ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2025年02月

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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、東京帝国大学史料編纂掛が『大日本史料』の刊行を開始した日です。
 『大日本史料』(だいにほんしりょう)は、年代順による日本歴史の基礎史料集で、東京大学史料編纂所で編纂、刊行中のものです。六国史(『日本書紀』~『日本三代実録』まで)の後、国史の編纂事業が行われていないので、その欠落部分を埋めるように、国家的事業として編纂作業が開始されました。
 明治時代後期の1901年(明治34)2月28日より刊行が始まり、全体を16の編に分け、これまでに、431冊(2024年12月現在)が刊行され、平安時代初期の第1編と鎌倉時代初期の第4編が完結しています。しかし、慶安4年(1651年)からを収める第十三編~十六編は未着手の状態で、完結には、あと100年以上かかる見込みです。
 日本史研究のための最も包括的で信頼できる史料集とされ、未刊の部分については『史料綜覧(そうらん)』17巻が出版されており、研究上の手掛りを得られるものとされています。

〇『大日本史料』の編成および刊行状況

・一編[仁和3年(887年)8月~寛和2年(986年)6月]宇多天皇以降(六国史の後)<24冊完結>他に補遺(既刊4冊)
・二編[寛和2年(986年)6月~応徳3年(1086年)11月]一条天皇以降、白河天皇譲位まで<既刊32冊(2019年)>長元5年(1032年)まで
・三編[応徳3年(1086年)11月~文治元年(1185年)11月]堀河天皇(院政)以降、平家滅亡まで<既刊30冊(2020年)>保安3年(1122年)まで
・四編[文治元年(1185年)11月~承久3年(1221年)7月]源頼朝政権以降、仲恭天皇廃位(承久の乱)まで<16冊完結>他に補遺(既刊1冊)
・五編[承久3年(1221年)7月~元弘3年(1333年)5月]後堀河天皇以降、北条氏滅亡まで<既刊37冊(2022年)>建長3年(1251年)まで
・六編[元弘3年(1333年)5月~明徳3年(1392年)閏10月]後亀山天皇譲位(南北朝合一)まで<既刊51冊(2023年)>天授3・永和3年(1377年)まで
・七編[明徳3年(1392年)閏10月~文正元年(1466年)12月]後小松天皇以降<既刊35冊(2023年)>應永26年(1419年)12月まで
・八編[応仁元年(1467年)正月~永正5年(1508年)6月]応仁の乱以降<既刊45冊(2024年)>延徳2年(1490年)まで
・九編[永正5年(1508年)6月~永禄11年(1568年)8月]足利義稙上洛以降<既刊30冊(2024年)>大永4年(1524年)まで
・十編[永禄11年(1568年)8月~天正10年(1582年)6月]織田信長上洛以降、本能寺の変ま<既刊31冊(2024年)>天正3年(1575年)7月まで
・十一編[天正10年(1582年)6月~慶長8年(1603年)2月]豊臣秀吉帰還以降<既刊30冊(2024年)>天正14年(1586年)7月まで、他に別巻2冊(天正遣欧使節)
・十二編[慶長8年(1603年)2月~慶安4年(1651年)]徳川家康政権以後<既刊63冊(2023年)>元和9年(1623年)5月まで
・十三編[慶安4年(1651年)~延宝8年(1680年)]江戸時代前期<未刊行>
・十四編[延宝8年(1680年)~天明6年(1786年)]江戸時代中期<未刊行>
・十五編[天明6年(1786年)~嘉永6年(1853年)]江戸時代後期<未刊行>
・十六編[嘉永6年(1853年)~慶応3年(1867年)]幕末<未刊行>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1638年(寛永15)島原・原城が落城し、島原の乱が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しなる
(新暦4月12日)
詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1947年(昭和22)第1次吉田茂内閣で、「供米促進対策要綱」が閣議決定される詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政
協定」が調印される
詳細
1973年(昭和48)古河鉱業が栃木県の足尾銅山を閉山し、363年の歴史に幕を下ろす詳細
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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、歴史学者・文学博士井上光貞の亡くなった日です。
 井上光貞(いのうえ みつさだ)は、大正時代の1917年(大正6)9月19日に、東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれました。成蹊高等学校を経て、1940年(昭和15)に、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、坂本太郎、和辻哲郎に師事します。
 1942年(昭和17)に卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)しました。1946年(昭和21)に東京帝国大学文学部助手となり、1949年(昭和24)に教養学部講師、1950年(昭和25)に同学部助教授に昇任します。
 1957年(昭和32)にデリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインドを訪問(~1958年6月)、1958年(昭和33)には、インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国しました。1959年(昭和34)に「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得、1961年(昭和36)には、東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任、ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任し、翌年帰国します。
 1964年(昭和39)に、平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となり、1967年(昭和42)には、東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当しました。1968年(昭和43)に東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組み、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長、1969年(昭和44)に多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となり、1974年(昭和49)には、東京大学文学部長に就任しています。
 1978年(昭和53)に東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となり、1980年(昭和55)に紫綬褒章を受章、1981年(昭和56)には、国立歴史民俗博物館初代館長に就任しました。戦後の日本古代史の研究をリードし、古代国家の形成や律令継受の過程などの解明に努めたものの、1983年(昭和58)2月27日に、順天堂大学病院において、肺炎により、65歳で亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈されています。尚、学生時代から短歌を詠み、没後一周忌に歌集『冬の海』が編まれました。

〇井上光貞の主要な著作

・『日本古代史の諸問題 大化前代の国家と社会』(1949年)
・『日本史』(1952年)
・『大化改新』(1954年)
・『日本史の人びと 1 とおい昔花の都』(1956年)
・『日本浄土教成立史の研究』(1956年)
・『日本国家の起源』(1960年)
・『日本史提要』(1961年)
・『日本古代国家の研究』(1965年)
・『日本古代の国家と仏教』(1971年)
・『日本の歴史3 飛鳥の朝廷』(1974年)
・『古代史研究の世界』(1975年)
・『日本古代仏教の展開』(1975年)
・『東大三十余年』(1978年)
・『日本古代思想史の研究』(1982年)
・『わたくしの古代史学』(1982年)
・『日本古代の王権と祭祀』(1984年)
・『天皇と古代王権』(2000年)

☆井上光貞関係略年表

・1917年(大正6)9月19日 東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれる
・1924年(大正13) 学習院初等科に入学する
・1930年(昭和5) 成蹊高等学校尋常科へ入学する
・1934年(昭和9) 成蹊高校高等科(のちの成蹊大学)理科乙類へ入学する
・1935年(昭和10) 腎臓炎に罹る
・1937年(昭和12) 成蹊高校高等科文科乙類2年に編入、夏に再び腎臓炎に罹る
・1940年(昭和15) 成蹊高校高等科文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科へ入学する
・1942年(昭和17) 卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学文学部助手となる
・1948年(昭和23) 教員適格判定審査に合格する
・1949年(昭和24) 東京大学教養学部講師となる
・1950年(昭和25) 東京大学教養学部助教授に昇任する
・1957年(昭和32) デリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインド訪問(~1958年6月)する
・1958年(昭和33) インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国する
・1959年(昭和34) 「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得する
・1961年(昭和36) 東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任。 8月 ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任(1962年7月帰国)する
・1964年(昭和39) 平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となる
・1967年(昭和42) 東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当する
・1968年(昭和43) 東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組む、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長となる
・1969年(昭和44) 多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となる
・1974年(昭和49) 東京大学文学部長に就任する
・1976年(昭和51) 心臓発作に倒れ、順天堂大学附属病院に入院(3月退院)する
・1977年(昭和52) 順天堂大学病院再入院、心臓バイパス手術を受け、4月退院する
・1978年(昭和53) 東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となる
・1980年(昭和55) 紫綬褒章を受章する
・1981年(昭和56) 国立歴史民俗博物館初代館長に就任する
・1983年(昭和58)2月27日 順天堂大学病院において、肺炎により、65歳て゜亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、探検家・測量家間宮林蔵が亡くなった日ですが、新暦では4月13日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

〇間宮林蔵主要な著作

・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

☆間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著『日本』で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1858年(安政5)越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)「日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
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 今日は、飛鳥時代の681年(天武天皇10)に、天武天皇が律令の制定(飛鳥浄御原令)を命じた日ですが、新暦では3月19日となります。
 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、飛鳥時代の681年(天武天皇10年2月25日)に、天武天皇が編纂を命じ、689年(持統天皇3年29日)に頒布されたとされる法令(令22巻)です。内容は、701年(大宝元年)施行の「大宝令」とほぼ同じと推定され、戸籍作成や班田収授もこの時から6年ごととなったと考えられてきました。
 しかし、『日本書紀』によって若干推定できる程度で、不明な部分が多いとされています。律については、編纂されず、唐の律をそのまま代用したとの説が有力とされてきました。
 急遽施行されたものなので、完成度は必ずしも高くなかったと言われ、律令の編纂作業は、その後も続けられ、最終的には701年(大宝元年)に完成した「大宝律令」によって、律令整備が完成することになったとされます。
 以下に、『日本書紀』天武天皇10年2月条と持統天皇3年6月条の律令の制定に関する記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』の「飛鳥浄御原律令」関係の記述

<天武天皇10年2月条>

(原文)

二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」
是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。

(読み下し文)

二月庚子朔甲子、天皇[1]、皇后[2]、共に大極殿[3]に居(おは)します、親王、諸王及び諸臣[4]を喚(め)して、詔して曰く、「朕、今更た、律令[5]を定め、法式(のり)を改めむと欲す。故、倶に是の事を修めよ。然れども頓(にはか)に是のみを務(まつりごと)を就(な)さば、公事闕(か)くること有らむ。人を分ちて應(まさ)に行ふべし」と。
是の日、草壁皇子[6]尊を立てて、皇太子[7]と為したまふ。よりて万(よろづ)の機(まつりごと)を摂[8]めしめたまふ。」

【注釈】
[1]天皇:てんのう=ここでは、天武天皇のこと。
[2]皇后:こうごう=ここでは、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のこと。
[3]大極殿:だいごくでん=古代の日本における朝廷の正殿。
[4]諸臣:しょしん=多くの家臣たち。群臣。 
[5]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[6]草壁皇子:くさかべのおうじ=天武天皇の皇子。母は持統天皇。文武・元正両天皇の父。壬申の乱には天武帝とともに戦い、皇太子に立てられたが、即位せずに死去。
[7]皇太子:こうたいし=皇位継承の第一順位にある皇子。東宮。
[8]摂:ふさねおさ=事をあわせ行う。兼ねる。代行する。摂政。

(現代語訳)

(天武10年)2月25日、天武天皇は皇后と共に大極殿に居て、親王・諸王・諸臣に、詔して言った。「我は、今から律令をを定めて、法式を改め改めようと思う。共に、このことを修めなさい。しかし、急にこれだけを実務をすれば、公務が滞るであろうから、手分けして行ってほしい」と。
この日に、草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を立てて皇太子とする。すべての政治の実務に預からせる。

<持統天皇3年6月条>

(原文)

庚戌、班賜諸司令、一部廿二卷。

(読み下し文)

庚戌、諸司[9]に令[10]一部廿二卷を班(わか)ち賜ふ。

(現代語訳)

二十九日、中央の諸々の役人に、令一部二十二巻を分け下し賜った。

【注釈】
[9]諸司:しょし=多くの役所。また、その役人。百司。
[10]令:りょう=政治・経済など一般行政に関する規定。ここでは、「飛鳥浄御原律令」のこと。

☆日本の律令関係略年表

・天智天皇10年(668年) 「近江律令」が施行される
・天武天皇10年(681年)2月25日 「飛鳥浄御原律令」の編纂が開始される
・持統天皇3年(689年)6月29日 「飛鳥浄御原律令」(22巻)が発布される
・文武天皇4年(700年) 「大宝律令」の編纂が開始される
・大宝元年(701年) 「大宝律令」が完成する
・大宝2年(702年) 「大宝律令」の律が施行される
・養老2年(718年) 「養老律令」の編纂が行われる
・天平宝字元年(757年) 「養老律令」(律10巻13編、令10巻30編)が施行される
・神護景雲3年(769年) 「養老律令」の 修正・追加を目的に「刪定律令」(全24条)編纂される
・延暦10年(791年) 「養老律令」の「刪定律令」が施行される
・延暦16年(797年) 「養老律令」の刪定令格全45条が編纂され、同年施行される
・弘仁11年(820年) 「弘仁格式」が完成する
・天長7年(830年) 「弘仁格式」が施行される
・承和7年(840年) 「弘仁格式」が改訂施行される
・貞観11年(869年) 「貞観格式」の格が施行される
・貞観13年(871年) 「貞観格式」の式が施行される
・延長5年(907年) 「延喜格式」の格が施行される
・延長5年(927年) 「養老律令」細則「式」が完成する
・康保4年(967年) 「養老律令」細則「式」が改訂施行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1902年(明治35)数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の誕生日詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、国鉄山陰本線の須佐駅~宇田郷駅間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅~幡生駅間が全通した日です。
 山陰本線(さんいんほんせん)は、山陰地方の海岸沿いを走り、東海道本線京都駅から福知山、豊岡、鳥取、米子、松江、浜田、萩を経由して山陽本線幡生(はたぶ)駅に至る鉄道幹線で、東北本線の739.2kmに次いで2番目に長い676.0km(支線2.2km)です。
 山陰本線としては、1900年(明治32)に起工し、1902年(明治35)11月1日に、境駅(現在の境港駅)~米子駅~御来屋駅間が最初に開業し、徐々に延伸開業させていいき、1907年(明治40)8月1日に、京都~ら園部間(35.8km)の京都鉄道および福知山~綾部間の阪鶴鉄道を国有化しました。さらに、1925年(大正14)に、幡生~小串間の長州鉄道を国鉄が買収し、その後も路線を延伸していきます。
 そして、1933年(昭和8)2月24日に、須佐駅~宇田郷駅間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅~幡生駅間が全通、美禰線の宇田郷駅~正明市駅~阿川駅間、正明市駅~仙崎駅間と小串線全線を編入し、京都駅~幡生駅間、正明市駅~仙崎駅間が山陰本線となりました。1987年(昭和62)4月1日の国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)が承継しています。
 鳥取、米子、松江、浜田、萩など山陰地方海岸部の各都市を連ねていますが、沿線は大都市や工業地も少く、また、1975年(昭和50)の山陽新幹線の開業によってその地位が低下しました。

〇山陰本線関係略年表

<1897年(明治30)>
・2月15日:京都鉄道 二条駅~嵯峨駅(現在の嵯峨嵐山駅)間(6.14km)が開業する
・4月27日:大宮駅~二条駅間(3.30km)が延伸開業する
・11月16日:京都駅~大宮駅間(0.76km)が延伸開業し、官設鉄道(国鉄)京都駅に乗り入れる

<1899年(明治32)>
・8月15日:嵯峨駅~園部駅間(25.53km)が延伸開業する

<1902年(明治35)>
・11月1日:境駅(現在の境港駅)~米子駅~御来屋駅間が開業(米子駅~御来屋駅間は19.41km)する

<1903年(明治36)>
・8月28日:御来屋駅~八橋駅間(17.70km)が延伸開業する
・12月20日:八橋駅~倉吉駅間(15.61km)が延伸開業する

<1904年(明治37)>
・3月15日:倉吉駅~松崎駅間(5.47km)が延伸開業する
・11月3日:福知山駅~綾部駅~新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間が開業(福知山駅~綾部駅間は12.39km)、阪鶴鉄道に貸与される

<1905年(明治38)>
・5月15日:松崎駅~青谷駅間(11.91km)が延伸開業する

<1907年(明治40)>
・4月28日:青谷駅~鳥取仮停車場間(20.76km)が延伸開業する
・8月1日:阪鶴鉄道と京都鉄道が国有化される

<1908年(明治41)>
・4月5日:鳥取駅~鳥取仮停車場間(1.77km)、米子駅~安来駅間(8.85km)が延伸開業する
・7月1日:和田山駅~八鹿駅間(12.07km)が開業する
・11月8日:安来駅~松江駅間(20.12km)が延伸開業する

<1909年(明治42)>
・7月10日:播但線の八鹿駅~豊岡駅間(17.22km)が延伸開業する
・9月5日:播但線の豊岡駅~城崎駅間(9.66km)が延伸開業する
・10月12日:線路名称が制定され、鳥取駅~米子駅~松江駅間を山陰本線、京都駅~園部駅間が京都線、神崎駅(現在の尼崎駅)~福知山駅~綾部駅~新舞鶴駅間などを阪鶴線、飾磨駅~姫路駅~和田山駅~城崎駅間は播但線となる
・11月7日:松江駅~宍道駅間(17.06km)が延伸開業する

<1910年(明治43)>
・6月10日:岩美駅~鳥取駅間(18.35km)、宍道駅~荘原駅間(4.02km)が延伸開業する
・8月25日:園部駅~綾部駅間(42.00km)が延伸開業する
・10月10日:荘原駅~出雲今市駅間(11.59km)が延伸開業する

<1911年(明治44)>
・9月16日:大宮駅が廃止。
・10月25日:播但線の城崎駅~香住駅間(22.05km)が延伸開業、支線の和田山駅~福知山駅間(30.58km)も開業する
・11月10日:浜坂駅~岩美駅間(14.00km)が延伸開業する

<1912年(明治45)>
・3月1日:香住駅~浜坂駅間(17.86km)が延伸開業し京都駅~出雲今市駅間が全通する

<1913年(大正2)>
・11月21日:出雲今市駅~小田駅間(15.45km)が延伸開業する

<1914年(大正3)>
・4月22日:長州鉄道の東下関駅~ 幡生駅~小串駅が開業(幡生駅~小串駅間は23.82km)が開業する

<1915年(大正4)>
・7月11日:小田駅~石見大田駅間(17.06km)が延伸開業する

<1917年(大正6)>
・5月15日:石見大田駅~仁万駅間(11.75km)が延伸開業する

<1918年(大正7)>
・11月25日:仁万駅~浅利駅間(19.15km)が延伸開業する

<1920年(大正9)>
・12月25日:浅利駅~都野津駅間(10.62km)が延伸開業する

<1921年(大正10)>
・9月1日:都野津駅~浜田駅間(14.65km)が延伸開業する

<1922年(大正11)>
・3月10日:浜田駅~周布駅間(9.50km)が延伸開業する
・9月1日:周布駅~三保三隅駅間(9.82km)が延伸開業する

<1923年(大正12)>
・12月26日:三保三隅駅~石見益田駅(現在の益田駅)間(21.89km)が延伸開業する

<1924年(大正13)>
・11月3日:美禰線の正明市駅(現在の長門市駅)~長門三隅駅間(5.15km)が延伸開業する

<1925年(大正14)>
・3月8日:石見益田駅~石見小浜駅間 (9.81km) が延伸開業する
・4月3日:美禰線の長門三隅駅~萩駅間(18.67km)が延伸開業する
・6月1日:長州鉄道の幡生駅~小串駅間が国有化され、小串線となる
・8月16日:小串線の小串駅~滝部駅間(15.13km)が延伸開業する
・11月1日:美禰線の萩駅~東萩駅間(3.70km)が延伸開業する

<1927年(昭和2)>
・6月19日:戸田小浜駅~飯浦駅間(3.70 km)が延伸開業する

<1928年(昭和3)>
・3月25日:飯浦駅~須佐駅間(12.39km)が延伸開業する
・9月9日:小串線の滝部駅~阿川駅間(7.72km)が延伸開業する
・12月9日:美禰線支線の正明市駅~黄波戸駅間(5.31km)が開業する

<1929年(昭和4年)>
・4月24日:美禰線の東萩駅~奈古駅間(11.91km)が延伸開業する
・10月13日:美禰線支線の黄波戸駅~長門古市駅間(4.02km)が延伸開業する

<1930年(昭和5)>
・4月1日:美禰線貨物支線 馬潟駅~馬潟港駅間 (1.0km) が開業する
・5月15日:美禰線貨物支線の正明市駅~仙崎駅間 (2.2km) が開業する
・12月7日:長門古市駅~阿川駅間 (18.4km) が延伸開業し小串線に接続する。

<1931年(昭和6)>
・11月15日:美禰線の奈古駅~宇田郷駅間 (11.0km) が延伸開業する

<1933年(昭和8)>
・2月24日:須佐駅~宇田郷駅間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅~幡生駅間が全通、美禰線の宇田郷駅~正明市駅~阿川駅間、正明市駅~仙崎駅間と小串線全線を編入し、京都駅~幡生駅間、正明市駅~仙崎駅間が山陰本線となる
・7月26日:支線の正明市駅~仙崎駅間の旅客営業開始する

<1935年(昭和10)>
・3月15日:ダイヤ改正で、大阪駅~大社駅間に食堂車を連結した急行列車、特急つばめに連絡する準急列車、全線走破する夜行各駅停車が新設される

<1961年(昭和36)>
・10月1日:山陰本線初の特急列車「まつかぜ」を京都駅~松江駅間(東海道本線・福知山線経由)で運転開始する

<1964年(昭和39)>
・3月20日:特急「まつかぜ」の運転区間を京都駅~博多駅間(東海道本線・福知山線・山陰本線・鹿児島本線経由)へ延長する

<1965年(昭和40)>
・2月1日:全線にATS-Sを導入する

<1968年(昭和43)>
・9月18日:綾部駅~石原駅間が複線化される

<1969年(昭和44)>
・9月26日:石原駅~福知山駅間が複線化される

<1970年(昭和45)>
・2月21日:玉造温泉駅~来待駅間が複線化される
・12月15日:福知山駅~居組駅間に列車集中制御装置 (CTC) が導入される

<1971年(昭和46)>
・2月1日:二条駅~福知山駅間に CTC が導入される

<1972年(昭和47)>
・1月20日:東浜駅~出雲市駅間にCTCが導入される
・3月15日:山陰本線初の寝台特急「出雲」を同名急行の格上げで東京駅~浜田駅間にて運転開始する

<1974年(昭和49)>
・11月30日:蒸気機関車運転終了する

<1975年(昭和50)>
・4月1日:貨物支線の東松江駅~馬潟港駅間 (1.0km) が廃止される

<1976年(昭和51)>
・3月16日:京都駅~二条駅間が高架化される
10月1日:長門市駅~幡生駅間にCTCが導入される

<1977年(昭和52)>
・3月10日:松江駅付近が高架化される

<1978年(昭和53)>
・11月8日:鳥取駅付近が高架化される

<1979年(昭和54)>
・10月31日:東松江駅~松江駅間が複線化される

<1982年(昭和57)>
・6月18日:清水寺信号場~安来駅間が複線化される
・6月24日:米子駅~清水寺信号場間が複線化される
・7月1日:伯耆大山駅~知井宮駅間が電化され、特急「やくも」が電車化される
・11月7日:貨物支線の西浜田駅~浜田港駅間 (2.3km) が廃止される

<1984年(昭和59)>
・2月21日:浜田駅~長門市駅間にCTCを導入し、山陰本線全線にCTCが導入される

<1986年(昭和61)>
・10月29日:福知山駅~城崎駅間が電化される
・11月1日:長門市駅~幡生駅間の貨物営業が廃止される

<1987年(昭和62)>
・4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)が承継。日本貨物鉄道(JR貨物)が丹波口駅~二条駅間、湖山駅~出雲市駅間、江津駅~益田駅間の第二種鉄道事業者となる

<1988年(昭和63)>
・3月13日:長門市駅~仙崎駅間でワンマン運転開始する

<1990年(平成2)>
・3月10日:京都駅~園部駅間が電化される

<1991年(平成3)>
・4月27日:嵯峨駅~馬堀駅間の旧線が嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線として開業する
・11月1日:長門市駅~下関駅間の一部の列車でワンマン運転開始する
・12月1日:鳥取駅~米子駅間の一部の列車でワンマン運転開始する

<1993年(平成5)>
・7月21日:園部駅~福知山駅の電化・高速化工事の起工式が行われる

<1995年(平成7)>
・4月20日:綾部駅~福知山駅間が電化される

<1996年(平成8)>
・3月16日:園部駅~綾部駅間が電化[、二条駅~花園駅間が高架化される

<1997年(平成9)>
・3月22日:江津駅~岡見駅間の貨物列車が廃止される
・10月1日:湖山駅~伯耆大山駅間の貨物列車が廃止される

<1998年(平成10)>
・3月14日:出雲市駅付近が高架化される

<2000年(平成12)>
・9月23日:二条駅~花園駅間が複線化される

<2001年(平成13)>
・3月3日:福知山駅~城崎駅間でワンマン運転開始する
・7月7日:安来駅~益田駅間の高速化工事が完成、米子駅~出雲市駅間の普通列車と米子駅~益田駅間の快速列車でワンマン運転開始する

<2002年(平成14)>
・8月30日:福知山駅~居組駅間で小規模線区自動進路制御装置 (SRC) が導入される

<2003年(平成15)>
・10月1日:鳥取駅~米子駅間の高速化工事完成する
・11月1日:京都駅~園部駅間においてICカード「ICOCA」利用開始する

<2004年(平成16)>
・4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(湖山駅~伯耆大山駅間)が廃止される

<2005年(平成17)>
・11月26日:福知山駅付近が高架化される

<2006年(平成18)>
・4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(丹波口駅~二条駅間、東松江駅~出雲市駅間、江津駅~岡見駅間)が廃止される

<2008年(平成20)>
・3月23日:花園駅~太秦駅間が高架化される
・5月25日:太秦駅~嵯峨嵐山駅間が高架化される
・12月14日:馬堀駅~亀岡駅間が複線化される

<2009年(平成21)>
・3月14日:八木駅~園部駅間が複線化される
・7月20日:京都駅~丹波口駅間が複線化される
・9月6日:並河駅~八木駅間が複線化される
・11月1日:亀岡駅~並河駅間が複線化される

<2010年(平成22)>
・1月31日:丹波口駅~二条駅間が複線化される
・3月7日:花園駅~嵯峨嵐山駅間が複線化される
・8月12日:コンクリートに架け替えた余部橋梁を供用開始する

<2014年(平成26)>
・4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(岡見駅~益田駅間 16.9 km)が廃止される

<2015年(平成27)>
・3月14日:伯耆大山駅~米子駅間の貨物列車が廃止。山陰本線を経由する定期貨物列車が全廃される
・4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(伯耆大山駅~東松江駅間 27.1 km)が廃止される

<2016年(平成28)>
・12月17日:伯耆大山駅~出雲市駅間においてICカード「ICOCA」利用開始される

<2017年(平成29)>
・5月22日:益田駅~幡生駅と長門市駅~仙崎駅間に小規模自動進路制御装置 (SRC) が導入される

<2021年(令和3)>
・3月13日:園部駅~城崎温泉駅間(胡麻駅~城崎温泉駅間は一部の駅のみ)においてICカード「ICOCA」利用開始される

<2024年(令和6)>
・3月16日:鳥取駅~米子駅間、松江駅~宍道駅間において、普通列車は終日ワンマン運転となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1890年(明治23)文芸評論家青野季吉の誕生日詳細
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1906年(明治39)日本社会党[明治期]が結成され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
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