
今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、花森安治が雑誌「美しい暮しの手帖」(「暮しの手帖」の前身)を創刊した日です。
雑誌「暮しの手帖」(くらしのてちょう)は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に創立した衣裳研究所の花森安治、大橋鎮子らが「美しい暮しの手帖」の誌名で創刊し、1954年(昭和29)に現在名に改称された生活雑誌です。発行当初より、「暮しの変革を理念よりも日常生活の実践を通して」行おうとする編集方針を一貫していて、スポンサーの意向によって内容が左右されるのを防ぐため、他社の広告がいっさい入っていないのが特徴でした。
創刊当初は、季刊(年4回発行)でしたが、1968年(昭和43)2月の第93号からは、隔月刊(年6回発行)に変更されています。衣食住の合理化をめざし、自ら市販商品の使用テスト・分析を行い、その結果を掲載するなど特異な編集方針を持っていて、女性を中心とする読者の支持を得ました。
尚、2016年(平成28)4月にスタートしたNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、3姉妹が父の死を乗り越えて成長し、戦後は生活雑誌を創刊、編集者として活躍するドラマで、ヒロイン小橋常子のモデルは大橋とされています。
創刊当初は、季刊(年4回発行)でしたが、1968年(昭和43)2月の第93号からは、隔月刊(年6回発行)に変更されています。衣食住の合理化をめざし、自ら市販商品の使用テスト・分析を行い、その結果を掲載するなど特異な編集方針を持っていて、女性を中心とする読者の支持を得ました。
尚、2016年(平成28)4月にスタートしたNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、3姉妹が父の死を乗り越えて成長し、戦後は生活雑誌を創刊、編集者として活躍するドラマで、ヒロイン小橋常子のモデルは大橋とされています。
〇雑誌「暮しの手帖」関係略年表
・1946年(昭和21) 花森安治と大橋鎭子が「衣装研究所」を銀座8丁目のビルの一室で設立する
・1948年(昭和23) 季刊「美しい暮しの手帖」として(第1世紀)第1号が創刊される
・1953年(昭和28) 12月の第22号から雑誌名を現在の「暮しの手帖」に変更される
・1954年(昭和29) 第26号から、生活用品を実際に使用して性能をテストする商品テストが掲載開始される
・1956年(昭和31) 「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」について第4回菊池寛賞を受賞する
・1968年(昭和43) 2月の第93号からは、季刊(年4回発行)から隔月刊(年6回発行)に変更される
・1978年(昭和53)1月14日 初代編集長の花森安治が亡くなる
・2007年(平成19) 第4世紀26号・通巻376号より、文筆家・書籍商として知られる松浦弥太郎を編集長に迎え、現代的なスタイルを取り入れはじめる
・2015年(平成27) 8月20日付の80号(2−3月号)から、松浦弥太郎の後任として澤田康彦が編集長に就任する
・2016年(平成28) 前期放送のNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』は、本誌の創業の軌跡をモデルとしたフィクション作品として制作される
・2019年(令和元) 7月発売号からは第5世紀に突入する
☆花森安治(はなもり やすじ)とは?
昭和時代に活躍した、ジャーナリスト・編集者・装幀家・「暮しの手帖」編集長です。明治時代後期の1911年(明治44)10月25日に、兵庫県神戸市において生まれました。旧制兵庫県立第三神戸中学校を経て、旧制松江高等学校に進み、1933年(昭和8)に卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学します。
1935年(昭和10)の在学中に、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わり、1937年(昭和12)には、卒業論文「社会学的美学の立場から見た衣粧」を書いて、東京帝国大学文学部美学科を卒業後、徴兵検査を受けて、応召されました。1938年(昭和13)に結核に冒されたため、満州の陸軍病院に入院、1940年(昭和15)には、疾病を理由として除隊になります。
1941年(昭和16)に大政翼賛会に入り、宣伝部で戦時スローガン制作などの仕事に携わり、翌年には、戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!」、「屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に「衣裳研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊、1948年(昭和23)には、婦人家庭雑誌「美しい暮しの手帖」を大橋鎮子と創刊し、他社広告を掲載しない編集方針を掲げます。
1949年(昭和24)に、朝日麦酒(後のアサヒビール)広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務、キャッチコピーからデザイン、レイアウトを一手で引き受けました。1954年(昭和29)に「美しい暮しの手帖」を「暮しの手帖」と改題、1956年(昭和31)には、商品テストなど消費者の立場からの雑誌づくりが評価され、第4回菊池寛賞を受賞します。
1967年(昭和42)から戦時中の暮らしの記録を集めるようになり、1969年(昭和44)には、それらをまとめて『戦争中の暮しの記録』を刊行しました。1971年(昭和46)に『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』を刊行、翌年この著作で、第23回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞、また、「暮しの手帖」の活動により、ラモン・マグサイサイ賞を受賞します。
実証主義ジャーナリズムを展開して、庶民の日常生活の防衛と変革、消費者運動の推進に大いに寄与してきましたが、1978年(昭和53)1月14日に、東京において、心筋梗塞により66歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1935年(昭和10)の在学中に、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わり、1937年(昭和12)には、卒業論文「社会学的美学の立場から見た衣粧」を書いて、東京帝国大学文学部美学科を卒業後、徴兵検査を受けて、応召されました。1938年(昭和13)に結核に冒されたため、満州の陸軍病院に入院、1940年(昭和15)には、疾病を理由として除隊になります。
1941年(昭和16)に大政翼賛会に入り、宣伝部で戦時スローガン制作などの仕事に携わり、翌年には、戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!」、「屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に「衣裳研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊、1948年(昭和23)には、婦人家庭雑誌「美しい暮しの手帖」を大橋鎮子と創刊し、他社広告を掲載しない編集方針を掲げます。
1949年(昭和24)に、朝日麦酒(後のアサヒビール)広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務、キャッチコピーからデザイン、レイアウトを一手で引き受けました。1954年(昭和29)に「美しい暮しの手帖」を「暮しの手帖」と改題、1956年(昭和31)には、商品テストなど消費者の立場からの雑誌づくりが評価され、第4回菊池寛賞を受賞します。
1967年(昭和42)から戦時中の暮らしの記録を集めるようになり、1969年(昭和44)には、それらをまとめて『戦争中の暮しの記録』を刊行しました。1971年(昭和46)に『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』を刊行、翌年この著作で、第23回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞、また、「暮しの手帖」の活動により、ラモン・マグサイサイ賞を受賞します。
実証主義ジャーナリズムを展開して、庶民の日常生活の防衛と変革、消費者運動の推進に大いに寄与してきましたが、1978年(昭和53)1月14日に、東京において、心筋梗塞により66歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1187年(文治3) | 藤原俊成が『千載和歌集』(第七番目の勅撰和歌集)を後白河法皇に撰進する(新暦10月23日) | 詳細 |
1806年(文化3) | 浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日) | 詳細 |
1852年(嘉永5) | 囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日) | 詳細 |
1903年(明治36) | 京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日) | 詳細 |
1943年(昭和18) | 農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の命日 | 詳細 |
1945年(昭和20) | 「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(勅令第542号)が公布・施行される(ポツダム命令) | 詳細 |
1951年(昭和26) | 詩人峠三吉が『原爆詩集』をガリ版刷りにより発行する | 詳細 |