ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2025年12月

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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、日本初のループ線駅かつ日本唯一のループ線・スイッチバックを併せ持つ駅である大畑駅が開業した日です。
 大畑駅(おこばえき)は、熊本県人吉市大野町にある、九州旅客鉄道(JR九州)肥薩線の駅で、日本で唯一、ループ線の中にスイッチバックを併せ持っています。1909年(明治42)12月26日に、鹿児島本線所属駅として鉄道院が開設しましたが、1927年(昭和2)に、海岸ルート(川内本線)全通に伴い肥薩線所属に変更されました。
 1974年(昭和49)に貨物取扱、1984年(昭和59)に荷物扱いが廃止され、1986年(昭和61)には、電子閉塞装置導入により無人化されています。1987年(昭和62)に国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承し、2007年(平成19)には、駅と周辺の鉄道施設遺産、石造りの給水塔、および朝顔型噴水が南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれました。

〇大畑駅関係略年表

・1909年(明治42)12月26日:鹿児島本線所属駅として鉄道院が開設する
・1927年(昭和2)10月17日:海岸ルート(川内本線)全通に伴い肥薩線所属に変更される
・1974年(昭和49)10月1日:貨物取扱が廃止される
・1984年(昭和59)2月1日:荷物扱いが廃止される
・1986年(昭和61)11月1日:電子閉塞装置導入により無人化される
・1987年(昭和62)4月1日:国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承する
・2007年(平成19)11月30日:大畑駅、周辺の鉄道施設遺産、石造りの給水塔、および朝顔型噴水が南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれる
・2018年(平成30)9月8日:駅構内の旧保線詰所跡を改装したレストランが開業する

☆スイッチバックとは?

  山地を走る鉄道で、急勾配を緩和するための折り返し式の鉄道線路を列車がポイントを切りかえながらジグザグに上り下りをすることです。特に、山間地の急勾配個所を迂回なしで運転する場合や急勾配個所の途中に本線から分岐して水平又は緩勾配に停車場を設置し、再度急勾配の本線に戻る場合のものをいう場合多いとされています。

☆ループ線(るーぷせん)とは?

 山間部などの急勾配の地の線路を螺旋状に敷いて迂回するようにし、勾配を緩和した線路です。鉄道の創業期~太平洋戦争後まもなくまでは、スイッチバックと並んで勾配緩和として有効な方法として採用されました。代表例としては、上越線清水トンネルの前後にある水上側の湯檜曾第1、第2トンネル、湯沢側の松川トンネルですが、肥薩線大畑駅周辺のものも良く知られています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

927年(延長5)律令政治の基本細則「延喜式」が完成し、藤原忠平によって奏進される(新暦928年1月21日)詳細
1159年(平治元)平治の乱が六条河原などで戦われたものの、平清盛側が勝利して終結する(新暦1160年2月5日)詳細
1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
2004年(平成16)詩人石垣りんの命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の明治2年に、東京~横浜に電信線が開通し、電報の取扱いが始まった日ですが、新暦では1870年1月26日となります。
 電報(でんぽう)は、公衆電気通信の一分野で、発信者の原文を電信で送り、先方で紙などに印刷して、受信者に配達する通信サービスです。外国では、1837年に、アメリカ合衆国のサミュエル・F.B.モースが、電気信号を電磁石の動きとして受信する電信機を発明して特許を得、1843年には、モースがアメリカ政府の援助を受け,ワシントンD.C.―ボルティモア間の通信実験に成功、1844年5月24日に、電信システムが実用化されました。
 日本では、1870年(明治2年12月25日)に、東京~横浜間で公衆電報の取扱いが開始され、1871年(明治3)に、長崎~上海間,長崎~ウラジオストク間に国際電信が開通、1908年(明治40)には、千葉県銚子に無線電信所が開業して船舶無線が始まります。20世紀後半以降、電話、ファクシミリ、携帯電話や電子メールの普及によって利用が限定されるようになり、今日では慶弔電報がその中心となりました。

〇日本の電報サービス関係略年表

・1870年1月26日(明治2年12月25日) 東京~横浜に電信線が開通し、電報の取扱いが始まる
・1871年(明治3) 大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ。デンマーク資本)による長崎 - 上海、長崎 - ウラジオストク間の海底電信線敷設。欧亜陸上電信線経由で国際電報が開始される
・1873年(明治5) 東京~長崎間の国内電報が開始。大北電信会社とも接続され、逓信省による国際電報の託送が開始された。以後、国内各地への電信線の敷設が急速に進められた。
・1878年(明治10) 東京木挽町に電信中央局が開業したことにより、海外電報の取り扱いが開始。以後、本格的な電信利用が始まる
・1883年(明治15) 大北電信会社による呼子~釜山間の海底電信線敷設。同社に20年間の海外通信の独占権を与える
・1890年(明治22) 呼子~対馬間の海底電信線を大北電信会社から買収する
・1897年(明治29) 日本独自の大隅半島~基隆間海底電信線を敷設する
・1898年(明治30) 台湾から福建間の海底電信線を日本が買収。イースタン・テレグラフ・カンパニー社(大東電信会社、イギリス資本、後のケーブル・アンド・ワイヤレス社)のThe Red Routeにより接続される
・1904年(明治36)5月7日~1905年(明治37年)9月29日 読売新聞が、本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う
・1906年(明治38) 東京~小笠原~グアム間の海底電信線を敷設し、日本とアメリカがコマーシャル・パシフィックケーブル社(商業太平洋電線会社、アメリカ資本)のマニラ - グアム - サンフランシスコ線により接続される
・1908年(明治40) 千葉県銚子に無線電信所が開業して、無線電報サービスが開始される
・1911年(明治43) 対馬~釜山間の海底電信線を大北電信会社より買収する
・1914年(大正3) 第一次世界大戦による好景気で国内・外国電報の利用数が激増する
・1930年(昭和5) 写真電報サービスが開始される
・1934年(昭和9) 年賀電報サービスが開始される
・1936年(昭和11) 冠婚葬祭等の祝電・弔電用として慶弔電報サービスが開始される
・1943年(昭和18) 大東電信会社の運用権を買収、海底電信線を日本領海内で切断、大東電信の名称が国内から消える
・1946年(昭和21) 模写電報サービスを開始する
・1955年(昭和30) 大北電信会社の請求権解決取極(戦後賠償)。
・1969年(昭和41) 大北電信会社の独占権が喪失する
・1976年(昭和30) 至急電報(ウナ電)サービスが終了する
・1985年(昭和60) 夜間配達を19時から翌朝8時に受け付けた緊急定文電報のみに変更。
・1988年(昭和63) ひらがな電報サービスを開始する
・1991年(平成3)3月31日:受付時間を8時から22時までに変更する
・1994年(平成6) 漢字電報サービスを開始する
・2004年(平成16)4月1日 千代田電報配達所と中央電報配達所を合併し、日本一のマンモス配達所になる。
・2018年(平成30)1月1日 緊急定文電報を定文電報に名称変更し、受付時間を午前8時から午後7時に短縮、通常電報の受付時間も午後7時までに変更する
・2023年(令和5)1月10日 定文電報、無線電報、ファクシミリによる電報受付を終了する
・2023年(令和5)1月11日 料金体系を文字数単位料金から、ページ単位料金へ変更する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1783年(天明3)俳人・画家与謝蕪村の命日(新暦1784年1月17日)詳細
1809年(文化6)『大日本史』全397巻が一部を除き完成し、水戸藩より朝廷へ献上される(新暦1810年1月30日)詳細
1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
1961年(昭和36)キリスト教伝道者・経済学者・教育家・東京大学総長矢内原忠雄の命日詳細
1986年(昭和61)医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の命日詳細
1988年(昭和63)小説家・評論家大岡昇平の命日詳細
1993年(平成5)数学者矢野健太郎の命日詳細
1997年(平成9)小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、和歌山県東牟婁郡太地(現在の太地町)で大規模な海難事故「大背美流れ」(死者8人、行方不明者107人)が発生した日です。
 大背美流れ(おおせみながれ)は、1878年(明治11)12月24日に、和歌山県東牟婁郡太地(現在の太地町)沖で起きた捕鯨船の海難事故です。不漁続きで悪天候の中、沖合まで出漁した捕鯨船団が壊滅し、漁師から死者8人、行方不明者107人を出し、日本の捕鯨史上最大の惨事とされてきました。
 燈明崎山見の責任者であった和田金右衛門頼芳が残した記録『脊美流れの控え』によると、出漁から3日が過ぎた12月27日以降に数10名が帰還し、沖で何が起きたかを報告しています。この大惨事を後世に伝えるため、太地港を見下ろす道路協に「漂流人紀念碑」が建てられました。また、順心寺には、鯨組宰領の子孫によって1954年(昭和29)12月24日に建立された「太地浦鯨方漂流殉難供養碑」があります。

〇和田金右衛門頼芳著『背美流れの控え』(現代語抄訳)

明治11年(1878) 24日、雨天、北東風
午後2時前頃に三輪崎の網舟がやってきて、太地の勢子舟も旗をあげてクジラの発見を知らせた。やがて三輪崎の舟が網を掛けたがクジラは南へ逃げた。
クジラは太地の網に当たって太地湾の方へ逃げた。そのうち潮が速くなり、網が切れた。さらに網を掛けたが外れてしまった。親クジラに銛を打ち込んだが、夜になって沖の方が見え難くなった。舟の篝火が見えるが、だんだんと沖へ離れて行き、やがて見えなくなった。

25日、晴天、弱い西風、穏やかな海
燈明崎から船団が見えないので、高山へ行ったがやはり見えない。そこで小文次、林蔵、次郎平を樫の上へ派遣したところ船団が見えた。しかし沖へ流されているので、さらに高いところに登ると、ずっと沖に船団が見えた。暗くなってきたので皆で心配した。
夕方、直大夫の舟が戻ってきた。「今朝10時頃にクジラを仕留めたが、米と水がなくなったので補給するため帰ってきた」と報告した。伊豆のマグロ船などに頼んで米と水を届けてもらうことにした。

26日、晴天、強い西風
今朝も樫の上に行ったが船団は見えない。小文次、栄治、林蔵、魚切の粂八を妙法山へ、佐与平、友蔵を八郎ヶ峰へ、多喜平、林七、次郎平を樫崎へ派遣した。大騒ぎになってきた。

27日、晴天、弱い西風、穏やかな海
夜12時頃、要大夫の舟に乗った11人が大引のマグロ船に助けられ帰ってきた。要大夫が言うには、25日の夕方にクジラを捨て、陸に上がろうとするうちに夜になり、西風が強くなった。夜が明けても陸は見えず、綱で舟を結んだ。風に流されるうち、要大夫、富大夫、次郎大夫の舟が離れて、陸に打ち上げられた。富大夫の舟は櫓が折れたので他の舟に乗り移り、要大夫の舟も壊れたが、マグロ船が来て助けられた。他の舟がどうなったかは分からない。(後略)

  「太地町観光協会のWebサイト」より

☆明治・大正時代に日本近海で起きた重大海難事故一覧(死者・行方不明者100人以上)

・1878年(明治11)12月24日 - 和歌山県太地村でセミクジラを捕獲するため19隻・総勢184名で出漁、荒天による集団遭難事故(大背美流れ)<死者・行方不明者115人>
・1890年(明治23)9月16日 - 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没(エルトゥールル号遭難事件)<乗員約600人中、死者・行方不明者587人>
・1891年(明治24)7月11日 - 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸」と「三吉丸」が衝突し「瓊江丸」が沈没<死者・行方不明者261人>
・1905年(明治38)8月22日 - 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没<死者・行方不明者165人>
・1908年(明治41)3月23日 - 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没<死者・行方不明者212人>
・1922年(大正11)8月26日 - カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆<死者・行方不明者327人>
・1926年(大正15)4月26日 - 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没<死者・行方不明者182人>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)言語学者・国語学者橋本進吉の誕生日詳細
1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1920年(大正9)小説家阿川弘之の誕生日詳細
1933年(昭和8)東京都千代田区有楽町に日本劇場が開館し、開場披露式が挙行される詳細
1943年(昭和18)「徴兵適齢臨時特例」が公布・施行され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳になる詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細
2014年(平成26)通常兵器の国際移転(移譲)を規制する「武器貿易条約(ATT)」が発効する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決により、東條英機・廣田弘毅ら7人のA級戦犯に絞首刑が執行された日です。
 極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん)は、昭和時代中期の占領下、1946年(昭和21)1月19日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が命令、「極東国際軍事裁判所条例」を制定して設置された、極東国際軍事裁判所で行われた、太平洋戦争における戦争犯罪人を裁くための軍事裁判で、東京裁判とも呼ばれてきました。日本が太平洋戦争終結に当たって、受諾した「ポツダム宣言」の第10項「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」を根拠とし、1945年(昭和20)8月15日に英仏米ソの4ヶ国が調印した、「国際軍事裁判所条例」に基づき、ヨーロッパでのニュルンベルグ裁判(1945年11月~46年10月)をモデルに行われます。
 目的は、「極東ニ於ケル重大戦争犯罪人ノ公正且ツ迅速ナル審理及ビ処罰ノ為メ」とされ、裁判は「本裁判所ハ降伏文書ノ署名国並ニ「インド」、「フイリツピン」国ニヨリ申出デラレタル人名中ヨリ連合国最高司令官ノ任命スル六名以上十一名以内ノ裁判官ヲ以テ構成ス。」とされ、裁判所の管轄に属する犯罪は、「平和ニ対スル罪(宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加)」「通例ノ戦争犯罪(戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反)」「人道ニ対スル罪(戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為)」で、被告人は弁護人を選任することができ、東京で行われました。同年2月15日に連合国軍最高司令官マッカーサーが東京裁判における9名の判事を選出、裁判長は豪州のウェップが努める事となり、5月3日には、開始されてA級戦犯28名が起訴されます。
 翌年11月4日に判決の言い渡しが始まり、11月12日にA級戦犯の25名の被告に有罪判決(内7名が死刑)があって、12月9日には閉鎖されました。この判決により、同年12月23日に東条英機、広田弘毅ら7名の絞首刑が執行され、翌日には、岸信介元首相ら、A級戦犯とされたものの、起訴されなかった19名が釈放されています。

<死刑が執行されたA級戦犯>

・板垣征四郎(陸軍大将)
・木村兵太郎(陸軍大将)
・土肥原賢二(陸軍大将)
・東條英機(陸軍大将)
・武藤章(陸軍中将)
・松井石根(陸軍大将)
・廣田弘毅(文官) 

〇極東国際軍事裁判(東京裁判)関係略年表

<1945年(昭和20)>
・8月15日 英仏米ソの4カ国が、国際軍事裁判所条例に調印し、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪の3つの罪が規定される
・8月15日 玉音放送によって終戦の勅書が放送され、太平洋戦争の敗戦が国民に知らされる
・9月11日 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が39名の戦争犯罪人の逮捕を実行する

<1946年(昭和21)>
・1月19日 マッカーサーが国際軍事裁判所条例をもとに、「極東国際軍事裁判所条例」を制定する
・2月15日 マッカーサーが東京裁判における9名の判事を選出、裁判長は豪州のウェップが努める事となる
・5月3日 東京裁判がはじまり、A級戦犯28名が起訴される

<1948年(昭和22)>
・1月8日 マッカーサーが昭和天皇を不起訴にする事を決める
・3月2日 最終弁論が始まる
・4月15日 最終弁論が終わる
・11月4日 判決が言い渡しが始まる
・11月12日 A級戦犯の25人の被告に有罪判決(内7名が死刑)が下る
・12月9日  極東国際軍事裁判所が閉鎖する
・12月23日 東条英機、広田弘毅元首相ら7人の絞首刑が実行される
・12月24日 岸信介元首相ら、A級戦犯とされたものの、起訴されなかった19名が釈放される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1912年(大正元)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出す詳細
1941年(昭和16)東京市・九段の軍人会館で、日本少国民文化協会の設立総会が行われる詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
2008年(平成20)小説家早乙女貢の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の文久元年に、開市・開港延期交渉の為、外国奉行・竹内保徳を正使とした遣欧使節団36名が品川港を出港した日ですが、新暦では、1862年1月21日となります。
 文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)は、江戸幕府が、オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(安政五カ国条約)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団です。江戸時代後期の1858年(安政5)に、江戸幕府は開国を迫る欧米列強と相次いで修好通商条約(安政五カ国条約)を結び、江戸・大阪(両都)の開市、新潟・兵庫(両港)の開港を約束していましたが、国内の経済問題や尊王攘夷運動の激化によって期限内の履行が厳しくなり、これら開市開港の延期を各国に求めることとなりました。
 江戸幕府は、1862年1月21日(文久元年12月22日)に、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の文久遣欧使節を英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣します。最初にフランスに赴き、仏外相と交渉するものの、不調に終わり、その後、イギリスへと渡って英外相ラッセルとの交渉の末、1862年6月6日(文久2年5月9日)に、開市開港の延期を定めた「英國倫敦覺書」(ロンドン覚書)を締結しました。
 さらに、使節団は、イギリスの働きかけもあって、他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月30日(文久2年12月11日)に、帰国しました。

<文久遣欧使節一行>

正使・竹内下野守(56歳)
副使・松平石見守(33歳)
目付・京極能登守(39歳)
組頭・柴田貞太郎(46歳)
勘定・日高圭三郎(33歳) - もしくは26歳 - 日高胖の父
勘定格徒目付・福田作太郎(36歳) - 高島茂徳の兄
目見持格調役並・水品楽太郎(32歳) - 水品梅処
同・岡崎藤左衛門(27歳)
医師・高島祐啓(31歳)
雇医・川崎道民(31歳)
普請役・益頭駿次郎(36歳[3])
定役元締助・上田友助(45歳) - 上田敏の母方祖父
定役・森鉢太郎(29歳)
定役通弁御用・福地源一郎(22歳)
定役並通弁御用・立広作(22歳) - 立作太郎の叔父
同・太田源三郎
同心・斉藤大之進(39歳) - 前年東禅寺事件の警護により英政府より褒賞された
小人目付・高松彦三郎(44歳)
同・山田八郎(41歳)
翻訳方御雇・松木弘安(35歳)
同・箕作秋坪(36歳)
同・福澤諭吉(29歳)
そのほか三使節の家来が2名ずつと柴田の従者1名

竹内下野守家来・長尾条介
同・高間応輔
松平石見守家来・野沢伊久太
同・市川渡(市川清流)
京極能登守家来・黒沢新左衛門
同・岩崎豊太夫
柴田貞太郎従者・永持五郎次
賄方並小使雇人として7人いたが、各藩の藩士も含まれていた。

佐賀藩士の石黒寛次
杵築藩士の佐藤恒蔵
加賀藩士の佐野鼎
長州藩士の杉徳輔(杉孫七郎)
阿波藩士の原覚蔵
伊勢屋八兵衛手代の十兵衛

〇文久遣欧使節の旅程

<文久元年(1861年)>
・12月22日(1862年1月21日) 一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発する

<文久2年(1862年)>
・3月5日 マルセイユに入る
・3月9日 パリに到着する
・4月2日 イギリス・ロンドンに到着する
・5月9日 日本国内の事情に鑑み(すなわち攘夷熱の高まり)、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とする「ロンドン覚書」が調印される
・5月16日 オランダに到着する
・6月21日 プロイセン・ベルリンに到着する
・7月12日 ロシア・サンクトペテルブルクに入る
・9月14日 ポルトガルに到着する
・12月11日 約1年間の旅を終え一行は帰国する

☆「ロンドン覚書」(ロンドンおぼえがき)とは?

 江戸幕府とイギリスとの間で結ばれた日本の開市・開港を延期するための協定でした。1858年(安政5)に、江戸幕府は開国を迫る欧米列強と相次いで修好通商条約(安政五カ国条約)を結び、江戸・大阪(両都)の開市、新潟・兵庫(両港)の開港を約束していましたが、国内の経済問題や尊王攘夷運動の激化によって期限内の履行が厳しくなり、これら開市開港の延期を各国に求めることとなります。
 江戸幕府は、1862年1月21日(文久元年12月22日)に、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の文久遣欧使節を英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣しました。最初にフランスに赴き、仏外相と交渉するものの、不調に終わり、その後、イギリスへと渡って英外相ラッセルとの交渉の末、1862年6月6日(文久2年5月9日)に、開市開港の延期を定めた「英國倫敦覺書」(ロンドン覚書)を締結します。
 さらに、使節団は、イギリスの働きかけもあって、他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月(文久2年12月)、帰国しました。この「ロンドン覚書」では、新潟、兵庫の開港、江戸、大阪の開市を5年間延期すること、開港、開市延期の代償として、①安政条約に決められたとおり、貿易品の数量・価格の制限を撤廃する、②労役者(大工、船頭、教師、人夫、従僕など)の雇い入れに関する制限を撤廃する、③大名が直接外国人と取引することを妨げない、④定められた関税以外の手数料を徴収しない、⑤開港場において外国人と取引する日本商人の身分を制限しない、⑥外国人と日本人の自由な交際を阻止しない。こととしています。
 また、使節が帰国後、(1)対馬の開港を建議する、(2)現行の酒税35%を低減する、(3)現行のガラス製品の関税20%を5%とする、(4)横浜、長崎に保税倉庫を設ける、ことも約しました。そして、これら代償が履行されない場合には延期の取り消しも定められる厳しいものとなります。
 以下に、「英国倫敦覚書」(ロンドン覚書)の英語版と日本語版と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

☆「英國倫敦覺書」(ロンドン覚書)1862年6月6日(文久2年5月9日)

<英語版>

Memorandum (London Protocol) 

Signed at London, June 6, 1862. (9th day, 5th month, 2nd year of Bunkiu). 

It has been represented to Her Britannic Majesty's Minister in Japan by the Ministers of the Tycoon, and to Her Majesty's Government by the Envoys who have been sent to England by the Tycoon, that difficulties are experienced by the Tycoon and his Ministers in giving effect to their engagements with foreign Powers having Treaties with Japan, in consequence of the opposition offered by a party in Japan which is hostile to all intercourse with foreigners. 

Her Majesty's Government having taken those representations into consideration, are prepared, on the conditions hereinafter specified, to consent to defer for a period of five years, to commence from the 1st of January, 1863, the fulfillment of those portions of the IIIrd Article of the Treaty between Great Britain and Japan of the 26th of August, 1858, which provide for the opening to British subjects of the port of Ni-igata or some other convenient port on the West Coast of Nipon on the 1st day of January, 1860, and of the port of Hiogo on the 1st day of January, 1863, and for the residence of British subjects in the city of Yedo from the 1st day of January, 1862, and in the city of Osaka from the 1st day of January, 1863. 

Her Majesty's Government, in order to give to the Japanese Ministers the time those Ministers consider necessary to enable them to overcome the opposition now existing, are willing to make these large concessions of their rights under Treaty; but they expect that the Tycoon and his Ministers will in all other respects strictly execute at the ports of Nagasaki, Hakodate, and Kanagawa, all the other stipulations of the Treaty; that they will publicly revoke the old law outlawing foreigners; and that they will specifically abolish and do away with; 

1.-- All restrictions, whether as regards quantity or price, on the sale by Japanese to foreigners of all kinds of merchandise according to Article XVI. of the Treaty of the 26th of August, 1858. 

2.-- All restrictions on labour, and more particularly on the hire of carpenters, boatmen, boats, and coolies, teachers, and servants of whatever denomination. 

3.-- All restrictions whereby Daimios are prevented from sending their produce to market, and from selling the same directly by their own agents. 

4.-- All restrictions resulting from attempts on the part of the Custom-house authorities and other officials to obtain fees. 

5.-- All restrictions limiting the classes of persons who shall be allowed to trade with foreigners at the ports of Nagasaki, Hakodate, and Kanagawa. 

6.-- All restrictions imposed on free intercourse of a social kind between foreigners and the people of Japan. 

In default of the strict fulfilment by the Tycoon and his Ministers of these conditions, which, indeed, are no other than those which they are already bound by Treaty to fulfil, Her Majesty's Government will, at any time within the aforesaid period of five years, commencing from the 1st of January, 1863, be entitled to withdraw the concessions in regard to the ports and cities made by this Memorandum, and to call upon the Tycoon and his Ministers to carry out, without delay, the whole of the provisions of the Treaty of August 26th, 1858, and specifically to open the aforesaid ports and cities for the trade and residence of British subjects. 

The Envoys of the Tycoon accredited to Her Britannic Majesty announce their intention, on their return to Japan, to submit to the Tycoon and his Ministers the policy and expediency of opening to foreign commerce the port of Tsushima in Japan, as a measure by which the interests of Japan will be materially promoted; and they engage to suggest to the Tycoon and his Ministers to evince their goodwill to the nations of Europe, and their desire to extend commerce between Japan and Europe, by reducing the duties on wines and spirits imported into Japan, and by permitting glass-ware to be inserted in the list of articles on which an import duty of 5 per cent. is levied, and thereby remedying an omission inadvertently made on the conclusion of the Treaty; and they further engage to recommend to the Tycoon and his Ministers to make arrangements for the establishment at Yokohama and Nagasaki of warehouse in which goods coming from abroad may be deposited, under the control of Japanese officers, without payment of duties, until such time as the importers shall obtain purchasers for such goods, and be prepared to remove them on payment of the import duties. 

Her Britannic Majesty's Principal Secretary of State for Foreign Affairs and Envoys of the Tycoon have accordingly signed this Memorandum, which will be transmitted by the former to Her Majesty's Representative in Japan, and by the latter to the Tycoon and his Ministers, as an evidence of the arrangement made between them on this 6th day of June, 1862. 

(Signed) Earl Russell. 

    "    Takenouchi Shimotsukeno Kami. 

    "    Matsudaira Yewamino Kami. 

    "    Kiogoku Notono Kami. 

<日本語版>

英國倫敦覺書

文久二年壬戍五月九日(西曆千八百六十二年第六月六日)於倫敦調印

日本國內に外國との交際を害せる一黨あり其逆意の爲め大君及其執政は日本と條約を結ひし外國との交誼を保護し難しと思へは是を日本在留の英國女王のミニストルヘは大君の執政より告け女王の政府へは大君より英國へ遣せる使節より報告したり女王の政府は此報告を熟考し下に記したる取極を以て千八百五十八年第八月二十六日大不列顚と日本と取締たる條約の第三箇條中の事を施行するを千八百六十三年第一月一日より算し五年の間延す事を承諾せんと預定せり各條約第三箇條中に不列顚人の爲千八百六十年第一月一日より新潟或は日本の西岸に在る他の相當の一港を開き千八百六十三年第一月一日より兵庫を開き且不列顚人居留の爲千八百六十二年第一月一日より江戶府を開き千八百六十三年第一月一日より大坂府を開く事を定めしなり 

英國政府日本の執政に現今其國に在る逆意の者を鎭むる爲め要せる時限を得せしめんか爲條約上當然の理を枉て此大事を容允せんと思へり然れ共英國政府は大君及其執政に長崎箱館神奈川港に於て右の外條約中の取極を嚴重に施行し且外國人を擯斥する古法を廢し就中左の件々を取除くへし 

第一 千八百五十八年第八月二十六日の條約第十四箇條に基き商物の諸種を日本人より外國人に賣渡すに員數價の事に付是を拒む事 

第二 諸職人殊に工匠船夫船艇傭夫事を指南する人及從僕等其名に拘らす是を傭ふ事に付是を拒む事 

第三 諸大名其產物を市場に送り及其自家の人を以て直に是を賣るを拒む事 

第四 運上所の役人及他の士人の中賞を取る存意ありて彼是事に付拒む事 

第五 長崎箱館神奈川港に於て外國人と交易する人に身分の限程を立て之を許すを拒む事 

第六 日本人と外國人の間に懇親の徒勝手に交るを拒む事 

右の取極は素より條約に於て大君及執政の遵守すへき所なれは若此取極めを嚴密に遵守せさる時は英國政府上に述たる千八百六十三年第一月一日より算したる五年の期限中何時にても此書附に載る港都の事に付たる允諾を止め千八百五十八年第八月二十六日の條約に在る箇條を遲延せす盡く施行し上に云る所の港都を英人の交易居留の爲に開くへき事を大君及其執政に促すの理あるへし 

英國女王へ差遣されたる大君の使節は日本歸國の上外國交易の爲に對馬の港を開くの處置且利益ある趣意を大君及執政に述へし此處置は日本の利益を現に進步せしむるの擧なり且使節より說述し大君及執政に其厚意を歐羅巴人民に示し日本に輸入せる酒類の稅を減し玻璃器を五分稅を收る諸品中に加入するを許して日本と歐羅巴との交易を盛にせんと欲する意あるを示さしむへし此擧に由て條約取結の節失念せしを補ふへし使節尙大君及執政に横濱長崎に納屋を取建るの處置を上告すへし此納屋は陸揚する荷物を日本士官の取締にて預り置輸入主其荷物の買請人を得輸入稅を拂ひ之を他所に移すの用意ある迄は稅を拂ふ事なく入置爲なり英國女王の外國事務セクレタリー大君の使節共に此覺書に手記し此書をセクレタリーよりは日本在留の英國女王の公使に送り使節よりは大君及執政に送り千八百六十二年第六月六日雙方にて協議せる證とす 

 竹內下野守 花押 

 松平石見守 花押 

 京極能登守 花押 

 イール、ルッセル 手記 

   「舊條約彙纂 第一卷第二部」外務省條約局編より

<現代語訳>

ロンドン覚書

 1862年6月6日(文久2年5月9日)於:ロンドン調印

外国人とのすべての交際関係に敵対する日本の一党による反対の結果として、大君とその執政が日本と条約を結んでいる諸外国との関係について、条約を履行しがたいと日本在留の英国女王陛下の大臣には大君の執政によって、そして陛下の政府には大君によってイギリスに派遣された使節によって報告された。

これらの表明を考慮した女王陛下の政府は、以下に指定された条件の下で、1858年8月26日のイギリスと日本の間の条約の第3条項の施行する1860年1月1日、新潟港または日本西海岸のその他の相当する港の英国のへの開港、1863年1月1日からの兵庫港開港、またイギリス人居留地として、1862年1月1日から江戸市、1863年1月1日から大阪市を開く事を規定していることに対し、1863年1月1日から開始する5年間の延期に同意する準備があることを示す。

英国政府は、日本の執政に、彼らが現在存在する反対を克服することを可能にするために必要であると考える時間を与えるために、快く条約の下のそれらの権利に対し大きい譲歩を示す。しかし、英国政府は大君とその執政が、他のすべての点で、長崎、箱館、神奈川の港で、条約の他のすべての規定を厳格に執行し、外国人を非合法化する今までの法律を公的に取り消すために、具体的には左の規定を撤廃すること。

1.--1858年8月26日の条約の第16条に従い、日本人によるあらゆる種類の商品の外国人への販売に関する、数量または価格に関するすべての制限。

2.--労働に関するすべての制限、特に大工、船頭、船艇、および人夫(指南者とあらゆる名称の使用人でも)の雇用に関するすべての制限。

3.--諸大名が農産物を市場に送ること、および自家の代理人が直接販売することを禁止するすべての制限。

4.--税関当局およびその他の当局者が(関税以外の)手数料を取得しようとする試みに起因するすべての制限。

5.--長崎、箱館、神奈川の港で外国人との貿易を許可される人の身分を規定するすべての制限。

6.--外国人と日本の人々との間の社会的な種類の自由な交際関係に課せられたすべての制限。

大君とその執政によるこれらの条件の厳格な既定の履行については、実際、それらはすでに条約によって履行するように拘束されているものに他ならないが、女王陛下の英国政府は、前述の5年の期間内のいつでも 、1863年1月1日から、この覚書によって作成された港と都市に関する譲歩を撤回し、大君とその執政に、1858年8月26日の条約の規定の全体を遅滞なく、特に英国のための貿易と居留地のために前述の港と都市を開くことを求めるものとする。

英国女王陛下に派遣された大君の使節は、日本へ帰国した上で、日本の利益が物質的に進められる処置として、日本の対馬の港を開港することを上申し、かつ日本に輸入されたワインとスピリッツへの税を減らし、ガラス製品が5%の輸入関税が課されるリストに挿入されることを許し、日本とヨーロッパの間の商取引を拡大する意思を示し、それによって誤って条約の締結時に省略されたことを補填するものとする。また、輸入業者が商品の購入者を得て、それらを移動する用意ができる時まで、輸入税の納付に関して、税を支払わずに、日本の担当者の影響力の下で、外国から来る商品が預けられうる倉庫を横浜と長崎に設けることを約束することとする。

それに応じて、英国女王陛下の外務大臣および大君の使節は、共にこの覚書に署名し、この覚書は、1862年6月6日に、双方で行われた取り決めの証拠として、前者によって日本の陛下の代表に、後者によって大君とその執政に送られる。

 イール、ラッセル 署名

 竹內下野守 花押 

 松平石見守 花押 

 京極能登守 花押 

    *英語の原文より筆者が訳しました。

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