
「壮絶快絶日清戦争」(そうぜつかいぜつにっしんせんそう)は、明治時代後期の1894年(明治27)8月31日~10月7日に、川上音次郎が東京・浅草座で初演した戦争劇です。1894年(明治27)8月1日に、明治天皇による「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」が発せられて、日清戦争が始まりました。
これは、明治新政府となって、最初の大規模な対外戦争となります。開戦直後の8月はじめに、川上音二郎は日清戦争を題材とした芝居の脚本認可を警視庁に申請し、8月21日に認可を受けました。そこで、川上一座は、8月31日~10月7日に、この劇を浅草座で上演します。実際の戦況とはかけはなれた内容ではありましたが、若者たちが体当たりで演じる大活劇は大評判になりました。
この上演後、音二郎は10月22日に戦地視察に出発し、朝鮮の仁川や平壤、鴨緑川を渡り清国内の九連城にまで足を延ばして、一ヵ月後に帰国します。この時の見聞を取り込んで、「川上音二郎戦地見聞日記」を作り、、同年12月3日~23日まで市村座で上演され、翌年1月には、横浜の港座でも公演し、これらの戦争劇は大評判となりました。
これは、明治新政府となって、最初の大規模な対外戦争となります。開戦直後の8月はじめに、川上音二郎は日清戦争を題材とした芝居の脚本認可を警視庁に申請し、8月21日に認可を受けました。そこで、川上一座は、8月31日~10月7日に、この劇を浅草座で上演します。実際の戦況とはかけはなれた内容ではありましたが、若者たちが体当たりで演じる大活劇は大評判になりました。
この上演後、音二郎は10月22日に戦地視察に出発し、朝鮮の仁川や平壤、鴨緑川を渡り清国内の九連城にまで足を延ばして、一ヵ月後に帰国します。この時の見聞を取り込んで、「川上音二郎戦地見聞日記」を作り、、同年12月3日~23日まで市村座で上演され、翌年1月には、横浜の港座でも公演し、これらの戦争劇は大評判となりました。
〇川上音二郎(かわかみ おとじろう)とは?
明治時代に活躍した新派俳優・興行師です。幕末の1864年2月8日(文久4年1月1日)に、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区)で、郷士及び豪商の父・川上専蔵の子として生まれましたが、本名は音吉と言いました。
1878年(明治11)、14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となります。その後、郷里で玄洋社の結成に参加して、政治運動に投じ、1883年(明治16)頃から「自由童子」と名のって、大坂中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄されました。
自由民権運動への弾圧が続く中、落語家桂文之助に入門し、浮世亭○○の芸名で寄席に出勤、自由民権論を鼓吹する時局風刺の「オッペケペー節」が評判となります。1891年(明治24)に、堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となりました。
1893年(明治26)に渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚します。1896年(明治29)に東京神田に川上座を創設したものの、資金繰りに行き詰って、翌々年には人手に渡りました。
1899年(明治32)には妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集め、2年後に再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業します。1903年(明治36)に正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演しましたが、1907年(明治40)には俳優を引退、以後、興行師に専念しました。
1908年(明治41)には、大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、また、帝国女優養成所も開設します。演劇近代化の先駆者として活躍し、「新派劇の父」とも称されましたが、1911年(明治44)11月11日に、大阪において48歳で亡くなりました。
1878年(明治11)、14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となります。その後、郷里で玄洋社の結成に参加して、政治運動に投じ、1883年(明治16)頃から「自由童子」と名のって、大坂中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄されました。
自由民権運動への弾圧が続く中、落語家桂文之助に入門し、浮世亭○○の芸名で寄席に出勤、自由民権論を鼓吹する時局風刺の「オッペケペー節」が評判となります。1891年(明治24)に、堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となりました。
1893年(明治26)に渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚します。1896年(明治29)に東京神田に川上座を創設したものの、資金繰りに行き詰って、翌々年には人手に渡りました。
1899年(明治32)には妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集め、2年後に再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業します。1903年(明治36)に正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演しましたが、1907年(明治40)には俳優を引退、以後、興行師に専念しました。
1908年(明治41)には、大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、また、帝国女優養成所も開設します。演劇近代化の先駆者として活躍し、「新派劇の父」とも称されましたが、1911年(明治44)11月11日に、大阪において48歳で亡くなりました。
☆オッペケペー節とは?
明治時代中頃に流行した当時の政治、文明開化の世相を風刺する一種の流行歌です。1889年(明治22)に川上音二郎が作詞し、1891年(明治24)2月以降、鉢巻、陣羽織、軍扇といういで立ちで川上音二郎が寄席や自分の書生芝居の幕間に歌ったのが初めとされてきました。
近代国家にふさわしい開明の思想を日常の卑近な例に託して歌に詠み込んだもので、とても人気となって一世を風靡し、その後歌詞は10数種類出来ています。
近代国家にふさわしい開明の思想を日常の卑近な例に託して歌に詠み込んだもので、とても人気となって一世を風靡し、その後歌詞は10数種類出来ています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1874年(明治7) | 日本画家、南画家小室翠雲の誕生日 | 詳細 |
| 1878年(明治11) | 日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日 | 詳細 |
| 1896年(明治29) | 陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す | 詳細 |
| 1908年(明治41) | 物理化学者森野米三の誕生日 | 詳細 |
| 1913年(大正2) | お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日 | 詳細 |
| 1922年(大正11) | 薬理学者・分子生物学者江橋節郎の誕生日 | 詳細 |
| 1949年(昭和24) | キティ台風(昭和24年台風第10号)が、神奈川県小田原市の西に上陸し、大きな被害をもたらす | 詳細 |
| 1970年(昭和45) | 小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日 | 詳細 |



