ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年09月

santj001
 今日は、江戸時代前期の1613年(慶長18)に、仙台藩主伊達政宗の使節(慶長遣欧使節)支倉常長らが、牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆した日ですが、新暦では10月28日となります。
 慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)は、江戸時代前期の1613年(慶長18)に、仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王フェリペ3世、およびローマ教皇パウルス5世のもとに派遣した使節のことです。
 使節団は、サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、メキシコ経由で、1年弱かかってヨーロッパに到着し、スペイン国王やローマ法王に謁見しました。その後、帰途につき、支倉常長は1620年(元和6年8月24日)に日本へ帰国しています。
 この時、スペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った、ローマ法王の肖像画、常長の肖像画、常長のローマ市民権証などの品々は、「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定され、「仙台市博物館」で展示されています。また、一行が航海に使ったサン・ファン・バウティスタ号が復元され、石巻市渡波の「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)」で見ることができ、大航海の様子を、展示や映像で学ぶこともできます。

〇慶長遣欧使節関係略年表(日付は新暦です)

<1613年(慶長18)>
・10月28日 サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かう

<1614年(慶長19)>
・1月28日 出航から3か月後にアカプルコへ入港する
・3月4日 使節団の先遣隊がメキシコシティに入ったが、先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし、常長ら10人を除き武器を取り上げられる
・3月24日 常長らがメキシコシティ入いる
・5月8日 メキシコシティを出発する
・6月10日 使節団はスペイン艦隊のサン・ホセ号でヌエバ・エスパーニャ大西洋岸ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアを出港する
・7月23日 キューバのハバナに到着する
・8月7日 ハバナを出港する
・10月5日 スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着、セビリアの貴族であるソテロの本拠地、セビリアに入いる
・10月27日 常長はセビリア臨時市議会に臨み、使命を述べる
・11月25日 使節団はセビリアを出発する
・12月20日 使節団はスペインの首都マドリードに入いる

<1615年(元和元)>
・1月30日、常長ら使節はスペイン国王フェリペ3世に謁見する
・2月17日 常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受ける
・8月22日 使節団はマドリードを出発する
・10月25日 使節団がローマに到着する
・10月29日 使節団がローマで、栄誉あるローマ入市式を行なう
・11月3日 常長、ソテロらが、ローマ教皇・パウロ5世に謁見する
・11月20日 常長らにローマ市民権証書が授与される

<1616年(元和2)>
・1月7日 使節団はローマを出発し再びスペインのセビリアへ行く

<1617年(元和3)>
・7月4日 使節団はセビリアを出発しヌエバ・エスパーニャまで戻る

<1618年(元和4)>
・4月2日、迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港する
・8月10日 フィリピンのマニラに到着する

<1620年(元和6)>
・9月20日(旧暦8月24日) サン・フアン・バウティスタ号をマニラで売却し、常長は便船で日本へ帰国する

<1622年(元和8)>
・8月7日(旧暦7月1日) 支倉常長が亡くなる
・9月18日 ソテロは、マニラから密入国しようとしたが捕らえられる

<1624年(寛永元)>
・8月25日(旧暦7月12日) ソテロが大村で火刑により殉教する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国際デーの一つ、「国際民主主義デー」です詳細
1305年(嘉元3)第90代の天皇とされる亀山天皇の命日(新暦では10月4日)詳細
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利する(新暦10月21日)詳細
1932年(昭和7)「日満議定書」が調印される詳細
1945年(昭和20)文部省が「新日本建設ノ教育方針」を公表する詳細
1961年(昭和36)被差別部落問題をテーマとした、住井すゑ著の長編小説『橋のない川』第一部が刊行される詳細
1964年(昭和39)八郎潟干拓の干拓式が行われる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

mikijyun01
 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、写真家三木淳が生まれた日です。
 三木淳(みき じゅん)は、大正時代の1919年(大正8)9月14日に、岡山県児島郡藤戸町(現在の倉敷市)において、父・為吉、母・いそゑの三男として生まれました。岡山県立第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高等学校)を経て、1938年(昭和13)には、慶應義塾大学経済学部予科に入学、慶應フォトフレンズに入会します。
 在学中から写真家を志し、木村伊兵衛、土門拳らを知り、1941年(昭和16)に土門に弟子入りし、文楽人形の撮影などの助手を務めました。1943年(昭和18)に戦況悪化のため慶應義塾大学経済学部を繰り上げ卒業し、陸軍第七航空教育隊(静岡県三方原)に入隊します。
 1945年(昭和20)に陸軍航空本部西部出張所(熊本市)に転属となりましたが、敗戦にともない西部軍司令部経理部が解散、陸軍主計少尉として除隊しました。1947年(昭和22)に上海帰りの名取洋之助の誘いを受けて、稲村隆正と共にサンニュース・フォトス社に入社したものの、翌年には、退社しています。
 1949年(昭和24)にシベリア抑留の元日本兵らを乗せた引き揚げ船、高砂丸の帰還を舞鶴(京都府)で取材、写真が認められ、タイム・ライフ社に正式入社しも翌年には、土門拳と木村伊兵衛を顧問に招き「集団フォト」を結成しました。1951年(昭和26)に「イサム・ノグチ」の写真により、アルス写真年鑑最高賞を受賞、1952年(昭和27)にニッコールクラブが設立され、常任幹事となり、1953年(昭和28)には、タイム・ライフ社から国連軍報道班員として朝鮮戦争に派遣されています。
 1954年(昭和29)にタイム・ライフ社から招かれ渡米したものの、1956年(昭和31)には退社し、フリーランスの報道写真家となりました。1958年(昭和33)にブラジル日本移民50年祭に招待され、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、メキシコを取材、日本写真家協会(JPS)の会員となり、翌年には、初の個展となる『メキシコ写真展』(日本橋髙島屋)を開催、第3回日本写真批判家協会作家賞を受賞します。
 1960年(昭和35)に富士プロフェッショナル年間最高写真賞、雑誌『日本』に発表したルポルタージュ「麻薬を捜せ」で、第1回講談社写真賞を受賞しました。1962年(昭和37)に第12回日本写真協会年度賞を受賞、『世界美術大系第7巻 インド美術』(講談社)を刊行、ICIE優秀賞を受賞します。
 1974年(昭和49) 第3代ニッコールクラブ会長(~1992年)に就任、1977年(昭和52)に日本大学芸術研究所教授となり、同大学芸術学部写真学科で教鞭(~1992年)を執り、1981年(昭和56)には、第3代日本写真家協会(JPS)会長に就任しました。1983年(昭和58)に国内初の写真専門美術館、「土門拳記念館」(山形県酒田市)開館して初代館長(~1992年)に就任、紫綬褒章を受章しています。
 1985年(昭和60)に九州産業大学大学院芸術研究科教授に就任、1989年(平成元)には、日本写真作家協会(JPA)が発足して初代会長(~1992年)に就任、勲三等瑞宝章を受章しました。1990年(平成2)に第40回日本写真協会功労賞を受賞したものの、1992年(平成4)2月22日に、東京都港区の病院において、急性心不全により、72歳で亡くなり、正五位を追贈されています。

〇三木淳の主要な著作

・写真集『写真・メキシコ 遺跡の中の青春』(1961年)
・写真集『サンバ・サンバ・ブラジル』(1967年)
・写真集『写真創価学会』(1968年)
・写真集『三木淳写真集 慶應義塾』(1979年)
・写真集『昭和写真・全仕事SERIES 7 三木淳』(1982年)
・写真集『宮中歳時記』(1984年)
・写真集『三木淳写真集 LIFEのカメラ・アイ』(1989年)
・写真集『英国物語』(1990年)
・写真集『蘭嶼』(1993年)

☆三木淳関係略年表

・1919年(大正8)9月14日 岡山県児島郡藤戸町(現在の倉敷市)において、父・為吉、母・いそゑの三男(兄二人、姉二人の末子)として生まれる
・1926年(大正15) 天城尋常高等小学校に入学する
・1932年(昭和7) 岡山県立第一岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学する
・1937年(昭和12) 岡山県立第一岡山中学校を卒業、大阪商科大学(大阪市立大学)を受験するも不合格に終わる
・1938年(昭和13) 慶應義塾大学経済学部予科に入学、慶應フォトフレンズに入会する
・1941年(昭和16) 雑誌『写真文化』の石津良介編集長が井戸川渉(文)とコンビで取材を依頼される
・1942年(昭和17) 写真の教えを受けるため、国際報道工芸社の名取洋之助を訪ねる
・1943年(昭和18) 戦況悪化のため慶應義塾大学経済学部を繰り上げ卒業し、陸軍第七航空教育隊(静岡県三方原)に入隊する
・1945年(昭和20) 陸軍航空本部西部出張所(熊本市)に転属となるが、敗戦にともない西部軍司令部経理部が解散、陸軍主計少尉として除隊する
・1947年(昭和22) 上海帰りの名取洋之助の誘いを受けて、稲村隆正と共にサンニュース・フォトス社に入社する
・1948年(昭和23) 名取と反りが合わなかった三木は、サンニュース・フォトス社を退社する
・1949年(昭和24) シベリア抑留の元日本兵らを乗せた引き揚げ船、高砂丸の帰還を舞鶴(京都府)で取材、写真が認められ、タイム・ライフ社に正式入社する
・1950年(昭和25) 土門拳と木村伊兵衛を顧問に招き「集団フォト」を結成、長谷川康子と結婚する
・1951年(昭和26) 「イサム・ノグチ」の写真により、アルス写真年鑑最高賞を受賞する
・1952年(昭和27) ニッコールクラブが設立され、常任幹事となる
・1953年(昭和28) ライフから国連軍報道班員として朝鮮戦争に派遣される
・1954年(昭和29) タイム・ライフ社から招かれ渡米する
・1955年(昭和30) 出演映画『十二人の写真家』(勅使河原宏監督)公開される
・1956年(昭和31) タイム・ライフ社を退社し、フリーランスの報道写真家となる
・1958年(昭和33) ブラジル日本移民50年祭に招待され、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、メキシコを取材、日本写真家協会(JPS)の会員となる
・1959年(昭和34) 初の個展となる『メキシコ写真展』(日本橋髙島屋)を開催、第3回日本写真批判家協会作家賞を受賞する
・1960年(昭和35) 富士プロフェッショナル年間最高写真賞、雑誌『日本』に発表したルポルタージュ「麻薬を捜せ」で、第1回講談社写真賞を受賞する
・1961年(昭和36) 写真集『写真メキシコ-遺跡のなかの青春』(社会思想研究会出版部、現代教養文庫)を刊行する
・1962年(昭和37) 第12回日本写真協会年度賞を受賞、『世界美術大系第7巻 インド美術』(講談社)を刊行、ICIE(International Council of Industrial Editors)優秀賞を受賞する
・1963年(昭和38) 個展『蘭嶼-石に生きる』(東京富士フォトサロン)を開催する
・1964年(昭和39) 個展『ニューヨーク五番街物語』(日本橋髙島屋)を開催、『赤ひげ-2人の日本人・黒沢と三船』(キネマ旬報別冊)を刊行、ICIE最優秀賞、ICIE優秀賞を受賞する
・1965年(昭和40) 個展『サンバ・サンバ・ブラジル』(東京富士フォトサロン)を開催、ADC賞銅賞、全国PR誌コンクール最優秀賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『アサヒカメラ教室3 スナップ写真』<アサヒカメラ教室3全7巻>(朝日新聞社)を刊行する
・1967年(昭和42) 写真集『サンバ・サンバ・ブラジル』(研光社)を刊行、全国カタログポスター展優秀賞を受賞する
・1968年(昭和43) 銀座にニコンサロンが開設され、常任理事(~1992年)とな、写真集『写真創価学会』(河出書房)を刊行する
・1969年(昭和44) ICIE最優秀賞を受賞する
・1970年(昭和45) 『アサヒカメラ教室 第2巻 風景写真』<サヒカメラ教室第2巻全7巻>(朝日新聞社)を刊行する
・1973年(昭和48) 個展『命を賭ける』(銀座、新宿ニコンサロン)を開催する
・1974年(昭和49) 第3代ニッコールクラブ会長(~1992年)に就任する
・1975年(昭和50) 『野生時代 独占総集・野生号 邪馬台国への道を行く』(角川書店)を刊行する
・1976年(昭和51) 個展『邪馬台国への道』(銀座、新宿ニコンサロンなど)を開催、『特集アメリカ』(「旅」別冊、JTB出版)を刊行する
・1977年(昭和52) 個展『私のニューヨーク』(銀座、大阪ニコンサロン)を開催、日本大学芸術研究所教授となり、同大学芸術学部写真学科で教鞭(~1992年)を執る
・1979年(昭和55) 写真集『慶應義塾』(美術出版社)を刊行する
・1981年(昭和56) 第3代日本写真家協会(JPS)会長に就任する
・1982年(昭和57) 個展『なぜ写真を撮るかPart I』(フォトギャラリーワイド)、個展『なぜ写真を撮るかPart II』(ナガセフォトサロン)を開催、写真集『昭和写真・全仕事(7)三木淳』(朝日新聞社)を刊行する
・1983年(昭和58) 国内初の写真専門美術館、「土門拳記念館」(山形県酒田市)開館して初代館長(~1992年)に就任、紫綬褒章を受章する
・1984年(昭和59) 写真集『宮中歳時記』(中央公論社)、『ニコン党入門』(池田書店)を刊行する
・1985年(昭和60) 九州産業大学大学院芸術研究科教授に就任する
・1988年(昭和63) 個展ニコンサロン開館20周年記念展『三木淳写真展-ある日そのとき』(銀座ニコンサロン)、個展『あなた知っていますか』(コダックフォトサロン)を開催、日本写真家協会(JPS)会長を辞任、第38回写真協会年度賞を受賞する
・1989年(平成元) 『LIFEのカメラアイ』(小学館)を刊行、日本写真作家協会(JPA)発足、初代会長(~1992年)に就任、勲三等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 個展「ビートルズのリヴァプール」(銀座、大阪ニコンサロン)を開催、『英国物語』(グラフィック社)を刊行、第40回日本写真協会功労賞を受賞する
・1992年(平成4)2月22日 東京都港区の病院において、急性心不全により、72歳で亡くなり、正五位を追贈される
・1993年(平成5) 追悼写真展『新東京百景』(銀座、大阪ニコンサロン)が開催、酒田市特別功労賞を受賞、追悼写真集『蘭嶼-ニコンサロンブック20-』(ニッコールクラブ)が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1590年(天正18)日本画家狩野永徳の命日(新暦10月12日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母春日局の命日(新暦10月26日)詳細
1905年(明治38)奥羽線の湯沢駅~横手駅間が開業し、福島駅~青森駅間(奥羽本線)が全通する詳細
1947年(昭和22)カスリーン台風が来襲し甚大な被害をもたらし始める詳細
1950年(昭和25)キジア台風によって、大雨に見舞われ、山口県岩国市の錦川にかかる錦帯橋が流失する詳細
1954年(昭和29)木下恵介監督の映画『二十四の瞳』(壷井栄原作)が封切られる詳細
2007年(平成19)日本画家高山辰雄の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

eigadanshyun01
 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、小津安二郎監督の映画『晩春』が封切りされた日です。
 映画『晩春』(だんしゅん)は、昭和時代中期の1949年(昭和24)9月13日に封切りされた、小津安二郎監督の松竹映画です。原作は、広津和郎著の小説『父と娘』で、脚本を野田高梧と小津安二郎が担当し、主演は、娘役の原節子、父親役の笠智衆で、娘の結婚を巡るホームドラマを小津が初めて描いた作品でした。
 日本内外で、非常に高い評価を得て、1949年度の「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画部門で1位となり、英国映画協会(BFI)選定の2012年版「史上最高の映画」で15位に輝いています。その後、小津安二郎監督は、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)でも、原と笠のコンビで名作を送り出しています。

〇小津安二郎(おづ やすじろう)とは?

 昭和時代に活躍した、映画監督・脚本家です。明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。
 1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。
 しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。
 それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。
 1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。
 そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

☆小津安二郎監督の映画作品一覧

<サイレント映画>
・懺悔の刃(1927年)
・若人の夢(1928年)
・女房紛失(1928年)
・カボチヤ(1928年)
・引越し夫婦(1928年)
・肉体美(1928年)
・宝の山(1929年)
・学生ロマンス 若き日(1929年)
・和製喧嘩友達(1929年)
・大学は出たけれど(1929年)
・会社員生活(1929年)
・突貫小僧(1929年)
・結婚学入門(1930年)
・朗かに歩め(1930年)
・落第はしたけれど(1930年)
・その夜の妻(1930年)
・エロ神の怨霊(1930年)
・足に触つた幸運(1930年)
・お嬢さん(1930年)
・淑女と髯(1931年)
・美人哀愁(1931年)
・東京の合唱(1931年)
・春は御婦人から(1932年)
・大人の見る繪本 生れてはみたけれど(1932年)
・青春の夢いまいづこ(1932年)
・また逢ふ日まで(1932年)
・東京の女(1933年)
・非常線の女(1933年)
・出来ごころ(1933年)
・母を恋はずや(1934年)
・浮草物語(1934年)□
・箱入娘(1935年)×□
・東京の宿(1935年)□
・大学よいとこ(1936年)

<トーキー映画>
・鏡獅子(1936年) - 記録映画
・一人息子(1936年)
・淑女は何を忘れたか(1937年)
・戸田家の兄妹(1941年)
・父ありき(1942年)
・長屋紳士録(1947年)
・風の中の牝雞(1948年)
・晩春(1949年)
・宗方姉妹(1950年)
・麦秋(1951年)
・お茶漬の味(1952年)
・東京物語(1953年)
・早春(1956年)
・東京暮色(1957年)
・彼岸花(1958年)
・お早よう(1959年)
・浮草(1959年)
・秋日和(1960年)
・小早川家の秋(1961年)
・秋刀魚の味(1962年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1791年(寛政3)俳人で中興五傑の一人とされる加舎白雄の命日(新暦10月10日)詳細
1948年(昭和23)昭和電工事件で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕される詳細
1953年(昭和28)弁護士・社会運動家布施辰治の命日詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争)詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

matsukawajikengenba01
 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、松川事件で、最高裁が検察側による再上告を棄却し、被告17名全員の無罪が確定した日です。
 松川事件(まつかわじけん)は、第二次世界大戦後続いた、一連の不可解な事件(下山事件、三鷹事件など)の一つで、昭和時代中期の1949年(昭和24)8月17日未明、何者かによって当時の国鉄東北本線の旅客列車が福島県信夫郡金谷川村(現在の福島県福島市松川町)で転覆させられ、機関車の乗務員3名が死亡した事件です。
 それに関連して、東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の労働組合員等合計20名が、不当逮捕・起訴されました。一審、二審判決では、有罪(死刑含む)とされましたが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、全国的な支援活動もあって、1963年(昭和38)9月12日に、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告全員の無罪が確定しています。
 作家の松本清張は「日本の黒い霧」の中で、アメリカ軍防諜部隊の関与を唱えました。事件現場には殉職の碑が、近くには、松川記念塔が立てられています。

〇松川事件関係略年表

<1949年(昭和24)>
・8月17日 何者かによって当時の国鉄東北本線の旅客列車が福島県信夫郡金谷川村(現在の福島県福島市松川町)で転覆させられ、機関車の乗務員3名が死亡する
・9月10日 元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受ける
・9月22日 国労員5名および東芝労組員2名が逮捕される
・10月4日 東芝労組員5名が逮捕される
・10月8日 東芝労組員1名が逮捕される
・10月17日 東芝労組員2名が逮捕される
・10月21日 国労員4名が逮捕される

<1950年(昭和25)>
・3月15日 弁護士の岡林辰雄が、新聞『赤旗』13月15日号に「主戦場は法廷の外」という論文を発表する
・12月6日 福島地方裁判所による一審判決では、被告人20名全員が有罪(うち死刑5名)となる

<1951年(昭和26)>
・12月 一審で有罪判決を受けた被告が、『真実は壁を透かして』という文集を出版する

<1952年(昭和26)>
・4月6日 広津和郎が、『朝日新聞』に発表した「回れ右―政治への不信ということ―」で、裁判を批判する

<1953年(昭和28)>
・10月 宇野浩二は、『文藝春秋』に、「世にも不思議な物語」を発表して松川事件裁判を批判する
・12月22日 仙台高等裁判所による二審判決では、17名が有罪(うち死刑4名)、3名が無罪となる

<1954年(昭和28)>
・4月 広津和郎は、『中央公論』4月号から、第二審判決を批判する連載を始める

<1959年(昭和34)>
・8月10日 最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻す

<1961年(昭和36)>
・8月8日 仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決が出る

<1963年(昭和38)>
・9月12日 最高裁は検察側による再上告を棄却、被告人全員の無罪が確定する

<1964年(昭和39)>
・8月16日 事故現場から約150メートルほど離れた線路脇で合同慰霊祭が開催される
・8月17日 汽車転覆等および同致死罪の公訴時効を迎える

<1970年(昭和45)>
・8月 被告人たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下す

☆当時の国鉄ミステリー事件の一覧

・庭坂事件(1948年4月27日) 奥羽線赤岩~庭坂間で発生
 脱線地点付近の線路継目板2枚、犬釘6本、ボルト4本が抜き取られていて、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。
・予讃線事件(1949年5月9日) 予讃線浅海 - 伊予北条駅間で発生
 脱線地点で、継ぎ目板2カ所4枚、ボルト8本、犬釘7本が故意に抜き取られており、列車が転覆し、死者3人を出しましたが、真相は不明です。
・下山事件(1949年7月6日) 常磐線北千住~綾瀬駅間で発生
 当時の国鉄総裁下山定則が失踪し、翌日に国鉄常磐線北千住駅~ 綾瀬駅間(東京都足立区綾瀬)で汽車に轢断された遺体となって発見された事件です。しかし半年後、警視庁は他殺説・自殺説ともに決め手のないままで捜査本部を閉じ、真相不明のまま1964年(昭和39)の時効成立で迷宮入りとなりました。
・三鷹事件(1949年7月15日) 中央本線三鷹駅で発生
 中央本線三鷹駅構内で、無人列車が暴走して車止めに激突し、脱線転覆、突っ込んだ線路脇の商店街などで、6名が車両の下敷となって即死し、負傷者も20名出る大惨事となりました。国鉄労働組合員11人が共同謀議による犯行として逮捕・起訴されましたが、結局は元運転士の単独犯として死刑判決が言い渡され、獄死しました。しかし、冤罪ではなかったかとも言われ、その後長男による再審請求がなされています。
・松川事件(1949年8月17日) 東北本線松川~金谷川駅間で発生
・まりも号脱線事件(1951年5月17日) 根室本線新得~落合駅間で発生
 脱線地点では、レールの継ぎ目板を外し、レールを4 cmずらされていて、蒸気機関車が線路外に逸脱して宙吊りとなり、軽傷者1人を出しましたが、真相は不明です。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1868年(明治元)明治新政府が江戸幕府の洋学教育研究機関「開成所」を「開成学校」として復興する(新暦10月27日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細
1887年(明治20)日本画家堅山南風の誕生日詳細
1913年(大正2)「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

WWF01
 今日は、昭和時代前期の1961年(昭和36)に、「世界野生生物基金」(世界自然保護基金の前身)が設立された日です。
 「世界自然保護基金」(せかいしぜんほごききん)は、世界の野生生物とその生息地を保護するための基金で、英語名は、World Wide Fund for Nature(略称:WWF)です。前身は、世界野生生物基金(略称:WWF)で、アフリカの野生生物を危機から救うために、1961年(昭和36)9月11日に、鳥類学者のマックス・ニコルソン、鳥類学者のピーター・スコット、実業家のビクター・ストーラン、アマチュア鳥類学者のガイ・マウントフォート、オランダ王配ベルンハルトらによって、ロンドンで設立宣言がなされ、初代の総裁には、ベルンハルトが就任しました。
 ジャイアントパンダをシンボルマークに選び、スイスのレマン湖畔に事務局を置き「モルジュ宣言」を採択します。1980年(昭和55)に、国連環境計画(UNEP)、IUCNとともに世界の自然保護の指針とするための「世界保全戦略」を作成しました。
 1986年(昭和61)には、その活動の重点を、それまでの個々の絶滅の危機に瀕(ひん)している動植物種の保護から、熱帯林(ジャングル)・湿地・サンゴ礁などの生態系の保全、その持続的利用にまで拡大させ、名称を「世界自然保護基金」に改めます。そして、生物種の多様性を守るためには生物圏の保護が優先するという立場から、その生物圏の保全のために、①世界の生物多様性を守る、②再生可能な自然資源の持続可能な利用が確実に行われるようにする、③環境汚染と浪費的な消費の削減を進める、という三つの使命を掲げ世界の自然を守る運動を展開してきました。
 1991年(平成3)には、その具体的行動を提唱した「新世界環境保全戦略」を発表しています。日本でも、1968年(昭和43)に野生生物保護基金日本委員会が結成され、1971年(昭和46)に財団法人としての認可を受け、世界野生生物基金日本委員会(通称:WWFJ)となり、1986年(昭和61)世界自然保護基金日本委員会に改称しました。

〇世界自然保護基金関係略年表

・1960年代初頭 アフリカでは多くの国々が独立し、動物たちが無益に殺され、動物たちが姿を消してしまうという強い危惧が生まれる
・1961年(昭和36)9月11日 「世界野生生物基金」(世界自然保護基金の前身)が設立される
・1968年(昭和43) 野生生物保護基金日本委員会が結成される
・1971年(昭和46) 日本委員会が財団法人としての認可を受け、世界野生生物基金日本委員会(通称:WWFJ)となる
・1980年(昭和55) 国連環境計画(UNEP)、IUCNとともに世界の自然保護の指針とするための「世界保全戦略」を作成する
・1986年(昭和61) 活動を拡大させ、名称を「世界自然保護基金」に改め、日本でも世界自然保護基金日本委員会に改称する
・1991年(平成3) 具体的行動を提唱した「新世界環境保全戦略」を発表する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚する(新暦10月10日)詳細
810年(大同5)藤原藥子・仲成らが平城天皇の復位を企てて失敗した、薬子の変が起きる(新暦10月12日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1008年(寛弘5)第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ