ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2025年09月

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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により、産業報国会の全国連合組織としての大日本産業報国会が解散した日です。
 大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)は、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設けられた官民共同の勤労者統制組織でした。日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まります。
 連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きました。その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達します。
 1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至りました。同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指します。
 また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行しました。1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきます。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しました。
 以下に、大日本産業報国会の創立宣言と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇大日本産業報国会創立宣言

 今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
 然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
 凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
 皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
 職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
 右宣言す。

 紀元二千六百年十一月二十三日

〇大日本産業報国会綱領

一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス

   国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1921年(大正10)「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」が国際連盟で採択・署名される詳細
1943年(昭和18)御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定が決定され、「絶対国防圏」が定められる詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細
1978年(昭和53)小説家山岡荘八の命日詳細
1992年(平成4)「世界遺産条約」が日本国内で発効する詳細
2006年(平成18)国産旅客機YS-11(日本航空機製造製)が日本エアコミューター(JAC)により、最後の旅客飛行を行う詳細

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、原敬が第19代内閣総理大臣に就任し、最初の政党内閣を組織した日です。
 原敬(はら たかし)は、1856年(安政3年2月9日)に、南部藩重臣の父原直治と母リツ子の次男として、陸奥国岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市)に生れましたが、幼名は健次郎といいました。
 1871年(明治4)に上京して、南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入りますが、学資に窮して退学し、翌年には費用のかからないカトリック神学校に入学します。
 受洗して、カトリックの神父の学僕となり苦学したものの、1879年(明治12)に、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社しました。退社後、『大東日報』の主筆となり井上馨に知遇を得て、1882年(明治15)に外務省に採用され外務省御用掛兼務になります。
 1889年(明治22)には農商務省に転じ、陸奥宗光に師事するようになりました。1892年(明治25)に一度辞職しますが、再び招かれて、外務省通商局長、外務次官、朝鮮公使を歴任します。
 陸奥の死を契機に、1897年(明治30)年はは官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社し翌年社長となりました。
 その後、1900年(明治33)に、立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、1914年(大正3)に総裁に就任します。この間、1902年(明治35)に岩手県より立候補して衆院議員に当選し、以後没するまで連続当選を果たしました。
 1918年(大正7)に米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて、最初の政党内閣を組織します。交通の整備、教育の拡張など積極政策を行ない、爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と称されました。
 しかし、強硬政策が反発を買い、1921年(大正10)11月4日、65歳で東京駅において右翼青年に暗殺されます。

〇原敬関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年2月9日) 陸奥国岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市)において、南部藩重臣の父・原直治と母・リツ子の次男として生れる
・1861年(文久元) 近所の太田代直蔵塾に通う(6年間)
・1865年(慶応元) 小山田佐七郎先生から漢学を教授される(約6年間)
・1867年(慶応3) 仙北町の寺田直助塾と工藤祐方塾に通う(約2年間)
・1870年(明治3) 藩校作人館修文所に入る (約2年間)
・1871年(明治4) 上京して、那珂梧楼宅に寄寓する
・1872年(明治5) 南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入るものの学資に窮して退学、費用のかからないカトリック神学校に入学する
・1876年(明治9) 司法省法学校入校する(約2年10か月)
・1879年(明治12) 中江兆民塾入り、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社する
・1881年(明治14) 渡辺浩基に従い東北北海道周遊する(5/23~10/2)
・1882年(明治15) 郵便報知新聞社を退社し、外務省に採用され外務省御用掛兼務になる
・1883年(明治16) 天津領事(~18年7月)となり、正七位となる
・1885年(明治18) パリ公使館書記官となり、勲六等単光旭日章を受章する
・1889年(明治22) 農商務省参事官に転じ、陸奥宗光に師事するようになる
・1890年(明治23) 大臣秘書官となり、従六位に昇叙する
・1891年(明治24) 大臣官房秘書課長となり、正六位に昇叙する
・1892年(明治25) 一度辞職するものの、復帰して外務省通商局長・取調局長兼務となり、従五位に昇叙する
・1893年(明治26) 外務省通商局長、取調局長兼務となり、正五位に昇叙、勲五等瑞宝章を受章する
・1895年(明治28) 外務次官となり、従四位に昇叙、勲四等瑞宝章を受章する
・1896年(明治29) 朝鮮駐剳特命全権公使となり、勲三等旭日中綬章を受章する
・1897年(明治30) 正四位となるが、官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社する
・1898年(明治31) 大阪毎日新聞社社長となる
・1900年(明治33) 大阪毎日新聞社長を辞職し、立憲政友会創立に参画して政友会総務委員兼幹事長となり、第4次伊藤内閣の逓信大臣となる
・1901年(明治34) 逓信大臣を辞任、大阪北浜銀行頭取となる
・1902年(明治35) 岩手県より立候補して衆院議員に当選する
・1903年(明治36) 大阪新報社長となる
・1905年(明治38) 古河鉱業副社長となる
・1906年(明治39) 大阪新報社長・古河鉱業副社長を辞任し、第1次西園寺内閣の内務大臣となり、勲二等瑞宝章を受章する
・1907年(明治40) 従三位となる
・1908年(明治41) 内務大臣を辞任する
・1910年(明治43) 政友会院内総務、予算委員長となる
・1911年(明治44) 第2次西園寺内閣の内務大臣となる
・1914年(大正3) 正三位となり、内務大臣を辞め、立憲政友会総裁に就任、勲一等旭日大綬章を受章する
・1915年(大正4) 大礼記念章(大正)を受章する
・1918年(大正7) 米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて、第19代内閣総理大臣に就任し、最初の政党内閣を組織する
・1919年(大正8) 司法大臣を兼任する
・1920年(大正9) 旭日桐花大綬章を受章する
・1921年(大正10)11月4日 東京駅において右翼青年に暗殺され、65歳で亡くなり、正二位と大勲位菊花大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

747年(天平19)東大寺大仏の鋳造が開始される(新暦11月6日)詳細
930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
949年(天暦3)第57代の天皇とされる陽成天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)「学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1971年(昭和46)新潟水俣病裁判(第1次訴訟)で新潟地裁が被告の昭和電工に損害賠償を命じる判決を出す詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細
2013年(平成25)小説家山崎豊子の命日詳細
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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、 第1回国際度量衡総会が開かれ、キログラムが国際キログラム原器(IPK)の質量を基準として定義され、国際メートル原器も承認された日です。
 国際度量衡総会(こくさいどりょうこうそうかい)は、「メートル条約」に基づいて開催される、世界共通の国際単位系(SI)の定義・承認・維持を目的とする会議です。この会議の開催は4年(当初は6年)に1度、フランスのパリで行われ、他の2つの機関(国際度量衡委員会〈CIPM〉及び国際度量衡局〈BIPM〉)の上位機関と位置づけられてきました。
 会議の決定事項は、国際度量衡委員会が理事機関として執行しています。1889年(明治22)9月28日に、第1回総会が開催され、キログラムを白金とイリジウムの合金である国際キログラム原器の質量と定義し、国際キログラム原器を国際度量衡局 (BIPM) が保管することが決定され、国際メートル原器も承認されました。
 2019年(平成31)2月現在、加盟国は59か国、准加盟国/経済圏は42か国となっています。

〇国際度量衡総会年譜

・第1回(1889年) - キログラムを、白金とイリジウムの合金である国際キログラム原器の質量と定義し、国際キログラム原器を国際度量衡局(BIPM)が保管することが決定され、国際メートル原器も承認される
・第2回(1897年)
・第3回(1901年) - リットルが1キログラムの水の体積と再定義され、キログラムが質量の単位であることを明確にし、「標準重量」と標準重力加速度を定義し、重力の単位にはグラム重(重量グラム)を使用すべきとして、その定義を明確にされる
・第4回(1907年) - カラットを200ミリグラムとすることが承認される
・第5回(1913年) - 国際温度目盛が提案される
・第6回(1921年) - 「メートル条約」が改正される
・第7回(1927年) - 電気・磁気諮問委員会(CCE)が創設される
・第8回(1933年) - 電気の絶対単位の必要性が確認される
・第9回(1948年) - 「国際実用計量単位系(後の国際単位系〈SI〉)の設立が決定され、アンペア、クーロン、ファラド、ヘンリー、ジュール、ニュートン、オーム、ボルト、ワット、ウェーバが定義される
・第11回(1960年) - メートルが、光の波長に基づいて再定義され、ヘルツ、ルーメン、ルクス、テスラが採択され、新しい国際的な単位系の略称をSIとし、SI接頭語のピコ、ナノ、マイクロ、メガ、ギガ、テラが承認される
・第12回(1964年) - リットルの定義が元の1 dm3に戻され、SI接頭語のアト、フェムトが承認される
・第13回(1967年) - 秒がセシウム原子の振動に基づいて再定義され、ケルビン度をケルビンに改称し、カンデラが再定義される
・第14回(1971年) - 新しいSI基本単位であるモルを定義し、パスカル、ジーメンスを採択する
・第15回(1975年) - SI接頭語のペタ、エクサが承認された。グレイ、ベクレルが採択される
・第16回(1979年) - シーベルトが定義された。リットルの記号としてlに加えて、Lが許容される
・第17回(1983年) - メートルが光速度に基づいて再定義される
・第18回(1987年) - ジョセフソン定数KJとフォン・クリッツィング定数RKの協定値が採択された。これにより、アンペアとキログラムの新たな定義法への道が開かれる
・第19回(1991年) - SI接頭語のヨクト、ゼプト、ゼタ、ヨタが承認される
・第20回(1995年) - 補助単位とされていたラジアンとステラジアンが組立単位とされる
・第21回(1999年) - 新しいSI組立単位としてカタールが採択される
・第22回(2003年) - 小数点の表記としてコンマとピリオドの両方が同等であることが再確認される
・第23回(2007年) - ケルビンの定義が明確化される
・第24回(2011年) - プランク定数によるキログラムの定義が提案される
・第25回(2014年) - 1年前倒しで開催された。SIの再定義は、プランク定数その他の必要な定数の精度が不十分として、延期される
・第26回(2018年) - 秒、メートル、キログラム、アンペア、ケルビン、モル、カンデラの再定義が決議され、国際単位系(SI)の定義が根本的に改訂される
・第27回(2022年) - SI接頭語のロナ、ロント、クエタ、クエクトが承認され、閏秒を2035年までに廃止することを決議する

☆「メートル条約」(めーとるじょうやく)とは?

 メートル(長さ)およびキログラム(重さ)を基とする度量衡の普及統一を目的とし、1875年(明治8)5月20日に17ヶ国の代表により、フランスのパリで締結された国際条約です。14ヶ条の本文と 22ヶ条の付則と6ヶ条の過渡規定から成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度量衡委員会、国際度量衡総会(条約の議決機関、少なくとも6年に1回パリで開く)の組織・権限、原器に関する事項、条約の加入・脱退、経費の負担などを規定していました。
 1921年(大正10)の改訂により事業の拡大をはかり、電気・光・温度・時間などの諸単位をも含むことになります。さらに、1960年(昭和35)には、電離放射線も加えられました。
 日本は、1875年(明治8)5月20日に調印し、1885年(明治18)10月9日に加入しましたが、国内で公布されたのは、1886年(明治19)4月20日となり、1889年(明治22)に原器を交付されています。尚、国際メートル原器は、1960年(昭和35)にメートルの定義がクリプトン86の発光スペクトルが示す波長に基づいて変更されるまで国際標準として使用され、国際キログラム原器は、2019年(平成31)に施行されたSI基本単位の再定義により廃止されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1629年(寛永6)江戸水戸藩屋敷に初代藩主徳川頼房による作庭(小石川後楽園)が終了、ほぼ完成する(新暦11月13日)詳細
1902年(明治35)「足尾台風」が襲来し、主に関東地方から東北地方南部にかけて大きな被害をもたらす詳細
1912年(大正元)小説家大原富枝の誕生日詳細
1926年(大正15)免疫学者石坂照子の誕生日詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1964年(昭和39)琵琶湖を初めて横断する琵琶湖大橋が開通する詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、公的旅行機関国際連盟(IUOTO)の特別総会において、「世界観光機関憲章」が採択され、世界観光機関(WTO)に発展的に改組された日(国際デー:世界観光の日)です。
 世界観光機関(せかいかんこうきかん)は、スペインのマドリードに本部を置く、観光に関する国際連合の専門機関です。前身は、大正時代の1925年(大正14)に、ハーグで設立された非政府の公的旅行機関国際同盟(IUOTO)でした。
 1970年(昭和45)9月27日に、メキシコシティーで開催されたIUOTOの特別総会で採択された、「世界観光機関憲章」が、1975年(昭和50)1月2日に発効して、設立されます。世界観光機関の目的は、「経済的発展、国際間の理解、平和及び繁栄に寄与するため、並びに人種、性、言語または宗教による差別なく、すべての者のために人権及び基本的自由を普遍的に尊重し遵守することに寄与するため、観光を振興し発展させること」とされてきました。
 2003年(平成14)に、国連の専門機関となり、略称もUNを冠してUNWTO(国連世界観光機関)となります。すべての主権国家が加盟できるほか、準加盟(対外関係に責任を有しない地域)、賛助加盟(政府間,非政府間機関,団体等)などの規定があり、総会、理事会、事務局が置かれました。
 国際連合、国連開発計画その他と協力協定を結び、1980年(昭和55)の「世界観光マニラ宣言」や 1985年(昭和60)の「観光憲章」の採択にどを行っています。日本は 1978年(昭和53)に加盟しましたが、2019年(令和元)1月現在の加盟国は158か国、加盟地域6地域、オブザーバー2地域となりました。
 尚、1980年(昭和55)の第3回総会で、「世界観光機関憲章」が採択された9月26日が「世界観光の日」“World Tourism Day(WTD)”と定められ、イベントやキャンペーンが行われています。

〇世界観光機関(UNWTO)関係略年表

・1925年(大正14) 前身となる、非政府の公的旅行機関国際同盟(IUOTO)が、ハーグで設立される
・1967年(昭和42) 国連の国際観光年となる
・1970年(昭和45)9月27日 メキシコシティーで開催されたIUOTOの特別総会で、「世界観光機関憲章」が採択される
・1975年(昭和50)1月2日 「世界観光機関憲章」が発効して、世界観光機関(WTO)が設立される
・1978年(昭和53) 日本が加盟する
・1979年(昭和54)9月、スペインで開催された第3回世界観光機関(WTO)総会で、「世界観光の日」制定が発案・決議される
・1980年(昭和55) 「世界観光の日」が制定され、「世界観光マニラ宣言」を採択する
・1985年(昭和60) 「観光憲章」を採択する
・1995年(平成7) アジア太平洋地域の拠点として大阪市にUNWTOアジア太平洋センターが設置される
・2003年(平成14) 国連の専門機関となり、略称もUNを冠してUNWTO(国連世界観光機関)となる
・2024年(令和6)1月 略称を「UNWTO」から「UN Tourism」に変更する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)日本初の地下鉄・銀座線(上野~浅草2.2km)の起工式が行われる詳細
1940年(昭和15)「日独伊三国同盟」が調印される 詳細
1945年(昭和20)GHQが「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-66)を出す詳細
1946年(昭和21)「労働関係調整法」が公布される詳細
1958年(昭和33)狩野川台風が神奈川県に上陸し、死者・行方不明1,269人を出す詳細
1964年(昭和39)福井県の東尋坊タワーが竣工する詳細
1989年(平成元)哲学者・文芸美術評論家谷川徹三の命日詳細
横浜港の港口に横浜ベイブリッジが、着工から約9年で開通する詳細
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odanobunaga・ashikagayoshia
 今日は、安土桃山時代の1568年(永禄11)に、織田信長が足利義昭を奉じて入京した日ですが、新暦では10月16日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。
 1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。
 しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。
 同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月26日に信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。
 1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。
 すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。
 それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、翌年8月28日に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月26日) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆織田信長(おだ のぶなが)とは?

 戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
 1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。
 1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
 その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。
 さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。
 その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めます。しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)天文学者木村栄の命日詳細
1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
長崎県の福江大火で、家屋604戸が焼失する詳細
1968年(昭和43)厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定する詳細
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