ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年07月

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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、東京に於て、「日中原子力協定」が締結された日です。
 「日中原子力協定」(にっちゅうげんしりょくきょうてい)は、核物質や原子力関連資機材・技術が軍事目的に利用されることを防ぐために設けられた法的枠組みの二国間協定で、正式には「原子力の平和利用における協力のための日本国政府と中華人民共和国政府との間の協定」と言います。中国が国際原子力機関 (IAEA) の査察を受け入れること、日本の原発技術が軍事に転用されないことを保障する規定を明記しました。
 1983年(昭和58)9月に北京で開催された第3回日中閣僚会議において、両国の原子力平和利用分野における協力を促進し,発展させるべく政府間で話し合いを進めていくことで日中両国の意見が一致します。これを受けて、日中間の原子力協力に関する政府レベルの初めての会合が同年10月東京において開催されました。
 その後協議を重ねて、1985年(昭和60)7月31日に、第4回日中閣僚会議の場で締結に至ります。原子力分野における両国間の交流が一層拡充され、これを通じ,両国の友好関係の増進が図られることを期待するもとされました。
 日本は、これ以外に、米国・英国・フランス・カナダ・オーストラリア・ロシア・カザフスタン・インド・ベトナム・韓国・ヨルダン・トルコ・アラブ首長国連合とそれぞれ二国間協定を締結、欧州原子力共同体(EURATOM)との間でも締結しています。
 以下に、「日中原子力協力協定」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日中原子力協力協定」 1985年(昭和60)7月31日締結 1986年(昭和61)7月10日発効

原子力の平和的利用における協力のための日本国政府と中華人民共和国政府との間の協定

昭和61年7月10日 条約第6号

日本国政府及び中華人民共和国政府は、
原子力の平和的利用における両国間の協力を促進することを希望して、
次のとおり協定した。

第1条
 この協定の適用上、
 (a) 「両締約国政府」とは、日本国政府及び中華人民共和国政府をいう。
 (b) 「認められた者」とは、いずれか一方の締約国政府の管轄の下にある個人又は法人その他の団体であつて核物質、資材、設備及び施設を供給し若しくは受領すること又はコンサルタントの役務その他の役務を提供し若しくは受領することを当該締約国政府により認められた者をいい、日本国政府及び中華人民共和国政府を含まない。
 (c) 「設備」とは、原子力活動における使用のために特に設計され又は製造された機械、プラント若しくは器具又はこれらの主要な構成部分であつて、この協定の附属書BのA部に掲げるものをいう。
 (d) 「資材」とは、原子炉用の資材であつてこの協定の附属書BのB部に掲げるものをいい、核物質を含まない。
 (e) 「核物質」とは、次に定義する「原料物質」又は「特殊核分裂性物質」をいう。
 (i) 「原料物質」とは、次の物質をいう。
 ウランの同位元素の天然の混合率から成るウラン同位元素ウラン235の劣化ウラントリウム金属、合金、化合物又は高含有物の形状において前記のいずれかの物質を含有する物質他の物質であつて両締約国政府が文書により認める含有率において前記の物質の1又は2以上を含有するもの
 両締約国政府が文書により認めるその他の物質
 (ii) 「特殊核分裂性物質」とは、次の物質をいう。
 プルトニウム239
 ウラン233
 ウラン235
 同位元素ウラン233又は235の濃縮ウラン
 前記の物質の1又は2以上を含有する物質
 両締約国政府が文書により認めるその他の物質
 「特殊核分裂性物質」には、「原料物質」を含めない。
 (f) 「施設」とは、原子力活動における使用のために特に設計され又は建設された建物又は構築物をいう。
 (g) 「回収され又は副産物として生産された特殊核分裂性物質」とは、この協定に基づいて供給された核物質、資材、設備又は施設の使用から1又は2以上の処理により生ずる特殊核分裂性物質をいう。

第2条
 両締約国政府は、この協定並びにそれぞれの国において効力を有する関係法令及び許可要件に従うことを条件として、両国における原子力の平和的利用のため、次の方法により協力する。
 (a) 両締約国政府は、専門家の交換によるそれぞれの管轄内にある組織の間における協力を助長する。日本国の組織と中国の組織との間におけるこの協定に基づく取決め又は契約の実施に伴い専門家の交換が行われる場合には、両締約国政府は、それぞれこれらの専門家の自国の領域への入国及び自国の領域における滞在を容易にする。
 (b) 両締約国政府は、供給者と受領者との間において合意によつて定める条件で情報を交換することを容易にする。
 (c) 一方の締約国政府又はその認められた者は、供給者と受領者との間の合意によつて定める条件で、核物質、資材、設備及び施設を他方の締約国政府又はその認められた者に供給し又はこれらから受領することができる。
 (d) 一方の締約国政府又はその認められた者は、この協定の範囲内において、提供者と受領者との間の合意によつて定める条件で、他方の締約国政府又はその認められた者にコンサルタントの役務その他の役務を提供し又はこれらからコンサルタントの役務その他の役務の提供を受けることができる。
 (e) 両締約国政府が適当と認めるその他の方法

第3条
 第2条に規定する協力は、次に掲げる分野において行うことができる。
 (a) 放射性同位元素及び放射線の研究及び応用
 (b) ウラン資源の探鉱及び採掘
 (c) 軽水炉及び重水炉の設計、建設及び運転
 (d) 軽水炉及び重水炉の安全上の問題
 (e) 放射性廃棄物の処理及び処分
 (f) 放射線防護及び環境監視
 (g) 両締約国政府が合意するその他の分野

第4条
1 この協定に基づく協力は、平和的目的に限つて行う。
2 この協定に基づいて受領された核物質、資材、設備及び施設並びに回収され又は副産物として生産された特殊核分裂性物質は、いかなる核爆発装置の開発又は製造のためにも、また、いかなる軍事的目的のためにも使用してはならない。
3 2の規定の遵守を確保するため、両締約国政府は、この協定に基づいて受領された核物質、資材、設備及び施設並びに回収され又は副産物として生産された特殊核分裂性物質に関し、それぞれの異なる立場に従い、国際原子力機関に対して、それぞれの管轄内において保障措置を適用することを要請する。

第5条
 この協定に基づいて受領された核物質、資材、設備及び施設並びに回収され又は副産物として生産された特殊核分裂性物質は、他方の締約国政府の文書による事前の同意がある場合を除き、一方の締約国政府の管轄の外に移転してはならない。

第6条
1 両締約国政府は、それぞれその管轄内にあるこの協定に基づいて受領された核物質及び回収され又は副産物として生産された特殊核分裂性物質に対し、この協定の附属書Aに定める指針の示すところに沿つて、適切な防護の措置をとる。
2 この協定に基づいて受領された資材、設備及び施設は、必要な場合には、それぞれの国において効力を有する関係法令に従つて防護する。

第7条
1 両締約国政府は、この協定に基づく協力を促進するため、いずれか一方の締約国政府の要請に基づき、この協定に基づく協力の進展及び結果について検討すること並びに相互に関心を有する事項について討議することができる。
2 この協定の解釈又は実施から問題が生じた場合には、両締約国政府は、いずれか一方の締約国政府の要請に基づき、相互に協議する。
3 2に規定する協議又は両締約国政府の合意するその他の方法により問題が解決されない場合には、両締約国政府は、その問題を調停手続に付託することができる。

第8条
 両締約国政府は、いずれか一方の締約国政府による第4条、第5条又は第6条の規定に対する違反があるときは、他方の締約国政府の要請に基づき、直ちに相互に協議を行い、第4条、第5条又は第6条の規定の遵守を確保するための適切な措置をとる。

第9条
 この協定の附属書は、この協定の不可分の一部を成す。この協定の附属書は、両締約国政府の文書による合意により、この協定を改正することなく修正することができる。

第10条
1 この協定は、その効力発生のために国内法上必要とされる手続きがそれぞれの国において完了したことを確認する外交上の公文が交換された日に効力を生じ、かつ、15年間効力を有する。この協定は、いずれか一方の締約国政府がそれぞれの期間の満了の日の少なくとも6箇月前に他方の締約国政府に対してこの協定を終了させることを文書によつて通告しない限り、自動的に5年の期間ずつ延長される。
2 この協定の終了の後においても、この協定に基づいて受領された核物質、資材、設備及び施設並びに回収され又は副産物として生産された特殊核分裂性物質に関し、これらが関係締約国政府の管轄の下にある間又は両締約国政府により別段の合意が行われるまでの間、この協定の第1条及び第4条から第8条までの規定は、引き続き効力を有する。
3 両締約国政府は、いずれか一方の締約国政府の要請に基づき、この協定を改正するかしないかについて相互に協議するものとし、かつ、改正に合意することができる。
 このような改正は、その効力発生のために国内法上必要とされる手続きがそれぞれの国において完了したことを相互に通告した日に効力を生ずる。
 以上の証拠として、下名は、各自の政府から正当に委任を受けてこの協定に署名した。
 1985年7月31日に東京で、ひとしく正文である日本語、中国語及び英語により本書2通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。

 日本国政府のために
  安倍晋太郎
 中華人民共和国政府のために
  呉学謙

 (附属書略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1924年(大正13)村上駅~鼠ケ関駅間の延伸開業で羽越本線が全通し、敦賀駅~青森駅間の日本海縦貫線が完成する詳細
1948年(昭和23)「政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1951年(昭和26)戦後初の国内民間航空会社である日本航空(会長:藤山愛一郎)の創立総会が開催される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細
1986年(昭和61)外交官・在リトアニア日本領事代理杉原千畝の命日詳細
2006年(平成18)小説家吉村昭の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、内閣が「人名用漢字追加表」(昭和51年7月30日内閣告示第1号)を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加した日です。
 「人名用漢字別表」(じんめいようかんじべっぴょう)は、国語審議会内に設置された「固有名詞部会」で検討され,国語審議会会長から、文部大臣及び法務総裁に建議され、当用漢字以外で子の名に使える漢字として、内閣が告示したものでした。
 1946年(昭和21)11月16日に、「当用漢字表」が公布され、現代国語を書き表すために、日常使用する漢字1,850字が定められたのですが、子供の名の文字が「戸籍法」で「当用漢字表」の範囲内に制限されたことに対する、社会的不満が高まり、訴訟まで起きます。国語審議会は、「国語改革が国民の名に悪影響を与えている」という世論の高まりの中で、文部大臣及び法務総裁に建議し、当用漢字以外で子の名に使える漢字として92字を追加したものでした。
 その後、1976年(昭和51)7月30日に、「人名用漢字追加表」を出して、さらに28字を追加しています。それからも、何度か削除や追加がなされて、2017年9月25日現在では、合計863字となりました。
 以下に、「人名用漢字別表」(昭和26年5月25日 内閣告示・訓令)と「人名用漢字追加表」(昭和51年7月30日内閣告示第1号)に載せられている漢字を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇人名用漢字関係略年表

・1951年(昭和26)5月25日、92字を人名用漢字として新たに指定する
・1976年(昭和51)7月30日、28字を追加し、120字となる
・1981年(昭和56)10月1日、常用漢字に取り入れられた8字を削除し、54字を追加して166字となる
・1990年(平成2)4月1日、118字を追加し284字となる
・1997年(平成9)12月3日、1字「琉」を追加し、285字となる
・2004年(平成16)2月23日、1字「曽」を追加し、286字となる
・2004年(平成16)6月7日、1字「獅」を追加し、287字となる
・2004年(平成16)7月12日、3字「毘・瀧[注釈 7]・駕」を追加し、290字となる
・2004年(平成16)9月27日、許容字体からの205字と追加された488字を加え、全部で983字となる
・2009年4月30日、2字「祷・穹」を追加し、985字となる
・2010年11月30日、常用漢字の改正に伴って、常用漢字表に追加された129字を削除(うち3字の異体字が表二へ移動)、常用漢字表から削除された5字を追加し、合計861字となる
・2015年1月7日、「巫」を追加し、合計862字となる
・2017年9月25日、「渾」を追加し、合計863字となる

☆「人名用漢字別表」(昭和26年5月25日 内閣告示・訓令)

丑 丞 乃 之 也 亙 亥 亦 亨 亮 仙 伊 匡 卯 只 吾 呂 哉 嘉 圭 奈 宏 寅 尚 巌 巳 庄 弘 弥 彦 悌 敦 昌 晃 晋 智 暢 朋 杉 桂 桐 楠 橘 欣 欽 毅 浩 淳 熊 爾 猪 玲 琢 瑞 甚 睦 磨 磯 祐 禄 禎 稔 穣 綾 惣 聡 肇 胤 艶 蔦 藤 蘭 虎 蝶 輔 辰 郁 酉 錦 鎌 靖 須 馨 駒 鯉 鯛 鶴 鹿 麿 斉 龍 亀

☆「人名用漢字追加表」(昭和51年7月30日内閣告示第1号)

28字追加
佑 允 冴 喬 怜 悠 旭 杏 梓 梢 梨 沙 渚 瑠 瞳 紗 紘 絢 翠 耶 芙 茜 葵 藍 那 阿 隼 鮎

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1958年(昭和33)冶金学者俵国一の命日詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
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dai1kaibankokuheiwakaigi01
 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、第1回万国平和会議(於:オランダ・ハーグ)が終了し、「ハーグ陸戦条約」が締結された日です。
 「ハーグ陸戦条約」(はーぐりくせんじょうやく)は、1899年(明治32)にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のことで、1907年(明治40)の第2回万国平和会議や「ジュネーヴ条約」等で改定・拡張され、今日に至っています。主要な目的は、戦争の際の行動規範を定め、人道に反する行為を制限することで、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されました。
 この条約は、戦時国際法の重要な一環であり、後の国際法発展に大きな影響を与えています。日本においては、1911年(明治44)11月6日に批准され、翌年1月13日に「陸戰ノ法規慣例ニ関スル条約」として公布されました。
 以下に、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(全文)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(全文)

独逸皇帝普魯西国皇帝陛下(以下、締約国の元首前、略)ハ平和ヲ維持シ且諸国間ノ戦争ヲ防止スルノ方法ヲ講スルト同時ニ其ノ所期ニ反シ避クルコト能ハサル事件ノ為兵力ニ訴フルコトアルヘキ場合ニ付攻究ヲ為スノ必要ナルコトヲ考慮シ斯ノ如キ非常ノ場合ニ於テモ尚能ク人類ノ福利ト文明ノ駸駸トシテ止ムコトナキ要求トニ副ハムコトヲ希望シ之カ為戦争ニ関スル一般ノ法規慣例ハ一層之ヲ精確ナラシムルヲ目的トシ又ハ成ルヘク戦争ノ惨害ヲ減殺スヘキ制限ヲ設クルヲ目的トシテ之ヲ修正スルノ必要ヲ認メ千八百七十四年ノ比律悉会議ノ後ニ於テ聡明仁慈ナル先見ヨリ出テタル前記ノ思想ヲ体シテ陸戦ノ慣習ヲ制定スルヲ以テ目的トスル諸条規ヲ採用シタル第一回平和会議ノ事業ヲ或点ニ於テ補充シ且精確ニスルヲ必要ト判定セリ
締約国ノ所見ニ依レハ右条規ハ軍事上ノ必要ノ許ス限努メテ戦争ノ惨害ヲ軽減スルノ希望ヲ以テ定メラレタルモノニシテ交戦者相互間ノ関係及人民トノ関係ニ於テ交戦者ノ行動ノ一般ノ準縄タルヘキモノトス
但シ実際ニ起ル一切ノ場合ニ普ク適用スヘキ規定ハ此ノ際之ヲ協定シ置クコト能ハサリシト雖明文ナキノ故ヲ以テ規定セラレサル総テノ場合ヲ軍隊指揮者ノ擅断ニ委スルハ亦締約国ノ意思ニ非サリシナリ
一層完備シタル戦争法規ニ関スル法典ノ制定セラルルニ至ル迄ハ締約国ハ其ノ採用シタル条規ニ含マレサル場合ニ於テモ人民及交戦者カ依然文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生スル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当ト認ム
締約国ハ採用セラレタル規則ノ第一条及第二条ハ特ニ右ノ趣旨ヲ以テ之ヲ解スヘキモノナルコトヲ宣言ス
締約国ハ之カ為新ナル条約ヲ締結セムコトヲ欲シ各左ノ全権委員ヲ任命セリ

(締約国元首名・全権委員、略)

因テ各全権委員ハ其ノ良好妥当ナリト認メラレタル委任状ヲ寄託シタル後左ノ条項ヲ協定セリ

第一条 締約国ハ其ノ陸軍軍隊ニ対シ本条約ニ附属スル陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則ニ適合スル訓令ヲ発スヘシ

第二条 第一条ニ掲ケタル規則及本条約ノ規定ハ交戦国カ悉ク本条約ノ当事者ナルトキニ限締約国間ニノミ之ヲ適用ス

第三条 前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ損害アルトキハ之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス交戦当事者ハ其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ

第四条 本条約ハ正式ニ批准セラレタル上締約国間ノ関係ニ於テハ陸戦ノ法規慣例ニ関スル千八百九十九年七月二十九日ノ条約ニ代ルヘキモノトス
 千八百九十九年ノ条約ハ該条約ニ記名シタルモ本条約ヲ批准セサル諸国間ノ関係ニ於テハ依然効力ヲ有スルモノトス

第五条 本条約ハ成ルヘク速ニ批准スヘシ
 批准書ハ海牙ニ寄託ス
 第一回ノ批准書寄託ハ之ニ加リタル諸国ノ代表者及和蘭国外務大臣ノ署名シタル調書ヲ以テ之ヲ証ス
 爾後ノ批准書寄託ハ和蘭国政府ニ宛テ且批准書ヲ添附シタル通告書ヲ以テ之ヲ為ス
 第一回ノ批准書寄託ニ関スル調書、前項ニ掲ケタル通告書及批准書ノ認証謄本ハ和蘭国政府ヨリ外交上ノ手続ヲ以テ直ニ之ヲ第二回平和会議ニ招請セラレタル諸国及本条約ニ加盟スル他ノ諸国ニ交付スヘシ前項ニ掲ケタル場合ニ於テハ和蘭国政府ハ同時ニ通告書ヲ接受シタル日ヲ通知スルモノトス

第六条 記名国ニ非サル諸国ハ本条約ニ加盟スルコトヲ得
 加盟セムト欲スル国ハ書面ヲ以テ其ノ意思ヲ和蘭国政府ニ通告シ且加盟書ヲ送付シ之ヲ和蘭国政府ノ文庫ニ寄託スヘシ
 和蘭国政府ハ直ニ通告書及加盟書ノ認証謄本ヲ爾余ノ諸国ニ送付シ且右通告書ヲ接受シタル日ヲ通知スヘシ

第七条 本条約ハ第一回ノ批准書寄託ニ加リタル諸国ニ対シテハ其ノ寄託ノ調書ノ日附ヨリ六十日ノ後又其ノ後ニ批准シ又ハ加盟スル諸国ニ対シテハ和蘭国政府カ右批准又ハ加盟ノ通告ヲ接受シタルトキヨリ六十日ノ後ニ其ノ効力ヲ生スルモノトス

第八条 締約国中本条約ヲ廃棄セムト欲スルモノアルトキハ書面ヲ以テ其ノ旨和蘭国政府ニ通告スヘシ和蘭国政府ハ直ニ通告書ノ認証謄本ヲ爾余ノ諸国ニ送付シ且右通告書ヲ接受シタル日ヲ通知スヘシ
 廃棄ハ其ノ通告書カ和蘭国政府ニ到達シタルトキヨリ一年ノ後右通告ヲ為シタル国ニ対シテノミ効力ヲ生スルモノトス

第九条 和蘭国外務省ハ帳簿ヲ備ヘ置キ第五条第三項及第四項ニ依リ為シタル批准書寄託ノ日並加盟(第六条第二項)又ハ廃棄(第八条第一項)ノ通告ヲ接受シタル日ヲ記入スルモノトス
 各締約国ハ右帳簿ヲ閲覧シ且其ノ認証抄本ヲ請求スルコトヲ得

 右証拠トシテ各全権委員本条約ニ署名ス
 千九百七年十月十八日海牙ニ於テ本書一通ヲ作リ之ヲ和蘭国政府ノ文庫ニ寄託シ其ノ認証謄本ヲ外交上ノ手続ニ依リ第二回平和会議ニ招請セラレタル諸国ニ交付スヘキモノトス

条約附属書 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則

第一款 交戦者

第一章 交戦者ノ資格

第一条 戦争ノ法規及権利義務ハ単ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラス左ノ条件ヲ具備スル民兵及義勇兵団ニモ亦之ヲ適用ス
 一 部下ノ為ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト
 二 遠方ヨリ認識シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
 三 公然兵器ヲ携帯スルコト
 四 其ノ動作ニ付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト
 民兵又ハ義勇兵団ヲ以テ軍ノ全部又ハ一部ヲ組織スル国ニ在リテハ之ヲ軍ノ名称中ニ包含ス

第二条 占領セラレサル地方ノ人民ニシテ敵ノ接近スルニ当リ第一条ニ依リテ編成ヲ為スノ遑ナク侵入軍隊ニ抗敵スル為自ラ兵器ヲ操ル者カ公然兵器ヲ携帯シ且戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルトキハ之ヲ交戦者ト認ム

第三条 交戦当事者ノ兵力ハ戦闘員及非戦闘員ヲ以テ之ヲ編成スルコトヲ得敵ニ捕ハレタル場合ニ於テハ二者均シク俘虜ノ取扱ヲ受クルノ権利ヲ有ス

第二章 俘虜

第四条 俘虜ハ敵ノ政府ノ権内ニ属シ之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ
 俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ
 俘虜ノ一身ニ属スルモノハ兵器、馬匹及軍用書類ヲ除クノ外依然其ノ所有タルヘシ

第五条 俘虜ハ一定ノ地域外ニ出テサル義務ヲ負ハシメテ之ヲ都市、城寨、陣営其ノ他ノ場所ニ留置スルコトヲ得但シ已ムヲ得サル保安手段トシテ且該手段ヲ必要トスル事情ノ継続中ニ限之ヲ幽閉スルコトヲ得

第六条 国家ハ将校ヲ除クノ外俘虜ヲ其ノ階級及技能ニ応シ労務者トシテ使役スルコトヲ得其ノ労務ハ過度ナルヘカラス又一切作戦動作ニ関係ヲ有スヘカラス
 俘虜ハ公務所、私人又ハ自己ノ為ニ労務スルコトヲ許可セラルルコトアルヘシ
 国家ノ為ニスル労務ニ付テハ同一労務ニ使役スル内国陸軍軍人ニ適用スル現行定率ニ依リ支払ヲ為スヘシ右定率ナキトキハ其ノ労務ニ対スル割合ヲ以テ支払フヘシ
 公務所又ハ私人ノ為ニスル労務ニ関シテハ陸軍官憲ト協議ノ上条件ヲ定ムヘシ
 俘虜ノ労銀ハ其ノ境遇ノ艱苦ヲ軽減スルノ用ニ供シ剰余ハ解放ノ時給養ノ費用ヲ控除シテ之ヲ俘虜ニ交付スヘシ

第七条 政府ハ其ノ権内ニ在ル俘虜ヲ給養スヘキ義務ヲ有ス
 交戦者間ニ特別ノ協定ナキ場合ニ於テハ俘虜ハ糧食、寝具及被服ニ関シ之ヲ捕ヘタル政府ノ軍隊ト対等ノ取扱ヲ受クヘシ

第八条 俘虜ハ之ヲ其ノ権内ニ属セシメタル国ノ陸軍現行法律、規則及命令ニ服従スヘキモノトス総テ不従順ノ行為アルトキハ俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得
 逃走シタル俘虜ニシテ其ノ軍ニ達スル前又ハ之ヲ捕ヘタル軍ノ占領シタル地域ヲ離ルルニ先チ再ヒ捕ヘラレタル者ハ懲罰ニ付セラルヘシ
 俘虜逃走ヲ遂ケタル後再ヒ俘虜ト為リタル者ハ前ノ逃走ニ対シテハ何等ノ罰ヲ受クルコトナシ

第九条 俘虜其ノ氏名及階級ニ付訊問ヲ受ケタルトキハ実ヲ以テ答フヘキモノトス若此ノ規定ニ背クトキハ同種ノ俘虜ニ与ヘラルヘキ利益ヲ減殺セラルルコトアルヘシ

第十条 俘虜ハ其ノ本国ノ法律カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ此ノ場合ニ於テハ本国政府及之ヲ捕ヘタル政府ニ対シ一身ノ名誉ヲ賭シテ其ノ誓約ヲ厳密ニ履行スルノ義務ヲ有ス
 前項ノ場合ニ於テ俘虜ノ本国政府ハ之ニ対シ其ノ宣誓ニ違反スル勤務ヲ命シ又ハ之ニ服セムトノ申出ヲ受諾スヘカラサルモノトス

第十一条 俘虜ハ宣誓解放ノ受諾ヲ強制セラルルコトナク又敵ノ政府ハ宣誓解放ヲ求ムル俘虜ノ請願ニ応スルノ義務ナシ

第十二条 宣誓解放ヲ受ケタル俘虜ニシテ其ノ名誉ヲ賭シテ誓約ヲ為シタル政府又ハ其ノ政府ノ同盟国ニ対シテ兵器ヲ操リ再ヒ捕ヘラレタル者ハ俘虜ノ取扱ヲ受クルノ権利ヲ失フヘク且裁判ニ付セラルルコトアルヘシ

第十三条 新聞ノ通信員及探訪者並酒保用達人等ノ如キ直接ニ軍ノ一部ヲ為ササル従軍者ニシテ敵ノ権内ニ陥リ敵ニ於テ之ヲ抑留スルヲ有益ナリト認メタル者ハ其ノ所属陸軍官憲ノ証明書ヲ携帯スル場合ニ限リ俘虜ノ取扱ヲ受クルノ権利ヲ有ス

第十四条 各交戦国ハ戦争開始ノ時ヨリ又中立国ハ交戦者ヲ其ノ領土ニ収容シタル時ヨリ俘虜情報局ヲ設置ス情報局ハ俘虜ニ関スル一切ノ問合ニ答フルノ任務ヲ有シ俘虜ノ留置、移動、宣誓解放、交換、逃走、入院、死亡ニ関スル事項其ノ他各俘虜ニ関シ銘銘票ヲ作成補修スル為ニ必要ナル通報ヲ各当該官憲ヨリ受クルモノトス情報局ハ該票ニ番号、氏名、年齢、本籍地、階級、所属部隊、負傷並捕獲、留置、負傷及死亡ノ日附及場所其ノ他一切ノ備考事項ヲ記載スヘシ銘銘票ハ平和克復ノ後之ヲ他方交戦国ノ政府ニ交付スヘシ
 情報局ハ又宣誓解放セラレ交換セラレ逃走シ又ハ病院若ハ繃帯所ニ於テ死亡シタル俘虜ノ遺留シ並戦場ニ於テ発見セラレタル一切ノ自用品、有価物、信書等ヲ収集シテ之ヲ其ノ関係者ニ伝送スルノ任務ヲ有ス

第十五条 慈善行為ノ媒介者タル目的ヲ以テ自国ノ法律ニ従ヒ正式ニ組織セラレタル俘虜救恤協会ハ其ノ人道的事業ヲ有効ニ遂行スル為軍事上ノ必要及行政上ノ規則ニ依リテ定メラレタル範囲内ニ於テ交戦者ヨリ自己及其ノ正当ノ委任アル代表者ノ為ニ一切ノ便宜ヲ受クヘシ右協会ノ代表者ハ各自陸軍官憲ヨリ免許状ノ交付ヲ受ケ且該官憲ノ定メタル秩序及風紀ニ関スル一切ノ規律ニ服従スヘキ旨書面ヲ以テ約シタル上俘虜収容所及送還俘虜ノ途中休泊所ニ於テ救恤品ヲ分与スルコトヲ許サルヘシ

第十六条 情報局ハ郵便料金ノ免除ヲ享ク俘虜ニ宛テ又ハ其ノ発シタル信書、郵便為替、有価物件及小包郵便物ハ差出国、名宛国及通過国ニ於テ一切ノ郵便料金ヲ免除セラルヘシ
 俘虜ニ宛テタル贈与品及救恤品ハ輸入税其ノ他ノ諸税及国有鉄道ノ運賃ヲ免除セラルヘシ

第十七条 俘虜将校ハ其ノ抑留セラルル国ノ同一階級ノ将校カ受クルト同額ノ俸給ヲ受クヘシ右俸給ハ其ノ本国政府ヨリ償還セラルヘシ

第十八条 俘虜ハ陸軍官憲ノ定メタル秩序及風紀ニ関スル規律ニ服従スヘキコトヲ唯一ノ条件トシテ其ノ宗教ノ遵行ニ付一切ノ自由ヲ与ヘラレ其ノ宗教上ノ礼拝式ニ参列スルコトヲ得

第十九条 俘虜ノ遺言ハ内国陸軍軍人ト同一ノ条件ヲ以テ之ヲ領置シ又ハ作成ス
 俘虜ノ死亡ノ証明ニ関スル書類及埋葬ニ関シテモ亦同一ノ規則ニ遵ヒ其ノ階級及身分ニ相当スル取扱ヲ為スヘシ

第二十条 平和克復ノ後ハ成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムヘシ

第三章 病者及傷者

第二十一条 病者及傷者ノ取扱ニ関スル交戦者ノ義務ハ「ジェネヴァ」条約ニ依ル

第二款 戦闘

第一章 害敵手段、攻囲及砲撃

第二十二条 交戦者ハ害敵手段ノ選択ニ付無制限ノ権利ヲ有スルモノニ非ス

第二十三条 特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外特ニ禁止スルモノ左ノ如シ
 イ 毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト
 ロ 敵国又ハ敵軍ニ属スル者ヲ背信ノ行為ヲ以テ殺傷スルコト
 ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト
 ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト
 ホ 不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト
 ヘ 軍使旗、国旗其ノ他ノ軍用ノ標章、敵ノ制服又ハ「ジェネヴァ」条約ノ特殊徽章ヲ擅ニ使用スルコト
 ト 戦争ノ必要上万已ムヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト
 チ 対手当事国国民ノ権利及訴権ノ消滅、停止又ハ裁判上不受理ヲ宣言スルコト
 交戦者ハ又対手当事国ノ国民ヲ強制シテ其ノ本国ニ対スル作戦動作ニ加ラシムルコトヲ得ス戦争開始前其ノ役務ニ服シタル場合ト雖亦同シ

第二十四条 奇計並敵情及地形探知ノ為必要ナル手段ノ行使ハ適法ト認ム

第二十五条 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ如何ナル手段ニ依ルモ之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス

第二十六条 攻撃軍隊ノ指揮官ハ強襲ノ場合ヲ除クノ外砲撃ヲ始ムルニ先チ其ノ旨官憲ニ通告スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘキモノトス

第二十七条 攻囲及砲撃ヲ為スニ当リテハ宗教、技芸、学術及慈善ノ用ニ供セラルル建物、歴史上ノ紀念建造物、病院並病者及傷者ノ収容所ハ同時ニ軍事上ノ目的ニ使用セラレサル限之ヲシテ成ルヘク損害ヲ免レシムル為必要ナル一切ノ手段ヲ執ルヘキモノトス被囲者ハ看易キ特別ノ徽章ヲ以テ右建物又ハ収容所ヲ表示スルノ義務ヲ負フ右徽章ハ予メ之ヲ攻囲者ニ通告スヘシ

第二十八条 都市其ノ他ノ地域ハ突撃ヲ以テ攻取シタル場合ト雖之ヲ掠奪ニ委スルコトヲ得ス

第二章 間諜

第二十九条 交戦者ノ作戦地帯内ニ於テ対手交戦者ニ通報スルノ意思ヲ以テ隠密ニ又ハ虚偽ノ口実ノ下ニ行動シテ情報ヲ蒐集シ又ハ蒐集セムトスル者ニ非サレハ之ヲ間諜ト認ムルコトヲ得ス
 故ニ変装セサル軍人ニシテ情報ヲ蒐集セムカ為敵軍ノ作戦地帯内ニ進入シタル者ハ之ヲ間諜ト認メス又軍人タルト否トヲ問ハス自国軍又ハ敵軍ニ宛テタル通信ヲ伝達スルノ任務ヲ公然執行スル者モ亦之ヲ間諜ト認メス通信ヲ伝達スル為及総テ軍又ハ地方ノ各部間ノ聯絡ヲ通スル為軽気球ニテ派遣セラレタルモノ亦同シ

第三十条 現行中捕ヘラレタル間諜ハ裁判ヲ経ルニ非サレハ之ヲ罰スルコトヲ得ス

第三十一条 一旦所属軍ニ復帰シタル後ニ至リ敵ノ為ニ捕ヘラレタル間諜ハ俘虜トシテ取扱ハルヘク前ノ間諜行為ニ対シテハ何等ノ責ヲ負フコトナシ

第三章 軍使

第三十二条 交戦者ノ一方ノ命ヲ帯ヒ他ノ一方ト交渉スル為白旗ヲ掲ケテ来ル者ハ之ヲ軍使トス軍使並之ニ随従スル喇叭手、鼓手、旗手及通訳ハ不可侵権ヲ有ス

第三十三条 軍使ヲ差向ケラレタル部隊長ハ必シモ之ヲ受クルノ義務ナキモノトス
 部隊長ハ軍使カ軍情ヲ探知スル為其ノ使命ヲ利用スルヲ防クニ必要ナル一切ノ手段ヲ執ルコトヲ得
 濫用アリタル場合ニ於テハ部隊長ハ一時軍使ヲ抑留スルコトヲ得

第三十四条 軍使カ背信ノ行為ヲ教唆シ又ハ自ラ之ヲ行フ為其ノ特権アル地位ヲ利用シタルノ証迹明確ナルトキハ其ノ不可侵権ヲ失フ

第四章 降伏規約

第三十五条 締約当事者間ニ協定セラルル降伏規約ニハ軍人ノ名誉ニ関スル例規ヲ参酌スヘキモノトス
 降伏規約一旦確定シタル上ハ当事者双方ニ於テ厳密ニ之ヲ遵守スヘキモノトス

第五章 休戦

第三十六条 休戦ハ交戦当事者ノ合意ヲ以テ作戦動作ヲ停止ス若其ノ期間ノ定ナキトキハ交戦当事者ハ何時ニテモ再ヒ動作ヲ開始スルコトヲ得但シ休戦ノ条件ニ遵依シ所定ノ時期ニ於テ其ノ旨敵ニ通告スヘキモノトス

第三十七条 休戦ハ全般的又ハ部分的タルコトヲ得全般的休戦ハ普ク交戦国ノ作戦動作ヲ停止シ部分的休戦ハ単ニ特定ノ地域ニ於テ交戦軍ノ或部分間ニ之ヲ停止スルモノトス

第三十八条 休戦ハ正式ニ且適当ノ時期ニ於テ之ヲ当該官憲及軍隊ニ通告スヘシ通告ノ後直ニ又ハ所定ノ時期ニ至リ戦闘ヲ停止ス

第三十九条 戦地ニ於ケル交戦者ト人民トノ間及人民相互間ノ関係ヲ休戦規約ノ条項中ニ規定スルコトハ当事者ニ一任スルモノトス

第四十条 当事者ノ一方ニ於テ休戦規約ノ重大ナル違反アリタルトキハ他ノ一方ハ規約廃棄ノ権利ヲ有スルノミナラス緊急ノ場合ニ於テハ直ニ戦闘ヲ開始スルコトヲ得

第四十一条 個人カ自己ノ発意ヲ以テ休戦規約ノ条項ニ違反シタルトキハ唯其ノ違反者ノ処罰ヲ要求シ且損害アリタル場合ニ賠償ヲ要求スルノ権利ヲ生スルニ止ルヘシ

第三款 敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力

第四十二条 一地方ニシテ事実上敵軍ノ権力内ニ帰シタルトキハ占領セラレタルモノトス
 占領ハ右権力ヲ樹立シタル且之ヲ行使シ得ル地域ヲ以テ限トス

第四十三条 国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ

第四十四条 交戦者ハ占領地ノ人民ヲ強制シテ他方ノ交戦者ノ軍又ハ其ノ防禦手段ニ付情報ヲ供与セシムルコトヲ得ス

第四十五条 占領地ノ人民ハ之ヲ強制シテ其ノ敵国ニ対シ忠誠ノ誓ヲ為サシムルコトヲ得ス

第四十六条 家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ之ヲ尊重スヘシ
 私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ス

第四十七条 掠奪ハ之ヲ厳禁ス

第四十八条 占領者カ占領地ニ於テ国ノ為ニ定メラレタル租税、賦課金及通過税ヲ徴収スルトキハ成ルヘク現行ノ賦課規則ニ依リ之ヲ徴収スヘシ此ノ場合ニ於テハ占領者ハ国ノ政府カ支弁シタル程度ニ於テ占領地ノ行政費ヲ支弁スルノ義務アルモノトス

第四十九条 占領者カ占領地ニ於テ前条ニ掲ケタル税金以外ノ取立金ヲ命スルハ軍又ハ占領地行政上ノ需要ニ応スル為ニスル場合ニ限ルモノトス

第五十条 人民ニ対シテハ連帯ノ責アリト認ムヘカラサル個人ノ行為ノ為金銭上其ノ他ノ連坐罰ヲ科スルコトヲ得ス

第五十一条 取立金ハ総テ総指揮官ノ命令書ニ依リ且其ノ責任ヲ以テスルニ非サレハ之ヲ徴収スルコトヲ得ス

取立金ハ成ルヘク現行ノ租税賦課規則ニ依リ之ヲ徴収スヘシ

一切ノ取立金ニ対シテハ納付者ニ領収証ヲ交付スヘシ

第五十二条 現品徴発及課役ハ占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非サレハ市区町村又ハ住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス徴発及課役ハ地方ノ資力ニ相応シ且人民ヲシテ其ノ本国ニ対スル作戦動作ニ加ルノ義務ヲ負ハシメサル性質ノモノタルコトヲ要ス
 右徴発及課役ハ占領地方ニ於ケル指揮官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ之ヲ要求スルコトヲ得ス
 現品ノ供給ニ対シテハ成ルヘク即金ニテ支払ヒ然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク且成ルヘク速ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノトス

第五十三条 一地方ヲ占領シタル軍ハ国ノ所有ニ属スル現金、基金及有価証券、貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及糧秣其ノ他総テ作戦動作ニ供スルコトヲ得ヘキ国有動産ノ外之ヲ押収スルコトヲ得ス海上法ニ依リ支配セラルル場合ヲ除クノ外陸上、海上及空中ニ於テ報道ノ伝送又ハ人若ハ物ノ輸送ノ用ニ供セラルル一切ノ機関、貯蔵兵器其ノ他各種ノ軍需品ハ私人ニ属スルモノト雖之ヲ押収スルコトヲ得但シ平和克復ニ至リ之ヲ還付シ且之カ賠償ヲ決定スヘキモノトス

第五十四条 占頭地ト中立地トヲ連結スル海底電線ハ絶対的ノ必要アル場合ニ非サレハ之ヲ押収シ又ハ破壊スルコトヲ得ス右電線ハ平和克復ニ至リ之ヲ還付シ且之カ賠償ヲ決定スヘキモノトス

第五十五条 占領国ハ敵国ニ属シ且占領地ニ在ル公共建物、不動産、森林及農場ニ付テハ其ノ管理者及用益権者タルニ過キサルモノナリト考慮シ右財産ノ基本ヲ保護シ且用益権ノ法則ニ依リテ之ヲ管理スヘシ

第五十六条 市区町村ノ財産並国ニ属スルモノト雖宗教、慈善、教育、技芸及学術ノ用ニ供セラルル建設物ハ私有財産ト同様ニ之ヲ取扱フヘシ
 右ノ如キ建設物、歴史上ノ紀念建造物、技芸及学術上ノ製作品ヲ故意ニ押収、破壊又ハ毀損スルコトハ総テ禁セラレ且訴追セラルヘキモノトス

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)「日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1905年(明治38)「桂・タフト協定」が締結される詳細
1957年(昭和32)「国際原子力機関憲章(IAEA憲章)」が発効し、国際原子力機関(略称:IAEA)が設立される詳細
1969年(昭和44)冶金学者・化学者村上武次郎の命日詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細
1999年(平成11)小説家・フランス文学者辻邦生の命日詳細
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 今日は、室町時代の1480年(文明12)に、元関白・一條兼良が室町幕府第9代将軍足利義尚に治政論書『樵談治要』を呈上した日ですが、新暦では9月2日となります。
 『樵談治要』(しょうだんちよう)は、元関白・一条兼良が室町幕府第9代将軍足利義尚の求めに応じ、1480年(文明12年7月28日)に奉じた政治の要道を説いた教訓書(全1巻)です。
 神をうやまふべき事、佛法をたとぶべき事、諸國の守護たる人廉直を先とすべき事、訴訟の奉行人其仁を選ばるべき事、近習者をえらばるべき事、足がるといふ者長く停止せらるべき事、簾中より政務ををこなはるゝ事、天下主領の人かならず威勢有べき事の8ヶ条からなっています。当時の政治・社会の実情や貴族の世相観がうかがえる好史料とされてきました。
 以下に、『樵談治要』の原文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇一條兼良(いちじょう かねら/かねよし)とは?

 室町時代の公卿・古典学者です。1402年(応永9年5月7日)に、関白だった父・一条経嗣(つねつぐ)の子(母は東坊城秀長の娘)として生まれましたが、名は「かねら」とも呼ばれてきました。
 1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
 しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きます。その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。
 学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。
 ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、室町幕府第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。
 1480年(文明12)には、足利義尚に治政論書『樵談治要』を呈上しています。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等、多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなりました。

一條兼良著『樵談治要』

     後成恩寺關白兼良公
 
一神をうやまふべき事。

我國は神國也。天つちひらけて後。天神七代地神五代あひつぎ給ひて。よろづのことわざをはじめ給へり。又君臣上下をのをの神の苗裔にあらずといふことなし。是によりて百官の次第をたつるには神祇官を第一とせり。又議定はじめ評定始といふことにも。先神社の修造。祭祀の興行をもはらさだめらる。これみな神をうやまふゆへ也。一年中のまつりは二月四日の祈年の祭より始まる。此祭は。あきつしまの中にあとをたれ給三千一百卅二座の神に御てぐらのつかひをたてらるゝ物也。其中に七百卅七座には神祇官よりこれを獻ぜらる。のこり二千三百九十五座には六十餘國の國のつかさをのをのうけたまはりて幣帛を奉る也。年中の災難をのぞき國土の豐饒をいのるによりて。祈年のまつりとは名付たる也。又此月に祈年穀の奉幣といふことあり。これは廿二社に別して幣使をたてられて。旱水風損のうれへなく。五穀不熟なからん事をいのり奉る祭なり。五穀は人民のいのちなり。たれの人か是をかろくせむや。廿二社のうち。石淸水吉田祇園北野の四社は延喜式の神名帳にのらざる社たるによりて。式外の神と申也。もとは其數さだまらざりしを後朱雀院六十九代の御宇長曆三年八月に廿二社にさだめられて後は不增不减也。昔は太極殿に行幸有て。その使を發遣せられしかども。太極殿なきによりて。神祇官にてをこなはるゝなり。其後諸社の祭をのをの上卿弁など參向してとりをこなふ。その所々月日支干などは年中行事にみえたるべし。中にも六月十二月の月次の祭。九月十一日の例幣。十一月の新嘗會は。四度の幣といひて。伊勢太神宮へ王氏。卜部。中臣。忌部の四姓のつかひをたてられて。とりわき兼日の御神事など有て嚴重の祭也。代々の聖主はいづれも我御身のためとはおもひ給はず。万民のためにかくのごとき祭などをさだめさせ給へる也。神明も由緖なき祭をばうけたまはず。天子は百神の主也と申せば。日本國の神祇はみな一人につかさどり給ふ。次には天下主領の大將軍をまもり給べし。諸國の神社は又その國の國司守護地頭に屬し給へるによりて。祈年祭の二千餘座をば國司につけらるゝ也。又神は我子孫の祭をとりわきうけ給ふによりて。諸社の祭の使には神の御子孫をたづねもちひらるゝなり。石淸水の使には源家の人。春日の使には藤氏。北野へは菅氏をもちひらる。其人なき時は他姓をもさゝるゝ也。八所御靈と申はむかし謀叛をおこしてその心ざしをとげず。あるひは又何事にてもうらみをふくめる人の靈をまつられたる社なり。これらは和光垂迹の神明にてはましまさゞる也。もろこしに神といふはおほくは先祖の靈をまつりて神といふ。御靈などのごとき也。かくのごとき神のたゝりをなすことあらば。いかにもその子孫尋て。官位をもさづけ。祭のことをなさしむべきよし。橘の博覽が擬潛夫論といふものにかけり。鬼は歸する所あればすなはち癘をなさずといへり。もろこしの事なれど。鄭の國に良霄といふ物あり。つみせられて死にき。その靈疫癘となりて人民をそこなひしとき。子產といふ智惠の者ありて。良霄が子に官をさづけて祭のことをつかさどらしめしかば。それよりのちは人をころすことやみ侍り。又神の詫宣といふ事昔はつねに有けるにや。弘仁嵯峨三年九月の官符に恠異の事は聖人語らず。妖言の罪は法制かろきにあらず。神宣はいちじるく其しるしあらはれたることにあらずは。國司言上すべからざるよしさだめられ侍り。是は御こかんなぎなどのするわざなるによて也。次に神社修理の事退轉有べからず。太神宮は諸國の役夫工米をもて廿一年にかならず造替遷宮の事あり。其外諸社の造營は。ねぎ神主等。小破の時修理をいたすべし。万一大風若は炎上など有て大營に及ばゝ。その由を注進せしめば。先例にまかせてさた有べし。弘仁三年の官符には有封の社の神戶の百姓をもて無封の社の修理をいたすべきよしみえたり。有封無封といふは。神領のあるとなきとをいふ也。近代は諸國の祭事衰微せるによりて。有封の社の造營猶もてなりがたかるべし。いはんや無封の神社においてをや。抑この十餘年は天下のみだれによりて。神社の荒廢たぐひなく。祭祀の陵遲法に過たり。國のまさにおこらんとする時は。神明くだりて其德をかゞ鑑む。國のまさにほろびんとする時も。神又くだりて其惡をみるといへり。神いかり民そむかば。何をもてかよく久しからむともいへり。かるがゆへに國司守護などは別に私のいのりなどをしては益なきこと也。かぎり有國役などを嚴密に成敗して。昔より有つけたる神社の修理。祭祀の退轉せるを申をこなひ侍らば。君には奉公の忠となり。神には歸敬の誠をあらはすべし。おほやけわたくし淸淨の心ざしをさきとして。如在の祀をもはらにせば。陰陽不測の神明もいかでか黍稷かうばしきにあらざることはりをうけたまはざらんや。

一佛法をたとぶべき事。

それ佛法王法二なく。內典外典又一致也。そのかみは一怫の法門たりといへども。大小權實の相違によりてそのながれ八宗にわかれ侍り。いはゆる八宗は。眞言。華嚴。天台。三論。法相。俱舍。成實。律宗これなり。但俱舍をば法相に付られ。成實をば三論に兼學するによりて六宗になれり。其後淨土と禪との二をくはふれば猶八宗と稱すべし。天竺の事は。程遠ければしりがたし。唐土には今の世にたえたる宗どもおほく侍るにや。八宗の血脉いとすぢのごとくつらなりて。かたのごとくも今にのこれるはわが日本國計也。末世の佛法は有力の檀那に付囑し給ふよし釋尊の遺勅あれば。大檀那たる人は。八宗いづれをも斷絕なきやうに外護の心をはこび給ふべし。其中いづれにても心よせの宗に別して歸依あらんことは。一は宿習により一は所緣にしたがふ事なれば。ともかくも其人の心にまかすべし。さりながら華嚴。天台。三論。法相等の宗は。法門無盡にして義理深奧なれば。たやすくまなぶべきにあらず。眞言は暗誦加行もしは灌頂など。其人にあらすんば相應すべからず。律宗は一日の八齋戒をたもち。天臺の圓頓戒などをうけん事はやすけれど。誠に二百五十戒などをたもたんこと是又有がたかるべし。然るに淨土と禪との二の宗は。とりより所のたやすきにや侍らん。當世の人の此二の門にこゝろざさざるはすくなかるべし。それも人によるべきこと也。天子の位にありては。まづ仁德の行をさきにし給て。朝儀のすたれたるをおこし給。大將軍の職に居して。武道をもはらにして。万民のうれへをすくはせ給はゞ。いかなる佛法修行にもまさるべきを。あるひは坐禪工夫にいとまなきと稱し。あるひは稱名安心にひまをえざるといひて。やゝもすれば向上のまんをおこし。又本願ぼこりをなす事は大なるあやまり也。昔梁の武帝は佛法にかたぶけるあまり。大同寺に行幸ありてみづから經を講じ給しかば。其世の群臣も君の心ざしをうけて。苦空無常の觀をなしゝかば。天より花ふりさまざまの奇瑞なども有しかど。文武の道をすて侍しゆへに。侯景といふ臣ひまをうかゞひ。兵をおこし都をかこみしかば。武帝はのがるゝはかりごとをうしなひ。つゐにやまひを感じて崩じ給へり。唐の大宗はかゝる前蹤をかゞみ給ひて。たとひ佛法をこのむとも。先國をしづめ民をやすんじてのこと也とて。もはら政道をさきとせられしかば。貞觀のまつりごとといひて。目出たきためしに申つたへ。唐の世は三百年にをよびて天下をたもち侍り。それ大悲の菩薩は衆生にかはりて苦をうけんとせいぐはんをおこし給へり。天下主領たる人。誠に不足もなき身において。政道をとりもちこれををこなはんことは。大にむづかしきことなれど。たれにゆづるべきことにもあらざれば。つとにおき夜半にいねて万民のうたへをきゝ。理非をけつし。其のぞみをかなふることは。地藏觀音の慈悲の誓願も。唐堯虞舜の仁德の政道も。さらに別に有べからず。是を佛法王法二なく。內典外典一致也といへり。唐の李舟が書にいはく。釋迦中國に生れなば敎を設ること周孔のごとくならん。同孔四方にむまれなば敎をまうくること釋迦の如くならん。天堂なくは則やんぬ。あらば則君子のぼらん。地獄なくは則やんぬ。あらば則小人入らんといへり。是は內典外典を和會して至極のことはりをのべたる物なるべし。又寺をつくり僧を供養する事も。無欲淸淨の心よりおこらず。民をなやまし人をむさぼらば。たゞ名聞利養の佛事にして無上菩提の善根とは成べからず。長者の万燈よりも貧女のがイ一燈はまされるといふたとへあり。聖武四十五代天皇の天平十三年に諸國に護國國分の二寺をたてられて。僧尼を安置し。金光明法花等の經をかき供養して。當國の百姓のため四時をとゝのへ。百穀の豐饒をいのり給へり。諸國の守護たらん人。かゝる所を再興せむは。昔の檀那の心にもかなひ。今のついえもさのみ有べからず。あたらしき寺をたてんよりは。古きを修造せむはその功德猶まされるよし像法决疑經にもとかれ侍るにや。さて出家のともがらもわが宗をひろめむと思ふ心ざしは有べけれど。無智愚癡の男女をすゝめ入て。はてはては徒黨をむすび。邪法ををこなひ。民業をさまたげ。濫妨をいたす事は。佛法の惡魔。王法の怨敵也。これらのともがらをばいかにもいましめらるべきこと。武道の專一也。一遍聖のやうなるたぐひは。一旦歸依渴仰すといへども。世のわづらひとはならず。それもいたるなることは佛法の正理にあらざるべし。昔の大師先德は求法のため風波の難をかへりみず。もろこし船のともづなをとき經論聖敎をわたしてもさらに是を私せず。ことこ゜とく朝庭に奉れるを。御覽有じイて則返し給はり。世にひろむべきよしの勅諚をうけて。わづかに得分とては。度者の二人三人を申うけ候しイばかり也。度者といふは今の世のやうに思ふさまに出家する事はかなはず。公方のゆるされをかうぶりて。髮をそり衣をそめしかば。我宗をも相承せしめ。又年よりて杖ともせむがため。これを申うけし也。每年人數をさだめ。ゆるされをかうぶりて。其寺につけをくをば年分度者と申也。出家をゆるさるるをもて。これを功德とも稱し。又朝恩とも思ひ侍る也。今の世にも大法會の時は度者の使とてたてらるゝは昔をわすれぬばかりにて。その實なき事なるべし。かゝるゆへに諸宗の今に繁昌せることは。ひとへに大師先德の陰德のいたす所なり。

一諸國の守護たる人廉直を先とすべき事。

諸國の國司は一任四ケ年に過ず。當時の守護職は昔の國司におなじといへども。子々孫々に傅て知行をいたすことは。春秋の時の十二諸侯。戰國の世の七雄にことならず。所詮賴朝の大將後白河院七十七代の勅諚として。六十六ケ國の惣追捕使に補せられしよりこのかた。守護職といふは武將の代官をうけたまはれる由にて。當代にいたるまでも其例ををはるゝうへは。はやくさだめをかれたる御法をまもり。かぎりある得分の外は。そのいろひをなさず。上には事君の節をつくし。下には撫民の仁をほどこして。廉直のほまれ當世に聞。隱德の行末代に及さば。冥慮にもかなひ。榮花を子孫につたふべきを。やゝもすれば無道をかまへ猛惡をさきとする事。かへすがへすしあんなきにあらずや。貞永後堀河の式目には或は國司領家のそせうにより。或は地頭土民の愁鬱につきて。非法のいたり顯然ならば。所帶の職をあらためられ。穩便のともがらに補すべき也。又建武後醍醐の御法には守護職は上古の吏務也。國中の治否只此職による。尤器用に補せられば。撫民の義にかなふべきかと云々。此式條のごとくならば。時にしたがひ人をえらびて其職に補せらるべきよしみえたるにや。然るに當時の躰たらく。上裁にもかゝはらず。下知にもしたがはず。ほしいまゝに權威をもて他人の所帶を押領し。富に富をかさね。欲に欲をくはふる事は。さしあたりてことかけたるゆへにはあらず。只無用の事のしたきと人かずをおほくそへんとのため成べし。もとより富貴の家にいたづらに寶をたくはへて人にほどこさぬは思出もなき事なるべし。妻子珍寳及王位とて。死ぬる時は。わがめ子もたからも位をも。一として身にそへぬ事にこそ。佛もとき給ふなれ。されば猿樂田樂のかけものにし。傾城白拍子の纏頭にあたふることは。さらに非分の事にはあらざるべし。只世のそしりをうけ。人のうらみをおふは。無理非道の押領をなすゆへ也。又人數のほしきこともたれかはねがはしからぬ事にはあらざれど。正躰なき家人に所領を多くあてをこなへば。後々は過分になりて。いさゝかも氣にあはぬ事のあれば。主をもとりかへんとす。かゝる事はまのあたりに見をよぶ事ども也。又人をたづぬるよし聞つたへて。あなたこなたよりふしぎの物どもが。一旦の給恩をむさぼらんために名字をいだすといへども。一大事にのぞみ戰塲などにおもむく時は。我先にと落うせて。折角の川に立ものはこれまれ也。木曾義仲は藩東を立し時五万騎と聞えしかども。粟津の原にて討死する時は主從二騎になれるがごとし。かるがゆへに用にもたゝぬ猛勢はかへりてあだと成ためしあり。名と利との二はいづれも人のねがふ事なれど。利は一旦の利也。名は万代の名也。武士の一命をすつるも名をおもふがゆへなるに。無理非道の惡名をば何とも思はぬは。命よりもたからは猶おしき物にや侍らん。慈鎭和尙と申人のよろづの事は道理といふ二の文字にこもりて侍ると申給へるが。我領知を人にとられじとすると人の領知ををさへてとらんとするその道理はいづ方に有べきぞや。本より欲界の衆生なれば。欲なき人は有べからず。又まよひの凡夫なれば。理に迷はぬ事は有まじけれど。これぶんざいの道理はさすがにたれもしり侍べきを。あやまりをあらためむとおもひよれる事のなきこそ。つゐには我人の不運にては侍るなれ。昔晉の代に周處といふ人のありしが。力つよくしてなす事の人のためによきこと一もなかりしが。有時人にいふやう。今年は年もゆたかなれば。たれたれもたのしみこそすらめととひければ。三害といふものいまだのぞかざればたのしむ人有べからずとこたふ。周處その三がいは何々ぞといひければ。一には南山にひたいの白き虎のありて人をくらふと。二には長橋といふはしの下に。みづちといふものの出て。人をそこなふと。三にはなんぢがふるまひをいふとこたへければ。周處此よしを聞て。すなはちつるぎをぬきもちて南山へ入て虎をほろぼし。長橋の下におりくだりてみづちをころし。をのれは俄にがくもんをして。引替善人になれるためしあれば。きのふまではあやまれる事も。一念ひるがへせば。無量の罪たちまちにほろぶることなるべし。

一訴訟の奉行人其仁を選ばるべき事。

凡奉行人は天下の公事を執行ふ職たるによりて。政道の善惡もととして是によるべし。いかにも心正直にして私を不㆑存。黑白をわきまへ。文筆に達し。理非にまかせて贔負をいたさゞらんをよき奉行とは稱すべし。是によりてあやまりあらん奉行人をばながくめしつかはるべからざるよし貞永の式目にのせられ侍り。兩方の支證をとり合せ。究决せられて。理有方へ付られたるをもとの給人として。難澁をいたさんをば別て罪科に處せらるべし。いはんや奉行人として存知ながらとりあげ披露せんは大なる越度なるべし。もし又奉行人として贔負をいたし。かたてうちになされたる公事たらば。越訴を立て申さん事。其咎有べからず。其方の奉行たる人。傍輩にかたらはされ。媚をなして理をまげんは。かへすがへす口惜かるべし。御法にも奉行をさしをきて別人に付て訴訟をいたす事をば停止せらるといへども。時にしたがひ事によるべし。いかにも內奏强緣をもてもなげき申べきことなるべし。又諸人の愁は緩怠に過たるはなし。むなしく廿ケ日を過ば庭中を出すべき制法ありといへども。理運の訴訟にいたりてはいかにも不日にこれを申さたすべし。いはんや一所懸命の地。人にさまたげられん輩においては。明日を期せざる存命也。いかでか慈悲の心をもてあはれみをたれざらんや。所詮親疎を論ぜず。理非にまかせてわたくしの賄賂にふけらず。公方の瑕瑾にならざる樣に正路にをイ申さたせん奉行人においては。別て臨時の勸賞もをこなはれて。後見の忠勤をすゝめらるべきものをや。

一近習者をえらばるべき事。

是は建武の十七ケ條の中にものせられ侍る題目也。其器用をえらばるべきこと尤然るべし。又黨類を結。たがひに毀譽をなす事。誠に鬪靜のもとゐ成べし。たとひ私のうらみをさしはさむといふとも。公庭において其色をあらはす事は未練のいたり成べし。さてその器用といふは事々によりて一具に定るべからず。孔子の門弟には四科をたて侍り。高祖の功臣には三傑の不同有がごとし。いかさま一には正直廉潔にしてごくしん極愼なる人をえらばるべし。二には奉公の忠節をいたして私をかへりみざる人。三には弓馬の道に達して心いさみ有人。四には和漢の才藝あらん人をよしとすべし。又よからぬ類をいはゞ。一にはうろん猛惡にして欲にふける人。二には不奉公にして人の非をいふことをこのむ。三には武藝の道につたなくして臆病第一也。四には狂言綺語をもて人にわらはるゝを面目とす。すべてよからぬ事どもをいひてはさらにがいさい涯際有べからず。但近習者とて召遣れんはいづれをも先れんみんは有べし。春の雨の草木をうるほす事大小の根莖をわかたざるがごとし。子を兒るは父にしかず。臣をみるは君にしかずと申侍れば。よきあしきに付て其心得をみ給て。正躰なき者の申事には同心あるべからず。狐狸は人をばかす物ぞとしりぬればばかされぬがごとし。次に君のあやまりましまさむ時はいさめ申を忠心[臣歟]といふ。存知しながら申入ざらんをば不忠の人といふべし。いさめ申につきては。機嫌によりてかならずいかりをなし給ふことも有べし。いかにも生涯にかへても申べき事をば申べき也。君も又いかに御意にちがふことなりとも。それを咎になさるゝ事はゆめゆめ有べからず。大事と存ずればこそ是程までは申らめと。別して後には勸賞をもをこなはるべき事也。さりながら此比の人はいかによきことなれども我心にたがふをばわろしと申。わろき事なれども我心にかなふをばよしと申侍べし。かやうならんいさめは只我心にまかせていふことなれば。國のためそのしるし有べからず。さればまづ人をよく心み給ふべき事也。昔朱雲といふ人漢の成帝をいさめし時。帝大に逆鱗ありて廷尉に仰付られ。朱雲をきられんとて引出さるゝ時。朱雲は出じとすまひし程に。取つきたる殿の檻をひきおりたり。是をのちに修理せんと申人ありしを。成帝はすべて修理すること有べからず。君のあやまり有時はかくこそいさめしものはあれと。後の人に見せてためしにせんとの給へり。あやまりまします時。いさめをいれざれば。國をも天下をもうしなふによりて。唐の太宗はいさめ申ものをことに賞し給へる也。侍從の官をば闕たるををぎぬ[な歟]ひ遺をひろふといひて。君のあやまりあり又わすれ給ふことをひそかにつげ申つかさ也。諫議大夫といふは今の宰相をいふ也。是はもはらいさめをつかさどる軄なり。昔よりかくのごとくいさめの事はなくてかなふまじき事にさだめられたる也。是は公私大小の差別こそあれ。一家のあるじたりといふともそれあやまりあらば。分々に其ひくはんにんたる人はいさむべき事なるべし。次に讒奏といふことはあさましき事に侍り。しろきをくろく。黑をば白きと申なす事。靑蠅の物をけがすにたとへ侍り。周の代に成王と申御門は周公旦とていみじき聖人にて國をおさめ侍りしを。管叔蔡叔といふあしきをとゝ二人ありて讒奏せられしかば。成王誠と覺しめして周公をしりぞけられき。其時雨風あらく。世のなかさはがしく。秋の田のみなども損じ侍りしうへ。成王の父武王の病し給ひし時。命にかはらんと周公のかき給へるちかひの言葉。金縢の書といふ物をもとめ出されて。これほどの忠有人なりけりとて。めしかへされて。讒奏したるをとゝ二人をば誅せられしかば。雨風もたちまちにやみ。田のみもおきなをれるよし申傅へ侍り。又めでたきためしに申侍る延喜の御門も時平のおとゞの讒奏によりて菅丞相の御事もいできたりし事也。鎌倉の右大將の時梶原平三景時が讒言によりてあまたの人をそんじけるとかや。さてこそ後には景時。其子景季以下同時にことごとく誅せられて。あさましき死をし侍りけるとなん。人のあしきことは何よりも讒言にて侍れば。君たる人はよくその心をえ給ふべきにこそ。

一足がるといふ者長く停止せらるべき事。

昔より天下の亂るゝことは侍れど。足がるといふことは舊記などにもしるさゞる名目也。平家のかぶろといふ事をこそめづらしきためしに申侍れ。此たびはじめて出來れる足がるは超過したる惡黨也。其故は洛中洛外の諸社。諸寺。五山十刹。公家。門跡の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所にをきては力なし。さもなき所々を打やぶり。或は火をかけて財賓をみ見さくる事は。ひとへにひる强盜といふべし。かゝるためしは先代未聞のこと也。是はしかしながら。武藝のすたるゝ所にかゝる事は出來れり。名有侍のたゝかふべき所をかれらにぬきゝせたるゆへなるべし。されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして當座の耻辱のみならず。末代までの瑕瑾を殘せるたぐひも有とぞ聞えし。いづれも主のなきものは有べからず。向後もかゝることあらば。をのをの主々にかけられて糺明あるべし。又土民商人たらば。在地におほせ付られて罪科有べき制禁ををかれば。千に一もやむ事や侍べき。さもこそ下剋上の世ならめ。外國の聞えも耻づべき事成べし。

一簾中より政務ををこなはるゝ事。

此日本國をば姬氏國といひ又倭王國と名付て。女のおさむべき國といへり。されば天照太神は始祖の陰神也。神功皇后は中興の女主たり。此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが。新羅百濟などをせめなびかして足原國をおこし給へり。目出かりし事ども也。又推古三十四代天皇も女にて。朝のまつり事を行ひ給ひし時。聖德太子は攝政し給て。十七ケ條の憲法などさだめさせ給へり。其後皇極三十六代持統四十一代元明四十三代元正四十四代孝謙四十六代の五代も皆女にて位に付。政をおさめ給へり。もろこしには呂太后と申は漢の高祖の后惠帝の母にて政をつかさどり侍り。唐の世には則天皇后と申は高宗の后中宗の母にて年久敷世をたもち侍り。宋朝に宣仁皇后と申侍りしは哲宗皇帝の母にて。簾中ながら天下の政道ををこなひ給へり。これを垂簾の政とは申侍る也。ちかくは鎌倉の右大將の北の方尼二位政子と申しは北條の四郞平の時政がむすめにて二代將軍の母なり。大將のあやまりあることをも此二位の敎訓し侍し也。大將の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有しかば。承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名共に廻文をまはし下知し侍りけり。貞觀政要と云書十卷をば菅家の爲長卿といひし人に和字にかゝせて天下の政のたすけとし侍りしも此二位尼のしわざ也。かくて光明峯寺道家の關白の末子を鎌倉へよび下し猶子にし侍りて將軍の宣旨を申なし侍り。七條の將軍賴經と申は是也。此將軍の代貞永元年に五十一ケ條の式目をさだめ侍て。今にいたるまで武家のかゞみとなれるにや。されば男女によらず天下の道理にくらからずば。政道の事。輔佐の力を合をこなひ給はん事。さらにわづらひ有べからずと覺侍り。

一天下主領の人かならず威勢有べき事。

人の威勢は善惡にわたるべし。道理をしれる人にははぢおそれてまことに歸伏すること有。又無理非道の人にはとがめられじとて心ならずおぢはゞかる事有。三尺の利劒は箱の中を出ざれども人是をおそれ。いかづちのこゑは百里の外に聞えてきもをけすがごとし。又猛虎は深山に有時もゝのけだ物をののきふるふ。麒麟は角のうへにしゝ有によりていきほひあれども人をやぶらず。是を聖人は威ありてたけからずとの給へり。此ゆへに武の道は威勢有を其德とす。その威勢といふは。ちかきより遠に及ぼし少事によりて大事も成就す。近をいるがせにすれば。遠き人聞傳ておそるゝ心なし。少事を指をかれば。大儀はいよいよ成事かたし。法分のさだむるところ理に當てをこなはるゝことを施行せざるを違勅の人といひて一段の罪科あるなり。人の訴詔理にまかせてかへし付らるゝ所に。この間もち付たる人。難澁を出すことあり。誠不便なる事ならば。をつてかはりの地をあてをこなはるゝとも理をば理とつけらるべし。それに猶違亂を出す事あらば。所當の罪科なくては有べからず。上裁を背上は。先出仕をとゞめ。餘の所領もあらば沒收せらるべき歟。又向後かれが申事。たとひ理有事成とも聞入給ふべからざるか。かくのごとくの制法ををかれずは。上をあなづること更にたゆべからず。又一國の守護など所勘にしたがはざらんをばいかゞはせん。凡大將軍といふは。おほやけの御かためとしてしきみの外を制し給ふべきゆるされをかうぶれる軄として。成敗有ことを違背申さむは。別して罪科に處せらるべし。代々武將の其例をもて義兵をおこし。朝敵に准じてすみやかに退治のさたに及べき事。理のをす所左右にあたはず。しからずは。はかりごとをとばりの中にめぐらして。いかにも前非を悔。承諾申やうに。うらおもてより計略有べきか。是又仁の道に有べし。それ又しからずは。私なき心をもて冥の照鑒にまかせられば。上裁を用ず雅意にまかせん强敵は。かならず自滅すること有て。俄に威勢を付奉る事。是又前蹤なきにあらず。しばらく時節到來をまたるべき歟。これらの進退よりのきは。ひとへに大將軍の所存に有べし。とかく人の申に及ばざる所也。

樵夫も王道を談ずといふは。いやしき木こりも王者のまつりごとをば語心也。今八ケ條をしるせる事は。八幡大菩薩の加護によりて大八嶋の國を治給ふべき詮要たるによりて。樵談治要とは名付侍る物なるべし。


常德院殿自筆御奧書

右此一册。一條殿御作者也。可㆑祕々々。

  文明十三年十二月六日

自㆓御方御所樣㆒被㆑下也。

  文明十四年七月五日

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「太政官布告第272号(地租改正)」と付属の「地租改正条例」が公布される詳細
1883年(明治16)日本初の私設鉄道として、日本鉄道会社の上野駅~熊谷駅間(現在の東北本線・高崎線)が開業する詳細
1907年(明治41)ロシアのサンクトペテルブルクにおいて、「日露漁業協約」が調印される詳細
1941年(昭和16)日本軍が南部仏印進駐を開始する詳細
1945年(昭和20)青森大空襲において、焼失家屋18,045戸、被災者70,166人、死者1,018人、重軽傷者は255人を出す詳細
1965年(昭和40)推理小説家江戸川乱歩の命日(乱歩忌)詳細
1989年(平成元)「緑の文明学会」・「社団法人日本公園緑地協会」が日本の都市公園100選を選ぶ詳細
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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、東京都で光化学スモッグ注意報・警報の発令体制が開始された日です。
 光化学スモッグ(こうかがくすもっぐ)は、大気中の窒素酸化物(NO(/x))と炭化水素(HC)が、強い紫外線を受けて高濃度のオゾンを大量に発生させ、次にそれがオキシダントまたは還元性物質であるホルムアルデヒド、アクロレイン、その他硝酸ミスト、硫酸ミストを発生させる現象です。
 人体に害を及ぼし、植物に被害を与える型のスモッグで、最初は、1940年代のアメリカのロサンゼルスで見出されたとされていますが、日本では、昭和時代後期の1970年(昭和45)7月18日に、東京立正中学校・高等学校(東京都杉並区)の生徒43名が、グランドで体育の授業中に目に対する刺激・のどの痛みなどを訴える事件が起こり、光化学スモッグによるものと発表されて知られるようになりました。
 それ以後、多数報告されるようになって、光化学スモッグ注意報も出されるようになり、1973年(昭和48年)には、それが300日を超えてピークに達しました。
 その後、減少してはいるものの、都市部ではまだかなりの日数注意報が出されています。現在は、「大気汚染防止法施行令」で、注意報(基準:0.120ppm以上)と重大緊急時警報(基準:0.400ppm以上)が発令されていますが、各都道府県独自の予報・警報などもあります。
 以下に、その根拠となっている「大気汚染防止法」(抜粋)と「大気汚染防止法施行令」(抜粋)を載せておきます。

〇「大気汚染防止法」(抜粋)

(緊急時の措置)
第二十三条 都道府県知事は、大気の汚染が著しくなり、人の健康又は生活環境に係る被害が生ずるおそれがある場合として政令で定める場合に該当する事態が発生したときは、その事態を一般に周知させるとともに、ばい煙を排出する者、揮発性有機化合物を排出し、若しくは飛散させる者又は自動車の使用者若しくは運転者であつて、当該大気の汚染をさらに著しくするおそれがあると認められるものに対し、ばい煙の排出量若しくは揮発性有機化合物の排出量若しくは飛散の量の減少又は自動車の運行の自主的制限について協力を求めなければならない。
2 都道府県知事は、気象状況の影響により大気の汚染が急激に著しくなり、人の健康又は生活環境に重大な被害が生ずる場合として政令で定める場合に該当する事態が発生したときは、当該事態がばい煙又は揮発性有機化合物に起因する場合にあつては、環境省令で定めるところにより、ばい煙排出者又は揮発性有機化合物排出者に対し、ばい煙量若しくはばい煙濃度又は揮発性有機化合物濃度の減少、ばい煙発生施設又は揮発性有機化合物排出施設の使用の制限その他必要な措置をとるべきことを命じ、当該事態が自動車排出ガスに起因する場合にあつては、都道府県公安委員会に対し、道路交通法 の規定による措置をとるべきことを要請するものとする。

〇「大気汚染防止法施行令」(抜粋)

(緊急時)
第十一条 法第二十三条第一項 の政令で定める場合は、別表第五の上欄に掲げる物質について、それぞれ、同表の中欄に掲げる場合に該当し、かつ、気象条件からみて当該大気の汚染の状態が継続すると認められるときとする。
2 法第二十三条第二項 の政令で定める場合は、別表第五の上欄に掲げる物質について、それぞれ、同表の下欄に掲げる場合に該当し、かつ、気象条件からみて当該大気の汚染の状態が継続すると認められるときとする。

別表第五 (第十一条関係)

オキシダント
 (注意報の基準)一時間値百万分の〇・一二以上である大気の汚染の状態になつた場合
 (警報の基準)一時間値百万分の〇・四以上である大気の汚染の状態になつた場合

備考 この表に規定する一時間値の算定に関し必要な事項並びに浮遊粒子状物質及びオキシダントの範囲は、環境省令で定める。

☆光化学スモッグ関係略年表

・1970年(昭和45)7月18日 東京立正中学校・高等学校(東京都杉並区)の生徒43名が、グランドで体育の授業中に目に対する刺激・のどの痛みなどを訴える事件が起きる(初の光化学スモッグ被害)
・1970年(昭和45)7月27日 東京都で光化学スモッグ注意報・警報の発令体制が開始される
・1970年(昭和45)12月 第64臨時国会で、「大気汚染防止法」を含む既存の公害関係諸法は大幅な改正がなされる
・1973年(昭和48) 光化学スモッグ注意報が300日を超えてピークに達し、窒素酸化物排出規制などの対策がとられるようになる
・1984年(昭和59) 光化学スモッグ注意報が100日以下となる
・1991年(平成3) 光化学オキシダント注意報の発令は,延べ 121日(15都府県)となる
・1992年(平成4) 排ガス規制として「自動車排出窒素酸化物総量削減法」が成立する
・2001年(平成13) 「自動車排出窒素酸化物総量削減法」が改正され、窒素酸化物の規制が強化されると共に、新たに浮遊粒子状物質の排出規制が加えられる
・2002年(平成14) 千葉県で国内で18年ぶり(千葉県内では28年ぶり)となる光化学スモッグ警報が発表される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1471年(文明3)浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てる(新暦8月13日)詳細
1719年(享保4)幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日)詳細
1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1940年(昭和15)大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
1986年(昭和61)遺伝学者木原均の命日詳細
1995年(平成7)人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する詳細
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