ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2025年08月

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 今日は、明治時代後期の1894年(明治27)に、川上音次郎が、東京・浅草座で「壮絶快絶日清戦争」を初演し、戦争劇ブームの先駆けとなった日です。
 「壮絶快絶日清戦争」(そうぜつかいぜつにっしんせんそう)は、明治時代後期の1894年(明治27)8月31日~10月7日に、川上音次郎が東京・浅草座で初演した戦争劇です。1894年(明治27)8月1日に、明治天皇による「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」が発せられて、日清戦争が始まりました。
 これは、明治新政府となって、最初の大規模な対外戦争となります。開戦直後の8月はじめに、川上音二郎は日清戦争を題材とした芝居の脚本認可を警視庁に申請し、8月21日に認可を受けました。そこで、川上一座は、8月31日~10月7日に、この劇を浅草座で上演します。実際の戦況とはかけはなれた内容ではありましたが、若者たちが体当たりで演じる大活劇は大評判になりました。
 この上演後、音二郎は10月22日に戦地視察に出発し、朝鮮の仁川や平壤、鴨緑川を渡り清国内の九連城にまで足を延ばして、一ヵ月後に帰国します。この時の見聞を取り込んで、「川上音二郎戦地見聞日記」を作り、、同年12月3日~23日まで市村座で上演され、翌年1月には、横浜の港座でも公演し、これらの戦争劇は大評判となりました。

〇川上音二郎(かわかみ おとじろう)とは?

 明治時代に活躍した新派俳優・興行師です。幕末の1864年2月8日(文久4年1月1日)に、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区)で、郷士及び豪商の父・川上専蔵の子として生まれましたが、本名は音吉と言いました。
 1878年(明治11)、14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となります。その後、郷里で玄洋社の結成に参加して、政治運動に投じ、1883年(明治16)頃から「自由童子」と名のって、大坂中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄されました。
 自由民権運動への弾圧が続く中、落語家桂文之助に入門し、浮世亭○○の芸名で寄席に出勤、自由民権論を鼓吹する時局風刺の「オッペケペー節」が評判となります。1891年(明治24)に、堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となりました。
 1893年(明治26)に渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚します。1896年(明治29)に東京神田に川上座を創設したものの、資金繰りに行き詰って、翌々年には人手に渡りました。
 1899年(明治32)には妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集め、2年後に再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業します。1903年(明治36)に正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演しましたが、1907年(明治40)には俳優を引退、以後、興行師に専念しました。
 1908年(明治41)には、大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、また、帝国女優養成所も開設します。演劇近代化の先駆者として活躍し、「新派劇の父」とも称されましたが、1911年(明治44)11月11日に、大阪において48歳で亡くなりました。

☆オッペケペー節とは?

 明治時代中頃に流行した当時の政治、文明開化の世相を風刺する一種の流行歌です。1889年(明治22)に川上音二郎が作詞し、1891年(明治24)2月以降、鉢巻、陣羽織、軍扇といういで立ちで川上音二郎が寄席や自分の書生芝居の幕間に歌ったのが初めとされてきました。
 近代国家にふさわしい開明の思想を日常の卑近な例に託して歌に詠み込んだもので、とても人気となって一世を風靡し、その後歌詞は10数種類出来ています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家、南画家小室翠雲の誕生日詳細
1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1908年(明治41)物理化学者森野米三の誕生日詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1922年(大正11)薬理学者・分子生物学者江橋節郎の誕生日詳細
1949年(昭和24)キティ台風(昭和24年台風第10号)が、神奈川県小田原市の西に上陸し、大きな被害をもたらす詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、日本公使館襲撃事件(壬午の変)の事後処理のため、日本と朝鮮との間で、「済物浦条約」と「日鮮修好条規続約」が調印された日です。
 「済物浦条約」(さいもっぽじょうやく)は、1882年(明治15)7月に発生した日本公使館襲撃事件(壬午の変)の事後処理のため、同年8月30日に朝鮮の済物浦(仁川)で日本と朝鮮との間に締結された条約です。それによって、①襲撃犯人の逮捕・処罰、②日本側遭難者遺族・負傷者の見舞金5万円、③損害賠償50万円、④公使館守備兵の駐留、⑤謝罪使の派日、などを約定しました。
 これは、日本が海外に駐兵権を得た最初の条約となります。同日に、「日鮮修好条規続約」も結び、ウォンサン (元山) 、プサン (釜山) 、インチョン (仁川) 各港の間行里程を拡張し、ヤンファチン (楊花鎮) を開市場とすることなどによって、日本の権益を拡張することになりました。
 朝鮮では、日本の駐兵に対抗して清軍駐在および宗主権強化が図られ、親日派の独立党と親清派の事大党との相克が激化し、日清対立が強まり、甲申政変の遠因が醸成されます。
 以下に、「済物浦条約」と「日鮮修好条規続約」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「済物浦条約」 1882年(明治15)8月30日調印

(日本曆七月二十三日、朝鮮曆六月九日)ノ変ハ朝鮮ノ凶徒日本公使館ヲ侵襲シ職員多ク難ニ罹リ朝鮮国聘スル所ノ日本陸軍教師亦慘害セラル日本国ハ和好ヲ重スル為メ妥当議弁シテ即朝鮮国ニ下記ノ六款及別訂続約二款ヲ実行スルコトヲ約シ以テ懲前善後ノ意ヲ表ス是ニ於テ両国全権大臣ハ記名捺印シテ以テ信憑ヲ昭ニス

 第一

今ヨリ二十日ヲ期シ朝鮮国ハ凶徒ヲ捕獲シ巨魁ヲ厳究シ重キニ従テ懲弁スル事

 日本国ハ員ヲ派シテ立会処断セシム若期日内ニ捕獲スル能ハサルトキハ応ニ日本国ヨリ弁理スヘシ

 第二

日本官吏ニシテ害ニ遭ヒタル者ハ優礼ヲ以テ瘞葬シ以テ其ノ終ヲ厚フスル事

 第三

朝鮮国ハ五万円ヲ支出シ日本官吏ノ遭害者ノ遣族並ニ負傷者ニ給与シ以テ体卹ヲ加フル事

 第四

兇徒ノ暴挙ニ因リ日本国カ受クル所ノ損害、公使ヲ護衞スル海陸兵費ノ內五拾万円ハ朝鮮国ヨリ填補スル事

 毎年拾万円ヲ支払ヒ五箇年ニシテ完済ス

 第五

日本公使館ハ兵員若干ヲ置キ護衞スル事

 兵営ヲ設置修繕スルハ朝鮮国之ニ任ス

 若朝鮮国ノ兵民律ヲ守ル一年ノ後日本公使ニ於テ警備ヲ要セスト認ムルトキハ撤兵スルモ差支ナシ

 第六

朝鮮国ハ特ニ大官ヲ派シ国書ヲ修シ以テ日本国ニ謝スル事

 大日本国明治十五年八月三十日

 大朝鮮国開国四百九十一年七月十七日

   日本国弁理公使 花房義質<印>

   朝鮮国全権大臣 李裕元<印>

   朝鮮国全権副官 金宏集<印>

 ※旧字を新字になおしてあります。

〇「日鮮修好条規続約」 1882年(明治15)8月30日調印

明治十五年八月三十日仁川ニ於テ調印(日、漢文)

同年十月三十日批准

同年十月三十一日東京ニ於テ交換

同年十一月二十二日太政官布告

日本国ト朝鮮国ト嗣後益〃親好ヲ表シ貿易ヲ便ニスル為メ茲ニ続約二欵ヲ訂定スルコト左ノ如シ

 第一

元山釜山仁川各港ノ間行里程今後拡メテ四方{前2字の右横に「(一)」の字あり}各五十里ト為シ(朝鮮里法)二年ノ後ヲ期シ(条約批准ノ日ヨリ周歲ヲ算シテ一年ト為ス)更ニ各百里ト為ス事

今ヨリ一年ノ後ヲ期シ楊花鎭ヲ以テ開市場ト為ス事

 第二

日本国公使領事及ヒ其隨員眷従ノ朝鮮内地各処ニ遊歷スルヲ任聽スル事

 遊歷地方ヲ指定シ禮曹ヨリ證書ヲ給シ地方官證書ヲ験メ護送ス

右両国全権大臣各々論旨ニ拠リ約ヲ立テ印ヲ盖シ更ニ批准ヲ請ヒ二個月ノ內(日本明治十五年十月朝鮮開国四百九十一年九月){括弧内の一文の下に「(二)」の字あり}日本東京ニ於テ交換スヘシ

大日本国明治十五年八月三十日

大朝鮮国開国四百九十一年七月十七日

  日本国弁理公使 花房義質<印>

  朝鮮国全権大臣 李裕元<印>

  朝鮮国全権副官 金宏集<印>

(註)(一)「四方」ノ二字御批准書雛形ニ依リ補フ

   (二)「十月」ノ「十」ノ字及「九月」ノ「九」ノ字同前

〔備考〕右続約ハ日、漢文共調印本書ニ拠レルガ漢文ニアリテハ調印本書ニ於テ彼邦ヲ先順位トシ彼邦側批准書ニ於テ却テ我邦ヲ先順位トセリ

 ※旧字を新字になおしてあります。

   外務省条約局編「舊條約彙纂」第三巻より 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)江戸幕府が古賀謹一郎を頭取として、九段下に洋学所(後の蕃書調所)を設立する(新暦10月10日)詳細
1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1872年(明治5)「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出される(新暦10月2日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1919年(大正8)友愛会が7周年大会で、大日本労働総同盟友愛会に改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定する詳細
1940年(昭和15)松岡洋右外相とアンリ仏大使が「北部仏印進駐に関する協定(松岡・アンリ協定)」を締結する詳細
1941年(昭和16)「金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1708年(宝永5)に、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチが屋久島に上陸したのを発見された日ですが、新暦では10月13日となります。
 ジョバンニ・シドッチ(じょぱんに・しどっち)は、イタリアのイエズス会宣教師で、キリシタン禁制下の日本に潜入した最後の宣教師です。江戸時代前期の1668年(寛文8)8月22日に、イタリアのシチリア島に生れました。
 特定の修道会に所属しない教区司祭で、ローマ教皇庁の法律顧問を務めていましたが、東アジアに派遣された宣教師らの報告によって日本における宣教師や現地の信徒(切支丹)の殉教を知り、日本への渡航を決意します。ローマ教皇クレメンス11世(在位1700~1721年)の命を受け、東洋にキリスト教伝道を企てて、1704年(宝永元)に、マニラに渡り日本語を習得しました。
 1708年(宝永5)8月にマニラから、シドッティのためだけに建造された船に乗り、鎖国下の日本へ出発、10月13日(旧暦8月29日)に、大隅国屋久島(現在の鹿児島県屋久島町)に上陸したのを発見され、ただちに捕らえられて長崎に送られます。長崎で1年ほど入牢の後、1709年(宝永6)秋に、江戸に送られて小石川のキリシタン屋敷に監禁されました。
 その後、新井白石はシドッチを尋問し、彼から得た世界情勢、天文、地理などの情報をもとに『西洋紀聞』、『采覧異言(さいらんいげん)』などを執筆し、鎖国下の世界知識の源となり、洋学の基となります。しかし、1715年(正徳4年10月21日)11月27日に、江戸小石川の切支丹屋敷において、46歳で牢死しました。

〇ジョバンニ・シドッチ関係略年表

・1668年(寛文8)8月22日 イタリアのシチリア島に生れる
・1704年(宝永元) マニラに渡り日本語を習得する
・1708年(宝永5)8月 マニラから、シドッティのためだけに建造された船に乗り、鎖国下の日本へ出発する
・1708年(宝永5)10月13日 大隅国屋久島(現在の鹿児島県)に上陸したのを発見される
・1709年(宝永6)秋 江戸に送られて小石川のキリシタン屋敷に監禁される
・1715年(正徳4年10月21日)11月27日 江戸小石川の切支丹屋敷において、46歳で牢死する

〇『西洋紀聞』(せいようきぶん)とは?

 江戸時代中期の1715年(正徳5)に成立した、新井白石著の西洋の研究書です。1708年(宝永5年8月29日)に、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチが屋久島に上陸しましたが、すぐに捕えられて江戸に送られ、新井白石が訊問に当たって、この書を著述しました。
 全3巻で、上巻はシドッティ渡来の事情と訊問から獄死に至る経緯、中巻はシドッティが語った五大州の地理・歴史・風俗・物産および国内事情、下巻はキリスト教の教義と布教についてのシドッティの解説とそれへの白石の批判から成っています。秘本とされ、公刊されたのは1882年(明治15)ですが、1793年(寛政5)に、幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていました。

☆新井白石(あらい はくせき)とは?

 江戸時代中期に活躍した儒学者・政治家です。江戸時代前期の1657年(明暦3年2月10日)に、上総久留里藩士新井正済と妻千代の子として江戸神田柳原に生まれましたが名は君美(きんみ)といいました。
 初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
 ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で、甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。
 1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、7代家継も補佐します。その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われました。
 8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わしています。朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなりました。

<新井白石の主要な著書>

・『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701年)
・『采覧異言』 (1708年)
・『読史余論』 (1712年)
・『采覧 (さいらん) 異言』 (1713年)
・『西洋紀聞』 (1715年)
・『古史通』 (1716年)
・『古史通或問』(1716年)
・『折たく柴の記』 (1716年起筆)
・『東雅』 (1719年)
・『南島志』 (1719年)
・『蝦夷志』(1720年)
・『東音譜』
・『同文通考』
・『白石詩草』
・『本朝軍器考』
・『白石手簡』
・『新井白石日記』
・『先哲像伝』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1863年(文久3)江戸幕府が洋書調所を開成所と改称する(新暦10月11日)詳細
1888年(明治21)経済学者・財政学者で、法政大学総長だった大内兵衛の誕生日詳細
1900年(明治33)洋画家牛島憲之の誕生日詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細
1959年(昭和34)三井鉱山が「第二次企業整備案」を提示し、三井三池争議が始まる詳細
1997年(平成9)家永教科書裁判の第3次訴訟で、最高裁が原告の“一部勝訴”判決を出し、一連の裁判が終結する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、黒船から江戸湾を防衛するために、品川沖に沿岸砲台(品川台場)の築城を開始した日ですが、新暦では9月30日となります。
 品川台場(しながわだいば)は、江戸時代後期に、江戸幕府が江戸湾防備のため品川沖に建設した砲台で、「御台場」とも呼ばれています。1853年(嘉永6年6月3日)のペリー来航を契機に、江川太郎左衛門の献策により11ヶ所に設置を予定し、1年4ヵ月の間に5ヶ所が完成しました。
 西洋の軍事技術を応用しながら、伝統的石積技術を用いた、日本最初の大規模海上構造物です。台場は、要塞の一種で、海岸や河岸に築かれるものが多かったものの、幕末明治維新期に起きた戊辰戦争や西南戦争においては、海岸線に限らず、峠・高台・交通の要衝に築かれてきました。
 品川台場は、日本の技術水準の高さを示す貴重な土木遺産であり、幕末の国際関係を知る上で重要なものとして、1926年(大正15)に、国の史跡に指定されて、第三、第六台場だけが残されています。この内、第三台場は、台場公園として開放されていて、内側の平坦な窪地には、陣屋、弾薬庫跡などが残されてきました。
 尚、2017年(平成29)には、続日本100名城(124番)に「品川台場」として選定されています。

〇品川台場関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1853年(嘉永6年6月3日):アメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊が第13代アメリカ合衆国大統領のミラード・フィルモアによる日本開国の任務の為、来航して幕府に開国要求を迫る
・1853年(嘉永6年8月28日):黒船から江戸湾を防衛するために、品川沖に沿岸砲台(品川台場)の築城を開始する
・1854年(嘉永7):ペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれる
・1875年(明治8):海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。明治中期には東京湾要塞の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられることとなる
・1878年(明治11):芝区の成立に伴い、海上の7つの台場(第一 ~第七台場)は芝区に所属し、それぞれ東京府芝区大字品川沖1 - 7番地となる。大正の初めまでに町名の品川沖は品海砲台に変更となる
・1912年(大正元):第四台場が民間人に払い下げられ、造船所となる
・1915年(大正4):第三台場・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備されることになる
・1917年(大正6):第一台場が民間人に払い下げられる
・1926年(大正15):第三、第六台場だけが国の史跡に指定される
・1928年(昭和3):第三台場が東京市により整備され、台場公園として市民に開放される
・1934年(昭和9):第二台場・第五台場が東京市に払い下げられる
・1939年(昭和14):第四台場が新しく完成した埋立地(品川区天王洲町・現在の品川区東品川)に埋没して消滅する
・1941年(昭和16):東京港が開港する。
・1947年(昭和22)3月15日:芝区・麻布区・赤坂区が合併して港区が成立し、台場地区は東京都港区芝品海砲台となる
・1955年(昭和30):品川区と地続きになっていた旧第四台場の土地が、港区より品川区に割譲される
・1957年(昭和32):8つの台場のうち唯一陸上に造られた御殿山下台場が撤去され、跡地に品川区立台場小学校が開校する
・1961年(昭和36):東京港の開港に伴い船舶が増加したため、航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場が撤去される
・1962年(昭和37):第五台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する
・1963年(昭和38):第一台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する
・1965年(昭和40):第七台場が撤去される。これにより、現存する第三台場と第六台場以外のすべての台場が消滅する。なお、第七台場は最初から未完成のまま海面下に水没した状態で残されていた
・1965年(昭和40)3月1日:台場地区に住居表示が実施され、港区芝品海砲台(第三・第六台場)が町名変更により港南五丁目となる
・1974年(昭和49)6月:品川区東八潮に船の科学館が開館する。お台場で最初の大規模建築物である
・1975年(昭和50)12月1日:13号地海浜公園(後のお台場海浜公園)、13号地緑道公園(後の東八潮緑道公園、青海緑道公園)が開園する
・1976年(昭和51)8月12日:首都高速湾岸線の大井 - 13号地(当時)間の開通により、東京港トンネルが供用開始される
・1978年(昭和53)7月16日~1979年(昭和54年)1月15日:船の科学館周辺で宇宙科学博覧会の第一期が開催される
・1979年(昭和54)3月24日~9月2日:宇宙科学博覧会の第二期が開催される
・1979年(昭和54):東京港の海底を掘削した際の残土により埋立が進められ、13号埋立地が完成する
・1995年(平成7):世界都市博覧会の中止が決定される。また、企業の進出や移転のキャンセルが相次ぎ、13号地は空き地だらけとなったため、発展に暗雲が垂れ込めた。11月1日、ゆりかもめの新橋駅 - 有明駅間が開業する
・1996年(平成8):臨海副都心開発により新たに港区台場が13号地北部に成立する。これに伴い、第三台場・第六台場が港区港南五丁目から港区台場一丁目に変更される
・1997年(平成9):フジテレビの本社が新宿区河田町からFCGビルに移転、同局のテレビドラマ『踊る大捜査線』の舞台になったり、FCGビルが観光地となるなど、お台場の知名度が上がる
・2007年(平成19):首都高速湾岸線の13号地出入口が臨海副都心出入口に改称される
・2007年(平成19):乃村工藝社本社ビルと台場ガーデンシティビルの竣工をもって港区台場の開発が完了する
・2013年(平成25):青海・台場クロスウォークの供用が開始される
・2017年(平成29):続日本100名城(124番)に「品川台場」として選定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
1886年(明治19)医学者で名古屋大学総長だった勝沼精蔵の誕生日詳細
1899年(明治32)台風による別子大水害が起き、別子銅山で死者513人を出し、大量の鉱毒水が流出する詳細
1923年(大正12)「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍の先遣隊が厚木基地に上陸し、横浜に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部を置く詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)において大きな被害が出る詳細
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、東京都の清流復活事業により、玉川上水が21年ぶりに通水され、小平地点より下流部分の清流が復活した日です。
 玉川上水(たまがわじょうすい)は、江戸時代前期から明治時代にかけて、江戸市中へ飲料水を供給していた用水路で、神田上水、千川上水と共に江戸三上水の一つとされています。江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代の1653年 (承応2) に、町人・清右衛門の建議を受けて、同年4月4日に庄右衛門・清右衛門兄弟が、多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工しました。
 2度の失敗を経て、総奉行松平信綱のもとに1654年(承応3年6月20日)に、この区間が竣工し、翌年に四谷大木戸から江戸城虎ノ門前までが完成します。これ以後は、配水路が次々に延長されていって、江戸の南部方面に配水されました。
 多摩川の水を羽村(現在の東京都羽村市)で取水し、拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の東京都新宿区)間の約43kmは、自然流下により導水する開渠で、ここからは、石樋や木管で江戸城・武家屋敷・庶民の居住地等に給水されます。その後、野火止(のびどめ)、青山、三田、千川の各分水が設けられ、飲料水あるいは灌漑用水として利用されました。
 庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられ、その経営を請け負って、玉川両家で世襲されます。しかし、1739年(元文4)両家とも役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となりました。
 明治時代になっても使用され、1898年(明治31)に東京に改良水道が完成した後も、1965年(昭和40)まで淀橋浄水場への導水路として利用され、現在は立川市砂川から東村山市浄水場へ送水されるようになります。これに伴い、小平地点より下流部分は流水がとだえましたが、東京都の施策により、1986年(昭和61)8月27日に清流が復活し、開渠部分の約30.4kmが、2003年(平成15)に国の史跡に指定されました。

〇玉川上水関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1653年 (承応2年4月4日) 庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工する
・1654年(承応3年6月20日) 総奉行松平信綱のもとにに、羽村~四谷大木戸間が竣工する
・1655年(明暦元) 四谷大木戸から江戸城虎ノ門前までが完成する
・1655年(明暦元) 分水の一つ、野火止用水が開削される
・1659年(万治2) 維持管理費用として水上修復料銀の徴収が始まる
・1660年(万治3) 分水の一つ、青山上水が開設される
・1664年(寛文4) 分水の一つ、三田上水が開削される
・1696年(元禄9) 分水の一つ、千川上水が完工する
・1739年(元文4) 玉川両家が共に玉川上水役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となる
・1898年(明治31) 東京に改良水道が完成する
・1901年(明治34) 東京の上水用としては廃止される
・1965年(昭和40) 淀橋浄水場廃止まで、導水路として利用される
・1986年(昭和61)8月27日 東京都の施策により、小平地点より下流部分の清流が復活する
・2003年(平成15) 開渠部分の約30.4kmが国の史跡に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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858年(天安2) 第55代の天皇とされる文徳天皇の命日(新暦10月7日) 詳細
1714年(正徳4) 本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の命日(新暦10月5日) 詳細
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1899年(明治32) 東武鉄道初の路線である北千住駅~久喜駅間が開業する 詳細
1928年(昭和3) フランスのパリにおいて、15ヶ国によって、「不戦条約」が調印される 詳細
1949年(昭和24) GHQによって「第一次税制改革勧告文概要」(シャウプ勧告)が出される 詳細
1969年(昭和44) 山田洋二監督の映画『男はつらいよ』(渥美清主演)第一作が公開される 詳細
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