
藤本義一(ふじもと ぎいち)は、昭和時代前期の1933年(昭和8)1月26日に、大阪府堺市において生まれましたが、本名は義一(よしかず)と読みます。泉北郡浜寺尋常小学校(現在の堺市立浜寺小学校)を経て、1945年(昭和20)に私立浪速中学に入学後、航空機搭乗員養成所に入りましたが、敗戦となりました。
戦後の1950年(昭和25)に新制浪速高校を卒業後、立命館大学法学部に入学したものの、まもなく中退し、翌年には、大阪府立浪速大学(現在の大阪府立大学)教育学部に入学します。1952年(昭和27)に経済学部へ転部し、在学中より脚本家を目ざしラジオドラマの懸賞に次々と入選、1955年(昭和30)にラジオドラマ「大黒主命」「花火」「あら、あら、かしこ」、1956年(昭和31)には、「うちうみ」「三等待合室」が放送されました。
1957年(昭和32)に戯曲『つばくろの歌』で、芸術祭戯曲部門の文部大臣賞を受賞、1958年(昭和33)には、学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚して枚方市に転居、校名が変わった大阪府立大学経済学部を卒業します。その後、テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、1959年(昭和34)に大映にて、『貸間あり』の脚本の共作者となり、1961年(昭和36)には、NHKのドラマ「現代人間模様」を執筆しました。
1965年(昭和40)にテレビ番組「11PM」(日本テレビ・よみうりテレビ共同製作)での大阪制作分のキャスターとなり、長編小説を書くようになって、1968年(昭和43)に『ちりめんじゃこ』、1969年(昭和44)に『マンハッタン・ブルース』、1971年(昭和46)には、『生きいそぎの記』がいずれも直木賞候補となります。1972年(昭和47)に第1回噂賞、1974年(昭和49)には、上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で、第71回直木賞を受賞しました。
1975年(昭和50)に『雨月物語』の現代語訳を発表、1978年(昭和53)に上方の笑いを応援する「笑(しょう)の会」の村長を務め、1980年(昭和55)には、日本放送作家協会の関西支部長に就任するなど多彩な活躍をします。それによって、1986年(昭和61)に第1回関西大賞を受賞、1987年(昭和62)には、『螢の宿』で第7回日本文芸大賞を受賞しました。
1990年(平成2)に、司会を務めるなど25年に渡って関わって来たテレビ番組「11PM」が最終回を迎え、1998年(平成10)に大阪芸術賞を受賞しています。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災の被災遺児のために、1999年(平成11)に児童厚生施設「浜風の家」をオープンしました。
しかし、2010年(平成22)に多方面にわたる活動を続ける最中に軽度の脳梗塞を患い、翌年の春に中皮腫を患っていることがわかり、余命は1年と宣告され、2012年(平成24)10月30日に、肺がんのため、79歳で亡くなっています。尚、2014年(平成26)には、遺品や蔵書を集めたギャラリー「藤本義一の書斎」が兵庫県芦屋市にオープンしました。
戦後の1950年(昭和25)に新制浪速高校を卒業後、立命館大学法学部に入学したものの、まもなく中退し、翌年には、大阪府立浪速大学(現在の大阪府立大学)教育学部に入学します。1952年(昭和27)に経済学部へ転部し、在学中より脚本家を目ざしラジオドラマの懸賞に次々と入選、1955年(昭和30)にラジオドラマ「大黒主命」「花火」「あら、あら、かしこ」、1956年(昭和31)には、「うちうみ」「三等待合室」が放送されました。
1957年(昭和32)に戯曲『つばくろの歌』で、芸術祭戯曲部門の文部大臣賞を受賞、1958年(昭和33)には、学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚して枚方市に転居、校名が変わった大阪府立大学経済学部を卒業します。その後、テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、1959年(昭和34)に大映にて、『貸間あり』の脚本の共作者となり、1961年(昭和36)には、NHKのドラマ「現代人間模様」を執筆しました。
1965年(昭和40)にテレビ番組「11PM」(日本テレビ・よみうりテレビ共同製作)での大阪制作分のキャスターとなり、長編小説を書くようになって、1968年(昭和43)に『ちりめんじゃこ』、1969年(昭和44)に『マンハッタン・ブルース』、1971年(昭和46)には、『生きいそぎの記』がいずれも直木賞候補となります。1972年(昭和47)に第1回噂賞、1974年(昭和49)には、上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で、第71回直木賞を受賞しました。
1975年(昭和50)に『雨月物語』の現代語訳を発表、1978年(昭和53)に上方の笑いを応援する「笑(しょう)の会」の村長を務め、1980年(昭和55)には、日本放送作家協会の関西支部長に就任するなど多彩な活躍をします。それによって、1986年(昭和61)に第1回関西大賞を受賞、1987年(昭和62)には、『螢の宿』で第7回日本文芸大賞を受賞しました。
1990年(平成2)に、司会を務めるなど25年に渡って関わって来たテレビ番組「11PM」が最終回を迎え、1998年(平成10)に大阪芸術賞を受賞しています。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災の被災遺児のために、1999年(平成11)に児童厚生施設「浜風の家」をオープンしました。
しかし、2010年(平成22)に多方面にわたる活動を続ける最中に軽度の脳梗塞を患い、翌年の春に中皮腫を患っていることがわかり、余命は1年と宣告され、2012年(平成24)10月30日に、肺がんのため、79歳で亡くなっています。尚、2014年(平成26)には、遺品や蔵書を集めたギャラリー「藤本義一の書斎」が兵庫県芦屋市にオープンしました。
〇藤本義一の主要な著作
・戯曲『つばくろの歌』(1957年)芸術祭曲部門の文部大臣賞受賞
・長編小説『ちりめんじゃこ』(1968年)第61回直木賞候補
・長編小説『マンハッタン・ブルース』(1969年)第62回直木賞候補
・長編小説『生きいそぎの記』(1971年)第65回直木賞候補
・長編小説『鬼の詩(うた)』(1974年)第71回直木賞受賞
・『大いなる笑魂(しょうこん)』(1977年)
・『西鶴(さいかく)くずし・好色一代男』(1978年)
・『人間萬事(ばんじ)』(1986年)
・『女の淵(ふち)』(1980年)
・長編小説『蛍(ほたる)の宿』(1986年)第7回日本文芸大賞受賞
・長編小説『蛍の宴(うたげ)』(1987年)
・長編小説『蛍の街』(1988年)
・長編小説『蛍の死』(1989年)
・連作短編集『迷子の天使たち』(1993年)
・短編作品集『三条木屋(きや)町』(1994年)
・エッセイ集『けったいな人たち――日本異人伝』(1994年)
・『なにわ商人(あきんど)1500年の知恵』(1994年)
・『人生の賞味期限』(2001年)
・『人生は、いつも始発駅』(2001年)
・『人生の自由時間』(2001年)
☆藤本義一関係略年表
・1933年(昭和8)1月26日 大阪府堺市において、生まれる
・1939年(昭和14) 泉北郡浜寺尋常小学校(現在の堺市立浜寺小学校)に入学する
・1945年(昭和20) 私立浪速中学に入学後、航空機搭乗員養成所に入るが、敗戦となる
・1950年(昭和25) 新制浪速高校を卒業後、立命館大学法学部に入学するが、まもなく中退する
・1951年(昭和26) 大阪府立浪速大学(現在の大阪府立大学)教育学部に入学する
・1952年(昭和27) 経済学部へ転部する
・1955年(昭和30) ラジオドラマ「大黒主命」「花火」「あら、あら、かしこ」が放送される
・1956年(昭和31) ラジオドラマ「うちうみ」「三等待合室」が放送される
・1957年(昭和32) 戯曲『つばくろの歌』で、芸術祭戯曲部門の文部大臣賞を受賞する
・1958年(昭和33) 学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚して枚方市に転居、大阪府立大学経済学部を卒業する
・1959年(昭和34) 大映にて、『貸間あり』の脚本の共作者とな
・1960年(昭和35) 長女が誕生する
・1961年(昭和36) NHKのドラマ「現代人間模様」を執筆する
・1963年(昭和38) 次女が誕生する
・1965年(昭和40) テレビ番組「11PM」(日本テレビ・よみうりテレビ共同製作)での大阪制作分のキャスターとなる
・1968年(昭和43) 長編小説『ちりめんじゃこ』が第61回直木賞候補となる
・1969年(昭和44) 『マンハッタン・ブルース』が第62回直木賞候補となる
・1971年(昭和46) 『生きいそぎの記』が第65回直木賞候補となる
・1972年(昭和47) 第1回噂賞を受賞する
・1974年(昭和49) 上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で、第71回直木賞を受賞する
・1975年(昭和50) 『雨月物語』の現代語訳を発表する
・1978年(昭和53) 上方の笑いを応援する「笑(しょう)の会」の村長を務める
・1980年(昭和55) 日本放送作家協会の関西支部長に就任する
・1986年(昭和61) 第1回関西大賞を受賞する
・1987年(昭和62) 『螢の宿』で第7回日本文芸大賞を受賞する
・1990年(平成2) 司会を務めた「11PM」が最終回をむかえる
・1998年(平成10) 大阪芸術賞を受賞する
・1999年(平成11) 阪神・淡路大震災の被災遺児のために児童厚生施設「浜風の家」をオープンする
・2010年(平成22) 多方面にわたる活動を続ける最中に軽度の脳梗塞を患う
・2011年(平成23) 春に中皮腫を患っていることがわかり、余命は1年と宣告される
・2012年(平成24)10月30日 肺がんのため、79歳で亡くなる
・2014年(平成26) 遺品や蔵書を集めたギャラリー「藤本義一の書斎」が兵庫県芦屋市にオープンする
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1881年(明治14) | 神田松枝町大火が起き、10,673戸を焼失し、36,542人の被災者を出す | 詳細 | |||||
1944年(昭和19) | 内務省が「(改正)防空法」により、東京と名古屋に初の建物疎開の命令を出す | 詳細 | |||||
1949年(昭和24) | 奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー) | 詳細 | |||||
1958年(昭和33) | 旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故) | 詳細 | |||||
1997年(平成9) | 小説家藤沢周平の命日 | 詳細 | |||||
2006年(平成18) | 「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される | 詳細 | |||||
2013年(平成25) | 小説家安岡章太郎の命日 | 詳細 |