小牧・長久手の戦いで、小牧山に徳川家康による急造の築塁が完成した日ですが、新暦では5月2日となります。
 小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、尾張平野を主戦場に羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍によって争われた戦いでした。織田信雄・徳川家康軍は小牧山に陣を固め、犬山城・楽田城を中心に布陣する羽柴秀吉軍と対峙します。
 羽黒の戦いなどがあったものの、3月末には、両軍が小牧付近にて対陣状態に陥入りました。そこで、池田恒興(勝入)は秀吉のもとを訪れて、「兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろう。」と献策します。
 それを受けて、秀吉はこれを許可し、4月6日に岡崎侵攻隊(第一隊池田恒興勢兵5,000人、第二隊森長可勢兵3,000人、第三隊堀秀政勢兵3,000人、第四隊羽柴秀次勢兵9,000人)が出発しました。7日に岡崎侵攻隊は、上条村に入って砦を築いて宿営しましたが、午後4時に篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告します。
 これを聞いた家康は、午後7時に小牧を先遣隊に出発させ、午後10時に小幡城に入れ、午後8時には家康自身が9,300人の兵を率いて小牧山を出発し、小幡城へ入りました。8日に第四隊の羽柴秀次勢は行軍を再開しましたが、9日未明に白山林で徳川軍に攻撃されて敗走します。
 しかし、第三隊の堀秀政勢が救援に駆け付け、桧ヶ根において徳川軍を撃退したものの、家康の出現を知り後退しました。一方、第一隊の池田恒興勢は丹羽氏重が守備する岩崎城(現在の日進市)を陥落させましたが、徳川軍の出撃を知り、第二隊の森長可勢と共に、長久手付近で迎撃態勢を取ります。
 午前10時頃から両軍が戦端を開き、激戦が2時間余り続いたものの、第二隊長の森長可が狙撃されて討死して、左翼から崩れ始め、徳川軍優勢となる中、第一隊長の池田恒興も討死にし、総崩れとなりました。秀吉は戦況を知り、3万人の軍勢を率いて戦場へと急行しましたが、行く手を阻まれ、夕刻になって、「家康は小幡城にいる」との報を受けます。
 翌朝の攻撃を決めたものの、家康と信雄は夜間に、小幡城を出て小牧山城に帰還してしまったので、秀吉も楽田に退きます。その後、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦いなどがあり、尾張以外にも美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津など全国規模の合戦でしたが、勝敗は決せず、長期戦となったため講和を結んで終結しました。 

〇小牧・長久手の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<天正12年(1584年)>
・3月3日:信雄が秀吉と気脈を通じたとして家来の三老臣を殺害、三老臣の居城である星崎城・松ヶ島城・苅安賀城を攻め落とす
・3月7日:家康が信雄救援のため浜松城を出発する
・3月13日:家康が信雄の居城清須城に入って会談、池田恒興、犬山城を奇襲して奪取する
・3月17日:家康が羽黒の森長可を攻撃(羽黒の戦い)して、勝利をおさめる
・3月18日:家康が榊原康政に小牧山の築塁を命じる
・3月21日:秀吉が大坂城を発つ
・3月22日:小牧山の防御工事完了
・3月23日:蟹清水砦・北外山砦・宇田津砦が完成する
・3月24日:小幡と比良の旧城を修理し、三河と清須への連砦とする
・3月27日:秀吉が犬山城に入り、二重堀・岩崎・小松寺山・青塚・内久保等の砦を築かせる
・3月28日:家康が小牧山へ入る
・3月29日:信雄が小牧山へ入り、家康が田楽砦を築き、小牧山に通じる軍道を開く
・4月2日:秀吉軍が姥ヶ懐へ来襲する
・4月3日:家康軍が二重堀を奇襲する
・4月4日:秀吉が岩崎山と二重堀の間に長さ約2kmの土塁を築く、池田勝入が三河侵攻策を献策する
・4月5日:家康が小牧山北麗と八幡塚の間に土塁を築く
・4月6日:秀吉が犬山城から楽田砦へ本営を移し、秀吉軍の岡崎侵攻隊、尾張東部の丘陵地帯を迂回して岡崎方面への進軍を開始する
・4月7日:岡崎侵攻隊、上条村に入り、砦を築いて宿営、午後4時篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告、午後7時徳川先遣隊が小牧を出発、午後8時には家康が小牧山を出発、小幡城へ入る
・4月8日:秀次勢は行軍を再開する
・4月9日:岡崎侵攻隊の先鋒池田隊、岩崎城を攻め落とす、三好隊白山林の戦いで敗走、桧ヶ根の戦い、長久手の合戦(昼合戦)において、森長可・池田恒興が戦死、午後5時秀吉が楽田砦を出発し竜泉寺に入る、午後8時家康が小幡城を出発し、小牧山へ戻る
・4月10日:秀吉が楽田に戻る
・4月14日:秀吉軍が羽黒の旧城を修復する
・5月1日:秀吉が青塚・楽田・犬山に一部を残して小牧より撤退する
・6月16日:前田与十郎、家康軍に背き、秀吉軍の滝川一益、九鬼嘉隆等を蟹江・前田・下市場の各城へ迎え入れる
・6月18日:家康軍が前田城を攻める
・6月19日:家康軍が下市場城を攻める
・6月22日:家康軍が蟹江城を攻める
・7月3日:家康軍が蟹江城を再び手中に収める
・8月19日:秀吉軍が小口・羽黒に兵を進める
・8月28日:秀吉軍が小折に兵を進める
・11月11日:信雄単独で秀吉と講和する
・11月16日:家康は大義名分失い、浜松へ戻る。  
・12月:家康が次男秀康を人質として秀吉に送る

<1586年(天正14年)>
・5月:秀吉が異父妹の旭姫(あさひひめ)を離縁させ、家康の正室として送り込む
・10月:家康が大阪城で秀康に謁見し臣従する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「薄葬令」が発布される(新暦4月12日)詳細
1898年(明治31)『時事新報』に、福沢諭吉が執筆したとされる、社説「支那人親しむ可し」が掲載される詳細
1925年(大正14)東京放送局(現在のNHK東京放送局)がラジオ仮放送を開始する(放送記念日)詳細
1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
1997年(平成9) 新潟県の北越急行ほくほく線(六日町駅~犀潟駅)が開業し、北陸と東京を結ぶ最短ルートになる詳細
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2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細
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