
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院です。816年(弘仁7年7月8日)に、空海(弘法大師)が43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て草庵を結び、819年(弘仁10年5月3日)に高野山の伽藍建立に着手しました。
889年(寛平元)に伽藍がほぼ完成したものの、平安時代中期には、東寺と真言宗本山の地位を争って敗れ,東寺長者の管轄を受けて勢いが衰えます。しかし、平安時代末期には復興し、白河・鳥羽天皇の崇敬厚く、1132年(長承元)に覚鑁(かくばん)が伝法院を建て隆盛に向かいました。
その後、織田信長に敵対したため迫害をうけましたが、1590年(天正18)には、豊臣秀吉の援助を受けて木食応其(もくじきおうご)が青巌寺を再興し、その左隣に興山寺を建立します。江戸時代には徳川家が帰依し、1869年(明治2)には、この両寺を併合して金剛峯寺と改称されました。
現寺地の東半分が旧青巌寺境内、西半分が旧興山寺境内で、主殿は旧青巌寺本殿。興山寺跡には別殿・奥殿・新奥殿の三棟があり、廊下で主殿とつながっています。文化財としては、1198年(建久9)に行勝上人によって建立されたとされる不動堂が、現存最古の建造物で,国宝に指定され、霊宝館および大宝蔵に収蔵されている寺宝にも、1086年(応徳3)作の絹本着色『仏涅槃図』、平安時代末の絹本着色『善女竜王像』、8体のうち6体が運慶作といわれる木造『八大童子立像』、空海請来といわれる木造『諸尊仏龕』、藤原清衡発願の『紺紙金銀字一切経』、空海真筆の『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』など、数多くの国宝が残されてきました。
また、2004年(平成16)には、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストにも登録されています。
889年(寛平元)に伽藍がほぼ完成したものの、平安時代中期には、東寺と真言宗本山の地位を争って敗れ,東寺長者の管轄を受けて勢いが衰えます。しかし、平安時代末期には復興し、白河・鳥羽天皇の崇敬厚く、1132年(長承元)に覚鑁(かくばん)が伝法院を建て隆盛に向かいました。
その後、織田信長に敵対したため迫害をうけましたが、1590年(天正18)には、豊臣秀吉の援助を受けて木食応其(もくじきおうご)が青巌寺を再興し、その左隣に興山寺を建立します。江戸時代には徳川家が帰依し、1869年(明治2)には、この両寺を併合して金剛峯寺と改称されました。
現寺地の東半分が旧青巌寺境内、西半分が旧興山寺境内で、主殿は旧青巌寺本殿。興山寺跡には別殿・奥殿・新奥殿の三棟があり、廊下で主殿とつながっています。文化財としては、1198年(建久9)に行勝上人によって建立されたとされる不動堂が、現存最古の建造物で,国宝に指定され、霊宝館および大宝蔵に収蔵されている寺宝にも、1086年(応徳3)作の絹本着色『仏涅槃図』、平安時代末の絹本着色『善女竜王像』、8体のうち6体が運慶作といわれる木造『八大童子立像』、空海請来といわれる木造『諸尊仏龕』、藤原清衡発願の『紺紙金銀字一切経』、空海真筆の『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』など、数多くの国宝が残されてきました。
また、2004年(平成16)には、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストにも登録されています。
〇空海[弘法大師](くうかい)とは?
奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。
792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。
<空海[弘法大師]の主要な著作>
・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』
☆空海[弘法大師]関係略年表(日付は旧暦です)
・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月3日) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1868年(慶応4) | 戊辰戦争で奥羽の反官軍25藩による奥羽列藩同盟が成立する(新暦6月22日) | 詳細 |
| 1910年(明治43) | 青森県青森市で、青森大火が起き、死者26名、負傷者160名、焼失戸数5,200戸以上を出す | 詳細 |
| 1928年(昭和3) | 山東出兵をめぐり、山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突(済南事件)が起きる | 詳細 |
| 1946年(昭和21) | 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷する | 詳細 |
| GHQが「帝国議会議員の公職よりの罷免及び除去に関する覚書」で鳩山一郎の公職追放を指令 | 詳細 | |
| 1961年(昭和36) | 民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者柳宗悦の命日 | 詳細 |
| 1962年(昭和37) | 国鉄で三河島事故が起こり、列車三重衝突により、死者160人・負傷者296人を出す | 詳細 |