ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年12月

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 今日は、平安時代中期の承平4年に、紀貫之が土佐国守の任務を終えて都へ向かい、『土佐日記』を起筆した日ですが、新暦では935年1月28日となります。
 『土佐日記】(とさにっき)は、平安時代中期の935年(承平5)頃に成立した旅行日記でした。紀貫之が土佐守の任を終わって、承平4年12月21日に土佐の国府を出立し、翌年2月16日に帰京するまでの55日間のものです。
 筆者を女性に仮託し、仮名で書かれた最初の日記文学として知られてきました。内容は、船中の焦燥。海賊の恐怖、土佐の国人や留守を依頼した隣人に対する風刺など多岐にわたりますが、中でも、土佐国で失った女児に対する追憶の情が叙述に強くみられます。
 また、和歌に関する記事の比重が高く、歌論をわかりやすく展開しているとされてきました。仮名散文が文学表現に堪えうることを明らかにし、後の平安女流文学の基礎ともなっています。
 以下に、『土佐日記】の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇紀貫之(き の つらゆき)とは?

 平安時代前期から中期の官吏・歌人・文学者で、三十六歌仙の一人です。貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃に、紀望行の子として生まれたとされてきました。
 寛平4年(892年)から翌年に欠けて、「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平后宮歌合」に出詠、『新撰万葉集』に入選します。延喜5年(905年)に、『古今和歌集』の選者に任じられ、紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上し、「仮名序」を書いて、名実ともに歌界の第一人者となりました。
 延喜6年(906年)に越前権少掾(御書所預)となり、翌年には、内膳典膳となり、宇多上皇の大井川行幸にて歌や序を供奉しています。延喜13年(913年)には、『亭子院歌合』、『内裏菊合 (だいりきくあわせ) 』に出詠しました。
 延喜13年(913年)に大内記、延喜17年(917年)に従五位下となって殿上人となり、延喜17年(917年)に兼加賀介、延喜18年(918年)に兼美濃介、延長元年(923年)に大監物、延長7年右京亮となります。延長8年(930年)に土佐守となり、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を任地で編纂したものの、天皇が亡くなったため、惜しくも勅撰集とはなりませんでした。
 承平4年(934年)12月には、土佐守の任を終えて、土佐国府を出立し、翌年2月15日に帰洛、その後、この紀行を参考に、『土佐日記』を書いて、初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせます。天慶元年(938年)に周防国に赴き、翌年には、周防国にて紀貫之家歌合を催しました。
 天慶3年(940年)に玄蕃頭、天慶6年(943年)に従五位上、天慶8年(945年)には、木工権頭(もくのごんのかみ)となっています。天慶8年(945年)または翌年に亡くなったとされますが、家集『貫之集』を残し、勅撰集入撰歌は『古今集』以下452首に及び、後に三十六歌仙の一人となりました。

☆『土佐日記】の旅程 承平4年12月21日~承平5年2月16日(日付は旧暦です)

・12月21日 国府(高知県南国市比江周辺)出立
・12月21日~26日 大津(高知県高知市大津)
・12月27日 浦戸(高知県高知市浦戸)
・12月29日 大湊(高知県南国市前浜)
・1月9日 宇多の松原(高知県香南市岸本周辺)
・1月10日 奈半の泊(高知県安芸郡奈半利町)
・1月11日 羽根(高知県室戸市羽根町)
・1月12日 室津(高知県室戸市室津)
・1月29日 土佐の泊(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)
・1月30日 阿波の水門(鳴門海峡)
・1月30日 沼島(兵庫県南あわじ市沼島)
・1月30日 和泉の灘(大阪府南西部)
・2月1日 黒崎の松原(大阪府泉南郡岬町淡輪)
・2月1日 箱の浦(大阪府阪南市箱作)
・2月5日 石津(大阪府堺市浜寺)
・2月5日 住吉(大阪府大阪市住吉区)
・2月6日 難波(大阪府大阪市)
・2月8日 鳥飼の御牧(大阪府摂津市鳥飼)
・2月9日 渚の院(大阪府枚方市渚元町)
・2月9日 鵜殿(大阪府高槻市鵜殿)
・2月11日 八幡の宮(石清水八幡宮)
・2月11日 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)
・2月16日 島坂(京都府向日市上植野町御塔道)
・2月16日 京(京都府京都市)到着

☆『土佐日記】冒頭部分

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
 (後略)

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(安政2)「日露和親条約」が締結される(新暦1855年2月7日)詳細
1917年(大正6)大之浦炭鉱(福岡県)でガス爆発事故があり、死者・行方不明者369人を出す詳細
1941年(昭和16)大日本帝国とタイ王国との間で、「日泰攻守同盟条約」が調印・発効される詳細
1942年(昭和17)第9回御前会議で「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」が決定される詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「都市疎開実施要綱」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)昭和南海地震(M8.0)が起き、死者1,443人を出す詳細
1963年(昭和38)「教科書無償措置法」(昭和38年法律第182号)が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、洋画家岸田劉生の亡くなった日(劉生忌)です。
 岸田劉生(きしだ りゅうせい)は、明治時代中頃の1891年(明治24)6月23日に、東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれました。1907年(明治40)に、東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受け、翌年には、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。
 1909年(明治42)の第13回白馬会展に「雨」、1910年(明治43)の第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点が入選しました。1911年(明治44)に『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、1912年(明治45)には、高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らと共に反自然主義のヒュウザン会を結成します。
 1913年(大正2)7月に、小林蓁(しげる)と結婚し、翌年には、娘の麗子が誕生しました。1915年(大正4)に木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品します。1916年(大正5)に結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画きました。1917年(大正6)の第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞、翌年に、初めて娘・麗子が、「麗子五歳の像」のモデルとなります。
 1920年(大正9)に『鵠沼日記』の記述を開始し、『劉生画集及芸術観』を出版、翌年には、『劉生図案集』を出版しました。1922年(大正11)に春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となり、翌年の関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去って、京都に移り住みます。
 1926年(大正15)に、京都を引き上げて鎌倉に移り、1927年(昭和2)には、第1回大調和美術展に審査員として参加しました。1929年(昭和4)9月末から、南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在、帰途に山口県徳山市において、12月20日に、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝しています。

〇岸田劉生の作品・著作

<絵画>
・「雨」(1909年)第13回白馬会展入選
・「馬小屋」(1910年)第4回文展入選
・「若杉」(1910年)第4回文展入選
・「道路と土手と塀 (切通しの写生)」(1915年)東京国立近代美術館蔵 国指定重要文化財
・「初夏の小径」(1917年)第4回二科展二科賞受賞 下関市立美術館蔵
・「麗子五歳之像」(1918年)東京国立近代美術館蔵
・「麗子微笑 (青果持テル)」(1921年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・「村娘於松立像」(1921年)東京国立近代美術館蔵

<著作>
・『劉生画集及芸術観』(1920年)
・『劉生図案画集』(1921年)
・『図画教育論』
・『演劇美論』
・『美の本体』
・『劉生日記』

☆岸田劉生関係略年表

・1891年(明治24)6月23日 東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれる
・1907年(明治40) 東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受ける
・1908年(明治41) 東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事する
・1909年(明治42) 第13回白馬会展に「雨」が入選する
・1910年(明治43) 第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点の作品が入選する
・1911年(明治44) 『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合う
・1912年(明治45) 高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らとともに反自然主義のヒュウザン会を結成する
・1913年(大正2) 7月に小林蓁(しげる)と結婚する
・1914年(大正3) 娘の麗子が誕生する
・1915年(大正4) 木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品、武者小路実篤を訪う
・1916年(大正5) 結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画く
・1917年(大正6) 鵠沼松が岡3-23の佐藤別荘に移住、松本別荘(鵠沼下岡6732-13・現鵠沼松が岡4-7-10)へ移り、第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞する
・1918年(大正7) 岸田麗子、初めて父=劉生の『麗子五歳の像』のモデルとなる
・1920年(大正9) 数え年30歳になったことを期に『鵠沼日記』を5年7ヵ月にわたり記述、葉山サダ(『村娘像』のモデル=マツの母親)が手伝いに入り、『劉生画集及芸術観』を出版する
・1921年(大正10) 『劉生図案集』を出版、画家棟方寅雄、岸田劉生宅に寄食する
・1922年(大正11) 春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となる
・1923年(大正12) 医師富士山、岸田麗子を往診、関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去り名古屋へ出発、京都に移り住む
・1926年(大正15) 京都を引き上げて鎌倉に移る
・1927年(昭和2) 第1回大調和美術展に審査員として参加する
・1929年(昭和4)9月末 南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在する
・1929年(昭和4)12月20日 満州旅行の帰途に山口県徳山市において、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1879年(明治12)青森県の尻屋崎灯台に日本初の霧笛(霧信号所)が設置された(霧笛記念日)詳細
1930年(昭和5)岡崎駅~多治見駅間・瀬戸記念橋駅~高蔵寺駅間で省営自動車(国鉄バスの前身)が運行開始される詳細
1947年(昭和22)「臨時石炭鉱業管理法」(昭和22年法律第219号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1948年(昭和23) 「日本専売公社法」が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
「日本国有鉄道法」(昭和23年法律256号)が公布(施行は翌年6月1日)される詳細
1962年(昭和37)首都高速道路初の開通区間である京橋~芝浦間(4.5km)が開通する詳細
1984年(昭和59)小説家藤原審爾の命日詳細
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 今日は、平成時代の2011年(平成23)に、TBSテレビドラマ「水戸黄門」の最終回スペシャルが放映され、43年にわたるシリーズの幕が下ろされた日です。
 TBSテレビドラマ「水戸黄門(みとこうもん)」は、TBS系の月曜夜8時放送のナショナル劇場(2008年よりパナソニックシアターと改名)での時代劇シリーズのテレビドラマです。1969年(昭和44)8月4日から、水戸黄門:東野英治郎、助さん:杉良太郎、格さん:横内正で開始され、水戸藩2代目藩主の水戸光圀(黄門)がお供の助さん、格さん等と共に諸国を巡りながら、世直しをするという物語でした。
 とても視聴率が高く、最高視聴率は40%以上になり、人気シリーズとなって、主要な配役を交代しながら、2011年(平成23)の終了まで、43年間に渡り、43のシリーズが制作・放映され、最終回スペシャルを含む放映回数は通算で1,227回に及びます。2012年(平成24)には、ザテレビジョンドラマアカデミー賞より本シリーズの「42年の歴史」に対しザテレビジョン特別賞が贈られました。
 尚、2015年(平成27)にスペシャル番組(1回)が、2017年(平成29)と2019年(平成31)に、BS-TBSにて新シリーズ(水戸黄門:武田鉄矢)が放映されています。

〇TBSテレビドラマ「水戸黄門」シリーズ(全43部)

・第1部(1969年8月4日~1970年3月9日/32回)主演:東野英治郎
・第2部(1970年9月28日~1971年5月10日/33回)主演:東野英治郎
・第3部(1971年11月29日~1972年6月5日/28回)主演:東野英治郎
・第4部(1973年1月22日~1973年9月17日/35回)主演:東野英治郎
・第5部(1974年4月1日~1974年9月30日/26回)主演:東野英治郎
・第6部(1975年3月31日~1975年11月3日/32回)主演:東野英治郎
・第7部(1976年5月24日~1977年1月10日/34回)主演:東野英治郎
・第8部(1977年7月18日~1978年1月30日/29回)主演:東野英治郎
・第9部(1978年8月7日~1979年2月5日/27回)主演:東野英治郎
・第10部(1979年8月13日~1980年2月11日/26回)主演:東野英治郎
・第11部(1980年8月18日~1981年2月9日/26回)主演:東野英治郎
・第12部(1981年8月31日~1982年3月1日/27回)主演:東野英治郎
・第13部(1982年10月18日~1983年4月11日/26回)主演:東野英治郎
・第14部(1983年10月31日~1984年7月9日/37回)主演:西村晃
・第15部(1985年1月28日~1985年10月21日/39回)主演:西村晃
・第16部(1986年4月28日~1987年1月19日/39回)主演:西村晃
・第17部(1987年8月24日~1988年2月22日/26回)主演:西村晃
・第18部(1988年9月12日~1989年5月1日/33回)主演:西村晃
・第19部(1989年9月25日~1990年4月16日/29回)主演:西村晃
・第20部(1990年10月22日~1991年10月7日/48回)主演:西村晃
・第21部(1992年4月6日~1992年11月9日/32回)主演:西村晃
・第22部(1993年5月17日~1994年1月24日/36回)主演:佐野浅夫
・第23部(1994年8月1日~1995年5月15日/40回)主演:佐野浅夫
・第24部(1995年9月11日~1996年6月10日/37回)主演:佐野浅夫
・第25部(1996年12月9日~1997年10月27日/43回)主演:佐野浅夫
・第26部(1998年2月9日~1998年8月17日/26回)主演:佐野浅夫
・第27部(1999年3月22日~1999年10月18日/30回)主演:佐野浅夫
・第28部(2000年3月6日~2000年11月20日/34回)主演:佐野浅夫
・第29部(2001年4月2日~2001年9月17日/25回)主演:石坂浩二
・第30部(2002年1月7日~2002年7月1日/25回)主演:石坂浩二
・第31部(2002年10月14日~2003年3月24日/22回)主演:里見浩太朗
・第32部(2003年7月28日~2003年12月8日/17回)主演:里見浩太朗
・1000回記念スペシャル(2003年12月15日/1回)主演:里見浩太朗
・第33部(2004年4月12日~2004年9月20日/22回)主演:里見浩太朗
・第34部(2005年1月10日~2005年6月6日/20回)主演:里見浩太朗
・第35部(2005年10月10日~2006年3月6日/20回)主演:里見浩太朗
・ナショナル劇場50周年SP(2006年3月13日/1回)主演:里見浩太朗
・第36部(2006年7月24日~2006年12月18日/20回)主演:里見浩太朗
・第37部(2007年4月9日~2007年9月17日/23回)主演:里見浩太朗
・第38部(2008年1月7日~2008年6月30日/24回)主演:里見浩太朗
・第39部(2008年10月13日~2009年3月23日/22回)主演:里見浩太朗
・第40部(2009年7月27日~2009年12月21日/20回)主演:里見浩太朗
・第41部(2010年4月12日~2010年6月28日/12回)主演:里見浩太朗
・第42部(2010年10月11日~2011年3月21日/21回)主演:里見浩太朗
・第43部(2011年7月4日~2011年12月12日/21回)主演:里見浩太朗
・最終回スペシャル(2011年12月19日/1回)主演:里見浩太朗
・スペシャル(2015年6月29日/1回 1228回)主演:里見浩太朗
・BS-TBS版第1シリーズ(2017年10月4日~2017年12月6日/10回)主演:武田鉄矢
・BS-TBS版第2シリーズ(2019年5月19日~2019年8月11日/10回)主演:武田鉄矢

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(元中8/明徳2)守護大名一族・山名氏清・満幸が室町幕府に叛乱(明徳の乱)を起こす(新暦1392年1月13日)詳細
1596年(慶長元)豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者(日本二十六聖人)が長崎で磔刑となる(新暦1597年2月5日)詳細
1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣により、「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定され、動員学徒援護会が設置される詳細
1955年(昭和30)「原子力基本法」が公布される詳細
1966年(昭和41)第21回国連総会で「第21会期国際連合総会決議2222号(宇宙条約)」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保10年に、蛮社の獄で、江戸幕府が渡辺崋山に蟄居、高野長英に永牢を命じた日ですが、新暦では1840年1月22日となります。
 蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月18日に、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山(わたなべ かざん)とは?

 江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれます。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となり、藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、モリソン号事件に関わって、「慎機論」を著し、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で高野長英らと共に捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応する(モリソン号事件)といううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。
 その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

(前略)
今我が四周渺然[1]の海、天下拠る所の堺にして、我にありて世に不備の所[2]多く、彼が来る、本より一所に限ること能はず。一旦事あるに至ては、全国の力を以てすといへども、鞭の短くして、馬の腹に及ばざる[3]を恐るるなり。況んや西洋膻睲の徒[4]、四方[5]明かにして、万国を治め、世々擾乱[6]の驕徒[7]、海船火技[8]に長ずるを以て、我短にあたり、方に海運を妨げ、不備をおびやかさば、逸を以て労を攻む、百事反戻して、手を措く所なかるべし[9]。維昔[10]唐山[11]滉洋[12]恣肆[13]の風轉し、高明[14]空虚[15]の学盛なるより、終に其光明[16]蔀障[17]せられ、自ら井蛙の管見[18]にをつるを不知也。況や明末曲雅[19]風流[20]を尚ひ、兵戈[21]日々警むと云ども、苟も酣歌[22]皷舞[23]め士気益猥薄に陥り、終に国を亡せるが如し。嗚呼今夫れこれを在上[24]の大臣に責んと欲すれども、固より紈袴[25]の子弟、要路[26]の権臣[27]を責んと欲すれども、賄賂[28]の倖臣[29]、唯これ心有る者は儒臣[30]、儒臣[30]亦望浅ふして大を措き、小を取り、一々[31]皆不痛不癢[32]の世界と成れり。今夫此の如く束手[33]して寇[34]を待んか。
              田原藩  崋山邊誌

【注釈】

[1]渺然:びょうぜん=果てしなく広々としているさま。
[2]不備の所:ふびのところ=必要なものが完全にはそろっていない場所のこと。ここでは、海岸防備が手薄な場所。
[3]鞭の短くして、馬の腹に及ばざる:むちのみじかくして、うまのはらにおよばざる=鞭が短くて馬の腹に届かないことから、勢力が不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるという意味。
[4]西洋膻睲の徒:せいようせんせいのと=西洋の生臭い連中。
[5]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[6]擾乱:じょうらん=入り乱れて騒ぐこと。また、秩序をかき乱すこと。騒乱。
[7]驕徒:きょうと=驕り高ぶった連中。
[8]火技:かぎ=小銃・大砲などを操作する技術。
[9]逸を以て労を攻む。百事反戻して、手を措く所なかるべし:いつをもってろうをおさむ、ひゃくじはんれいして、てをおくところなかるべし=十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つ。この戦法に全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。(孫子の兵法)
[10]維昔:いせき=むかし。
[11]唐山:とうざん=中国のこと。
[12]滉洋:こうよう=広くて深い海。
[13]恣肆:しし=自分の思うままにすること。また、そのさま。わがまま。放縦。
[14]高明:こうめい=立派ですぐれた見識、考え。
[15]空虚:くうきょ=実質的な内容や価値がないこと。
[16]光明:こうみょう=明るい見通し。希望。
[17]蔀障:ぶしょう=遮られること。遮断されること。
[18]井蛙の管見:せいあのかんけん=狭い見識。見識の狭さ。
[19]曲雅:きょくが=格調が高く上品な音楽。王侯貴族の歌。
[20]風流:ふうりゅう=上品で優美な趣のあること。優雅なおもむき。
[21]兵戈:へいか=戦争。いくさ。
[22]酣歌:かんか=心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌う。
[23]皷舞:こぶ=鼓を打って舞わせること。
[24]在上:ざいじょう=上にあること。上の階層にあること。
[25]紈袴:がんこ=貴族の子弟。特に、柔弱な者をいう。
[26]要路:ようろ=重要な地位や職務。権力威勢ある役。
[27]権臣:ごんしん=権勢のある家来。
[28]賄賂:わいろ=自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。
[29]倖臣:こうしん=お気に入りの家来。
[30]儒臣:じゅしん=儒学をもって仕える臣下。
[31]一々:いちいち=一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。
[32]不痛不癢:ふつうふよう=痛くもかゆくもない。通り一遍である。いい加減でおざなりである。何ら問題とするに足りない。
[33]束手:そくしゅ=手をつかねること。手出しをしないこと。反抗しないで傍観すること。手をこまねいて。
[34]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。

<現代語訳>

(前略)
 今我が国の周囲は広くて深い海に囲まれ、世界の諸国との国境となしているものの、我が国においては海岸防備が手薄な場所が多く、外国が来寇するとすれば、もとより一ヶ所とは限らない。一旦危急のことがあるならば、全国の兵力を集めても不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるのではと心配になる。まして西洋の生臭い連中、諸国の情勢に明るく、万国を支配し、世界の秩序をかき乱す驕り高ぶった連中なのだ。航海術や小銃・大砲などを操作する技術に長けているので、我が国の短所に付け入り、まさに海運を妨害して、海岸防備の手薄を突かれれば、「十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つという戦法に、全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。」(孫子の兵法)であろう。昔、中国が広くて深い海をほしいままにして風のように転じたのに、立派ですぐれた見識だが内容や価値がない学問が盛んになるにつれ、ついにその明るい見通しが遮られ、自ら狭い見識に落ち込んでいったことがわからなかった。まして、明時代末期には格調が高く上品で優美な趣が久しくなり、戦争を日々警戒していたと言っても、不相応にも心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌い、鼓を打って舞わせたりして、士気はますます淫らで軽薄に陥り、終に国を亡してしまった如くである。
 ああ、今この事を(朝廷の)上層の大臣に訴えようとしても、もとより育ちのよい軟弱者であり、(幕府の)重責を持つ権勢のある者に訴えようとしても、賄賂を使うお気に入りの者ばかりなのだ。ただ心有るのは儒学をもって仕えている者ではあるが、その者でさえ志が浅く、大事を捨てて、小事に走り、どれもこれも皆、いい加減でおざなりであるという世界となっているのだ。今このように手をこまねいていて、外敵を待てというのか。
          田原藩   渡辺崋山記す

〇高野長英(たかの ちょうえい)とは?

 江戸時代後期の医師・蘭学者です。1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を受け、投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英著『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。
 内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする「異国船打払令」がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

☆『戊戌夢物語』抜粋

(前略)
西洋ノ風俗[1]ハタトヘ敵船ニ候モ、自国ノ者其内ニアルトキハ、放砲不仕事ニ候。然処、イキリスハ日本ニ対シ敵国ニモ之無ク、イハゝ付合モナキ他人ニ候處、今漂流人[2]ヲ憐ミ、仁義[3]ヲ名トシ、態々送来候モノヲ、何事モ取合不申、直ニ打払ニ相成[4]候テハ、日本ハ民ヲ不燐不仁[5]ノ国ト存シ。若万一其不仁[5]不義[6]ヲ憤テ、日本近海ニハイキリスノ属島夥シク之在、始終通行致候得ハ、後来、海上ノ寇[7]ヲ相ナシテ、海運ノ邪魔[8]相成候モ難計、左候得自然[9]国ノ大患[10]ニモ相成可申ヤ。譬右等ノ儀コレ無トモ、右打拂ニ相成候ハゝ、理非[11]モ分リ不申異国ヘ対シ不義[6]ノ国ト申觸レ、義国ノ名ヲ失ヒ、是ヨリ如何ナル患害[12]、萌生[13]仕候ヤモ難計、或ハ頻ニイキリスヲ恐候ヤウニモ考付ラレ候ハゝ、国内衰微仕候ヤウニ推察仕候、恐ナカラ、御武威[14]ヲ損シ候ヤウニモ相成候ハント、考ラレ候。
(後略)

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=習慣。
[2]漂流人:ひょうりゅうにん=アメリカのモリソン号が伴ってきた日本人の漂流漁師7名のこと。
[3]仁義:じんぎ=仁と義。道徳上守るべき筋道。
[4]直ニ打払ニ相成:ただちにうちはらいにあいなり=1837年に「異国船打払令」でモリソン号を砲撃して追い返したこと。
[5]不仁:ふじん=仁義のない。
[6]不義:ふぎ=人として守るべき道にはずれること。また、その行い。
[7]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。
[8]海運ノ邪魔:かいうんのじゃま=沿岸航路による物資輸送の障害になること。
[9]自然:しぜん=当然。
[10]大患:たいかん=大きな心配事。大きなわざわい。
[11]理非:りひ= 理と非。道理に合っていることとそむいていること。是非。理否。
[12]患害:かんがい=これからどうなるかという心配。また、他に迷惑を及ぼす悪事。
[13]萌生:ほうせい=草木がもえ出ること。転じて、物事が起こり始まること。
[14]頻ニ:しきに=何度も何度も。しきりに。
[15]武威:ぶい=たけだけしい威力。武力の威勢。また、武家の威光。

<現代語訳>

(前略)
西洋の習慣では、たとえ敵船であっても、自国の者が乗船している時には、鉄砲を打ちかけたりはしない。しかし、イキリスは日本に対し敵国ではなく、いってみれば、付合もない他人であるから、今、日本人の漂流民を憐れんで、道徳上守るべき筋道として、わざわざ送り届けてくれたものを、何も取り合わずに、ただちに「異国船打払令」によって打払ってしまえば、日本は人民を憐れまない仁義のない国となってしまう。もし、万一その仁義がなく、人として守るべき道にはずれていることを憤れば、日本近海にはイキリスの属島を多く所有し、始終艦船が通行しているので、後に、海上の敵となって、沿岸航路による物資輸送の障害にもなるかもしれない、そうなれば、当然国の大きなわざわいともなるであろう。たとえ右のようなことがなかったとしても、打払いを行えば、道理がわからないとして、異国ヘ対し人として守るべき道にはずれた国だと言いふらし、仁義の国という名を失い、これよりどのような迷惑を及ぼす悪事が、起こり始まるか計り知れない、あるいは、しきりにイキリスを恐れるように思いこまされると、国内が衰微するようにも推察され、恐れながら、武力の威勢を損なうことになりはしないかと、考える次第である。
(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)日本2番目の洋式灯台である野島埼灯台が初点灯する(新暦1870年1月19日)詳細
1914年(大正3)東京駅の開業式が行われる(東京駅完成記念日)詳細
1917年(大正6)相模鉄道株式会社が創立総会を開催する詳細
1947年(昭和22)「過度経済力集中排除法」が公布施行される詳細
1948年(昭和23)連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本経済自立復興の為の「経済安定9原則」を指令する詳細
1997年(平成9)東京湾横断道路(愛称:東京湾アクアライン)が開通する詳細
2002年(平成14)「東京地下鉄株式会社法」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、「衆議院議員選挙法」改正の公布により、日本で国政への女性参政権が認められた日です。
 女性参政権(じょせいさんせいけん)は、女性が選挙権・被選挙権を有し政治に参加する権利のことで、婦人参政権(ふじんさんせいけん)と呼ばれていました。日本では、明治時代末期に福田英子らによって婦人参政権獲得運動が始められ、大正時代に発展します。
 1921年(大正10)に、ガントレット恒子、久布白落実らによって、日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が結成され、婦人参政権運動(婦人運動)を展開、1922年(大正11)には、女性の集会の自由を阻んでいた「治安警察法」第5条2項が改正されました。1923年(大正12)に婦人参政同盟〔日本婦人協会〕〈理事山根キク〉、1924年(大正13)には、婦人参政権獲得期成同盟会(後に婦選獲得同盟と改称)が結成されます。
 しかし、1925年(大正14)に普通選挙が実現したものの、男子のみの納税差別のない選挙権しか認められませんでした。1929年(昭和4)3月15日ん女性参政権を求める集会「東京市政浄デー」が開催され、1931年(昭和6)には、婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過しましたが、貴族院の反対で廃案に追い込まれています。
 1932年(昭和7)に無産婦人団体を含む4団体で「婦選団体連合委員会」が組織され、全国一斉に第1回婦選デーを開催、1933年(昭和8)には、「弁護士法」が改正され、婦人弁護士制度が制定されました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)8月25日に、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、「衆議院議員選挙法」の改正や「治安警察法」廃止等を求めた五項目の決議を、政府(東久邇宮内閣)及び主要政党に提出します。
 同年10月10日に、幣原内閣では、GHQの「指示に先じて施策する」として、婦人参政権に関する閣議決定が独自になされ、11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開しました。そして、11月21日に勅令により「治安警察法」が廃止され、女性の結社権が認められ、12月17日に「衆議院議員選挙法改正」公布により、女性の国政参加が認められ、翌年9月27日に、地方制度改正により、女性の地方参政権が実現しています。
 それにより、1946年(昭和21)4月10日に、戦後初(かつ帝国議会最後)の衆議院選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生しました。

〇女性参政権関係略年表

・1911年(明治44) 平塚らいてう(平塚雷鳥)を中心として青鞜社が結社される、 
・1919年(大正8) 平塚と市川房枝、奥むめおらによって新婦人協会が設立される
・1921年(大正10) ガントレット恒子、久布白落実らによって、日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が結成され、婦人参政権運動(婦人運動)を展開する
・1922年(大正11) 女性の集会の自由を阻んでいた「治安警察法」第5条2項が改正される 
・1923年(大正12) 婦人参政同盟〔日本婦人協会〕〈理事山根キク〉が結成される
・1924年(大正13) 婦人参政権獲得期成同盟会(後に婦選獲得同盟と改称)が結成される
・1925年(大正14) 普通選挙が実現し、男子のみの差別がない選挙権が認められる
・1929年(昭和4)3月15日 女性参政権を求める集会「東京市政浄デー」が開かれる
・1931年(昭和6) 婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれる
・1932年(昭和7) 無産婦人団体を含む4団体で「婦選団体連合委員会」が組織され、全国一斉に第1回婦選デーを開催する
・1933年(昭和8) 「弁護士法」が改正され、婦人弁護士制度が制定される
・1945年(昭和20)8月25日 市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府(東久邇宮内閣)及び主要政党に提出する
・1945年(昭和20)10月10日 幣原内閣では、GHQの「指示に先じて施策する」として、婦人参政権に関する閣議決定が独自になされる
・1945年(昭和20)11月3日 婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開する
・1945年(昭和20)11月21日 勅令により「治安警察法」が廃止され、女性の結社権が認められる
・1945年(昭和20)12月17日 「衆議院議員選挙法改正」公布により、女性の国政参加が認められる
・1946年(昭和21)9月27日 地方制度改正により、女性の地方参政権が実現する
・1946年(昭和21)4月10日 戦後初(かつ帝国議会最後)の衆議院選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1164年(長寛2)後白河院が平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要が行なわれる(新暦1165年1月30日)詳細
1701年(元禄14)第114代の天皇とされる中御門天皇の誕生日(新暦1702年1月14日)詳細
1709年(宝永6)第113代の天皇とされる東山天皇の命日(新暦1710年1月16日)詳細
1902年(明治35)小学校教科書の採定をめぐる府県担当官と教科書会社の贈収賄事件(教科書疑獄事件)が発覚する詳細
1938年(昭和13)日本画家小川芋銭の命日詳細
1947年(昭和22)国家地方警察と自治体警察を設置する「旧警察法」が公布(施行は翌年3月6日)される詳細
1957年(昭和32)恩賜上野動物園内に常設では日本初のモノレールが開業する詳細
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