ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2025年03月

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、松竹少女歌劇団が解散し、松竹芸能本部女子挺身隊を結成した日です。
 女子挺身隊(じょしていしんたい)は、太平洋戦争下で、日本政府が軍需工場の労働力不足を補うために創設した女子勤労動員組織でした。1943年(昭和18)9月に、国内態勢強化方策が閣議決定されたのを受け、まず14~25歳の未婚・無職・不在学の女子を居住地で女子挺身隊に組織することになります。翌年3月から強制的になり、6月からは12歳にまで引き下げられました。その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたのが「女子挺身隊勤労令」で、「学徒勤労令」と同じ日の公布・施行でした。同令により、1年間の勤労動員が義務づけられ、違反者には「国家総動員法」により、1年以下の懲役または1,000円以下の罰金が科せられるようになって、14歳から40歳までの女性が軍需工場などの戦争遂行体制に動員されたのです。しかし、戦局が悪化したため本土決戦に備え、1945年(昭和20年)3月6日に公布・施行された「国民勤労動員令」に、労務関係の他の4勅令(国民徴用令、労務調整令、学校卒業者使用制限令、国民勤労報国協力令)と共に、一本化されて廃止されました。

〇松竹少女歌劇団(しょうちくしょうじょかげきだん)とは?

 松竹によって創設された少女歌劇団(通称:SKD)です。大正時代の1922年(大正11)に、宝塚歌劇団に対抗して、大阪の松竹分室に「松竹楽劇部生徒養成所」が開設されたのを前身とし、1928年(昭和3)には、東京の浅草松竹座にも楽劇部が生まれました。
 その後、「東京おどり」の成功と男役の水の江滝子(愛称:ターキー)の断髪姿で急速に人気を高めます。1931年(昭和6)に松竹少女歌劇部(SSK)と改称し、1933年(昭和8)には、楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起き、その解決を機に松竹少女歌劇団(SSKD)となりました。
 1937年(昭和12)に、浅草芝崎町に東洋一の規模を誇る国際劇場が竣工、ここを本拠に隆盛を誇こったものの、太平洋戦争下の1944年(昭和19)3月31日に、解散され、松竹芸能本部女子挺身隊がを結成されます。戦後、1946年(昭和21)の復活公演を機に、「少女」の2字をやめて松竹歌劇団(SKD)と改められました。
 1982年(昭和57)の国際劇場が廃館からは、各地を巡演しましたが、1990年2月25日に、東京厚生年金会館において最後の「東京踊り」が上演され、これをもってレビュー劇団としての歴史に終止符を打ちます。1992年3月10日、ミュージカル転向後の初公演「賢い女の愚かな選択」を池袋サンシャイン劇場で上演後、定期的に公演を行ったものの、1996年(平成8)をもって、解散することになりました。

☆松竹少女歌劇団(松竹歌劇団)関係略年表

・1922年(大正11) 大阪の松竹分室に「松竹楽劇部生徒養成所」が開設され、中之島公会堂で第1回試演会を行なう
・1923年(大正12) 「松竹楽劇部生徒養成所」が大阪松竹座の専属となる
・1926年(大正15) 上演した「春のおどり」の好評が発展の動機になる
・1928年(昭和3) 東京の浅草松竹座にも楽劇部が生まれる
・1930年(昭和5) 「東京おどり」の成功と男役の水の江滝子(愛称ターキー)の断髪姿で急速に人気を高める
・1931年(昭和6) 松竹少女歌劇部(SSK)と改称する
・1933年(昭和8) 楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起き、その解決を機に松竹少女歌劇団(SSKD)とする
・1937年(昭和12) 浅草芝崎町に東洋一の規模を誇る国際劇場が竣工、ここを本拠に隆盛を誇こる
・1944年(昭和19)3月31日 解散する
・1946年(昭和21) 「松竹歌劇団」として再出発する
・1982年(昭和57) 国際劇場が廃館となり、各地を巡演するようになる
・1990年(平成2)2月25日 東京厚生年金会館において最後の『東京踊り』が上演され、これをもってレビュー劇団としての歴史に終止符を打つ
・1992年(平成4) ミュージカル転向後の初公演「賢い女の愚かな選択」を池袋サンシャイン劇場で上演後、定期的に公演を行なうようになる
・1996年(平成8) 解散することになる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)政府が全国17の私鉄を買収することを定めた「鉄道国有法」を公布する詳細
物理学者朝永振一郎の誕生日詳細
1939年(昭和14) 「国家総動員法」第6条に基づいて、「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)が公布される詳細
「国家総動員法」第6条に基づいて、「従業者雇入制限令」(昭和14年勅令第126号)が公布される詳細
「国家総動員法」第6条に基づいて、「工場就業時間制限令」(昭和14年勅令第127号)が公布される詳細
1947年(昭和22)旧「教育基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)日本国有鉄道(国鉄)が115年の歴史に幕を下ろす(翌日から分割・民営化)詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、「翼賛政治会」を解散し、「大日本政治会」が結成された日です。
 大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)3月30日に、小磯国昭内閣のもとで、翼賛政治会を解散して、新たに組織された政治結社です。本土決戦に備えて、国民糾合・国体護持・大東亜建設をうたい、総裁に南次郎(陸軍大将)、幹事長に松村謙三、総務会長に金光庸夫が就任しました。
 その結果、衆議院の所属議員は353名に上ったものの、大日本翼賛壮年団などの反発を招き、民意を下からより一層結集するという目的は達成することができず、見るべき活動をしないまま敗戦を迎え、9月7日に代議士会で解散が決議され、 9月13日に解散しています。解散後、所属議員の多くは日本進歩党の結党に参加しました。

〇翼賛政治会(よくさんせいじかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)5月20日に、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社です。1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。
 東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施します。それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。
 しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送します。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任しました。
 綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げます。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになりました。
 しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥ります。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至りました。
 その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1212年(建暦2)鴨長明が『方丈記』を書き上げる(新暦4月22日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1939年(昭和14)文部省は「大学教練振作ニ関スル件」を発して、大学での学校教練が必修化する詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、奈良時代の730年(天平2)に、奈良・薬師寺の三重塔(東塔)が建立されたとされる日ですが、新暦では4月20日となります。
 薬師寺(やくしじ)は、飛鳥時代の680年(天武天皇9)に天武天皇が、皇后の病気平癒を祈念して発願し、698年(文武天皇2)に藤原京に創建されたものです。しかし、710年(和銅3)の平城京遷都に伴い、718年(養老2)に現在地(奈良県奈良市西ノ京町)に移転されました。
 南都七大寺の一つであり、興福寺と共に法相宗の大本山でもあります。たびたびの火災などで諸堂を失いましたが、東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、いずれも国宝に指定されています。境内にある薬師三尊像、聖観音菩薩立像、吉祥天画像、仏足石および仏足石歌碑も国宝になっていて、白鳳・天平文化を代表するものです。
 1976年(昭和51)に金堂、1980年(昭和55)に西塔、1984年(昭和59)に中門、2003年(平成15)に大講堂が再建され、薬師寺式伽藍配置がよみがえりました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇薬師寺関係略年表

・680年(天武天皇9) 天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京の地に造営が開始される
・688年(持統天皇2) 無遮大会(かぎりなきおがみ)という行事が行われる
・698年(文武天皇2) 寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせる
・718年(養老2) 平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転する
・730年(天平2) 東塔(国宝)が完成する
・973年(天禄4) 火災によって金堂、東塔、西塔を残し、講堂、僧坊、南大門など多くの建物が焼失する
・1285年(弘安8) 東院堂(国宝)が再建される
・1528年(享禄元) 興福寺の衆徒・筒井順興による兵火で、東塔や東院堂を残し全山焼失する
・1600年(慶長5) 金堂が郡山城主の増田長盛によって再建される
・1852年(嘉永5) 大講堂が再建される
・1968年(昭和43) 百万巻お写経勧進による白鳳伽藍復興事業が開始される
・1976年(昭和51) それまでの建物が移転され、金堂が再建される
・1981年(昭和56) 西塔が再建される
・1984年(昭和59) 中門が再建される
・1995年(平成7) 東西回廊の一部が再建される
・1998年(平成10) 「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録される
・2003年(平成15) それまでの建物が解体され、大講堂が再建される
・2017年(平成29) 食堂(じきどう)が再建される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1909年〈明治42〉文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の誕生日詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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 今日は、平安時代中期の1052年(永承7)に、藤原頼通が宇治の別荘を平等院と命名した日ですが、新暦では4月29日となります。
 宇治平等院(うじびょうどういん)は、京都府宇治市宇治蓮華にある天台宗・浄土宗系の単立寺院で、山号は朝日山とされてきました。藤原道長の別荘であったものを1052年(永承7)に、その子頼通が寺に改め、翌年に阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立したもので、本尊は、定朝作の丈六の阿弥陀如来坐像(国宝)です。
 平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。とりわけ、中心的な建造物である鳳凰堂(国宝)は、平安時代後期を代表する現存建築物で、堂内の木造阿弥陀如来坐像、木造雲中供養菩薩像、鳳凰堂中堂壁扉画と浄土式庭園と共に、西方極楽浄土と阿弥陀如来の世界を再現しているものと言われ、当時の宗教観を知る上にも重要なところです。
 また、鳳凰堂を中心にして周囲に池を巡らせた庭園は国史跡・国名勝に指定されてきました。

〇宇治平等院の文化財一覧

<国宝>
・平等院鳳凰堂 4棟(中堂 1棟、両翼廊 2棟、尾廊 1棟)
・木造阿弥陀如来坐像
・木造雲中供養菩薩像 52躯
・鳳凰堂中堂壁扉画(板絵著色) 14面 附:九品来迎図 扉画(上品上生)2面
・木造天蓋 1具
・鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾) 1対
・梵鐘

<国の重要文化財>
・観音堂
・木造十一面観音立像
・養林庵書院 - 塔頭浄土院所有

<国の史跡・名勝>
・平等院庭園 - 浄土式庭園

<京都府指定有形文化財>
・平等院修造勧進状 1巻 - 塔頭浄土院所有
・平等院旧起 1巻 - 塔頭浄土院所有

<京都府指定名勝>
・養林庵書院庭園 - 塔頭浄土院所有

<宇治市指定有形文化財>
・木造地蔵菩薩立像
・木造不動明王立像及二童子像
・浄土院羅漢堂 - 塔頭浄土院所有
・養林庵書院障壁画 13面 - 塔頭浄土院所有
・木造帝釈天立像 - 塔頭浄土院所有
・木造阿弥陀如来立像 - 塔頭浄土院所有
・和漢朗詠集巻下断簡(平等院切)(禁中・古京) 1幅 - 塔頭浄土院所有
・平等院境内古図 2幅 - 塔頭最勝院所有

☆藤原頼通(ふじわら の よりみち)とは?

 平安時代の公卿・歌人です。平安時代中期の992年(正暦3年1月)に、京都において、摂政・関白・太政大臣だった、父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれましたが、幼名は田鶴(たづ)と言います。1003年(長保5)に元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許され、侍従に任官します。翌年には、従四位下に昇叙し、近江介を兼任、春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれました。
 1006年 (寛弘3) に従三位、1009年(寛弘6)に権中納言、1011年(寛弘8)に正二位、1013年(長和2)に権大納言、1015年(長和4)に左近衛大将と順調に昇叙・任官します。同年に内大臣となり、後一条天皇の摂政を父・道長から譲られ、藤原氏長者ともなり、1019年(寛仁3)には関白宣下されました。
 1021年(治安元)に居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集め、1021年(治安元)に従一位に昇叙し、左大臣に転任します。1024年(万寿元)に高陽院において競馬を催したりしますが、1028年(万寿4)には、父・道長が亡くなりました。
 1035年(長元8)に関白左大臣頼通歌合を開催、1037年(長暦元)に養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内、1051年(永承6)には、平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となり、天皇との姻戚関係を強め、藤原氏全盛時代を築きます。一方で、1040年(長久元)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)に「荘園整理令」に着手したものの、権門擁護策に終わりました。
 後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代、50余年に渡って、摂政あるいは関白の座を占め、女子を天皇の後宮にいれて、外孫皇子の誕生を期待しましたが、その誕生がないままとなります。1061年(康平4)に太政大臣まで上り詰めたものの、翌年には辞し、1064年(康平7)に藤原氏長者も辞め、1067年(治暦3)には関白も辞し、准三宮を宣下されました。
 翌年には、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、1072年(延久4)には、出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とします。1052年(永承8)に宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立していましたが、そこに隠遁し、1074年(延久6年2月2日)に宇治において、数え年83歳で亡くなりました。
 尚、歌人としても知られ、歌壇の後援者として大きな存在で、私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きく、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集入集は15首にも及んでいます。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1312年(正和元)京極為兼が『玉葉和歌集』(二十一代集の14番目)を撰進する(新暦5月5日)詳細
1682年(天和2)連歌師・俳人・談林派の祖西山宗因の命日(新暦5月5日)詳細
1868年(慶応4)神祇官事務局達(いわゆる神仏判然令)が出される詳細
1920年(大正9)平塚らいてうら70名によって、新婦人協会の発会式が行われる詳細
1929年(昭和4)「国宝保存法」が公布される詳細
1940年(昭和15)内務省がミス・ワカナ、ディック・ミネ、藤原釜足ら16人に改名を命令する詳細
1993年(平成5)東京都立の「東京都江戸東京博物館」が開館する詳細
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、「結核予防法」(大正8年法律第26号)が公布された日です。
 「結核予防法」(けっかくよぼうほう)は、結核の予防および結核患者に対する適正な医療による、結核の害の防止を目的としてつくられた法律です。結核については、大正時代の1914年(大正3)に制定された「肺結核療養所ノ設置及国庫補助ニ関スル法律」の簡素な規定しか存在しなかったので、1919年(大正8年)になって、本法が制定されました。
 1951年(昭和26)に全面改正され、全国民の定期健康診断、BCG予防接種、医師の届出、患者の登録・指導、知事による入所命令、家屋の消毒などを規定しています。しかし、2007年(平成19)3月31日限りで廃止され、「感染症法」(BCGについては予防接種法)へ統合されました。
 以下に、制定当初の「結核予防法」(大正8年法律第26号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「結核予防法」(大正8年法律第26号) 1919年(大正8)3月27日公布

第一条 本法ニ於テ結核ト称スルハ肺結核又ハ喉頭結核ニシテ病毒伝播ノ危険アルモノヲ言フ

第二条 医師結核患者ヲ診断シ又ハ其ノ死体ヲ検案シタルトキハ患者ノ場合ニ在リテハ患者又ハ其ノ居住ノ場所ノ管理ヲ為ス者若ハ其ノ代理ヲ為ス者、死体ノ場合ニ在リテハ死体所在ノ場所ノ管理ヲ為ス者又ハ其ノ代理ヲ為ス者ニ命令ノ定ムル所ニ依リ消毒其ノ他ノ予防方法ヲ指示スヘシ
前項ノ規定ニ依リ指示ヲ受ケタル者ハ其ノ指示ニ従ヒ消毒其ノ他ノ予防方法ヲ行フヘシ

第三条 行政官庁ハ結核患者又ハ其ノ死者アリタル場所ニ付家屋物件ノ消毒其ノ他ノ予防方法ヲ施行シ又ハ其ノ施行ヲ患者又ハ場所ノ管理ヲ為ス者若ハ其ノ代理ヲ為す者ニ命スルコトヲ得

第四条 行政官庁ハ結核予防上必要ト認ムルトキハ左ノ事項ヲ行フコトヲ得
一 業態上病毒伝播ノ処アル職業ニ従事スル者又ハ病毒蔓延ノ処アル場所ニ居住シ若ハ其ノ場所ニ於テ職業ニ従事スル者ニ対し健康診断ヲ施行スルコト
二 結核患者ニ対シ業態上病毒伝播ノ処アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト
三 学校、病院、製造所其ノ他ノ多衆ノ集合スル場所又ハ旅店、料理店、理髮店其ノ他ノ客ノ来集ヲ目的トスル場所ニ付病毒伝播ノ媒介トナルヘキ事項ヲ制限シ若ハ禁止シ又ハ場所ノ管理ヲ為ス者若ハ其ノ代理ヲ為ス者ニ対シ結核予防上必要ナル施設ヲ為サシムルコト
四 古著、古布団、古本、紙屑、襤褸、飮食物其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ、其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ廃棄ヲ為スコト
地方長官ニ於テ前項ノ規定ニ依リ健康診断ヲ施行シ又ハ物件ノ廃棄ヲ為ス場合ニ於テハ其ノ費用ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス

第五条 地方長官ハ結核予防上必要ト認ムルトキハ採光、換気其ノ他ノな関係ニ於テ衞生上不良ナル建物ノ使用ヲ制限シ又ハ禁止スルコトヲ得
前項ノ規定ニ依ル制限又ハ禁止ニ因リ生シタル損害ニ対シテハ地方長官必要ト認ムルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ補償金ヲ交付ス補償金ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス

第六条 主務大臣ハ結核患者ニシテ療養ノ途ナキモノヲ收容セシムル為人口五万以上ノ市又ハ特ニ必要ト認ムル其ノ他ノ公共団体ニ対シテ結核療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得

第七条 地方長官ハ結核患者ニシテ療養ノ途ナキモノ及予防上特ニ必要ト認ムルモノヲ前条ノ規定ニ依リ設置スル結核療養所ニ入所セシムルコトヲ得
前項ノ規定ニ依ル入所ノ費用ノ負担及徴集ニ関シテハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第八条 国庫ハ勅令ノ定ムル所ニ従ヒ第六条ノ規定ニ依リ結核療養所ヲ設置スル公共団体ニ対シ其ノ結核療養所ニ関シ公共団体ノ支出スル経費ノ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助ス

第九条 国庫ハ勅令ノ定ムル所ニ従ヒ第六条ノ規定ニ依ラスシテ結核療養所ヲ設置スル公共団体又ハ公益法人ニ対シ其ノ結核療養所ニ関シ公共団体又ハ公益法人ノ支出スル経費ノ二分ノ一以內ヲ補助スルコトヲ得

第十条 結核療養所ヲ設置スル公共団体ニシテ第八条又ハ前条ノ規定ニ依ル補助ヲ受クルモノハ他ノ公共団体ノ委託アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ療養ノ途ナキ結核患者ヲ其ノ結核療養所ニ收容スヘシ

第十一条 北海道地方費又ハ府県ハ勅令ノ定ムル所ニ従ヒ第四条第一項第二号ノ規定ニ依ル従業禁止又ハ第七条第一項ノ規定ニ依ル入所ニ因リ生活スルコト能ハサル者ニ対シ其ノ生活費ヲ補給スヘシ

第十二条 国庫ハ第四条第二項、第五条第二項又ハ前条ノ規定ニ依リ支出ヲ為ス北海道地方費又ハ府県ニ対シ其ノ支出額ノ四分ノ一ヲ補助ス

第十三条 官庁、公署、官立公立ノ学校病院製造所等ニ於テハ其ノ長ハ第四条第一項第三号第四号及第五条第一項ノ規定ニ準シ結核予防ニ関スル事項ヲ施行スヘシ

第十四条 第二条ノ規定ニ違反シタル者又ハ第三条ノ規定ニ依ル行政官庁ノ命令ニ違反シタル者ハ科料ニ処ス

第十五条 第四条第一項又ハ第五条第一項ノ規定ニ依ル行政官庁ノ命令又ハ処分ニ違反シタル者ハ百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス

附 則

本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
大正三年法律第十六号ハ之ヲ廢止ス
大正三年法律第十六号ニ依リ設置ヲ命シタル肺結核療養所ハ本法ニ依リ設置ヲ命シタル結核療養所ト看做ス

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1689年(元禄2)松尾芭蕉が曾良と共に深川から『おくのほそ道』の旅に出発(新暦5月16日)詳細
1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1918年(大正7)「市町村義務教育国庫負担法」が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1968年(昭和43)厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、カドミウム汚染の状況が明らかにされる詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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