ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年08月

Kittytaifuu01
 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、キティ台風(昭和24年台風第10号)が、神奈川県小田原市の西に上陸し、大きな被害をもたらした日です。
 キティ台風(きてぃたいふう)は、昭和時代中期の1949年(昭和24)8月28日に南鳥島近海で発生、昭和24年台風第10号(国際名:キティ/Kitty)と名付けられた台風です。8月31日19時過ぎに神奈川県小田原市の西に上陸、その後北進し、東京都西部・埼玉県熊谷市を通り、9月1日0時頃に新潟県柏崎市付近から日本海に進んで、温帯低気圧に変わりました。
 東海・関東・北日本の日本海側等では、台風の影響により各地で20mを超す暴風が吹き、八丈島(東京都八丈町)で最大風速33.2m/s(最大瞬間風速47.2m/s)、横浜で最大風速35.2m/s(最大瞬間風速44.3m/s)、東京でも最大瞬間風速30.2m/sを記録しています。関東北部や新潟県の山岳部で大雨となり、群馬県勢多郡東村(現在のみどり市)沢入で、大規模な土砂崩れが生じて29名が死亡、信濃川や渡良瀬川の上流部では堤防が決壊、台風の通過が満潮時と重なったことから東京湾などで高潮となり、大規模な浸水被害に遭い大災害となりました。
 この結果、死者135名、行方不明者25名、負傷者479名、住家全壊3,733棟、住宅半壊13,470棟、床下浸水92,161棟、耕地被害48,598ha、船舶被害2,907隻など大きなな被害が出ます。台風名の由来は、太平洋戦争後の占領下において、連合軍気象隊が台風の発生順にアルファベット(ABC……)の頭文字をもつ女性の名前を順次つけていったことにより、Kで始まるキティ(Kitty)と名付けられました。

〇太平洋戦争後(1945年~)の記録的台風一覧

<1940年代>
・枕崎台風(昭和20年台風第16号・Ida)
・阿久根台風(昭和20年台風第20号・Louise)
・カスリーン台風(昭和22年台風第9号・Kathleen)
・アイオン台風(昭和23年台風第21号・Ione)
・デラ台風(昭和24年台風第2号・Della)
・ジュディス台風(昭和24年台風第9号・Judith)
・キティ台風(昭和24年台風第10号・Kitty)

<1950年代>
・ジェーン台風(昭和25年台風第28号・Jane)
・ルース台風(昭和26年台風第15号・Ruth)
・ダイナ台風(昭和27年台風第2号・Dinah)
・昭和28年台風第13号 (Tess)
・昭和29年台風第12号(June)
・洞爺丸台風(昭和29年台風第15号・Marie)
・狩野川台風(昭和33年台風第22号・Ida)
・昭和34年台風第7号(Georgia)
・宮古島台風(昭和34年台風第14号・Sarah)
・伊勢湾台風(昭和34年台風第15号・Vera)

<1960年代>
・第2室戸台風(昭和36年台風第18号・Nancy)
・昭和36年台風第26号
・昭和40年台風第23・24・25号
・第2宮古島台風(昭和41年台風第18号・Cora)
・昭和41年台風第24・26号
・第3宮古島台風(昭和43年台風第16号・Della)

<1970年代>
・昭和49年台風第8号
・昭和51年台風第17号 (Fran)
・沖永良部台風(昭和52年台風第9号・Babe)
・昭和54年台風第20号 (Tip)

<1980年代>
・昭和57年台風第10号 (Bess)
・昭和62年台風第12号 (Dinah)
・平成元年台風第6号
・平成元年台風第11・12・13号
・平成元年台風第17号
・平成元年台風第22号

<1990年代>
・平成2年台風第19号 (Flo)
・平成2年台風第20号
・平成3年台風第17号
・平成3年台風第18号
・平成3年台風第19号 (Mireille)
・平成4年台風第10号
・平成5年台風第13号 (Yancy)
・平成11年台風第18号 (Bart)

<2000年代>
・平成15年台風第14号 (Maemi)
・平成16年台風第18号 (Songda)
・平成16年台風第23号 (Tokage)
・平成17年台風第14号 (Nabi)

<2010年代>
・平成23年台風第12号 (Talas)
・平成25年台風第26号 (Wipha)
・平成28年台風第10号 (Lionrock)
・平成30年台風第21号 (Jebi)
・令和元年房総半島台風 (令和元年台風第15号・Faxai)
・令和元年東日本台風(令和元年台風第19号・Hagibis)

<2020年代>
・令和4年台風第14号 (Nanmadol)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家、南画家小室翠雲の誕生日詳細
1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1908年(明治41)物理化学者森野米三の誕生日詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1922年(大正11)薬理学者・分子生物学者江橋節郎の誕生日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

dainihonroudousoudoumeiyuua
 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、友愛会が7周年大会で、大日本労働総同盟友愛会に改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定した日です。
 友愛会(ゆうあいかい)は、鈴木文治等によって結成された労働者団体です。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)8月30日の7周年大会では、大日本労働総同盟友愛会と改称し、理事の合議制、会長の公選などを決定するに至ります。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称しました。

〇友愛会綱領(1912年結成当初)

第一条:我等は互に親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
第二条:我等は公共の理想に従い、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
第三条:我等は共同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。

〇20ヶ条の主張(1919年第7周年大会)

(1)労働非商品の原則
(2)労働組合の自由
(3)十四歳未満の幼年労働の廃止
(4)最低賃金制度の確立
(5)同一労働に対する男女平等賃金制の確立
(6)一周一日、日曜日の休日
(7)八時間労働および一週四十八時間制
(8)夜業禁止
(9)婦人労働監督官の設置
(10)労働保険法の実施
(11)争議仲裁法の発布
(12)失業防止
(13)内外労働者の同一待遇
(14)労働者住宅を公営にて改良をはかること
(15)労働賠償制度の確立
(16)内職労働の改善
(17)契約労働の廃止
(18)普通選挙
(19)治安警察法の改正
(20)教育制度民主化

〇友愛会関係略年表(日本労働総同盟と改称まで)

・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)8月30日 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、日本労働総同盟友愛会と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての日本労働総同盟となる

☆日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)とは?

 大正時代の1912年(大正元)に鈴木文治等によって結成された労働者団体「友愛会」が前身となります。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。
 また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、「大日本労働総同盟友愛会」と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。
 1923年(大正12)の共産党弾圧事件の後、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まり、1925年(大正14)5月には、左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減(第1次分裂)します。その後、1926年(大正15)に中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成され(第2次分裂)、1929年(昭和4)には、脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成(第3次分裂)しました。
 1931年(昭和6)の満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げるようになり、1932年(昭和7)には、改良主義組合を糾合して、「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となります。さらに、1936年(昭和11)に中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成しました。
 1937年(昭和12)から始まる日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示します。しかし、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取りました。
 ところが、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めています。その後、同年11月23日に、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織「大日本産業報国会」が結成されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)江戸幕府が古賀謹一郎を頭取として、九段下に洋学所(後の蕃書調所)を設立する(新暦10月10日)詳細
1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1872年(明治5)「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出される(新暦10月2日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1940年(昭和15)松岡洋右外相とアンリ仏大使が「北部仏印進駐に関する協定(松岡・アンリ協定)」を締結する詳細
1941年(昭和16)「金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ienagasaburou001
 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、家永教科書裁判の第3次訴訟で、最高裁が原告の主張を一部認め、国側に40万円の支払いを命ずる“一部勝訴”判決を出し、家永教科書裁判が終結した日です。
 家永教科書裁判(いえながきょうかしょさいばん)は、歴史学者家永三郎(当時は東京教育大学教授)が執筆した、高等学校用日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)に対する教科書検定に関して、昭和時代後期に日本国政府を相手に起こした3つの裁判のことです。1965年(昭和40)提訴の第一次訴訟(教科書検定被害に対する国家賠償を請求)、1967年(昭和42)提訴の第二次訴訟(不当な教科書検定行政処分取り消しを請求)、1984年(昭和59)提訴の第三次訴訟(正誤訂正申請不受理処分を対象に国家賠償を請求)がありました。
 これに至る経緯は、1962年度の文部省教科書検定において、『新日本史』が不合格とされ、1963年度には条件つき合格となったものの大量の改善・修正意見がついたことによるものです。これは、「日本国憲法」 21条の表現の自由、検閲の禁止、23条の学問の自由、26条の教育を受ける権利に違反し、また、「教育基本法」 10条に定める教育行政の裁量権を逸脱した不当行為として、提訴したものでした。
 しかし、最高裁は「検閲にはあたらない」とし、教科書検定制度を合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、原告の実質的敗訴が確定したのです。一方、検定内容の適否については、1993年(平成5)東京高裁は「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」の3ヶ所の記述削除を違法とし、1997年(平成9)最高裁はさらに「731部隊」を加えた計 4ヵ所の記述削除を「国の裁量権逸脱」として違法とし、計40万円の支払いを国に命じました。
 この一連の裁判は、教科書検定制度の問題点を世間に明らかにし、公教育の在り方を広く問うものとなったのです。

〇家永教科書裁判関係略年表

・1952年(昭和27) 家永三郎が高校教科書「新日本史」(三省堂)の執筆を始める
・1955年(昭和30) 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立する
・1957年(昭和32) 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出する
・1963年(昭和38) 「新日本史」第五版が一旦検定不合格となる
・1964年(昭和39) 「新日本史」第五版が条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強める
・1965年(昭和40)6月12日 国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起する
・1967年(昭和42)6月23日 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起する
・1970年(昭和45)7月17日 第2次訴訟で東京地裁が、「教科書検定は教育への国の不当な介入で違憲である」として、検定不合格取消の判決(杉本判決)を出す
・1984年(昭和59)1月19日 再び国家賠償請求訴訟(第3次)を提起する
・1989年(平成元)6月27日 第2次訴訟は、東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下される
・1993年(平成5)3月16日 第1次訴訟は、最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持される
・1997年(平成9)8月29日 第3次訴訟は、最高裁で1ヵ所の書き換え処分が違法とされ、国側に40万円の支払いを命ずる“一部勝訴”判決が出る(一連の教科書裁判終結)

☆家永三郎(いえなが さぶろう)とは?

 昭和から平成時代に活躍した歴史学者・一連の教科書裁判の原告です。大正時代の1913年(大正2)9月3日に、後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれましたが、1921年(大正10)に東京に転居しました。
 1934年(昭和9)に東京高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、1937年(昭和12)に卒業します。教学局日本文化大観編纂助手を経て、1941年(昭和16)に新潟高等学校教授となり、1944年(昭和19)には、東京高等師範学校教授に転じました。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に仙台へ疎開したものの、戦後は東京に戻り、1946年(昭和21)には、文部省教科書編纂委員嘱託として、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆します。初めは実証主義の史家として知られ、やまと絵の研究に関わる『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、1948年(昭和23)に日本学士院恩賜賞を受賞しました。
 1949年(昭和24)に、学制改革により、東京教育大学文学部史学科教授となり、1950年(昭和25)には、学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』により、東京大学より文学博士を得ます。1952年(昭和27)に高校教科書「新日本史」(三省堂発行)の執筆を始め、1954年(昭和29)には、「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加しました。
 1955年(昭和30)に高校教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立、1957年(昭和32)には、第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出します。1959年(昭和34)の東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこない、1963年(昭和38)に「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強めました。
 1965年(昭和40)に国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起、1967年(昭和42)に「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起します。1977年(昭和52)に東京教育大学定年退官後、中央大学法学部教授に就任、1984年(昭和59)に中央大学を定年退職、再び1980年代の教科書検定を対象に国家賠償請求訴訟(第3次)を提起しました。
 1989年(平成元)に第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下され、1993年(平成5)に第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持されましたが、第3次訴訟では、検定制度自体は合憲としながらも1審で1ヶ所、控訴審理で3ヶ所、上告審で4ヶ所の検定意見の違法が認められ、国側に40万円の支払いを命ずる判決が、1997年(平成9)に最高裁で出され、“一部勝訴”となって、一連の教科書裁判は終結します。これによって、当時の文部省は検定制度見直しを迫られ、簡素化を中心にした1989年(平成元)の制度の全面改定につながりました。
 古代から近代にいたる日本思想史の研究、3次にわたる教科書裁判で注目を浴びたものの、2002年(平成14)11月29日に東京において、89歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1863年(文久3)江戸幕府が洋書調所を開成所と改称する(新暦10月11日)詳細
1888年(明治21)経済学者・財政学者で、法政大学総長だった大内兵衛の誕生日詳細
1900年(明治33)洋画家牛島憲之の誕生日詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細
1959年(昭和34)三井鉱山が「第二次企業整備案」を提示し、三井三池争議が始まる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

GHQhonbu02
 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、アメリカ軍の先遣隊が厚木基地に上陸し、横浜に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部を置いた日です。
 連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)は、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、連合国軍が日本を占領・管理するための最高司令部として設置したるので、英語名をGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powersと言い、GHQと略称で呼ばれました。
 8月14日に、日本が「ポツダム宣言」を受諾して降伏すると同時に、連合国の同意の下にアメリカのマッカーサー元帥が連合国軍最高司令官に任命され、8月28日にアメリカ軍の先遣隊が厚木基地に上陸し、横浜に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部が設置されます。8月30日に、マッカーサーが厚木基地に到着し、9月2日には、東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印が行われ、連合軍による日本占領が急展開しました。
 10月には、東京日比谷の第一相互ビル(現在の第一生命ビル)にGHQが移動、幕僚各局や民政局(GS)・経済科学局(ESS)・民間情報教育局(CIE)・天然資源局(NRS)などが設置され、これに極東国際軍事裁判所・国際検事局などが付設されます。日本政府は、9月20日に緊急勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」を公布し、占領行政に関して法律に代わる勅令(いわゆるポツダム勅令)を出してGHQの指令を実施しました。
 1946年(昭和21)に政策決定機関として極東委員会、司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、極東委員会の下にGHQがあり、米・英・ソ・中からなる対日理事会に諮問することが定められたものの、実質的には、GHQはアメリカ単独で組織され、アメリカの意向に添った政策が実施され、絶大な権限を行使します。1951年(昭和26)、朝鮮戦争に関して、マッカーサーがトルーマン米大統領と衝突して解任され、M・B・リッジウェーリッジウェーにひき継がれました。
 しかし、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ講和条約」の発効と同時に廃止されています。

〇連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)関係略年表

<1945年(昭和20)>
・7月26日:連合国が連名で「ポツダム宣言」を発表する
・8月14日:日本政府が「ポツダム宣言」の受諾を通告し、昭和天皇が終戦の詔書を出す
・8月15日:昭和天皇が国民に向けて「ポツダム宣言」の受諾を発表(玉音放送)し、鈴木貫太郎内閣総辞職する
・8月17日:東久邇宮稔彦王内閣成立する
・8月28日:テンチアメリカ陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、連合国軍本部を設置する
・8月30日:マッカーサー厚木飛行場に降り立ち、横浜税関の建物を接収して太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を設置する
・9月2日:日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印、GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る
・9月8日:連合国軍が、東京を占領後、都内の建物600箇所以上を接収する
・9月10日:「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令、連合国軍が検閲を開始する
・9月15日:東京・日比谷の第一生命館を接収する
・9月16日:連合国軍本部が横浜から第一生命館に移転する
・9月17日:マッカーサー、東京の本部に入る
・9月18日:朝日新聞への二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)する
・9月19日:言論統制のためのプレスコードが出される
・9月20日:連合国軍最高司令官の法的根拠を定めたポツダム緊急勅令が公布、同日から施行される
・9月22日:放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令する
・9月27日:昭和天皇、GHQ本部へ行幸。密談が行われる
・10月2日:連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置、一般命令第4号により「民間情報教育局」が米太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)より移行する
・10月4日:自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令する
・10月9日:東久邇宮内閣総辞職し、幣原内閣が成立する
・10月11日:女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示する
・10月15日:治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了する
・11月18日:皇族資産凍結の指令する
・12月6日:近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令する
・12月7日:いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)する
・12月8日:太平洋戰爭史を全国の新聞へ掲載させる
・12月9日:農地改革を指示。眞相はかうだの放送を開始する
・12月15日:神道指令を指示(政教分離等)する
・12月31日:「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令、修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される

<1946年(昭和21)>
・1月4日:軍人・戦犯・軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示する
・2月:イギリス連邦占領軍が本格的な日本進駐を開始。直ちに中国地方および四国地方の占領任務を、1945年9月より同地に進駐していたアメリカ軍から引き継ぐ
・2月3日:マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる
・2月13日:ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる
・3月6日:日本政府が、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表する
・5月3日:極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷する
・11月3日:「日本国憲法」が公布される
・12月18日:ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)する

<1947年(昭和22)>
・1月31日:マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令、伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)する
・5月:総司令部内に賠償局を設置する
・5月:GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる
・5月3日:「日本国憲法」が施行される
・7月11日:マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案する
・7月22日:ソ連が米国提案の対日講和会議に反対する

<1948年(昭和23)>
・6月30日:福井地震の被災地救援活動を発表。上空から支援物資の投下、救援列車の編成などが行われる
・11月12日:東京裁判がA級戦犯25人に有罪判決、うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根に死刑判決が出る
・11月30日:政令201を受け「国家公務員法」を改正、公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)する
・12月8日:民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)する
・12月18日:GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換。逆コースの始まり)する
・12月23日:東条英機ら旧指導者7人に死刑執行される

<1949年(昭和24)>
・3月1日:GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)する
・5月3日:帰国中のチャールズ・ケーディス大佐が民政局次長を辞任する
・5月10日:浦和事件の判決の刑期は不当であるという旨のGHQの指摘により行われた国政調査権調査は越権行為であるとして最高裁判所が抗議を申入れる(参議院は裁判官会議によるの申入れが越権行為であると回答)
・9月15日:シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表する
・11月1日:米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明、講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)する

<1950年(昭和25)>
・6月6日:マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放する
・6月25日:朝鮮戦争勃発(- 1953年)。アメリカ合衆国軍とイギリス連邦占領軍が大韓民国を支援するため出動し、日本が前線基地となる
・7月8日:マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8,000名増員)を求める書簡を送る
・7月24日:GHQ/SCAP、日本共産党幹部逮捕と日本新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)する
・8月10日:警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる
・8月27日:第2次アメリカ教育使節団来日する
・9月14日:米トルーマン大統領、対日講和と日米安全保障条約締結交渉の開始を指令する
・11月24日:米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記する

<1951年(昭和26)>
・1月:マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く
・4月11日:マッカーサー、朝鮮戦争で中国東北部空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭(英語版)される
・4月16日:マッカーサーとホイットニーら、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)する
・9月8日:サンフランシスコ講和会議で「日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)」を調印(ソ連は未署名)、続いて日米安全保障条約に調印する

<1952年(昭和27)>
・2月28日:「日米行政協定」が締結される
・4月28日:「日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)」が発効、日本の主権回復に伴い、GHQが解体され、SCAPが廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
1886年(明治19)医学者で名古屋大学総長だった勝沼精蔵の誕生日詳細
1899年(明治32)台風による別子大水害が起き、別子銅山で死者513人を出し、大量の鉱毒水が流出する詳細
1923年(大正12)「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)において大きな被害が出る詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

otokowaturaiyo01
 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、山田洋二監督の映画『男はつらいよ』(渥美清主演)第一作が公開された日です。
 映画『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)の松竹映画のシリーズです。1969年(昭和44)~2019年(令和元)まで50作が制作されました。
 渥美清が演じる車寅次郎(フーテンの寅)と、その家族や周囲の人々との交流を描く人情喜劇です。渥美清の死去により、1995年(平成7)12月の第48作『寅次郎紅の花』がシリーズ最終作となりましたが、1997年(平成9)に、「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」が公開され、映画第1作公開から50周年に当たる2019年(令和元)12月27日には、旧作の名場面に新撮部分を加えた第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』が公開されました。

〇映画「男はつらいよ」シリーズ一覧

・第1作(1969年8月27日封切)「男はつらいよ」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、森崎東
・第2作(1969年11月15日封切)「続・男はつらいよ」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、小林俊一、宮崎晃
・第3作(1970年1月15日封切)「男はつらいよ フーテンの寅」監督:森崎東、脚本:山田洋次、小林俊一、宮崎晃
・第4作(1970年2月27日封切)「新・男はつらいよ」監督:小林俊一、脚本:山田洋次、宮崎晃
・第5作(1970年8月25日封切)「男はつらいよ 望郷篇」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、宮崎晃
・第6作(1971年1月15日封切)「男はつらいよ 純情篇」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、宮崎晃
・第7作(1971年4月28日封切)「男はつらいよ 奮闘篇」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第8作(1971年12月29日封切)「男はつらいよ 寅次郎恋歌」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第9作(1972年8月5日封切)「男はつらいよ 柴又慕情」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第10作(1972年12月29日封切)「男はつらいよ」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第11作(1973年8月4日封切)「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆、宮崎晃
・第12作(1973年12月26日封切)「男はつらいよ 私の寅さん」」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第13作(1974年8月3日封切)「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第14作(1974年12月28日封切)「男はつらいよ 寅次郎子守唄」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第15作(1975年8月2日封切)「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第16作(1975年12月27日封切)「男はつらいよ 葛飾立志篇」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第17作(1976年7月24日封切)「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第18作(1976年12月25日封切)「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第19作(1977年8月6日 男はつらいよ 寅次郎と殿様」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第20作(1977年12月24日封切)「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第21作(1978年8月5日封切)「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第22作(1978年12月27日封切)「男はつらいよ 噂の寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第23作(1979年8月4日封切)「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第24作(1979年12月28日封切)「男はつらいよ 寅次郎春の夢」監督:山田洋次、朝間義隆、栗山富夫、レナード・シュレイダー
・第25作(1980年8月2日封切)「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第26作(1980年12月27日封切)「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第27作(1981年8月8日封切)「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第28作(1981年12月28日封切)「男はつらいよ 寅次郎紙風船」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第29作(1982年8月7日封切)「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第30作(1982年12月28日封切)「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第31作(1983年8月6日封切)「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第32作(1983年12月28日封切)「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第33作(1984年8月4日封切)「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第34作(1984年12月28日封切)「男はつらいよ 寅次郎真実一路」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第35作(1985年8月3日封切)「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第36作(1985年12月28日封切)「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第37作(1986年12月20日封切)「男はつらいよ 幸福の青い鳥」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第38作(1987年8月5日封切)「男はつらいよ 知床慕情」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第39作(1987年12月26日封切)「男はつらいよ 寅次郎物語」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第40作(1988年12月24日封切)「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第41作(1989年8月5日封切)「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第42作(1989年12月27日封切)「男はつらいよ ぼくの伯父さん」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第43作(1990年12月22日封切)「男はつらいよ 寅次郎の休日」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第44作(1991年12月23日封切)「男はつらいよ 寅次郎の告白」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第45作(1992年12月26日封切)「男はつらいよ 寅次郎の青春」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第46作(1993年12月25日男はつらいよ 寅次郎の縁談」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第47作(1994年12月23日封切)「男はつらいよ 拝啓車寅次郎様」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第48作(1995年12月23日封切)「男はつらいよ 寅次郎紅の花」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第49作(特別編)(1997年11月22日封切)「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆
・第50作(2019年12月27日封切)「男はつらいよ お帰り 寅さん」監督:山田洋次、脚本:山田洋次、朝原雄三

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

663年(天智天皇2)百済再興をめざす日本軍と唐・新羅連合軍との間で白村江の戦いが始まる(新暦10月4日)詳細
858年(天安2)第55代の天皇とされる文徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1714年(正徳4)本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の命日(新暦10月5日)詳細
1896年(明治29)詩人・童話作家宮沢賢治の誕生日詳細
1899年(明治32)東武鉄道初の路線である北千住駅~久喜駅間が開業する詳細
1928年(昭和3)フランスのパリにおいて、15ヶ国によって、「不戦条約」が調印される詳細
1949年(昭和24)GHQによって「第一次税制改革勧告文概要」(シャウプ勧告)が出される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ