ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2025年04月

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、宮沢賢治著の詩集『春と修羅』(関根書店)が刊行された日です。
 『春と修羅』(はるとしゅら)は、宮沢賢治唯一の生前に自薦した口語詩集で、大正時代の1924年(大正13)4月20日に、関根書店より刊行されました。詩8章64編が、発想または第一稿の日付順に収められていて、方言や農民の日常会話を取り入れ、豊富な語彙でその独特の宇宙観、宗教観にもとづく詩的世界が展開されています。
 刊行時から、一部の詩人に深い衝撃を与えた近代詩の記念碑的一冊とされますが、作者の死後に評価が高まった作品でした。尚、没後『春と修羅』第2、第3、第4と、さらに三集が編まれ,それら全体をこの名で呼ぶこともあります。
 以下に、『春と修羅』序を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『春と修羅』序

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

     大正十三年一月廿日

☆宮沢賢治(みやざわけんじ)とは?

 大正時代から昭和時代前期に活躍した詩人・児童文学者です。明治時代後期の1896年(明治29)8月27日に、岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)の質古着商の父宮澤政次郎と母イチの長男として生まれました。1903年(明治36)花巻川口尋常小学校に入学、1909年(明治42)には、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に進み、寄宿舎「自彊寮」に入寮します。
 在学中は、鉱物採集や星座に熱中し、自然に親しみ、短歌を作るようになりました。卒業後は、1915年(大正4)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)へ首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮します。
 在学中は、友人らと同人誌『アザリア』を発行し、『校友会会報』へも短歌や短編を寄稿しました。卒業後さらに研究生として稗貫郡土性調査に従事し、この頃から童話を書き始めるようになります。
 1920年(大正9)に、田中智学の国柱会に入会、上京して布教活動等に加わりながら、童話を書き続けました。しかし、家の事情で帰郷して、稗貫農学校(後の花巻農学校)教諭となり、以後4年余り教壇に立つことになります。
 この間、1924年(大正13)に詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を自費出版しました。1926年(大正15)に農学校を退職し、開墾自炊生活にはいり、羅須地人協会を設立して農民指導に献身します。
 しかし、病気などのために挫折し、病状回復後、東北砕石工場技師となって石灰の宣伝販売に携わりましたが、無理がたたり、1933年(昭和8)9月21日に、37歳の若さで病死しました。代表作に童話では『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』、詩では『永訣の朝』、『雨ニモマケズ』などがあり、1982年(昭和57)、花巻市に「宮沢賢治記念館」が開設されたのです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1926年(大正15)「青年訓練所令」が公布され、在郷軍人や青年団幹部を職員とした青年訓練所が各地に設置される詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細
1974年(昭和49)「日中航空協定」が調印(効力発生は同年5月24日)される詳細
1978年(昭和53)小説家橋本英吉の命日詳細
2005年(平成17)小説家丹羽文雄の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月)に、 明治新政府が初めて、「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」を布告して、阿片の売買・喫煙を禁止した日ですが、新暦では6月9日となります。
 「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」(あへんえんをきんじふはんけんこうさつにけいじせしむ)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月19日)に、 明治新政府が初めてだした、阿片の売買・喫煙を禁止した布告です。長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸により、阿片の煙膏を持ち込んで問題となっていました。
 その中で、この布告では、「阿片煙草ハ、人ノ精気ヲ耗シ、命数ヲ縮メ候品ニ付」と初めて人害であることが明記され、「売買之儀ハ勿論、一己ニ呑用ヒ候儀、決而不相成候」と使用や売買を含めて禁止し、「若御制禁相犯シ、他ヨリ顕ルヽニ於テハ、可被処厳科候間」と、厳罰に処すものとしています。その後、新政府は法整備を進め、1870年(明治3年8月9日)には、「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設けて、重罪としました。
 以下に、この「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」を記した、慶応4年の『太政官日誌』の「阿片煙草禁制ノ事」と「販売鴉片烟律」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『太政官日誌慶応4年

【阿片煙草禁制ノ事】

御布告写一通

阿片煙草ハ、人ノ精気ヲ耗シ、命数ヲ縮メ候品ニ付、兼而御条約面ニ有之候通、外国人持渡候事、厳禁之処、近頃窃ニ舶載之聞ヘ有之万一世上ニ流布致シ候テハ、生民之大害ニ候間、売買之儀ハ勿論、一己ニ呑用ヒ候儀、決而不相成候、若御制禁相犯シ、他ヨリ顕ルヽニ於テハ、可被処厳科候間、心得違無之様末々ニ至ル迄、堅ク可相守者也

右御達シ書、府藩県一同高札ニ掲示可致様被仰出候事

閏四月

〇「販売鴉片烟律」 1870年(明治3年8月9日)布告

一、凡ソ鴉片烟ヲ販売シテ利ヲ謀ル者首ハ斬、従ハ三等流、自首スル者ハ一等ヲ減ス

一、人ヲ引誘シ吸食セシムル者ハ絞、従及ヒ情ヲ知リ房屋ヲ給スル者ハ三等流、引誘セラレテ吸食スル者ハ徒一年

一、収買シテ未タ售賈セサル者首ハ三等流、従は徒三年、買食スル者徒二年半、自首スル者は並ニ罪ヲ免シ、鴉片烟ハ官ニ没収ス

一、官吏知テ挙セザル者ハ、併ニ拠同罪、財ヲ受クル者ハ出事

一、薬用関之ニ付、外国ヨリ取寄度節ハ、各地方官ヨリ開港場ヘ申立候ハヽ、別段ノ注文ヲ以テ、取寄候様可致事

<現代語訳>

一、およそ、営利目的で生成アヘンの販売を行う主犯者は斬首である。それに基づき、販売にかかわった者はその度合いにより近流、中流、遠流のいづれかの流刑、自首したものはその状況等により一段階低い罪にする。

一、人を誘いアヘンを吸飲させた主犯者は絞首刑である。客引きなどで主犯者に従った者、事情を知り吸飲の場所を提供した者などは三種の流刑が科せられ、誘われて客となりアヘンを吸飲した者も、1年の徒刑(懲役刑)が科せられる。

一、購入した生成アヘンを販売せず所持をしている主犯者は三種の流刑。それに従っている者は3年の懲役刑。生成アヘンを購入して吸飲するもの2年半の懲役刑。自首する者は無罪。そして所持している生成アヘンは、すべて没収する。

一、役人が知っていて、逮捕しない者は、その罪は同罪とし、財を受け取ってていた者は差し出すこと。

一、薬用に関するものについては、外国より取り寄せるたびごとに、各地方官より開港場ヘ申し立てるならば、各別の注文として、取り寄せるべきこととする。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が、第1次測量(蝦夷地測量)のために、江戸を出発(閏月)する(新暦6月11日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
1928年(昭和3)田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する詳細
2007年(平成19)漆芸家高橋節郎の命日詳細

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などが初空襲(ドゥーリットル空襲)された日です。
 ドゥーリットル空襲(どぅーりっとるくうしゅう)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)4月18日に、アメリカ軍が日本本土に対して、初めて行った空襲でした。J.ドゥーリトル中佐の指揮の下に、アメリカの航空母艦「ホーネット」から発進した、B-25爆撃機16機が、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などを爆撃し、中国大陸などに不時着します。
 これによって、死者87人、重傷者151人、軽傷者311人以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上の被害が出ました。日本の海軍上層部への衝撃は大きく、その後の戦局に大きな影響を与え、同年6月のミッドウェー作戦を行う契機となったとされます。

〇太平洋戦争下の主要な空襲一覧

 <1942年(昭和17)>
・4月18日 東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などが初空襲される(ドゥーリットル空襲)

 <1944年(昭和19)>
・11月24日 B-29による初めての東京空襲が行われる

<1945年(昭和20)>
・1月19日 阪神地方へ初の本格的空襲が行われる
・3月10日 東京大空襲か行われる(死傷者10万人以上、焼失家屋27万余戸、100余万人罹災)
・3月12日 名古屋大空襲で中心街が消失する(家屋25,734棟棟被災、105,093人罹災、死者519人、負傷者負傷者734人)
・3月13~14日 大阪へ初の大空襲が行われる
・3月17日 神戸大空襲が行われ神戸市西部が消失する(約65,000棟が全半焼、死者2,598人)
・3月19日 名古屋大空襲で名古屋駅が炎上する(家屋39,893棟被災、151,332人罹災、死者826人、負傷者2,728人)
・3月29日 北九州が空襲される
・4月4日 川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が空襲を受ける(罹災戸数5,873戸、死者398人)
・4月13日 東京西部地域空襲(城北大空襲)が行われる(罹災戸数約17万戸、死者2,459人)
・4月15日 東京・横浜・川崎の空襲が行われる(罹災住宅5万2655戸、死者972人)
・5月14日 名古屋空襲で名古屋城が焼失する(家屋21,905棟被災、66,585人罹災、死者338人、負傷者783人)
・5月24日 東京へ250機来襲し、皇居が炎上する
・5月25~26日 東京空襲(山手地域)が行われる
・5月29日 京浜へ600機来襲し、川崎、横浜が被災(横浜大空襲)する(死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人)
・6月1日 大阪、尼崎等へ400機来襲する
・6月5日 兵庫県神戸市へ350機来襲する(西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃される)
・6月7日 大阪周辺へ250機来襲する
・6月29日 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)
・7月9日 和歌山大空襲で和歌山城が消失する(焼失家屋31,137戸、被災者113,548人、死者・行方不明者1,424人)
・7月14日 青函連絡船の翔鳳丸など9隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する
・8月5日 B-29爆撃機92機が前橋市・高崎市を空襲し、死傷者1,323人が出る
・8月6日 B-29が広島に原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われる
・8月7日 愛知県の豊川海軍工廠が爆撃され女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人の死者を出す
・8月8日 福山大空襲で福山城が消失する(焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人、死者354人)
・8月9日 B-29が長崎にも原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1849年(嘉永2)浮世絵師葛飾北斎の命日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)日清両国間で「天津条約」(李・伊藤条約)が締結される詳細
「専売特許条例」が公布(施行は同年7月1日)される(発明の日)詳細
1900年(明治33)福井「橋南大火」で、死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒の被害を出す詳細
1946年(昭和21)国際司法裁判所(略称:ICJ)が開所する詳細
1964年(昭和39)彫刻家朝倉文夫の命日詳細
1970年(昭和45)刑法学者牧野英一の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、学習院が宮内省所轄の官立学校となった日です。
 学習院(がくしゅういん)は、東京において、皇族・華族のの子弟の教育機関として設立された学校でした。前身は、1847年(弘化4)に、京都の宮廷内に創立された公家の学校である学習所で、1849年(嘉永2)に「学習院」の勅額が孝明天皇より下賜され、経書を主とし国書も講じられています。
 文久年間には尊王攘夷派(尊王攘夷運動)の集会所となっていましたが、1867年(慶応3)に一端閉鎖されました。1868年(明治元)には、京都において、復興され、大学寮代、漢学所と名称変更されましたが、1870年(明治3)に再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となっています。
 その後、「華族学校学則」が制定され、1877年(明治10)10月17日に、私立の華族学校が東京・神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号が与えられました。開設当時は小学、女子小学、中学を置き、入学資格は原則として華族の男女でしたが、当初から士族・平民も一部入学しています。
 1884年(明治17)4月17日には、華族会館経営の私立学校から、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置されました。1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現在の初等科所在地)に華族女学校を設置します。
 1888年(明治21)に学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転、1889年(明治22)に華族女学校が麹町区永田町に移転、翌年には、学習院が華族女学校跡に移転しました。1893年(明治26)に大学科が設置されたものの、1905年(明治38)に、前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科が閉鎖されます。
 1906年(明治39)に華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称、1908年(明治41)には、東京府下高田村(現在の目白)に移転(初等学科と女学部は旧位置)しました。1918年(大正7)に女学部が青山に移転して、女子学習院となり、1919年(大正8)には、学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改めます。
 1922年(大正11)に摂政宮裕仁親王のもと「学習院学制」、「女子学習院学制」が敷かれ官営化されました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転、翌年には、学習院学制・女子学習院学制が廃止され、男女両院を合併し、財団法人として私立学校となって、宮内省から独立し、1949年(昭和24)に旧高等科を母体に、新制大学を発足させ、翌年には、女子の短期大学部が設置されます。
 現在では、幼稚園から初等科、中等科、高等科までの一貫した教育体制を持ち、大学は法学、経済学、文学、理学の4学部からなり、法学、政治学、経済学、経営学、人文科学、自然科学、法務の7研究科を置く大学院が設置されました。

〇学習院関係略年表

・1847年(弘化4) 京都御所日御門前に学習所(京都学習院)が開講する
・1849年(嘉永2) 「学習院」の勅額が孝明天皇より下賜される
・1867年(慶応3) 学習院が閉鎖される 
・1868年(明治元) 京都に学習院が復興され、大学寮代、漢学所と名称変更される
・1870年(明治3) 再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となる
・1877年(明治10)10月17日 華族学校学則を制定し、私立の華族学校が神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号を与える
・1884年(明治17)4月17日 それまでは華族会館経営の私立学校であったのが、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置される
・1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現初等科所在地)に華族女学校を設置する
・1888年(明治21) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する
・1889年(明治22) 華族女学校が麹町区永田町に移転する
・1890年(明治23) 学習院が四谷区尾張町の華族女学校跡に移転する
・1893年(明治26) 大学科を設置する
・1905年(明治38) 前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科を閉鎖する
・1906年(明治39) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する
・1908年(明治41) 東京府下高田村(現・目白)に移転する(初等学科と女学部は旧位置)
・1912年(明治45) 初等科における英語教育を廃止。1922年(大正11年)に復活するも、1938年(昭和13年)に再度廃止する
・1918年(大正7) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる
・1919年(大正8) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める
・1922年(大正11) 摂政宮裕仁親王のもと学習院学制、女子学習院学制が敷かれ官営化される
・1928年(昭和3) 学習院開校創立五十年祝典が挙行され、『開校五十年記念学習院史』が発行される
・1935年(昭和10) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する
・1945年(昭和20) 宮相から戦後の教育方針について諮問を受けた学習院評議会は、学習院を特殊学校として存続させるとともに一般国民の子弟にも開放することを決定する
・1946年(昭和21) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転する
・1947年(昭和22) 学習院学制・女子学習院学制が廃止。4月、男女両院を合併し、財団法人として宮内省から独立する
・1949年(昭和24) 旧高等科を母体に、新制大学が発足する
・1950年(昭和25) 女子の短期大学部が設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布される(新暦5月25日)詳細
1616年(元和2)武将・江戸幕府初代将軍徳川家康の命日(新暦6月1日)詳細
1895年(明治28)日清戦争講和の為の「下関条約」(日清講和条約)が調印される詳細
桓武天皇奠都1100年記念事業の一環として、京都において、大日本武徳会が発足する詳細
1918年(大正7)「軍需工業動員法」が公布される詳細
1946年(昭和21)「日本国憲法」の原案となった、政府の「憲法改正草案」が発表される詳細
1952年(昭和27)鳥取大火(死者3名、負傷者3,966名、焼失5,228戸)が起きる詳細
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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、官設鉄道・静岡駅~浜松駅間(現在の東海道本線)が開業し、長浜駅~大津駅間で琵琶湖航路を利用することで、新橋駅~神戸駅間が繋がった日です。
 東海道本線(とうかいどうほんせん)は、東京駅を起点とし神戸駅に至る589.5kmの鉄道の営業線(現在はJRが運行)ですが、5本の支線(計131.2km)があり、全営業キロは720.7kmとなります。日本の太平洋岸を通り、名古屋を経由して京浜と京阪神を結ぶ大動脈で、日本の最重要幹線鉄道とされました。
 日本最初の鉄道区間として、明治時代前期の1872年10月14日(明治5年9月12日)に、新橋駅~横浜駅 (現在の桜木町駅)間が開通します。1874年(明治7)以降神戸から路線を東進させていき、1889年(明治22)4月16日に長浜駅~大津駅間で琵琶湖航路を利用することで、関東から関西までの輸送路が一応繋がりました。
 さらに、1992年(明治25)7月1日に新橋駅~神戸駅間が陸路によって全通しましたが、現在の御殿場線経由によるものです。需要の増加に対応するため、1913年(大正2)には、全線の複線化が完成し、翌年の東京駅設置に伴い、東京駅が起点となりました。
 1934年(昭和9)の丹那トンネル(7,804m)完成により、国府津~御殿場~沼津間は御殿場線となります。また、電化については、1914年(大正3)の東京駅~横浜駅間の完成から始まり、1956年(昭和31)11月19日に全線の直流電化が完成しました。
 1964年(昭和39)10月1日には、並行して、東海道新幹線が開業します。1987年(昭和62)4月1日に行われた国鉄分割民営化によって、旅客3社(JR東日本、JR東海、JR西日本)と貨物1社(JR貨物)に経営が分かれました。

〇東海道本線関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

<1872年(明治5)>
・5月7日 品川駅~横浜駅間が旅客線として仮開業する
・6月5日 川崎駅・神奈川駅が開業する
・9月12日 新橋駅~品川駅間が延伸開業、新橋駅~横浜駅間が正式開業し、鉄道開業式典が挙行される

<1873年(明治6)>
・9月15日 新橋駅~横浜駅間で貨物営業を開始する

<1874年(明治7)>
・5月11日 大阪駅~神戸駅間が旅客線として開業する
・12月1日 大阪駅~神戸駅間で貨物営業を開始する

<1875年(明治8)>
・5月1日 支線(安治川支線)大阪駅~安治川駅間が開業する
・7月26日 向日町駅~大阪駅間が旅客線として延伸開業する
・9月5日 向日町駅~大宮通仮停車場間が延伸開業する
・12月1日 新橋駅~品川駅間が複線化される

<1877年(明治10)>
・2月6日 京都駅~大宮通仮停車場間が延伸開業する
・11月20日 京都駅~大阪駅間で貨物営業を開始する
・12月1日 安治川支線 大阪駅~安治川駅間が廃止される

<1879年(明治12)>
・3月1日 大森駅~川崎駅間が複線化する
・8月18日 大谷駅~京都駅間が延伸開業する
・11月1日 川崎駅~鶴見駅間が複線化する

<1880年(明治13)>
・7月15日 逢坂山トンネル開通により、大津駅~大谷駅間が延伸開業する
・11月14日 品川駅~大森駅間が複線化する

<1881年(明治14)>
・5月7日 鶴見駅~横浜駅間が複線化する

<1882年(明治15)>
・5月1日 太湖汽船が琵琶湖上の長浜駅~大津駅間に鉄道連絡船を就航する

<1883年(明治16)>
・5月1日 関ヶ原駅~長浜駅間が開業する

<1884年(明治17)>
・5月25日 大垣駅~関ヶ原駅間が延伸開業する

<1886年(明治19)>
・3月1日 武豊駅~熱田駅間が開業する
・4月1日 熱田駅~清洲駅間が延伸開業する
・5月1日 清洲駅~一ノ宮駅間が延伸開業する
・6月1日 一ノ宮駅~木曽川駅間が延伸開業する

<1887年(明治20)>
・1月21日 大垣駅~加納駅間が延伸開業する
・4月25日 木曽川駅~加納駅間が延伸開業し、武豊駅~長浜駅間が全通する
・7月11日 横浜駅(初代)~国府津駅間が延伸開業する

<1888年(明治21)>
・9月1日 浜松駅~大府駅間が延伸開業し、大府駅~武豊駅間が支線となる

<1889年(明治22)>
・2月1日 国府津駅~静岡駅間が延伸開業する
・4月16日 静岡駅~浜松駅間が延伸開業、長浜駅~大津駅間琵琶湖の水路経由で、新橋駅~神戸駅間が繋がる
・7月1日 分岐点(のちの深谷駅)~馬場駅間が延伸開業し、新橋駅~神戸駅間が全通、太湖汽船の長浜駅~大津駅間航路は廃止される

<1891年(明治24)>
・1月12日 深谷駅~長浜駅間が貨物支線として運行再開、御殿場駅~沼津駅間が複線化する
・3月1日 小山駅~御殿場駅間が複線化する

<1894年(明治27)>
・4月16日 西ノ宮駅~三ノ宮駅間が複線化する

<1895年(明治28)>
・4月1日 線路名称が東海道線となる

<1896年(明治29)>
・3月11日 大阪駅~西ノ宮駅間が複線化する
・11月 貨物支線 深谷駅~長浜駅間が休止する

<1897年(明治30)>
・3月5日 大谷駅~京都駅間が複線化する

<1898年(明治31)>
・4月15日 馬場駅~大谷駅間複線化され、馬場駅~京都駅間の複線化が完成する
・7月15日 蒲原駅~興津駅間が複線化する
・8月1日 横浜駅~大船駅間が複線化する
・10月1日 京都駅~向日町駅間が複線化する
・12月15日 大船駅~茅ケ崎駅間が複線化する
・12月25日 岩淵駅~蒲原駅間、興津駅~静岡駅間が複線化する

<1899年(明治32)>
・2月3日 吹田駅~大阪駅間が複線化する
・2月24日 沼津駅~鈴川駅間が複線化する
・7月13日 熱田駅~名古屋駅間が複線化する
・8月5日 平塚駅~国府津駅間が複線化する

<1900年(明治33)>
・4月29日 茅ケ崎駅~平塚駅間が複線化する
・6月6日 草津駅~馬場駅間が複線化する
・11月5日 鈴川駅~富士川合図所間が複線化する

<1901年(明治34)>
・2月5日 国府津駅~山北駅間が複線化する
・3月15日 大井聯絡所から大崎駅間で貨物列車の運行を開始する
・6月11日 山北駅~小山駅間が複線化する
・8月23日 大垣駅~垂井駅間が複線化する
・11月27日 八幡駅~野州駅間が複線化する
・11月28日 能登川駅~八幡駅間が複線化する
・12月1日 河瀬駅~能登川駅間が複線化する
・12月5日 米原駅~河瀬駅間が複線化する
・12月28日 関ヶ原駅~長岡駅間が複線化する

<1902年(明治35)>
・2月10日 垂井駅~関ヶ原駅間が複線化する
・6月16日 野洲駅~草津駅間が複線化する
・9月1日 蒲郡駅~岡崎駅間が複線化。
・11月1日 長岡駅~米原駅間が複線化する
・12月21日 静岡駅~石部信号所間が複線化する

<1903年(明治36)>
・7月6日 鷲津駅~豊橋駅間が複線化する
・12月7日 金谷駅~堀ノ内駅間が複線化する
・12月20日 岐阜駅~長良信号所間が複線化する

<1904年(明治37)>
・2月8日 浜松駅~舞坂駅間が複線化する
・8月5日 舞坂駅~鷲津駅間が複線化する

<1905年(明治38)>
・2月20日 天竜川駅~浜松駅間が複線化する
・4月5日 堀ノ内駅~掛川駅間が複線化する

<1907年(明治40)>
・3月1日 清洲信号所から木曽川駅間が複線化する
・3月27日 名古屋駅~枇杷島駅間が複線化する
・4月8日 枇杷島駅~清洲信号所間が複線化する
・4月20日 焼津駅~島田駅間が複線化する
・6月13日 大府駅~大高駅間が複線化する
・9月26日 大高駅~熱田駅間が複線化する
・12月20日 掛川駅~袋井駅間が複線化する

<1908年(明治41)>
・2月2日 刈谷駅~大府駅間が複線化する
・3月28日 袋井駅~中泉駅間、安城駅~刈谷駅間が複線化する
・4月29日 穂積駅~大垣駅間が複線化する
・6月2日 豊橋駅~御油駅間が複線化する
・6月29日 御油駅~蒲郡駅間が複線化する
・7月29日 岡崎駅~安城駅間が複線化する
・11月5日 中泉駅~天竜橋信号所間が複線化する

<1909年(明治42)>
・6月15日 木曽橋信号所から岐阜駅間、長良信号所から穂積駅間が複線化する
・10月12日 国有鉄道線路名称制定で、新橋駅~神戸駅間を東海道本線とする
・12月16日 浜松町駅~烏森駅間の電車線が開業、浜松町駅~品川駅間が複々線化する

<1910年(明治43)>
・3月6日 富士川信号所から岩淵駅間が複線化する
・9月15日 有楽町駅~呉服橋駅間の電車線が延伸開業、呉服橋駅(東京駅の仮駅)が開業する
・11月1日 磯浜仮信号所から焼津駅間が複線化する

<1911年(明治44)>
・3月10日 用宗駅~磯浜仮信号所間が複線化する

<1912年(明治45)>
・7月27日 島田駅~金谷駅間が複線化する

<1913年(大正2)>
・8月1日 天竜川橋梁が複線化され、全線の複線化が完成する

<1914年(大正3)>
・12月20日 東京駅が正式に開業し、東海道本線の起点となる

<1918年(大正7)>
・4月1日:丹那トンネルの工事が開始される

<1919年(大正8)>
・8月1日 支線(美濃赤坂線)大垣駅~荒尾聯絡所から美濃赤坂駅間が開業する

<1923年(大正12)>
・9月1日 関東大震災が発生、横浜駅舎焼失、根府川駅で土砂に押されて列車が転落するなど大被害を受け、東京駅~御殿場駅間等が不通となる

<1925年(大正14)>
・12月13日 横浜駅~国府津駅間が電化される

<1934年(昭和9)>
・12月1日 丹那トンネルが完成し、熱海駅~沼津駅間が電化複線で開業、国府津駅~御殿場駅~沼津駅間は御殿場線として分離され、本線は丹那トンネル経由となる

<1949年(昭和24)>
・2月1日 沼津駅~静岡駅間が電化する
・5月20日 静岡駅~浜松駅間が電化する

<1953年(昭和28)>
・7月21日 浜松駅~名古屋駅間が電化する
・11月11日 名古屋駅~稲沢駅間が電化する

<1955年(昭和30)>
・7月20日 稲沢駅~垂井駅~米原駅間、大垣駅~新垂井駅~関ヶ原駅間が電化する

<1956年(昭和31)>
・11月19日 米原駅~京都駅間が電化され、東京駅~神戸駅間の電化が完成する

<1964年(昭和39)>
・10月1日 東海道本線の輸送増強としての別線として建設された東海道新幹線が開業する

<1987年(昭和62)>
・4月1日 国鉄分割民営化で、東京駅~熱海駅間など計176.2kmを東日本旅客鉄道が、熱海駅~米原駅間など計372.7kmを東海旅客鉄道が、米原駅~神戸駅間など計166.1kmを西日本旅客鉄道が、貨物支線3線区計18.3kmを日本貨物鉄道が継承する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1937年(唱和12)「朝日新聞」で永井荷風著『墨東綺譚』の連載が開始される詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
2020年(平成32)物理化学者長倉三郎の命日詳細
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