ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年04月

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 今日は、明治時代前期の1888年(明治21)に、「市制」と共に「町村制」が公布された日です。
 「町村制」(ちょうそんせい)は、「大日本帝国憲法」下で、従前の「郡区町村編制法」に替わり、町と村の制度を規定した法律(明治44年法律第69号)です。政府が国会開設に先立ち地方統治構造を固めるために、お雇い外国人のアルベルト・モッセの助言と内相山県有朋の推進により、1888年(明治21)4月25日に「市制」と共に公布され、翌年4月1日以降に施行されました。
 これは人口25,000人未満の自治体に適用され、「市制」(人口25,000人以上)と共に地方公共団体としての地位を確立しましたが、市町村の選挙・被選挙権を持つのは直接国税2円以上の納入者に限られるなど少数の有産者が権限を握り、政府の内務大臣の強い統制下に置かれ、町村長は無給の名誉職で町村会で選出されるなどとされます。この制度は、自由民権運動の要求にこたえる面と立憲制開始の前に官僚支配の末端機構としての自治体を育てあげ、中央の政争が地方に波及しないようにする面の二つの狙いをもっていて、自治権は弱いものとなりました。
 この日の施行は2府・33県で、5月1日に東京府、宮崎県、6月1日に岡山県、7月1日に山梨県、岐阜県、10月1日に愛知県、鳥取県、徳島県、12月15日に愛媛県など順次施行され、町村が15,820の町村と市が39となります。この法律は、1911年(明治44)に全面改正され、町村の法人性とその機能・負担の範囲を明らかにされ、1921年(大正10年)に直接町民税を納める者を公民とし町村の等級選挙を廃し、1925年(大正14年)、1929年(昭和4年)の改正で自治権の強化と公民権の拡張が進みました。
 しかし、太平洋戦争後の1947年(昭和22)に「日本国憲法」下での「地方自治法」の制定にともない廃止されています。
 以下に、「町村制」(明治21年法律第1号の後半)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「町村制」(明治21年法律第1号の後半) 1888年(明治21)4月25日公布

第一章  總則

第一欵  町村及其區域

第一條  此法律ハ市制ヲ施行スル地ヲ除キ總テ町村ニ施行スルモノトス

第二條  町村ハ法律上一個人ト均ク權利ヲ有シ{議}務ヲ負擔シ凡町村公共ノ事務ハ官ノ監督ヲ受ケテ自ラ之ヲ處理スルモノトス

第三條  凡町村ハ從來ノ區域ヲ存シテ之ヲ變更セス但將來其變更ヲ要スルコトアルトキハ此法律ニ準據ス可シ

第四條  町村ノ廢置分合ヲ要スルトキハ關係アル市町村會及郡參事會ノ意見ヲ聞キ府縣參事會之ヲ議決シ內將大臣ノ許可ヲ受ク可シ
 町村境界ノ變更ヲ要スルトキハ關係アル町村會及地主ノ意見ヲ聞キ郡參事會之ヲ議決ス其數郡ニ涉リ若クハ市ノ境界ニ涉ルモノハ府縣參事會之ヲ議決ス
 町村ノ資力法律上ノ義務ヲ負擔スルニ堪ヘス又ハ公益上ノ必要アルトキハ關係者ノ異議ニ拘ハラス町村ヲ合倂シ又ハ其境界ヲ變更スルコトアル可シ
 本條ノ處分ニ付其町村ノ財產處分ヲ要スルトキハ倂セテ之ヲ議決ス可シ

第五條  町村ノ境界ニ關スル爭論ハ郡參事會之ヲ裁決ス其數郡ニ涉リ若クハ市ノ境界ニ涉ルモノハ府縣參事會之ヲ裁決ス其郡參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第二欵  町村住民及其權利義務

第六條  凡町村內ニ住居ヲ占ムル者ハ總テ其町村住民トス
 凡町村住民タル者ハ此法律ニ從ヒ公共ノ營造物並町村有財產ヲ共用スルノ權利ヲ有シ及町村ノ負擔ヲ分任スルノ義務ヲ有スルモノトス但特ニ民法上ノ權利及義務ヲ有スル者アルトキハ此限ニ在ラス

第七條  凡帝國臣民ニシテ公權ヲ有スル獨立ノ男子二年以來(一)町村ノ住民トナリ(二)其町村ノ負擔ヲ分任シ及(二)其町村內ニ於テ地租ヲ納メ若ク直接國祝年額二圓以上ヲ納ムル者ハ其町村公民トス其公費ヲ以テ救助ヲ受ケタル後二年ヲ經サル者ハ此限ニ在ラス但場合ニ依リ町村會ノ議決ヲ以テ本條ニ定ムル二箇年ノ制限ヲ特免スルコトヲ得
 此法律ニ於テ獨立ト稱スルハ滿二十五歲以上ニシテ一戶ヲ構ヘ且治產ノ禁ヲ受ケサル者ヲ云フ

第八條  凡町村公民ハ町村ノ選擧ニ參與シ町村ノ名譽職ニ選擧セラルヽノ權利アリ又其名譽職ヲ擔任スルハ町村公民ノ義務ナリトス
 左ノ理由アルニ非サレハ名譽職ヲ拒辭シ又ハ任期中退職スルコトヲ得ス
 一  疾病ニ罹リ公務ニ堪ヘサル者
 二  營業ノ爲メニ常ニ其町村內ニ居ルコトヲ得サル者
 三  年齡滿六十歲以上ノ者
 四  官職ノ爲メニ町村ノ公務ヲ執ルコトヲ得サル者
 五  四年間無給ニシテ町村吏員ノ職ニ任シ爾後四年ヲ經過セサル者及六年間町村議員ノ職ニ居リ爾後六年ヲ經過セサル者
 六  其他町村會ノ議決ニ於テ正當ノ理由アリト認ムル者
 前項ノ理由ナクシテ名譽職ヲ拒辭シ又ハ任期中退職シ若クハ無任期ノ職務ヲ少クモ三年間擔當セス又ハ其職務ヲ實際ニ執行セサル者ハ町村會ノ議決ヲ以テ三年以上六年以下其町村公民タルノ權ヲ停止シ且同年期間其負擔ス可キ町村費ノ八分一乃至四分一ヲ增課スルコトヲ得
 前項町村會ノ議決ニ不服アル者ハ郡參事會ニ訴願シ其郡參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第九條  町村公民タル者第七條ニ揭載スル要件ノ一ヲ失フトキハ其公民タルノ權ヲ失フモノトス
 町村公民タル者公權停止中又ハ租稅滯納處分中ハ其公民タルノ權ヲ停止ス家資分散若クハ破產ノ宣吿ヲ受ケタルトキハ復權ノ決定アルマテ又公權剝奪若クハ停止ヲ附加ス可キ重罪輕罪ノ爲メ公判ニ付セラレタルトキハ其裁判ノ確定ニ至ルマテ亦同シ
 陸海軍ノ現役ニ服スル者ハ町村ノ公務ニ參與セサルモノトス現役以外ノ兵役ニ在ル者ニシテ戰時若クハ事變ニ際シ召集セラレタルトキモ亦同シ
 町村公民タル者ニ限リテ任ス可キ職務ニ在ル者ニシテ本條第一項乃至第三項ノ場合ニ當ルトキハ自ラ解職スルモノトス職ニ就キタルカ爲メ公民タルノ權ヲ得可キ職務ニ在ル者ニシテ本條第二項第三項ノ場合ニ當ルトキモ亦同シ
 前項ノ職務ニ在ル町村吏員ニシテ公權剝奪若クハ停止ヲ附加ス可キ重罪輕罪ノ爲メ豫審ニ付セラレタルトキハ監督官廳ハ其職ヲ停止スルコトヲ得

第三欵  町村條例

第九條  町村公民タル者第七條ニ揭載スル要件ノ一ヲ失フトキハ其公民タルノ權ヲ失フモノトス
 町村公民タル者身代限處分中又ハ公權剝奪若クハ停止ヲ附加ス可キ重輕罪ノ爲メ栽判上ノ訊問若クハ勾留中又ハ租稅滯納處分中ハ其公民タルノ權ヲ停止ス
 陸海軍ノ現役ニ服スル者ハ町村ノ公務ニ參與セサルモノトス
 町村公民タル者ニ限リテ任ス可キ職務ニ在ル者本條ノ場合ニ當ルトキハ其職務ヲ解ク可キモノトス

第三欵  町村條例

第十條  町村ノ事務及町村住民ノ權利義務ニ關シ此法律中ニ明文ナク又ハ特例ヲ設クルコトヲ許セル事項ハ各町村ニ於テ特ニ條例ヲ設ケテ之ヲ規定スルコトヲ得
 町村ニ於テハ其町村ノ設置ニ係ル營造物ニ關シ規則ヲ設クルコトヲ得
 町村條例及規則ハ法律命令ニ抵觸スルコトヲ得ス且之ヲ發行スルトキハ地方慣行ノ公吿式ニ依ル可シ

第二章  町村會

第一欵  組織及選擧

第十一條  町村會議員ハ其町村ノ選擧人其被選擧權アル者ヨリ之ヲ選擧ス其定員ハ其町村ノ人口ニ準シ左ノ割合ヲ以テ之ヲ定ム但町村條例ヲ以テ特ニ之ヲ增減スルコトヲ得
 一  人口千五百未滿ノ町村ニ於テハ                    議員八人
 一  人口千五百以上五千未滿ノ町村ニ於テハ            議員十二人
 一  人口五千以上一萬未滿ノ町村ニ於テハ              議員十八人
 一  人口一萬以上二萬未滿ノ町村ニ於テハ              議員二十四人
 一  人ロ二萬以上ノ町村ニ於テハ                      議員三十人

第十二條  町村公民(第七條)ハ總テ選擧權ヲ有ス但其公民權ヲ停止セラルヽル者(第八條第三項、第九條第二項)及第九條第三項ノ場合ニ當ル者ハ此限ニ在ラス
 凡內國入ニシテ公權ヲ有シ直接町村稅ヲ納ムル者其額町村公民ノ最多ク納稅スル者三名中ノ一人ヨリモ多キトキハ第七條ノ要件ニ當ラスト雖モ選擧權ヲ有ス但公民權ヲ停止セラルヽ者及第九條第三項ノ場合ニ當ル者ハ此限ニ在ラス
 法律ニ從テ設立シタル會社其他法人ニシテ前項ノ場合ニ當ルトキモ亦同シ

第十三條  選擧人ハ分テ二級ト爲ス
 選擧人中直接町村稅ノ納額多キ者ヲ合セテ選擧人全員ノ納ムル總額ノ半ニ當ル可キ者ヲ一級トシ爾餘ノ選擧人ヲ二級トス
 一級二級ノ間納稅額兩級ニ跨ル者アルトキハ一級ニ入ル可シ又兩級ノ間ニ同額ノ納稅者二名以上アルトキハ其町村內ニ住居スル年數ノ多キ者ヲ以テ一級ニ入ル若シ住居ノ年數ニ依リ難キトキハ年齡ヲ以テシ年齡ニモ依リ難キトキハ町村長抽籤ヲ以テ之ヲ定ム可シ
 選擧人每級各別ニ議員ノ半數ヲ選擧ス其被選擧人二同級內ノ者ニ限ラス兩級ニ通シテ選擧セラルヽコトヲ得

第十四條  特別ノ事情アリテ前條ノ例ニ依リ難キ町村ニ於テハ町村條例ヲ以テ別ニ選擧ノ特例ヲ設クルコトヲ得

第十五條  選擧權ヲ有スル町村公民(第十二條第一項)ハ總テ被選擧權ヲ有ス
 左ニ揭クル者ハ町村會議員タルコトヲ得ス
 一  所屬府縣郡ノ官吏
 ニ  有給ノ町村吏員
 三  檢察官及警察官吏
 四  榊官僧侶及其他諸宗敎師
 五  小學校敎員
 其他官吏ニシテ當選シ之ニ應セントスルトキハ所屬長官ノ許可ヲ受ク可シ
 代言人ニ非スシテ他人ノ爲メニ裁判所又ハ其他ノ官廳ニ對シテ事ヲ辨スルヲ以テ業ト爲ス者ハ議員ニ選擧セラルヽコトヲ得ス
 父子兄弟タルノ綠故アル者ハ同時ニ町村會議員タルコトヲ得ス其同時ニ選擧セラレタルトキハ投票ノ數ニ依テ其多キ者一人ヲ當選トシ若シ同數ナレハ年長者ヲ當選トス其時ヲ異ニシテ選擧セラレタル者ハ後者議員タルコトヲ得ス
 町村長若クハ助役トノ間父子兄弟タルノ緣故アル者ハ之ト同時ニ町村會議員タルコトヲ得ス若シ議員トノ間ニ其緣故アル者町村長若クハ助役ニ選擧セラレ認可ヲ受クルトキハ其緣故アル議員ハ其職ヲ退ク可シ

第十六條  議員ハ名譽職トス其任期ハ六年トシ每三年各級ニ於テ其半數ヲ改選ス若シ各級ノ議員二分シ難キトキハ初囘ニ於テ多數ノ一半ヲ解任セシム初囘ニ於テ解任ス可キ者ハ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム
 退任ノ議員ハ再選セラルヽコトヲ得

第十七條  議員中闕員アルトキハ每三年定期改選ノ時ニ至リ同時ニ補闕選擧ヲ行フ可シ若シ定員三分ノ一以上闕員アルトキ又ハ町村會町村長若クハ郡長ニ於テ臨時補闕ヲ必要ト認ムルトキハ定期前ト雖モ其補闕選擧ヲ行フ可シ
 補闕議員ハ其前任者ノ殘任期間在職スルモノトス
 定期改選及補闕選擧トモ前任者ノ選擧セラレタル選擧等級ニ從テ之カ選擧ヲ行フ可シ

第十八條  町村長ハ選擧ヲ行フ每ニ其選擧前六十日ヲ限リ選擧原簿ヲ製シ各選擧人ノ資格ヲ記載シ此原簿ニ據リテ選擧人名簿ヲ製ス可シ
 選擧人名簿ハ七日間町村役場ニ於テ之ヲ關係者ノ縱覽ニ供ス可シ若シ關係者ニ於テ訴願セントスルコトアルトキハ同期限內ニ之ヲ町村長ニ申立ツ可シ町村長ハ町村會ノ裁決(第三十七條第一項)ニ依リ名簿ヲ修正ス可キトキハ選擧前十日ヲ限リテ之ニ修正ヲ加ヘテ確定名簿トナシ之ニ登錄セラレサル者ハ何人タリトモ選擧ニ關スルコトヲ得ス
 本條ニ依リ確定シタル名簿ハ當選ヲ辭シ若クハ選擧ノ無效トナリタル場合ニ於テ更ニ選擧ヲ爲ストキモ亦之ヲ適用ス

第十九條  選擧ヲ執行スルトキハ町村長ハ選擧ノ場所日時ヲ定メ及選擧ス可キ議員ノ數ヲ各級ニ分チ選擧前七日ヲ限リテ之ヲ公吿ス可シ
 各級ニ於テ選擧ヲ行フノ順序ハ先ツ二級ノ選擧ヲ行ヒ次ニ一級ノ選擧ヲ行フ可シ

第二十條  選擧掛ハ名譽職トシ町村長ニ於テ臨時ニ選擧人中ヨリ二名若クハ四名ヲ選任シ町村長若クハ其代理者ハ其係長トナリ選擧會ヲ開閉シ其會場ノ取締ニ任ス

第二十一條  選擧開會中ハ選擧人ノ外何人タリトモ選擧會場二入ルコトヲ得ス選擧人ハ選擧會場ニ於テ協議又ハ勸誘ヲ爲スコトヲ得ス

第二十二條  選擧ハ投票ヲ以テ之ヲ行フ投票ニハ被選擧人ノ氏名ヲ記シ封緘ノ上選擧人自ラ掛長ニ差出ス可シ但選擧人ノ氏名ハ投票ニ記入スルコトヲ得ス
 選擧人投票ヲ差出ストキハ自己ノ氏名及住所ヲ掛長ニ申立テ掛長ハ選擧人名簿ニ照シテ之ヲ受ケ封緘ノ儘投票函ニ投入ス可シ但投票函ハ投票ヲ終ル迄之ヲ開クコトヲ得ス

第二十三條  投票ニ記載ノ人員其選擧ス可キ定數ニ過キ又ハ不足アルモ其投票ヲ無效トセス其定數ニ過クルモノハ末尾ニ記載シタル人名ヲ順次ニ棄却ス可シ
 左ノ投票ハ之ヲ無效トス
 一  人名ヲ記載セス又ハ記載セル人名ノ讀ミ難キモノ
 ニ  被選擧人ノ何人タルヲ確認シ難キモノ
 三  被選擧權ナキ人名ヲ記載スルモノ
 四  被選擧人氏名ノ外他事ヲ記入スルモノ
 投票ノ受理並ニ效力ニ關スル事項ハ選擧掛假ニ之ヲ議決ス可否同數タルトキハ掛長之ヲ決ス

第二十四條  選擧ハ選擧人自ラ之ヲ行フ可シ他人ニ託シテ投票ヲ差出スコトヲ許サス
 第十二條第二項ニ依リ選擧權ヲ有スル者ハ代人ヲ出シテ選擧ヲ行フコトヲ得若シ其獨立ノ男子ニ非サル者又ハ會社其他法人ニ係ルトキハ必ス代人ヲ以テス可シ其代人ハ內國人ニシテ公權ヲ有スル獨立ノ男子ニ限ル但一人ニシテ數人ノ代理ヲ爲スコトヲ得ス且代人ハ委任狀ヲ選擧掛ニ示シテ代理ノ證トス可シ

第二十五條  町村ノ區域廣濶ルルトキ又ハ人口稠密ナルトキハ街村會ノ議決ニ依リ區畫ヲ定メテ選擧分會ヲ設クルコトヲ得但特ニ二級選擧人ノミ此分會ヲ設クルモ妨ケナシ
 分會ノ選擧掛ハ町村長ノ選任シタル代理者ヲ以テ其長トシ第二十條ノ例ニ依リ掛員二名若クハ同名ヲ選任ス
 選擧分會ニ於テ爲シタル投票ハ投票函ノ儘本會ニ集メテ之ヲ合算シ總數ヲ以テ當選ヲ定ム
 選擧分會ハ本會ト同日時ニ之ヲ開ク可シ其他選擧ノ手續會場ノ取締等總テ本會ノ例ニ依ル

第二十六條  議員ノ選擧ハ有效投票ノ多數ヲ得ル者ヲ以テ當選トス投票ノ數相同キモノハ年長者ヲ取リ同年ナルトキハ掛長自ラ抽籤シテ其當選ヲ定ム
 同時ニ補闕員數名ヲ選擧スルトキハ(第十七條)投票數ノ最多キ者ヲ以テ殘任期ノ最長キ前任者ノ補闕ト爲シ其數相同キトキハ抽籤ヲ以テ其順序ヲ定ム

第二十七條  選擧掛ハ選擧錄ヲ製シテ選擧ノ顚末ヲ記錄シ選擧ヲ終リタル後之ヲ朗讀シ選擧人名簿其他關係書類ヲ合綴シテ之ニ署名ス可シ
 投票ハ之ヲ選擧錄ニ附屬シ選擧ヲ結了スルニ至ル迄之ヲ保存ス可シ

第二十八條  選擧ヲ終リタル後選擧掛長ハ直ニ當選者ニ其當選ノ旨ヲ吿知ス可シ其當選ヲ辭セントスル者ハ五日以內ニ之ヲ町村長ニ申立ツ可シ
 一人ニシテ兩級ノ選擧ニ當リタルトキハ同期限內何レノ選擧ニ應ス可キコトヲ申立ツ可シ其期限內ニ之ヲ申立テサル者ハ總テ其選擧ヲ辭スル者トナシ第八條ノ處分ヲ爲ス可シ

第二十九條  選擧人選擧ノ效力ニ關シテ訴願セントスルトキハ選擧ノ日ヨリ七日以內ニ之ヲ町村長ニ申立ツルコトヲ得(第三十七條第一項)
 町村長ハ選擧ヲ終リタル後之ヲ郡長ニ報吿シ郡長ニ於テ選擧ノ效力ニ關シ異議アルトキハ訴願ノ有無ニ拘ラス郡參事會ニ付シテ處分ヲ行フコトヲ得
 選擧ノ定規ニ違背スルコトアルトキハ其選擧ヲ取消シ又被選擧人中其資格ノ要件ヲ有セサル者アルトキハ其人ノ當選ヲ取消シ更ニ選擧ヲ行ハシム可シ

第三十條  當選者中其資格ノ要件ヲ有セサル者アルコトヲ發見シ又ハ就職後其要件ヲ失フ者アルトキハ其人ノ當選ハ效力ヲ失フモノトス其要件ノ有無ハ町村會之ヲ議決ス

第三十一條  小町村ニ於テハ郡參事會ノ議決ヲ經町村條例ノ規定ニ依リ町村會ヲ設ケス選擧權ヲ有スル町村公民ノ總會ヲ以テ之ニ充ツルコトヲ得

第二欵  職務權限及處務規程

第三十二條  町村會ハ其町村ヲ代表シ此法律ニ準據シテ町村一切ノ事件並從前特ニ委任セラレ又ハ將來法律勅令ニ依テ委任セラルヽ事件ヲ議決スルモノトス

第三十三條  町村會ノ議決ス可キ事件ノ槪目左ノ如シ
 一  町村條例及規則ヲ設ケ並改正スル事
 二  町村費ヲ以テ支辨ス可キ事業但第六十九條ニ揭タル事務ハ此限ニ在ラス
 三  歲入出豫算ヲ定メ豫算外ノ支出及豫算超過ノ支出ヲ認定スル事
 四  決算報吿ヲ認定スル事
 五  法律勅令ニ定ムルモノヲ除クノ外使用料、手數料、町村稅及夫役現品ノ賦課徵收ノ法ヲ定ムル事
 六  町村有不動產ノ賣買交換讓受讓渡並質入書入ヲ爲ス事
 七  基本財產ノ處分ニ關スル事
 八  歲入出豫算ヲ以テ定ムルモノヲ除クノ外新ニ義務ノ負擔ヲ爲シ及權利ノ棄却ヲ爲ス事
 九  町村有ノ財產及營造物ノ管理方法ヲ定ムル事
 十  町村吏員ノ身元保證金ヲ徵シ並其金額ヲ定ムル事
 十一  町村ニ係ル訴訟及和解ニ關スル事

第三十四條  町村會ハ法律勅令ニ依リ其職權ニ屬スル町村吏員ノ選擧ヲ行フ可シ

第三十五條  町村會ハ町村ノ事務ニ關スル書類及計算書ヲ檢閱シ町村長ノ報吿ヲ請求シテ事務ノ管理、議決ノ施行並收入支出ノ正否ヲ監査スルノ職權ヲ有ス
 町村會ハ町村ノ公益ニ關スル事件ニ付意見書ヲ監督官廳ニ差出スコトヲ得

第三十六條  町村會ハ官廳ノ諮問アルトキハ意見ヲ陳述ス可シ

第三十七條  町村住民及公民タル權利ノ有無、選擧權及被選擧權ノ有無、選擧人名簿ノ正否並其等級ノ當否、代理ヲ以テ執行スル選擧權(第十二條第二項)及町村會議員選擧ノ效力(第二十九條)ニ關スル訴願ハ町村會之ヲ裁決ス
 前項ノ訴願中町村住民及公民タル權利ノ有無並選擧權ノ有無ニ關スルモノハ町村會ノ設ケナキ町村ニ於テハ町村長之ヲ裁決ス
 町村會若クハ町村長ノ裁決ニ不服アル者ハ郡參事會ニ訴願シ其郡參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得
 本條ノ事件ニ付テニ町村長ヨリモ亦訴願及訴訟ヲ爲スコトヲ得
 本條ノ訴願及訴訟ノ爲メニ其執行ヲ停止スルコトヲ得ス但判決確定スルニ非サレハ更ニ選擧ヲ爲スコトヲ得ス

第三十八條  凡議員タル者ハ選擧人ノ指示若クハ委囑ヲ受ク可ラサルモノトス

第三十九條  町村會ハ町村長ヲ以テ其議長トス若シ町村長故障アルトキハ其代理タル町村助役ヲ以テ之ニ充ツ

第四十條  會議ノ事件議長及其父母兄弟若クハ妻子ノ一身上ニ關スル事アルトキハ議長ニ故障アルモノトシテ其代理者之ニ代ル可シ
 議長代理者共ニ故障アルトキハ町村會ハ年長ノ議員ヲ以テ議長ト爲ス可シ

第四十一條  町村長及助役ハ會議ニ列席シテ議事ヲ辨明スルコトヲ得

第四十二條  町村會ハ會議ノ必要アル每ニ議長之ヲ招集ス若シ議員四分ノ一以上ノ請求アルトキハ必ス之ヲ招集ス可シ其招集並會議ノ事件ヲ吿知スルハ急施ヲ要スル場合ヲ除クノ外少クモ開會ノ三日前タル可シ但町村會ノ議決ヲ以テ豫メ會議日ヲ定ムルモ妨ケナシ

第四十三條  町村會ハ議員半數以上出席スルニ非サレハ議決スルコトヲ得ス但同一ノ議事ニ付招集再囘ニ至ルモ議員猶半數ニ滿タサルトキハ此限ニ在ラス

第四十四條  町村會ノ議決ハ可否ノ多數ニ依リ之ヲ定ム可否同數ナルトキハ再議議決ス可シ若シ猶同數ナルトキハ議長ノ可否スル所ニ依ル

第四十五條  議員ハ自己及其父母兄弟若クハ妻子ノ一身上ニ關スル事件ニ付テハ町村會ノ議決ニ加ハルコトヲ得ス
 議員ノ數此除名ノ爲メニ減少シテ會議ヲ開クノ定數ニ滿タサルトキハ郡參事會町村會ニ代テ議決ス

第四十六條  町村會ニ於テ町村吏員ノ選擧ヲ行フトキハ其一名每ニ匿名投票ヲ以テ之ヲ爲シ有效投票ノ過半數ヲ得ル者ヲ以テ當選トス若シ過半數ヲ得ル者ナキトキハ最多數ヲ得ル者二名ヲ取リ之ニ就テ更ニ投票セシム若シ最多數ヲ得ル者三名以上同數ナルトキハ議長自ラ抽籤シテ其二名ヲ取リ更ニ投票セシム此再投票ニ於テモ猶過半數ヲ得ル者ナキトキハ抽籤ヲ以テ當選ヲ定ム其他ハ第二十二條、第二十三條、第二十四條第一項ヲ適用ス
 前項ノ選擧ニハ町村會ノ議決ヲ以テ指名推選ノ法ヲ用フルコトヲ得

第四十七條  町村會ノ會議ハ公開ス但議長ノ意見ヲ以テ傍聽ヲ禁スルコトヲ得

第四十八條  議長ハ各議員ニ事務ヲ分課シ會議及選擧ノ事ヲ總理シ開會閉會並延會ヲ命シ議場ノ秩序ヲ保持ス若シ傍聽者ノ公然贊成又ハ擯斥ヲ表シ又ハ喧擾ヲ起ス者アルトキハ議長ハ之ヲ議場外ニ退出セシムルコトヲ得

第四十九條  町村會ハ書記ヲシテ議事錄ヲ製シテ其議決及選擧ノ顚末並出席議員ノ氏名ヲ記錄セシム可シ議事錄ハ會議ノ末之ヲ朗讀シ議長及議員二名以上之ニ署名ス可シ
 町村會ノ書記ハ議長之ヲ選任ス

第五十條  町村會ハ其會議細則ヲ設ク可シ其細則ニ違背シタル議員ニ科ス可キ過怠金二圓以下ノ罰則ヲ設クルコトヲ得

第五十一條  第二十二條ヨリ第四十九條ニ至ルノ規定ハ之ヲ町村總會ニ適用ス

第三章  町村行政

第一欵  町村吏員ノ組織選任

第五十二條  町村ニ町村長及町村助役各一名ヲ置ク可シ但町村條例ヲ以テ助役ノ定員ヲ增加スルコトヲ得

第五十三條  町村長及助役ハ町村會ニ於テ其町村公民中年齡滿三十歲以上ニシテ選擧權ヲ有スル者ヨリ之ヲ選擧ス
 町村長及助役ハ第十五條第二項ニ揭載スル職ヲ兼ヌルコトヲ得ス
 父子兄弟タルノ緣故アル者ハ同時ニ町村長及助役ノ職ニ在ルコトヲ得ス若シ其緣故アル者助役ノ選擧ニ當ルトキハ其當選ヲ取消シ其町村長ノ選擧ニ當リテ認可ヲ得ルトキハ其綠故アル助役ハ其職ヲ退ク可シ

第五十四條  町村長及助役ノ任期ハ四年トス
 町村長及助役ノ選擧ハ第四十六條ニ依テ行フ可シ但投票同數ナルトキハ抽籤ノ法ニ依ラス郡參事會之ヲ決ス可シ

第五十五條  町村長及助役ハ名譽職トス但第五十六條ノ有給町村長及有給助役ハ此限ニ在ラス
 町村長ハ職務取扱ノ爲メニ要スル實費辨償ノ外勤務ニ相當スル報酬ヲ受クルコトヲ得肋役ニシテ行政事務ノ一部ヲ分掌スル場合(第七十條第二項)ニ於テモ亦同シ

第五十六條  町村ノ情況ニ依リ町村條例ノ規定ヲ以テ町村長ニ給料ヲ給スルコトヲ得又大ナル町村ニ於テハ町村條例ノ規定ヲ以テ助役一名ヲ有給吏員ト爲スコトヲ得
 有給町村長及有給助役ハ其町村公民タル者ニ限ラス但當選ニ應シ認可ヲ得ルトキハ其公民タルノ權ヲ得

第五十七條  有給町村長及有給助役ハ三箇月前ニ申立ツルトキハ隨時退職ヲ求ムルコトヲ得此場合ニ於テハ退隱料ヲ受クルノ權ヲ失フモノトス

第五十八條  有給町村長及有給助役ハ他ノ有給ノ職務ヲ兼任シ又ハ株式會社ノ社長及重役トナルコトヲ得ス其他ノ營業ハ郡長ノ認許ヲ得ルニ非サレハ之ヲ爲スコトヲ得ス

第五十九條  町村長及助役ノ選擧ハ府縣知事ノ認可ヲ受ク可シ

第六十條  府縣知事前條ノ認可ヲ與ヘサルトキハ府縣參事會ノ意見ヲ聞クコトヲ要ス若シ府縣參事會同意セサルモ猶府縣知事ニ於テ認可ス可カラスト爲ストキハ自己ノ責任ヲ以テ之ニ認可ヲ與ヘサルコトヲ得
 府縣知事ノ不認可ニ對シ町村長又ハ町村會ニ於テ不服アルトキハ內務大臣ニ具申シテ認可ヲ請フコトヲ得

第六十一條  町村長及助役ノ選擧其認可ヲ得サルトキハ再選擧ヲ爲ス可シ
 再選擧ニシテ猶其認可ヲ得サルトキハ追テ選擧ヲ行ヒ認可ヲ得ルニ至ルノ間認可ノ權アル監督官廳ハ臨時ニ代理者ヲ選任シ又ハ町村費ヲ以テ官吏ヲ派遣シ町村長及助役ノ職務ヲ管掌セシム可シ

第六十二條  町村ニ收入役一名ヲ置ク收入役ハ町村長ノ推薦ニ依リ町村會之ヲ選任ス
 收八役ハ有給吏員ト爲シ其任期ハ四年トス
 收入役ハ町村長及助役ヲ兼ヌルコトヲ得ス其他第五十六條第二項、第五十七條及第七十六條ヲ適用ス
 收入役ノ選任ハ郡長ノ認可ヲ受ク可シ若シ認可ヲ與ヘサルトキハ郡參事會ノ意見ヲ聞クコトヲ要ス郡參事會之ニ同意セサルモ猶郡長ニ於テ認可ス可カラスト爲ストキハ自己ノ責任ヲ以テ之ニ認可ヲ與ヘサルコトヲ得其他第六十一條ヲ適用ス
 郡長ノ不認可ニ對シ町村長又ハ町村會ニ於テ不服アルトキハ府縣知事ニ具申シテ認可ヲ請フコトヲ得
 收入支出ノ寡少ナル町村ニ於テハ郡長ノ許可ヲ得テ町村長又ハ助役ヲシテ收入役ノ事務ヲ兼掌セシムルコトヲ得

第六十三條  町村ニ書記其他必要ノ附屬員並使丁ヲ置キ相當ノ給料ヲ給ス其人員ハ町村會ノ議決ヲ以テ之ヲ定ム但町村長ニ相當ノ書記料ヲ給與シテ書記ノ事務ヲ委任スルコトヲ得
 町村附屬員ハ町村長ノ推薦ニ依リ町村會之ヲ選任シ使丁ハ町村長之ヲ任用ス

第六十四條  町村ノ區域廣濶ナルトキ又ハ人口稠密ナルトキハ處務便宜ノ爲メ町村會ノ議決ニ依リ之ヲ數區ニ分チ每區區長及其代埋者各一名ヲ置クコトヲ得區長及其代理者ハ名譽職トス
 區長及其代理者ハ町村會ニ於テ其町村ノ公民中選擧權ヲ有スル者ヨリ之ヲ選擧ス區會(第百十四條)ヲ設クル區ニ於テハ其區會ニ於テ之ヲ選擧ス

第六十五條  町村ハ町村會ノ議決ニ依リ臨時又ハ常設ノ委員ヲ置クコトヲ得其委員ハ名譽職トス
 委員ハ町村會ニ於テ町村會議員又ハ町村公民中選擧權ヲ有スル者ヨリ選擧シ町村長又ハ其委任ヲ受ケタル助役ヲ以テ委員長トス
 常設委員ノ組織ニ關シテハ町村條例ヲ以テ別段ノ視定ヲ設クルコトヲ得

第六十六條  區長及委員ニハ職務取扱ノ爲メニ要スル實費辨償ノ外町村會ノ議決ニ依リ勤務ニ相當スル報酬ヲ給スルコトヲ得

第六十七條  町村吏員ハ任期滿限ノ後再選セラルヽコトヲ得
 町村吏員及使丁ハ別段ノ規定又ハ規約アルモノヲ除クノ外隨時解職スルコトヲ得

第二欵  町村吏員ノ職務權限

第六十八條  町村長ハ其町村ヲ統轄シ其行政事務ヲ擔任ス
 町村長ノ擔任スル事務ノ槪目左ノ如シ
 一  町村會ノ議事ヲ準備シ及其議決ヲ執行スル事若シ町村會ノ議決其權限ヲ越エ法律命令ニ背キ又ハ公衆ノ利益ヲ害スト認ムルトキハ町村長ハ自己ノ意見ニ依リ又ハ監督官廳ノ指揮ニ依リ理由ヲ示シテ議決ノ執行ヲ停止シ之ヲ再議セシメ猶其議決ヲ更メサルトキハ郡參事會ノ裁決ヲ請フ可シ其權限ヲ越之又ハ法律勅令ニ背クニ依テ議決ノ執行ヲ停止シタル場合ニ於テ府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得
 二  町村ノ設置ニ係ル營造物ヲ管理スル事若シ特ニ之カ管埋者アルトキハ其事務ヲ監督スル事
 三  町村ノ歲入ヲ管理シ歲入出豫算表其他町村會ノ議決ニ依テ定マリタル收入支出ヲ命令シ會計及出納ヲ監視スル事
 四  町村ノ權利ヲ保護シ町村有ノ財產ヲ管理スル事
 五  町村吏員及使丁ヲ監督シ懲戒處分ヲ行フ事其懲戒處分ハ譴責及五圓以下ノ過怠金トス
 六  町村ノ諸證書及公文書類ヲ保管スル事
 七  外部ニ對シテ町村ヲ代表シ町村ノ名義ヲ以テ其訴訟並和解ニ關シ又ハ他廳若クハ人民ト商議スル事
 八  法律勅令ニ依リ又ハ町村會ノ議決ニ從テ使用料、手數料、町村稅及夫役現品ヲ賦課徵收スル事
 九  其他法律命令又ハ上司ノ指令ニ依テ町村長ニ委任シタル事務ヲ處理スル事

第六十九條  町村長ハ法律命令ニ從ヒ左ノ事務ラ管掌ス
 一  司法警察補助官タルノ職務及法律命令ニ依テ其管理ニ屬スル地方警察ノ事務但別ニ官署ヲ設ケテ地方警察事務ヲ管掌セシムルトキハ此限ニ在ラス
 ニ  浦役場ノ事務
 三  國ノ行政並府縣郡ノ行政ニシテ町村ニ屬スル事務但別ニ吏員ノ設ケアルトキハ此限ニ在ラス
 右三項中ノ事務ハ監督官廳ノ許可ヲ得テ之ヲ助役ニ分掌セシムルコトヲ得
 本條ニ揭載スル事務ヲ執行スルカ爲メニ要スル費用ハ町村ノ負擔トス

第七十條  町村助役ハ町村長ノ事務ヲ補助ス
 町村長ハ町村會ノ同意ヲ得テ助役ヲシテ町村行政事務ノ一部ヲ分掌セシムルコトヲ得
 助役ハ町村長故障アルトキ之ヲ代理ス助役數名アルトキハ上席者之ヲ代理ス可シ

第七十一條  町村收入役ハ町村ノ收入ヲ受領シ其費用ノ支拂ヲ爲シ其他會計事務ヲ掌ル

第七十二條  書記ハ町村長ニ屬シ庶務ヲ分掌ス

第七十三條  區長及其代理者ハ町村長ノ機關トナリ其指揮命令ヲ受ケテ區內ニ關スル町村長ノ事務ヲ補助執行スルモノトス

第七十四條  委員(第六十五條)ハ町村行政事務ノ一部ヲ分掌シ又ハ營造物ヲ管理シ若クハ監督シ又ハ一時ノ委託ヲ以テ事務ヲ處辨スルモノトス
 委員長ハ委員ノ議決ニ加ハルノ權ヲ有ス助役ヲ以テ委員長ト爲ス場合ニ於テモ町村長ハ隨時委員會ニ出席シテ其委員長ト爲リ並其議決ニ加ハルノ權ヲ有ス
 常設委員ノ職務權限ニ關シテハ町村條例ヲ以テ別段ノ規定ヲ設クルコトヲ得

第三欵  給料及給與

第七十五條  名譽職員ハ此法律中別ニ規定アルモノヲ除クノ外職務取扱ノ爲メニ要スル實費ノ辨償ヲ受クルコトヲ得
 實費辨償額、報酬額及書記料ノ額(第六十二條第一項)ハ町村會之ヲ議決ス

第七十六條  有給町村長有給助役其他有給吏員及依丁ノ給料額ハ町村會ノ議決ヲ以テ之ヲ定ム
 町村會ノ議決ヲ以テ町村長及助役ノ給料額ヲ定ムルトキハ郡長ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス郡長ニ於テ之ヲ許可ス可カラスト認ムルトキハ郡參事會ノ議決ニ付シテ之ヲ確定ス

第七十七條  町村條例ノ規定ヲ以テ有給吏員ノ退隱料ヲ設タルコトヲ得

第七十八條  有給吏員ノ給科、退隱料其他第七十五條ニ定ムル給與ニ關シテ異議アルトキハ關係者ノ申立ニ依リ郡參事會之ヲ裁決ス其郡參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第七十九條  退隱料ヲ受クル者官職又ハ府縣郡市町村及公共組合ノ職務ニ就キ給料ヲ受タルトキハ其間之ヲ停止シ又ハ更ニ退隱料ヲ受クルノ權ヲ得ルトキ其額舊退隱料ト同額以上ナルトキハ舊退隱料ハ之ヲ廢止ス

第八十條 給料、退隱料、報酬及辨償等ハ總テ町村ノ負擔トス

第四章  町村有財產ノ管理

第一欵  町村有財產及町村稅

第八十一條  町村ハ其不動產、積立金穀等ヲ以テ基本財產ト爲シ之ヲ維持スルノ義務アリ
 臨時ニ收入シタル金穀ハ基本財產ニ加入ス可シ但寄附金等寄附者其使用ノ目的ヲ定ムルモノハ此限ニ在ラス

第八十二條  凡町村有財產ハ全町村ノ爲メニ之ヲ管理シ及共用スルモノトス但特ニ民法上ノ權利ヲ有スル者アルトキハ此限ニ在ラス

第八十三條  舊來ノ慣行ニ依リ町村住民中特ニ其町村有ノ土地物件ヲ使用スル權利ヲ有スル者アルトキハ町村會ノ議決ヲ經ルニ非サレハ其舊慣ヲ改ムルコトヲ得ス

第八十四條  町村住民中特ニ其町村有ノ土地物件ヲ使用スル權利ヲ得ントスル者アルトキハ町村條例ノ規定ニ依リ使用料若クハ一時ノ加入金ヲ徵收シ又ハ使用料加入金ヲ共ニ微收シテ之ヲ許可スルコトヲ得但特ニ民法上使用ノ權利ヲ有スル者ハ此限ニ在ラス

第八十五條  使用權ヲ有スル者(第八十二條第八十四條)ハ使用ノ多寡ニ準シテ其土地物件ニ係ル必要ナル費用ヲ分擔ス可キモノトス

第八十六條  町村會ハ町村ノ爲メニ必要ナル場合ニ於テハ使用權(第八十三條第八十四條)ヲ取上ケ又ハ制限スルコトヲ得但特ニ民法上使用ノ權利ヲ有スル者ハ此限ニ在ラス

第八十七條  町村有財產ノ賣却貸與又ハ建築工事及物品調達ノ請負ハ公ケノ入札ニ付ス可シ但臨時急施ヲ要スルトキ及入札ノ價額其費用ニ比シテ得失相償ハサルトキ又ハ町村會ノ認許ヲ得ルトキハ此限ニ在ラス

第八十八條  町村ハ其必要ナル支出及從前法律命令ニ依テ賦課セラレ又ハ將來法律勅令ニ依テ賦課セラルヽ支出ヲ負擔スルノ義務アリ

町村ハ其財產ヨリ生スル收入及使用料、手數料(第八十九條)並科料、過怠金其他法律勅令ニ依リ町村ニ屬スル收入ヲ以テ前項ノ支出ニ充テ猶不足アルトキハ町村稅(第九十條)及夫役現品(第百一條)ヲ賦課徵收スルコトヲ得

第八十九條  町村ハ其所有物及營造物ノ使川ニ付又ハ特ニ數個人ノ爲メニスル事業ニ付使用料又ハ手數料ヲ徵收スルコトヲ得

第九十條  町村稅トシテ賦課スルコトヲ得可キ目左ノ如シ
 一  國稅府縣稅ノ附加稅
 二  直接又ハ間接ノ特別稅
 附加稅ハ直接ノ國稅又ハ府縣稅ニ附加シ均一ノ稅率ヲ以テ町村ノ全部ヨリ徵收スル常例トス特別稅ハ附加稅ノ外別ニ町村限リ稅目ヲ起シテ課稅スルコトヲ要スルトキ賦課徵收スルモノトス

第九十一條  此法律ニ規定セル條項ヲ除クノ外使用料、手數料(第八十九條)特別稅(第九十條第一項第二)及從前ノ町村費ニ關スル細則ハ町村條例ヲ以テ之ヲ規定ス可シ其條例ニハ科料一圓九十五錢以下ノ罰則ヲ設タルコトヲ得
 科料ニ處シ及之ヲ徵收スルハ町村長之ヲ掌ル其處分ニ不服アル者ハ令狀交付後十四日以內ニ司法裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第九十二條  三箇月以上町村內ニ滯在スル者ハ其町村稅ヲ納ムルモノトス但其課稅ハ滯在ノ初ニ遡リ徵收ス可シ

第九十三條  町村內ニ住居ヲ構ヘス又ハ三箇月以上滯在スルコトナシト雖モ町村內ニ土地家屋ヲ所有シ又ハ營業ヲ爲ス者(店舖ヲ定メサル行商ヲ除ク)ハ其土地家屋營業若クハ其所得ニ對シテ賦課スル町村稅ヲ納ムルモノトス其法人タルトキモ亦同シ但郵便電信及官設鐵道ノ業ハ此限ニ在ラス

第九十四條  所得稅ニ附加稅ヲ賦課シ及町村ニ於テ特別ニ所得稅ヲ賦課セントスルトキハ納稅者ノ町村外ニ於ケル所有ノ土地家屋又ハ營業ハ店舖ヲ定メサル行商ヲ除ク)ヨリ收入スル所得ハ之ヲ控除ス可キモノトス

第九十五條  數市町村ニ住居ヲ構ヘ又ハ滯在スル者ニ前條ノ町村稅ヲ賦課スルトキハ其所得ヲ各市町村ニ平分シ其一部分ニノミ課稅ス可シ但土地家屋又ハ營業ヨリ收入スル所得ハ此限ニ在ラス

第九十六條  所得稅法第三條ニ揭クル所得ハ町村稅ヲ免除ス

第九十七條  左ニ揭クル物件ハ町村稅ヲ免除ス
 一  政府、府縣郡市町村及公共組合ニ屬シ直接ノ公用ニ供スル土地、營造物及家屋
 二  社寺及官立公立ノ學校病院其他學藝、美術及慈善ノ用ニ供スル土地、營造物及家屋
 三  官有ノ山林又ハ荒蕪地但官有山林又ハ荒蕪地ノ利益ニ係ル事業ヲ起シ內務大臣及大藏大臣ノ許可ヲ得テ其費用ヲ徵收スルハ此限ニ在ラス
 新開地及開墾地ハ町村條例ニ依リ年月ヲ限リ免稅スルコトヲ得

第九十八條  前二條ノ外町村稅ヲ免除ス可キモノハ別段ノ法律勅令ニ定ムル所ニ從フ皇族ニ係ル町村稅ノ賦課ハ追テ法律勅令ヲ以テ定ムル迄現今ノ例ニ依ル

第九十九條  數個人ニ於テ專ラ使用スル所ノ營造物アルトキハ其修築及保存ノ費用ハ之ヲ其關係者ニ賦課ス可シ
 町村內ノ一部ニ於テ專ラ使用スル營造物アルトキハ其部內ニ住居シ若クハ滯在シ又ハ土地家屋ヲ所有シ營業(店舖ヲ定メサル行商ヲ除ク)ヲ爲ス者ニ於テ其修築及保存ノ費用ヲ負擔ス可シ但其一部ノ所有財產アルトキハ其收入ヲ以テ先ツ其費用ニ充ツ可シ

第百條  削除

第百一條  町村公共ノ事業ヲ起シ又ハ公共ノ安寧ヲ維持スルカ爲メニ夫役及現品ヲ以テ納稅者ニ賦課スルコトヲ得但學藝、美術及手工ニ關スル勞役ヲ課スルコトヲ得ス
 夫役及現品ハ急迫ノ場合ヲ除クノ外直接町村稅ヲ準率ト爲シ且ツ之ヲ金額ニ算出シテ賦課ス可シ
 夫役ヲ課セラレタル者ハ其便宜ニ從ヒ本人自ラ之ニ當リ又ハ適當ノ代人ヲ出スコトヲ得又急迫ノ場合ヲ除クノ外金圓ヲ似テ之ニ代フルコトヲ得

第百二條  町村ニ於テ徵收スル使用料、手數料(第八十九條)町村稅(第九十條)夫役ニ代フル金圓(第百一條)共有物使用料及加入金(第八十四條)其他町村ノ收入ヲ定期內ニ納メサルトキハ町村長ハ之ヲ督促シ猶之ヲ完納セサルトキハ國稅滯納處分法ニ依リ之ヲ徵收ス可シ其督促ヲ爲スニハ町村條例ノ規定ニ依リ手數科ヲ徵收スルコトヲ得
 納稅者中無資力ナル者アルトキハ町村長ノ意見ヲ以テ會計年度內ニ限リ納稅延期ヲ許スコトヲ得其年度ヲ越ユル場合ニ於テハ町村會ノ議決ニ依ル
 本條ニ記載スル徵收金ノ追徵期滿得免及先取特權ニ付テハ國稅ニ關スル規則ヲ適用ス

第百三條  地租ノ附加稅ハ地租ノ納稅者ニ賦課シ其他土地ニ對シテ賦課スル町村稅ハ其所有者又ハ使用者ニ賦課スルコトヲ得

第百四條  町村稅ノ賦課ニ對スル訴願ハ賦課令狀ノ交付後三箇月以內ニ之ヲ町村長ニ申立ツ可シ此期限ヲ經過スルトキハ其年度內減稅免稅及償還ヲ請求スルノ權利ヲ失フモノトス

第百五條  町村稅ノ賦課及町村ノ營造物、町村有ノ財產並其所得ヲ使用スル權利ニ關スル訴願ハ町村長之ヲ裁決ス但民法上ノ權利ニ係ルモノハ此限ニ在ラス
 前項ノ裁決ニ不服アル者ハ郡參事會ニ訴願シ其郡參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得
 本條ノ訴願及訴訟ノ爲メニ其處分ノ執行ヲ停止スルコトヲ得ス

第百六條  町村ニ於テ公債ヲ募集スルハ從前ノ公債元額ヲ償還スル爲メ又ハ天災時變等巳ムヲ得サル支出若クハ町村永久ノ利益トナル可キ支出ヲ要スルニ方リ通常ノ歲入ヲ增加スルトキハ其町村住民ノ負擔ニ堪ヘサルノ場合ニ限ルモノトス
 町村會ニ於テ公債募集ノ事ヲ議決スルトキハ倂セテ其募集ノ方法、利息ノ定率及償還ノ方法ヲ定ム可シ償還ノ初期ハ三年以內ト爲シ年々償還ノ步合ヲ定メ募集ノ時ヨリ三十年以內ニ還了ス可シ
 定額豫算內ノ支出ヲ爲スカ爲メ必要ナル一時ノ借入金ハ本條ノ例ニ依ラス其年度內ノ收入ヲ以テ償還ス可キモノトス

第二欵  町村ノ歲入出豫算及決算

第百七條  町村長ハ每會計年度收入支出ノ豫知シ得可キ金額ヲ見積リ年度前二箇月ヲ限リ歲入出豫算表ヲ調製ス可シ但町村ノ會計年度ハ政府ノ會計年度ニ同シ
 內務大臣ハ省令ヲ以テ豫算表調製ノ式ヲ定ムルコトヲ得

第百八條  豫算表ハ會計年度前町村會ノ議決ヲ取リ之ヲ郡長ニ報吿シ並地方慣行ノ方式ヲ以テ其要領ヲ公吿ス可シ
 豫算表ヲ町村會ニ提出スルトキハ町村長ハ倂セテ其町村事務報吿書及財產明細表ヲ提出ス可シ

第百九條  定額豫算外ノ費用又ハ豫算ノ不足アルトキハ町村會ノ認定ヲ得テ之ヲ支出スルコトヲ得
 定額豫算中臨時ノ場令ニ支出スルカ爲メニ豫備費ヲ置キ町村長ハ豫メ町村會ノ認定ヲ受ケスシテ豫算外ノ費用又ハ豫算超過ノ費用ニ充ツルコトヲ得但町村會ノ否決シタル費途ニ充ツルコトヲ得ス

第百十條  町村會ニ於テ豫算表ヲ議決シタルトキハ町村長ヨリ其謄寫ヲ以テ之ヲ收入役ニ交付ス可シ其豫算表中監督官廳若クハ參事會ノ許可ヲ受ク可キ事項アルトキハ(第百二十五條ヨリ第百二十七條ニ至ル)先ツ其許可ヲ受ク可シ
 收入役ハ町村長(第六十八條第二項第三)又ハ監督官廳ノ命令アルニ非サレハ支拂ヲ爲スコトヲ得ス又收入役ハ町村長ノ命令ヲ受クルモ其支出豫算表中ニ豫定ナキカ又ハ其命令第百九條ノ規定ニ依ラサルトキハ支拂ヲ爲スコトヲ得ス
 前項ノ規定ニ背キタル支拂ハ總テ收入役ノ責任ニ歸ス

第百十一條  町村ノ出納ハ每月例日ヲ定メテ檢査シ及每年少クモ一囘臨時檢査ヲ爲ス可シ例月檢査ハ町村長又ハ其代理者之ヲ爲シ臨時檢査ハ町村長又ハ其代理者ノ外町村會ノ互選シタル議員一名以上ノ立會ヲ要ス

第百十二條  決算ハ會計年度ノ終ヨリ三箇月以內ニ之ヲ結了シ證書類ヲ倂セテ收入役ヨリ之ヲ町村長ニ提出シ町村長ハ之ヲ審査シ意見ヲ附シテ之ヲ町村會ノ認定ニ付ス可シ第六十二條第五項ノ場合ニ於テハ前例ニ依リ町村長ヨリ直ニ之ヲ町村會ニ提出ス可シ其町村會ノ認定ヲ經タルトキハ町村長ハ之ヲ郡長ニ報吿ス可シ

第百十三條  決算報吿ヲ爲ストキハ第四十條ノ例ニ準シテ議長代理者共ニ故障アルモノトス

第五章  町村內各部ノ行政

第百十四條  町村內ノ區(第六十四條)又ハ町村內ノ一部若クハ合倂町村(第四條)ニシテ別ニ其區域ヲ存シテ一區ヲ爲スモノ特別ニ財產ヲ所有シ若クハ營造物ヲ設ケ其一區限リ特ニ其費用(第九十九條)ヲ負擔スルトキハ郡參事會ハ其町村會ノ意見ヲ聞キ條例ラ發行シ財產及營造物ニ關スル事務ノ爲メ區會又ハ區總會ヲ設タルコトヲ得其會議ハ町村會ノ例ヲ適用スルコトヲ得

第百十五條  前條ニ記載スル事務ハ町村ノ行政ニ關スル規則ニ依リ町村長之ヲ管埋ス可シ但區ノ出納及會計ノ事務ハ之ヲ分別ス可シ

第六章  町村組合

第百十六條  數町村ノ事務ヲ共同處分スル爲メ其協議ニ依リ監督官廳ノ許可ヲ得テ其町村ノ組合ヲ設クルコトヲ得
 法律上ノ義務ヲ負擔スルニ堪フ可キ資力ヲ有セサル町村ニシテ他ノ町村ト合倂(第四條)スルノ協議整ハス又ハ其事情ニ依リ合倂ヲ不便ト爲ストキハ郡參事會ノ議決ヲ以テ數町村ノ組合ヲ設ケシムルコトヲ得

第百十七條  町村組合ヲ設タルノ協議ヲ爲ストキハ(第百十六條第一項)組合會議ノ組織、事務ノ管理方法並其費用ノ支辨方法ヲ倂セテ規定ス可シ
 前條第二項ノ場合ニ於テハ其關係町村ノ協議ヲ以テ組合費用ノ分擔法等其他必要ノ事項ヲ規定ス可シ若シ其協議整ハサルトキハ郡參事會ニ於テ之ヲ定ム可シ

第百十八條  町村組合ハ監督官廳ノ許可ヲ得ルニ非サレハ之ヲ解クコトヲ得ス

第七章  町村行政ノ監督

第百十九條  町村ノ行政ハ第一次ニ於テ郡長之ヲ監督シ第二次ニ於テ府縣知事之ヲ監督シ第三次ニ於テ內務大臣之ヲ監督ス但法律ニ指定シタル場合ニ於テ郡參亭會及府縣參事會ノ參與スルハ別段ナリトス
 町村ノ行政ニ關シ主務大臣ノ許可ヲ要スヘキ事項中其輕易ナルモノハ勅令ノ規定ニ依リ其許可ノ職權ヲ府縣知事ニ委任スルコトヲ得

第百二十條  此法律中別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外凡町村ノ行政ニ關スル郡長若クハ郡參事會ノ處分若クハ裁決ニ不服アル者ハ府縣知事若クハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣知事若クハ府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ內務大臣ニ訴願スルコトヲ得
 町村ノ行政ニ關スル訴願ハ處分書若クハ裁決書ヲ交付シ又ハ之ヲ吿知シタル日ヨリ十四日以內ニ其理由ヲ具シテ之ヲ提出ス可シ但此法律中別ニ期限ヲ定ムルモノハ此限ニ在ラス
 此法律中ニ指定スル場合ニ於テ府縣知事若クハ府縣參事會ノ裁決ニ不服アリテ行政裁判折ニ出訴セントスル者ハ裁決書ヲ交付シ又ハ之ヲ吿知シタル日ヨリ二十一日以內ニ出訴ス可シ
 行政裁判所ニ出訴スルコトヲ許シタル場合ニ於テハ內務大臣ニ訴願スルコトヲ得ス
 訴願及訴訟ヲ提出スルトキハ處分又ハ裁決ノ執行ヲ停止ス但此法律中別ニ規定アリ又ハ當該官廳ノ意見ニ依リ其停止ノ爲メニ町村ノ公益ニ害アリト爲ストキハ此限ニ在ラス

第百二十一條  監督官廳ハ町村行政ノ法律命令ニ背戾セサルヤ其事務錯亂澁滯セサルヤ否ヲ監視ス可シ監督官廳ハ之カ爲メニ行政事務ニ關シテ報吿ヲ爲サシメ豫算及決算等ノ書類帳簿ヲ徵シ並實地ニ就テ事務ノ現況ヲ視察シ出納ヲ檢閱スルノ權ヲ有ス]

第百二十二條  町村又ハ其組合ニ於テ法律勅令ニ依テ負擔シ又ハ當該官廳ノ職權ニ依テ命令スル所ノ支出ヲ定額豫算ニ載セス又ハ臨時之ヲ承認セス又ハ實行セサルトキハ郡長ハ理由ヲ示シテ其支出額ヲ定額豫算表ニ加ヘ又ハ臨時支出セシム可シ
 町村又ハ其組合ニ於テ前項ノ處分ニ不服アルトキハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アルトキハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第百二十三條  凡町村會ニ於テ議決ス可キ事件ヲ議決セサルトキハ郡參事會代テ之ヲ議決ス可シ

第百二十四條  內務大臣ハ町村會ヲ解散セシムルコトヲ得解散ヲ命シタル場合ニ於テハ同時ニ三箇月以內更ニ議員ヲ改選ス可キコトヲ命ス可シ但改選町村會ノ集會スル迄ハ郡參事會町村會ニ代テ一切ノ事件ヲ議決ス

第百二十五條  左ノ事件ニ關スル町村會ノ議決ハ內務大臣ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
 一  町村條例ヲ設ケ並改正スル事
 二  學藝、美術ニ關シ又ハ歷史上貴重ナル物品ノ賣却讓與質入書入交換若クハ大ナル變更ヲ爲ス事

第百二十六條  左ノ事件ニ關スル町村會ノ議決ハ內務大臣及大藏大臣ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
 一  新ニ町村ノ負債ヲ起シ又ハ負債額ヲ增加シ及第百六條第二項ノ例ニ違フモノ但償還期限三年以內ノモノハ此限ニ在ラス
 ニ  町村特別稅並使用料、手數料ヲ新設シ增額シ又ハ變更スル事
 三  地租五分ノ一其他直接國稅百分ノ五十ヲ超過スル附加稅ヲ賦課スル事
 四  問接國稅ニ附加稅ヲ賦課スル事
 五  法律勅令ノ規定ニ依リ官廳ヨリ補助スル步合金ニ對シ支出金額ヲ定ムル事

第百二十七條  左ノ事件ニ關スル町村會ノ議決ハ郡參事會ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
 一  町村ノ營造物ニ關スル規則ヲ設ケ並改正スル事
 二  基本財產ノ處分ニ關スル事(第八十一條)
 三  町村有不動產ノ賣却讓與並質入書入ヲ爲ス事
 四  各個人特ニ使用スル町村有土地使用法ノ變更ヲ爲ス事(第八十六條)
 五  各種ノ保證ヲ與フル事
 六  法律勅令ニ依テ負擔スル義務ニ非スシテ向五箇年以上ニ亘リ新ニ町村住民ニ負擔ヲ課スル事
 七  均一ノ稅律ニ據ラスシテ國稅府縣稅ニ附加稅ヲ賦課スル事ハ第九十條第二項)
 八  第九十九條ニ從ヒ數個人又ハ町村內ノ一部ニ費用ヲ賦課スル事
 九  第百一條ノ準率ニ據ラスシテ夫役及現品ヲ賦課スル事

第百二十八條  府縣知事郡長ハ町村長、助役、委員、區長其他町村吏員ニ對シ懲戒處分ヲ行フコトヲ得其懲戒處分ハ譴責及過怠金トス郡長ノ處分ニ係ル過怠金ハ十圓以下府縣知事ノ處分ニ係ルモノハ二十五圓以下トス
 追テ町村吏員ノ懲戒法ヲ設クル迄ハ左ノ區別ニ從ヒ官吏懲戒例ヲ適用ス可シ
 一  町村長ノ懲戒處分(第六十八條第二項第五)ニ不服アル者ハ郡長ニ訴願シ其郡長ノ裁決ニ不服アル者ハ府縣知事ニ訴願シ其府縣知事ノ其裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得
 二  郡長ノ懲戒處分ニ不服アル者ハ府縣知事ニ訴願シ府縣知事ノ懲戒處分及其裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得
 三  本條第一項ニ揭載スル町村吏員職務ニ違フコト再三ニ及ヒ又ハ其情狀重キ者又ハ行狀ヲ亂リ廉耻ヲ失フ者、財產ヲ浪費シ其分ヲ守ラサル者又ハ職務擧ラサル者ハ懲戒裁判ヲ以テ其職ヲ解クコトヲ得其隨時解職スルコトヲ得可キ者ハ(第六十七條)懲戒裁判ヲ以テスルノ限ニ在ラス
 總テ解職セラレタル者ハ自己ノ所爲ニ非スシテ職務ヲ執ルニ堪ヘサルカ爲メ解職セラレタル場合ヲ除クノ外退隱料ヲ受クルノ權ヲ失フモノトス
 四  懲戒裁判ハ郡長其審問ヲ爲シ郡參事會之ヲ裁決ス其裁決ニ不服アル者ハ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得
 監督官廳ハ懲戒裁判ノ裁決前吏員ノ停職ヲ命シ並給料ヲ停止スルコトヲ得

第百二十九條  町村吏員及使丁其職務ヲ盡サス又ハ權限ヲ越エタル事アルカ爲メ町村ニ對シテ賠償ス可キコトアルトキハ郡參事會之ヲ裁決ス其裁決ニ不服アル者ハ裁決書ヲ交付シ又之ヲ吿知シタル日ヨリ七日以內ニ府縣參事會ニ訴願シ其府縣參事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得但訴願ヲ爲シタルトキハ郡參事會ハ假ニ其財產ヲ差押フルコトヲ得

第八章  附則

第百三十條  郡參事會、府縣參事會及行政裁判所ヲ開設スル迄ノ間郡參事會ノ職務ハ郡長、府縣參事會ノ職務ハ府縣知事、行政裁判所ノ職務ハ內閣ニ於テ之ヲ行フ可シ

第百三十一條  此法律ニ依リ初テ議員ヲ選擧スルニ付町村長及町村會ノ職務並町村條例ヲ以テ定ム可キ事項ハ郡長又ハ其指命スル官吏ニ於テ之ヲ施行ス可シ

第百三十二條  此法律ハ北海道、沖繩縣其他勅令ヲ以テ指定スル島嶼ニ之ヲ施行セス別ニ勅令ヲ以テ其制ヲ定ム

第百三十三條  前條ノ外特別ノ事情アル地方ニ裁テハ町村會及町村長ノ具申又ハ郡參事會ノ具申ニ依リ勅令ヲ以テ此法律中ノ條規ヲ中止スルコトアル可シ

第百三十四條  社寺宗敎ノ組合ニ關シテハ此法律ヲ適用セス現行ノ例規及其地ノ習慣ニ從フ

第百三十五條  此法律中ニ記載セル人口ハ最終ノ人口調査ニ依リ現役軍人ヲ除キタル數ヲ云フ

第百三十六條  現行ノ租稅中此法律ニ於テ直接稅又ハ間接稅トス可キ類別ハ內務大臣及大藏大臣之ヲ吿示ス

第百三十七條  此法律ハ明治二十二年四月一日ヨリ地方ノ情況ヲ裁酌シ府縣知事ノ具申ニ依リ內務大臣ノ指揮ヲ以テ之ヲ施行ス可シ

第百三十八條  明治九年十月第百三十號布吿各區町村金穀公借共有物取扱土木起功規則、明治十一年七月第十七號布吿郡區町村編制法第六條及第九條但書、明治十七年五月第十四號布吿區町村會法、明治十七年五月第十五號布吿、明治十七年七月第二十三號布吿、明治十八年八月第二十五號布吿其他此法律ニ抵觸スル成規ハ此法律施行ノ日ヨリ總テ之ヲ廢止ス

第百三十九條  內務大臣ハ此法律實行ノ責ニ任シ之カ爲メ必要ナル命令及訓令ヲ發布ス可シ

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

722年(養老6)百万町歩開墾計画が出される(新暦6月13日)詳細
1613年(慶長18)武将大久保長安の命日(新暦6月13日)詳細
1881年(明治14)『交詢雑誌』第45号に、交詢社の「私擬憲法案」が発表される詳細
1946年(昭和21)出版人・岩波書店創業者・貴族院議員岩波茂雄の命日詳細
1957年(昭和32)「高速自動車国道法」(昭和32年法律第79号)が公布・施行される詳細
1978年(昭和53)洋画家東郷青児の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、農学者・教育家津田仙が亡くなった日です。
 津田仙(つだ せん)は、江戸時代後期の1837年(天保8年7月6日)に、下総国佐倉藩佐倉城内(現在の千葉県佐倉市)において、下総国佐倉藩の堀田氏家臣・小島良親(善右衛門)の三男として生まれましたが、幼名は千弥(せんや)と言いました。1851年(嘉永4年)に元服して、桜井家の養子になり、佐倉藩校・成徳書院に入り、藩命にてオランダ語・英語の他、洋学や砲術を学びます。
 1855年(安政2年)に江戸幕府に出仕し、蘭学塾へ入門、森山栄之助に英語を学び、1861年(文久元年)には、幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行の通訳になりました。1864年(元治元年)に次女として梅子(むめ)が生まれ、1867年(慶応3年)には、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共に、福澤諭吉が同乗して渡米、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れ、帰国後、新潟奉行に転役、通弁・翻訳御用、英語教授方になります。
 1868年(慶応4年) から戊辰戦争において、幕府軍として越後にて参戦。敗れて長崎へ、その後東京へ戻り、徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図り、徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立しました。1869年(明治2年)に官職を辞し、築地の洋風旅館・築地ホテル館に勤め、サラダ用の西洋野菜の将来性に注目します。
 1871年(明治4年)に北海道開拓使の嘱託になり、青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究をし、西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者になり、政府が派遣する岩倉使節団の女子留学生随行に、娘・梅子(後の津田塾大学の創設者)を応募、北海道開拓使を辞職し、民部省入省しました。1873年(明治6年)にウイーン万国博覧会の副総裁・佐野常民の書記官として随行、同地でオランダ人園芸家ダニエル・ホーイブレンから新農法を伝授され、翌年帰国後に、『農業三事』を出版します。
 1875年(明治8年)に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社を設立、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織、翌年に東京麻布東町に学農社農学校を創立、「農業雑誌」、「開拓雑誌」など定期刊行物を出版しました。1878年(明治11年)にジュリアス・ソーパー宣教師による東京築地の耕教学舎(青山学院の源流)創立に協力し、第一回全国基督教徒大親睦会開催し議長となり、1880年(明治13年)には、「北海道開拓雑誌」を発刊、西洋農法の普及に努めます。
 1884年(明治17年)に学農社農学校の学生数が半減し、閉校となり、1886年(明治19年)には、訓盲唖院が楽善会より文部省に移管され、官立の盲教育・聾唖教育機関になりました。1890年(明治23年)に東北を視察、りんご二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を開催、足尾鉱毒事件では、田中正造を助け、農民救済運動に奔走します。
 1897年(明治30年)に、事業を次男に譲り引退し、鎌倉で過ごしていましたが、1908年(明治41年)4月24日に、横須賀線の車中で脳溢血により、70歳で亡くなりました。尚、内村鑑三や新渡戸稲造らが追悼文を発表、生涯の事業を讃えて「大平民」と呼んでいます。

〇津田仙の主要な著作

・『荷衣伯連氏法農業三事』(1874年)
・『酒の害』(1887年)
・『桑樹談話会報告』(1888年)
・『玉川上水改良并ニ石造導水管ノ効用』(1892年)
・『朝鮮地名案内』(1894年)

☆津田仙関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1837年(天保8年7月6日) 下総国佐倉藩佐倉城内に下総国佐倉藩の堀田氏家臣・小島良親(善右衛門)の三男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 15歳の時、元服、桜井家の養子になり、佐倉藩校・成徳書院に入り、藩命にてオランダ語・英語の他、洋学や砲術を学ぶ
・1855年(安政2年) 19歳の時、江戸幕府に出仕し、蘭学塾へ入門、森山栄之助に英語を学ぶ
・1861年(万延2/文久元年) 25歳の時、幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行の通訳になる
・1864年(文久4/元治元年) 28歳の時、次女として津田梅子(むめ)が生まれる
・1867年(慶応3年) 31歳の時、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共に、福澤諭吉が同乗して渡米、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れ、帰国後、新潟奉行に転役、通弁・翻訳御用、英語教授方になる
・1868年(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 津田仙(32-33歳)、戊辰戦争、幕府軍として越後へ。敗れて長崎へ、東京へ戻り、徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図り、徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立する
・1869年(明治2年) 33歳の時、官職を辞し、築地の洋風旅館・築地ホテル館に勤め、サラダ用の西洋野菜の将来性に注目する
・1871年(明治4年) 35歳の時、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託になり、青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究をし、西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者になり、政府が派遣する岩倉使節団の女子留学生随行に、娘・梅子を応募、北海道開拓使を辞職し、民部省入省する
・1873年(明治6年) 37歳の時、ウイーン万国博覧会の副総裁・佐野常民の書記官として、随行、同地でオランダ人園芸家ダニエル・ホーイブレンから新農法を伝授される
・1874年(明治7年) 38歳の時、帰国後、『農業三事』出版する
・1875年(明治8年) 39歳の時、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社を設立、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する
・1876年(明治9年) 40歳の時、東京麻布東町に学農社農学校を創立、「農業雑誌」「開拓雑誌」など定期刊行物を出版する
・1878年(明治11年) 42歳の時、ジュリアス・ソーパー宣教師による東京築地の耕教学舎(青山学院の源流)創立に協力し、第一回全国基督教徒大親睦会開催し議長となる
・1880年(明治13年) 44歳の時、『北海道開拓雑誌』を発刊、西洋農法の普及に努める
・1883年(明治16年) 47歳の時、第三回全国基督教信徒大親睦会開催され、幹部になる
・1884年(明治17年) 48歳の時、学農社農学校の学生数が半減し、閉校となる
・1886年(明治19年) 50歳の時、訓盲唖院、楽善会より文部省に移管、官立の盲教育・聾唖教育機関になる
・1890年(明治23年) 54歳の時、東北を視察、りんご二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を開催、足尾鉱毒事件で田中正造を助け、農民救済運動に奔走する
・1897年(明治30年) 61歳の時、事業を次男に譲り引退し、鎌倉で過ごす
・1908年(明治41年)4月24日 横須賀線の車中で脳溢血により、70歳で亡くなり、内村鑑三や新渡戸稲造らが追悼文を発表、生涯の事業を讃えて「大平民」と呼ぶ

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)飛騨高山明治8年の大火で、死者1名、焼失1,032戸を出す詳細
1921年(大正10)日本初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が発足する詳細
1934年(昭和9)目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催される詳細
1940年(昭和15)価格形成中央委員会で、日用必需品10品目に配給切符制導入が発表(6月1日以降順次実施)される詳細
1951年(昭和26)国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す詳細
1955年(昭和30)第1回アジア・アフリカ会議最終日、「アジア・アフリカ会議最終コミュニケ」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、日本学術会議が「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」を出した日です。
 「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」(げんしりょくのけんきゅうとりようにかんしこうかい、みんしゅ、じしゅのげんそくをようきゅうするせいめい)は、昭和時代中期の1954年(昭和29)4月23日に、日本学術会議第17回総会で出された声明です。原子力問題処理の原則として、①すべての事柄を公開で行うこと、②日本の自主性を失わないようにすること、③民主的に取り扱い、かつ民主的に運営することの三原則を打ち出したもので、一般的には、「自主、民主、公開の三原則」(原子力三原則)と言われてきました。
 1954年(昭和29)3月に、中曽根康弘を中心とする国会議員が、自由・改進・日本自由の3党に働きかけ、突如原子炉予算を提出・可決します。これに対し、日本学術会議は原子力問題に対する政府の態度を非難、核兵器研究の拒否と、この声明によって、原子力3原則打ち出し、同年10月の第18回総会で可決しました。
 その後、1955年(昭和30)に制定された「原子力基本法」の第2条には、この「自主、民主、公開の三原則」(原子力三原則)を入れて、平和利用に限定することをうたうこととなります。これが、日本の原子力開発の基本方針となり、諸外国の原子力法には見られない大きな特徴とされてきました。
 以下に、「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」 1954年(昭和29)4月23日声明

原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明
(昭和29年4月23日、日本学術会議第17回総会声明)

 第19国会は、昭和29年度予算の中に原子力に関する経費を計上した。
 原子力の平和利用は、将来の人類の福祉に関係ある重要問題であるが、その研究は原子兵器との関連に おいて急速な進歩をとげたものであり、今なお、原子兵器の暗雲は世界をおおっている。
 われわれは、この現状において、原子力の研究の取扱いについて、特に慎重にならざるを得ない。
 われわれはここに、本会議第4回総会における原子力に対する有効な国際管理の確立を要請した声明、 並びに第19国会でなされた原子兵器の使用禁止と原子力の国際管理に関する決議を想起する。そして、わが国において、原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならないとの堅い決意をもっている。
 われわれは、この精神を保障するための原則として、まず原子力の研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され、国民に周知されることを要求する。この公開の原則は、そもそも科学技術の研究が自由に健全に発達をとげるために欠くことのできないものである。
 われわれは、またいたずらに外国の原子力研究の体制を模することなく、真に民主的な運営によって、我が国の原子力研究が行われることを考慮し、能力あるすべての研究者の自由を尊重し、その十分な協力を求むべきである。
 われわれは、さらに日本における原子力の研究と利用は、日本国民の自主性ある運営の下に行わることを要求する。原子力の研究は、全く新しい技術課題を提供するものであり、その解決のひとつひとつが、国の技術の進歩と国民の福祉の増進をもたらすからである。
 われわれは、これらの原則が十分に守られる条件の下にのみ、わが国の原子力研究が始められなければならないと信じ、ここにこれを声明する。

☆日本学術会議(にほんがくじゅつかいぎ)とは?

 日本における人文・社会科学、自然科学の全分野にわたる科学者の代表機関で、略称はSCJです。大正時代の1920年(大正9)に設立された、学術研究会議を母胎にして、太平洋戦争後の学術体制刷新運動の中で、1948年(昭和23)に学術体制刷新委員会の改組案の答申により、「日本学術会議法」が制定されて、翌年に設立されました。
 科学の向上発達を図り、行政・産業・国民生活に科学を反映浸透させることを目的とし、重要事項の審議、政府に対する勧告などを行なうとされています。内閣総理大臣の所轄で、人文科学部門(3部)と自然科学部門(4部)の7部からなり、会員は計210人で、任期は3年、年2回の総会を開催してきました。
 1956年(昭和31)に日本学士院が分離独立し、1983年(昭和58)には、創立以来の会員公選制が改正されて学会推薦制となっています。設立以来、多くの勧告・要望・声明等を採択、特に、1954年(昭和29)の核兵器研究の拒否と原子力研究の三原則(民主・自主・公開)の声明、1980年(昭和55)の科学者憲章の採択などが注目されてきました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「子供読書の日」です詳細
1265年(文永2)第92代の天皇とされる伏見天皇の誕生日(新暦5月10日)詳細
1342年(康永元)室町幕府初代将軍の足利尊氏が禅寺の寺格を制定(五山制度)する(新暦5月28日)詳細
1875年(明治8)日本画家上村松園の誕生日詳細
1895年(明治28)露・独・仏3国による「露仏独三國の遼東半島遷付勧告」(いわゆる三国干渉)がなされる詳細
2008年(平成20)陶芸家青木龍山の命日詳細
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 今日は、明治時代中頃の1891年(明治24)に、大槻文彦著の国語辞典『言海』第四冊(つ−を)が刊行され、全4巻が完結した日です。
 『言海』(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が編纂した、日本初の近代的国語辞典です。明治時代前期の1875年(明治8)に、文部省の命により作成を開始、ウェブスターのオクタボ版にその構成を倣い、1884年(露維持17)に脱稿し、1889年(明治22)5月15日に第一冊(あ~お)、1889年(明治22)10月31日に第二冊(か−さ)、1890年(明治23)5月31日に第三冊(志−ち)、1891年(明治24)4月22日に『言海』第四冊(つ−を)を刊行して完結しました。
 収録語数は39,103語で、①基本語も含めた普通語の辞書、②五十音順で配列、③近代的な品詞の略号と、古語・訛語俚語の印をつけ、活用を示す、④語釈に段階づけをする、⑤用例を載せるなどの特長があります。1891年(明治24)12月5日に第二版(一冊本)、1891年(明治24)12月に第二版(二冊本)、1904年(明治37)2月28日に小形版(縮刷版)、1909年(明治42)8月23日に中形版が刊行され、大正末年までに四百数十版を重ねました。
 以後の普通語辞書の範となり、大槻文彦の晩年10数年は、その増訂に専心しましたが、1928年(昭和3)2月17日に82歳で亡くなり、その後、1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、増補した『大言海』が刊行されています。
 以下に、国語辞典『言海』第四冊の奥書「ことばのうみのおくがき」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇国語辞典『言海』の発刊日程

・1889年(明治22)5月15日:『言海』第一冊(あ~お)
・1889年(明治22)10月31日:『言海』第二冊(か−さ)
・1890年(明治23)5月31日:『言海』第三冊(志−ち)
・1891年(明治24)4月22日:『言海』第四冊(つ−を)
・1891年(明治24)12月5日:『言海』第二版(一冊本)
・1891年(明治24)12月:『言海』第二版(二冊本)
・1904年(明治37)2月28日:小形『言海』(縮刷版)
・1909年(明治42)8月23日:中形『言海』
・2004年(平成16)4月:復刻版『言海』ちくま学芸文庫、解説武藤康史

〇国語辞典『言海』第四冊の奥書 1891年(明治24)4月22日刊行

ことばのうみのおくがき

大槻文彦

先人、嘗て、文彦らに、王父が誡語なりとて語られけるは、「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」と語られぬ、おのれ、不肖にはあれど、平生、この誡語を服膺す。本書、明治八年起稿してより、今年にいたりて、はじめて刊行の業を終へぬ、思へば十七年の星霜なり、こゝに、過去經歴の跡どもを、おほかたに書いつけて、後のおもひでにせむとす、見む人、そのくだ/\しきを笑ひたまふな。
明治七年、おのれ、仙臺にありき、こは、その前年、文部省のおほせをうけたまはりて、その地に宮城師範學校といふを創立し、校長を命ぜられて在勤せしをりなりけり。さるに、この年の末に、本省より特に歸京を命ぜられて、八年二月二日、本省報告課(明治十三年に、編輯局と改められぬ。)に轉勤し、こゝにはじめて、日本辭書編輯の命あり、これぞ本書編輯着手のはじめなりける。時の課長は西村茂樹君なりき。
その初は、榊原芳野君とともに、編輯のおほせをかうむりたりしに、幾ほどなくて、榊原君は他にうつりて、おのれひとりの業とはなりぬ。後に聞けば、初め、辭書編輯の議おこれる時、和漢洋を具微せる學者數人、召しあつめられむの計畫にて、おのれは、那珂通高君の薦めなりきとか聞きつる。又これよりさきに、編輯寮にて語彙を編輯せしめられしに、碩學七八人して、二三年の間に、わづかに「あ、い、う、え」の部を成せりき。横山由清君もそのひとりなりしが、再擧ありと聞かれて、意見をのべられけるは、「語彙の編輯、議論にのみ日をすぐして成功なかりき、多人數ならむよりは、大槻一人にまかせられたらむには、却て全功を見ることあらむ、」といはれたりとなり。此事、横山君の直話なりとて、後に、清水卯三郎君、おのれに語られぬ。此業の、おのれひとりの事となれるは、かゝる由にてやありけむ。
初め、編輯の體例は、簡約なるを旨として、收むべき言語の區域、または解釋の詳略などは、およそ、米國の「ヱブスター」氏の英語辭書中の「オクタボ」といふ節略體のものに傚ふべしとなり。おのれ、命を受けつるはじめは、壯年鋭氣にして、おもへらく、「オクタボ」の注釋を翻譯して、語ごとにうづめゆかむに、この業難からずとおもへり。これより、從來の辭書體の書數十部をあつめて、字母の順序をもて、まづ古今雅俗の普通語とおもふかぎりを採收分類して、解釋のありつるは併せて取りて、その外、東西洋おなじ物事の解は、英辭書の注を譯してさしいれたり。かくすること數年にして、通編を終へて、さて初にかへりて、各語を逐ひて見もてゆけば、注の成れるは夙く成りて、成らぬは成らず、語のみしるしつけて、その下は空白となりて、老人の齒のぬけたらむやうなる所、一葉ごとに五七語あり。古語古事物の意の解きがたきもの、説のまち/\なるもの、八品詞の標別の下しがたきもの、語原の知られぬもの、動詞の語尾の變化の定めかぬるもの、假名遣の據るところなくして順序を立てがたきもの、動植物の英辭書の注解に據りたりしものゝ、仔細に考へわくれば、物は同じけれども、形状色澤の、東西の風土によりて異なるもの、其他、雜草、雜魚、小禽、魚介、さては、俗間通用の病名などにいたりては、支那にもなく、西洋にもなく、邦書にも徴すべきなきが多し。かく、一葉毎に、五七語づゝ、注の空白となれるもの、これぞ此編輯業の盤根錯節とはなりぬる。筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを耻ぢ責むるのみなりき。さるにても、興せる業は已むべきにあらず、王父の遺誡はこゝなりと、更に氣力を奮ひおこして、及ぶべきかぎり引用の書をあつめ、又有識に問ひ、書に就き、人に就き、こゝに求め、かしこに質して、おほかたにも解釋し、旁、又、別に一業を興して、數十部の語學書をあつめ、和洋を參照折中して、新にみづから文典を編み成して、終にその規定によりて語法を定めぬ。この間に年月を徒費せしこと、實に豫想の外にて、およそ本書編成の年月は、この盤根錯節のためにつひやせること過半なりき。(この間に、他書の編纂※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)訂など命ぜられ、又、音樂取調掛兼勤となりしことも數年なりき。)解釋をあなぐれる事につきて、そのひとつふたつを言はむ。某語あり、語原つまびらかならず、外國語ならむのうたがひあり、或人、偶然に「そは、何人か、西班牙語ならむといへることあり」といふ、さらばとて、西英對譯辭書をもとむれど得ず、「何某ならば西班牙語を知らむ、」君その人を識らば添書を賜へ、」とて、やがて得て、その人を訪ふ、不在なり、ふたゝび訪ひて遇へり、「おのれは深くは知らず、」さらば、君が識れる人に、西語に通ぜる人やあらむ、」某學校に、その國の辭書を藏せりとおぼゆ、」さらば添書を賜へ、」とて、さらにその學校にゆきて、遂にその語原を、知ることを得たりき。捕吏の、盜人を蹤跡する詞に、「足がつく」足をつける」といふことあり、語釋の穿鑿も相似たりと、ひとり笑へる事ありき。その外、酒宴談笑歌吹のあひだにも、ゆくりなく人のことばの、ふと耳にとまりて、はたと膝打ち、さなり/\と覺りて、手帳にかいつけなどして、人のあやしみをうけ、又、汽車の中にて田舍人をとらへ、その地方の方言を問ひつめて、はては、うるさく思はれつることなど、およそ、かゝるをこなる事もしば/\ありき。すべて、解釋の成れる後より見れば、何の事もなきやうにみゆるも、多少の苦心を籠めつる多かり。
おのれは漢學者の子にて、わづかに家學を受け、また、王父が蘭學の遺志をつぎて、いさゝか英學を攻めつるのみ、國學とては、さらに師事せしところなく、受けたるところなく、たゞ、おのが好きとて、そこばくの國書を覽わたしつるまでなり。さるを思へば、そのはじめ、かゝる重き編輯の命を、おふけなくも、いなまずうけたまはりつるものかな、辭書編輯の業、碩學すらなやめるは、これなりけりと思ひ得たるにいたりては、初の鋭氣、頓にくじけて、心そゞろに畏れを抱くにいたりぬ。また、局長には、おのれが業のはかどらぬを、いかにか思はるらむ、怠り居るとや思ひをらるらむ、などおもふに、そも、局長西村君は、そのはじめ、この業をおのれに命ぜられてより、ひさしき歳月をわたれるに、さらに、いかにと問はれし事もなく、うながされし事もなし、その意中推しはかりかねて、つねにはづかしく思へりき。さるに、明治十六年の事なりき、阿波の人井上勤君、編輯局に入り來られぬ、同君、まづ局長に會はれし時に、局中には學士も濟々たらむ、何がし、くれがし、と話しあはれたる時、局長のいはるゝに、「こゝに、ひとり、奇人こそあれ、大槻のなにがしといふ、この人、雜駁なる學問なるが、本邦の語學は、よくしらべてあるやうなり、かねて一大事業をまかせてより、今ははや十年に近きに、なほ、倦まずして打ちかゝりてあり、強情なる士にこそ」と、話されぬと、井上君入局して後に、ゆくりなくおのれに語られぬ。おのれ、この話を聞きて、局長の意中も、さては、と感激し、また、その「強情をとこ」の月旦は、おのれが立てつるすぢを洞見せられたりけり、「人の己を知らざるを憂へず」の格言もこれなりなど思ひて、うれしといふもあまりありき。げにや、そのかみの官衙のありさまは、※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)忽に變遷する事ありて、局も人も事業も、十年の久しきに繼續せしは、希有なる事にて、おのれがこの業は、都下※[#「執/れんが」、U+24360、二-20]閙の市街のあひだにありて、十年の間、火災に燒けのこりたらむがごとき思ひありき。そも、この業の成れるは、おのれが強情などいはむはおふけなし、ひとへに、局長が心のよせひとつに成りつるなりけり、西村君は、實にこの辭書成功の保護者(Patron.)とや言はまし。
そのかみは、官途も、今のごとくにはあらず、奉承榮達の道も、今よりは、たはやすかりきとおぼゆ、同僚は、時めきて遷れるも多し、おのれに親しく榮轉を勸めたりし人さへも、ひとりふたりにはあらざりき、されど、かゝる事にて心の動く時は、つねに王父の遺誡を瞑目一思しぬ。明治十一年六月、おのが父にておはする人、七十八歳にして身まかられぬ、老い給ひての上の天然の事とはいへ、いまさらの事にて、哀しきことかぎりなし、今よりは、難義の教を受けむこともかなはずと思へば心ぼそし、辭書の成稿を見せまゐらせむの心ありしかども、そのかひもなし。この後幾ほどなき事なりき、同郷なる富田鐵之助君、龍動に在勤せられて、「來遊せよかし、おのれ、いかにもして扶持せむ、」など、厚意もて言ひおこせられたり。君の我を愛せらるゝこと、今にはじめぬ事ながらと、感喜踊躍して、さて思へらく、かゝる機會は多く得べからず、父の養ひはすでに終へつ、おのれは次子なり、家兄は存せり、家の祀、母のやしなひ、托すべき人あり、また妻もなく子もなし、幾年にてもあれ、海外に遊びてあられむ程はあらむ、いづこにも青山あらむ、海外にて死にもせむ、さらば、この土に、何をか一事業をとどめてゆかむ、その業は、すなはちこの辭書なるめり、いよ/\半途にして已むべきにあらず。かく思ひなりて、さて、その頃、おのれは本郷に住めり、父を養はむために營みつる屋敷なりけり、かゝる事の用にとならば、なき靈もいなみ給はじ、など思ひさだめて、やがて、そを賣りて、二千餘金を得、これに蓄餘を加へなどして、腰纒をとゝのへて、さて、ひたふるに辭書の成業をいそぎぬ。されども、例の盤根錯節は、たはやすく解けやらず、今はこうじにこうじて、推辭せむか、躱避せむか、棄てむ、棄てじ、の妄念、幾たびか胸中にたゝかひぬ、されど、かゝるをりには、例の遺誡を思ひ出でゝしば/\思ひしづめぬ。かくて心のみはやりて、こゝろならずも日をすぐせる内に、當時、楮幣洋銀の差大に起りて、備へつる腰纒は、思ひはかりし半ばかりとなり、幾程なく富田君も歸朝せられて、いよ/\呆然たり、さてこそ、この願望は一睡妄想の夢とは醒めたれ。およそ、この辭書編輯十年間は、おのれが旺壯の年期なりしを、またくこの事業の犧牲とはしたりき、善く世と推しうつりたらましかば、かばかり沈滯もせざらまし、今は已みなむ。然はあれど、又つら/\人の上を顧みおもふに、時めかしつるも、變遷しぬるも、さてその十數年間、何の業をかなせると見れば、黄粱一夢鴻爪刻船のさまなるも多かり、我には、數ならねど、此十年間の事業は痕をとゞめたり、相乘除せば、さまで繰言すべくもあらじ、まして、箕裘を繼ぎつる上はこの文學の道にかくてあらむは、おのれが分なり。さるにても、世の操觚の人は、史文に、綺語に、とかく、花も實もありて、聲聞利益を博せむ方にのみ就くに、おのれは、かゝる至難にして人後につき名も利も得らるまじきうもれ木わざに半生をうづみつるは、迂闊なる境涯なりけり。されど、この業、文學の上に、誰か必用ならずとせむ、必用なる業なれど人は棄てゝ就かず、おのれは人の棄てつる業に殉せり、いさゝか本分に酬ゆるところありともせむかし。
本篇引用の書にいたりては、謹みて中外古今碩學がたまものを拜す、實に皆その辛勤の餘澤なり、家に藏せる父祖が遺著遺書のめぐみ、また少からず。編輯中の質疑にいたりては、黒川眞頼、横山由清、小中村清矩、榊原芳野、佐藤誠實、等諸君の教、謝しおもふところなり。然して、稿本成りて、名を言海とつけられしは、佐藤誠實君の考選にいでたり。稿本の淨書をはじめつるは、明治十五年九月にて、局中にて、中田邦行、大久保初男の二氏を、この編輯業につけられ、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)字寫字は、おほかたこの二氏の手に成れり。さて、初稿成れりし後も、常に訂正に從事して、その再訂の功を終へたるは、實に明治十九年三月二十三日なりき。
さて、局長西村君は、前年轉任せられ、おのれも、十九年十一月に、第一高等中學校教諭、古事類苑編纂委員などに移りて、本書出版の消息なども、聞く所あらず。ひとゝせ故文部大臣森有禮君の第に饗宴ありし時、おのれも招かれて、宴過ぎて後に、辻新次君と鼎坐して話しあへるをりにも、「君が多年苦心せる辭書、出版せばや、」など、大臣、親しく言ひいでられつる事もありしが、編輯の拙き、出版にたへずとにや、或は資金の出所なしとにや、その事も止みぬ。かくて、稿本は、文部省中にて、久しく物集高見君が許に管せらるときゝしが、いかにかなるらむ。はて/\は、いたづらに紙魚のすみかともなりなむなど、思ひいでぬ日とてもあらざりしに、明治二十一年十月にいたりて、時の編輯局長伊澤修二君、命を傳へられて、自費をもて刊行せむには、本書稿本全部下賜せらるべしとなり、まことに望外の命をうけたまはりて、恩典、枯骨に肉するおもひあり、すなはち、私財をかきあつめて資本をそなへ、富田鐵之助君、及び同郷なる木村信卿君、大野清敬君の賛成もありて、いよ/\心を強うし、踊躍して恩命を拜しぬ。かくて、編緝局の命にて、かならず全部の刊行をはたすべし、刊行の工事は同局の工塲に托すべし、篇首に、本書は、おのれ文部省奉職中編纂のものたることを明記すべし、そこばくの獻本すべし、などいふ約束を受けて、十月二十六日、稿本を下賜せられ、やがて、同じ工塲にて、私版として刊行することとはなりぬ。
刊行のはじめ、中田大久保の二氏、閑散なりしかば、家にやどして、活字の※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正せむことを托しぬ。稿本も、はじめは、初稿のまゝにて、たゞちに活字に付せむの心にて、本文のはじめなる數頁は、實にそのごとくしたりしが、數年前の舊稿、今にいたりて仔細に見もてゆけば、あかぬ所のみ多く出できて、かさねて稿本を訂正する事とし、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)訂塗抹すれば、二氏淨書してたゞちに活字に付し、活字は、初より二回の※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正とさだめたれば、一版面、三人して、六回の※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正とはなりぬ。かくてより、今年の落成にいたるまで、二年半の歳月は、世のまじらひをも絶ちて、晝となく夜となく、たゞこの訂正※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)合にのみ打ちかゝりて、更に他事をかへりみず。さてまた、篇中の體裁も、注釋文も、初稿とは大に面目をあらためぬ。
本書刊行のはじめに、編輯局工塲と約して、全部、明年九月に完結せしめむと豫算したり。又、書林は、舊知なる小林新兵衞、牧野善兵衞、三木佐助の三氏に發賣の事を托せしに、豫約發賣の方法よからむとすゝめらるゝにしたがひて、全部を四册にわかちて、第壹册は三月、第二册は五月、第三册は七月、第四册は九月中に發行せむと假定しぬ。さるに、此事業、いかなる運にか、初より終まで、つねに障礙にのみあひて、ひとつも豫算のごとくなることあたはず、遂に完結までに、二年半をつひやせり、今、左にその障礙のいちじるきものをしるさむ。
明治二十二年三月にいたりて、編輯局の工塲を、假に印刷局につけられたるよしにて、その事務引きつぎのためにとて、數十日間、工事の中止にあひ、さて、二十三年三月にいたりて、編輯局の工塲は、終にまたく廢せられぬ。これより後は、一私人として、さらに印刷局に願ひいでずてはかなはず、その出願には、規則の手續を要せらるゝ事ありて、豫算にたがへる事もおこりしかば、編輯局にうれへまうす事どもありしかど、今はせむかたなしとて郤けられぬ、稿本下賜の恩命もあれば、しひて違約の愁訴もしかねて、それより、家兄修二、佐久間貞一君、益田孝君などの周旋を得て、とかくの手つゞきして、からうじて再着手とはなれり、此の間も、中止せられぬること、六十餘日に及びぬ。又、この前後、公用刊行の物輻湊する時は、おのれが工事は、さしおかれたる事もしば/\なりき。かく、數度の障礙にはあひつれど、この工事を他の工塲に托せむの心は起らざりき、さるは、同局の工事は、いふまでもなき事ながら、植字に※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正に、謹嚴精良なる事、麻姑を雇ひて癢處を掻くが如く、また他にあるべくもあらざればなり、見む人、本書を開きて目止めよかし。さてまた、本書植字の事、原稿の上にては、さまでとも思はざりしが、さて着手となりてみれば、假名の活字は、異體別調のものなれば、寸法一々同じからず、その外、くさ/″\の符號など、全版面に、およそ七十餘とほりのつかひわけあり、植字※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正のわづらはしきこと、熟練のうへにてもはかどらず、いかに促せどもすゝまず。又、辭書のことなれば、母型に無き難字の、思ひのほかに出できて、木刻の新調にいとまをつひやせる事、甚だ多し。およそ、これらの事、豫算には思ひもまうけぬ事どもにて、すべて遲延の事由とはなりぬ。又※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正者中田邦行氏、腦充血にて、二十二年六月に失せられぬ、本書の業につきては、その初より、大久保氏とともに、助力おほかたならず、多年、篇中の文字符號に熟練せる人を失ひて、いと/\こうじぬ。また、去年の春、流行性感冐行はれ、年の末より今年にかけて、ふたゝび行はれ、おのれも、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正者も、植字工も、この前後再度の流行に、數日間倒れぬ。また、去年の十月、おのが家、壁隣の火に遇へり。また、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正者大久保初男氏、その十一月、徳島縣中學校教員に赴任せられて、たのめる一臂を失ひていよ/\こうじぬ、およそこれらの事、皆此書の遭厄なり。これより後は、先人の舊門なる文傳正興氏に托して、※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)正の事を擔任せしめぬ。
遭厄の中に、もとも堪へがたく、又成功の期にちかづきて、大にこの業をさまたげつるは、おのれが妻と子との失せつる事なりけり。爰には不用にもあり、くだ/\しうもあれど、おのれの身に取りては、この書の刊行中の災厄とて、もとも後の思ひでとならむ事なるべければ、人の見る目にも恥ぢず記しつけおかむとす。去々年十一月に生れたるおのが次女の「ゑみ」といへる、生れてよりいとすこやかなりしが、去年十月のはつかばかりより、感冐して、後に結核性腦膜炎とはなれり。醫高松氏が病院に、妻小婢(いそ)と共に托せしに、病性よからずして心をなやましぬ。朝夕に行きては、いたはしき顏をまもり、歸りては筆を執れども、心も心ならず。十一月十六日の、まだ宵のまに、まさに原稿の「ゆ」の部を訂正して、箏のおし手の「ゆしあんずるに」ゆのねふかうすましたり」などいふ條を推考せるをりに、小婢、病院よりはせかへりきて、家に入りて、物をもいはずそのまゝ打伏し聲立てゝ泣く、病の危篤なるを告ぐるなり、筆をなげうち、蹶起してはしりゆけば、煩悶しつゝやがて事切れぬ。泣く/\屍をいだきて家にかへり、床に安して、さて、しめやかに青き燈の下に、勉めてふたゝび机に就けば、稿本は開きて故の如し、見れば、源氏の物語、若菜の卷、「さりとも、琴ばかりは彈き取り給ひつらむ、云云、晝はいと人しげく、なほ、ひとたびもゆしあんずるいとまも、心あわたゞしければ、夜々なむしづかに、」云云、「ゆ」は「搖ること」なり、「あんずる」は「按ずる」にて、「左手にて絃を搖り押す」なり、又、紅葉の賀の卷、「箏の琴は、云云、いとうつくしう彈き給ふ、ちひさき御程に、さしやりてゆし給ふ御手つき、いとうつくしければ、」おのれが思ひなしにや、讀むにえたへで机おしやりぬ、この夜一夜、おのれが胸は、ゆしあんぜられて夢を結ばず。「死にし子、顏、よかりき」をんな子のためには、親、をさなくなりぬべし、」など、紀氏の書きのこされたりつるを、さみし思へることもありしが、今は、我身の上なり、宜なり、など思ひなりぬ。この小兒の病に心を痛めつるにや、打ちつづきて、家のうちに、母にておはする人をはじめとして、病に臥すもの、五人におよびぬ。妻なる「いよ」なげきのなかにも、ひとり、かひ/″\しく人々の看病してありしが、妻も、遂にこの月のすゑつかたより病に臥しぬ。初は、何の病ともみとめかねたるに、數日の後、膓窒扶斯なりとの診斷をきゝて、おどろきて、本郷なる大學病院に移して、また、晝に夜にゆきかよひて病をみ、病のひまをうかゞひては、歸へりて※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)訂の業に就けども、心はこゝにあらず、洋醫「ベルツ」氏も心をつくされけれど、遂に十二月廿一日に三十歳にてはかなくなりぬ。いかなる故にてか、かゝる病にはかゝりつらむ、年頃善く母に事へ我に事へ、この頃の我が辛勤を察して、よそながら、いたく心をいため、はた、家政の苦慮を我におよぼすまじと、ひとり思をなやましてまかなひつゝありける状なりしに、子のなげきをさへ添へつれば、それら、やう/\身の衰弱の種とはなりつらむ、さては、子の失せつるも、衰弱せる母の乳にやもとゐしつらむ、あゝ、今の苦境も後にいつか笑ひつゝ語らはむ、などかたらひたりしに、今はそのかひなし。半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。そも、かゝるめゝしくをぢなき心を、こと/″\しう書いつけおかむは、人わらはれなるわざにて、はぢがましきかぎりなれど、この頃の筆硯の苦、人情の苦に、窮措大が嚢中の苦さへ、湊合しつる事なれば、後にこの書を見むごとに、おのれひとりが思ひやりにせむとてなり、讀まむ人は、あはれとも見ゆるし給へや。
本篇刊行の久しき年月のうちに、おもひまうけぬ災害の並び臻れること、上にいへるがごとくなれど、誰人かおのれが心事をおしはかりえむ。されば豫約せし人々は、もとより内情を知らるべきならねば、いつも、きびしく遲延をうながされて、發行書林の店頭には、毎回の督責状、うづだかきまでになりぬ、書林は又おのれを責めぬ、そが督責状なりとて持てくるをみれば、文面もさま/″\にて、をかしきもあるがなかに、「大虚槻(おほうそつき)先生の食言海」などしるしつけられつるもありき。おのれは、まさしく約束をたがへぬ、ひとへに謝するところなり、計畫のいたらざりしは、身を恨むる外あるべからず。そも/\、初より、豫約といふ事せしこと、かへす/″\もあやまりなりき、豫約だにせざりせば、かゝるあざけりにあふこともあらじを、など悔ゆれどもせんなし。されど、責めらるゝつらさに、夜もふくるまで筆は執りつ、責めらるゝくるしさに、及ぶかぎりは、印刷の方にも迫りつ、それだにかく後れたり、責められざらましかばいかにかあらまし、など思へば、豫約せしことも、僥倖なりきとも思ひなしぬ。さて、内外の苦情は、身ひとつにあつまりきて、陳謝に陳謝をかさねて、遁るべき道なくなりつ、又、ふたとせあまりがほどの坐食に、※(「にんべん+擔のつくり」、第3水準1-14-44)石の儲なきにも至りつ、今はせむすべなくて、さては、篇中、およそ七八分より末は、いそぎにいそぎて、十分なる重訂もえせられず、不用なるめりと思はるゝ語、又は、註に引ける例語のふたつみつあるなどは、愛を割きてけづりて、(篇首の數頁は、初稿のまゝなり、篇末、又かくのごとし、されば、前後の詳略の、釣りあはぬところも、又、符號などのそろはぬ所も出できつらむ、)ひとへに、完結の一日もはやからむことをのみ期しぬ。されば、初には、附録として、語法指南、字音假名づかひ、名乘字のよみ、地名苗字などの讀みがたきもの、和字、譌字、又は、諺、など添へむの心なりしかど、(語法指南のみは、篇首に載せつ)今はしばらくこゝにとぢめて、再版の時を待つことゝはせり。されど、初は、全篇の紙數、およそ一千頁と計りしが、大に注釋を増補する所ありて、全部完成のうへにては、紙數、二割ほどは殖えつらむ、これを乘除とも見よかし。
辭書は文教のもとゐたること、論ずるまでもなし、その編輯功用の要は、この序文にくはしければ、さらにも言はず。されば、文部省にても、夙くよりこの業に着手せられぬ、語彙の擧は、明治の初年にあり、その後、田中義廉、大槻修二、小澤圭二郎、久保吉人の諸氏に命ぜられて、漢字の字書(本邦普通用の漢字を三千ばかりに限らむとて採收解釋せるもの、)と普通の日本辭書とを編せられつる事もあり、こは、明治五年より七年にかけての事なりき、さて明治八年にいたりて、おのが言海は命ぜられぬ。世はやう/\文運にすゝみたり、辭書の世に出でつるも、今はひとつふたつならず。明治十八年九月、近藤眞琴君の「ことばのその」發刊となれり、二十一年七月に、物集高見君の「ことばのはやし、」二十二年二月に、高橋五郎君の「いろは辭典」も刊行完結せり。近藤君は、漢洋の學に通明におはするものから、その教授のいそがはしきいとまに、かゝる著作ありつるは、敬服すべきことなり。この著作の初に、おのれが文典の稿本を借してよとありしかば、借しまゐらせつれば、やがて全部を寫されたり、されば八品詞その外のわかちなどは、おのれが物と、名目こそは、いさゝかかはりつれ、そのすぢは、おほかた同じさまとはなれり。そのかみ、君をはじめとして、横山由清、榊原芳野、那珂通高、の君たちに會ひまゐらせつるごとに、「辭書はいかに、」と問はれたりき、成りたらむには、とこそ思ひつるに、今は皆世におはせず、寫眞にむかへども、いらへなし、哀しき事のかぎりなり。物集君は、故高世大人の後とて、家學の學殖もおはするものから、これも、教授に公務に、いとまあるまじくも思はるゝに、綽々餘裕ありて、そのわざを遂げられつること歎服せずはあらず。近藤君の著と共に、古書を讀みわけむものに、裨益多かりかし。「いろは辭典」は、その撰を異にして、通俗語、漢語、多くて、動詞などは、口語のすがたにて擧げられたり、童蒙のたすけ少からじ。三書、おの/\長所あり。おのれが言海、あやまりあるべからむこと、言ふまでもなし。されど、體裁にいたりては、別におのづから、出色の所なきにしもあらじ、後世いかなる學士の出でゝ、辭書を編せむにも、言海の體例は、必ずその考據のかたはしに供へずはあらじ、また、辭書の史を記さむ人あらむに、必ずその年紀のかたはしに記しつけずはあらじ。自負のとがめなきにしもあらざるべけれど、この事は、おのれ、いさゝか、行くすゑをかけて信じ思ふところなり。
おのれ、もとより、家道裕ならず、されば、資金の乏しきにこうじて、物遠き語とては漏しつる、出典の書名をはぶきつる、圖畫を加へざりつる、共にこの書の短所とはなりぬ、遺憾やらむかたなし。そも、おのれが學の淺き才の短き、この上に多く立ちまさりて、別にしいでむ事とてもあるまじけれど、今の目のまへにてもあれ、資本だに繼がば、これに倍せむほどのもの、つくりいでむは難からじなど、かけておもふ所なきにしもあらず。されど、我が國の文華は、開けつるがごとくみゆれど、いまだ開けず、資金をつひやして完全せしめむには、價を増さずはあるべからず、今の文化の度にては、物の品位に對して廉不廉などの比較は、おきていはず、たゞ書籍なんどいはむものに、そこばく圓といふ金出さんずる需用家の多からむとは、かけても望みえず。されば、たとひ資本を得たりとも、收支の合はざらむわざは、をこなりけりと思ひなりて、志を出費の犧牲として、さて已みつるなり。むかしの侯伯には、食前方丈侍妾數百人をはぶきて、文教の助けとある浩瀚の書を印行せしもありき、今の世にはありがたかり。こゝにいたりて、韓文公が宰相への上書をおもひいでゝ、あはれ、力ある人の一宴會の費もがな、などいやしげなるかたゐ心もいでくるぞかし、やみなむ/\、學者の貧しきは、和漢西洋、千里同風なりとこそ聞けれ、おのれのみつぶやくべきにあらず。さりながら、この業、もとより、このたびのみにして已むべきにあらず、年を逐ひて刪修潤色の功をつみ、再版、三版、四五版にもいたらむ、天のおのれに年を假さむかぎりは、斯文のために撓むことあるべからず。
今年一月七日、原稿訂正の功、またくしをへて、からうじて數年の辛勤一頓し、さて、今月に入りて、全部の印刷も、遂に全く大成を告げぬ、こゝに、多年の志を達して、かつは公命に答へたてまつり、かつは父祖の靈を拜して、いさゝか昔日の遺誡に酬い畢はんぬ。明治二十四年四月 平文彦

この文、もと、稿本の奧に書きつけおけるおのれがわたくし物にて、人に示さむとてのものならず、十七年があひだの痕、忘れやしぬらむ、後の思ひでにやせむ、とて筆立で[#「筆立で」はママ]しつるものなるが、事實を思ひいづるにしたがひて、はかなき述懷も浮びいづるがまに/\、ゆくりなくも、いやがうへに書いつけもてゆけるはて/\の、かうもくだ/\しうはなりつるなり。さて、本書刊行の成れるに及びて、跋文なし、人に頼まむ暇はなし、よし/\、この文を添へもし削りもして、その要とある所を摘みて跋に代へむ、など思ひはかりたりしに、今は、日に/\刊行の完結を迫られて、改むべき暇さへ請ひがたくなりたれば、已むことを得ずして、末に年月を加へて、淨書もえせずして、全文をそのまゝに活字に物することゝはなりにたり。さればこの文を讀むことあらむ人は、たゞその心して讀み給へかし、もし、さる事の心をも思ひはからず、打ちつけに讀み取りて、「たゞ一部の書を作り成し得たればとて、世に事々しき繰言もする人哉、心のそこひこそ見ゆれ、」などあながちに我をおとしめ言はむ人もあらば、そは、丈夫を見ること淺き哉、と言はむ。たゞ、かへす/″\も、ゆくりなき筆のすさびと見てほゝかし給へや。
[#改ページ]
續古今集序
いにしへのことをも、筆の跡にあらはし、行きてみぬ境をも、宿ながら知るは、たゞこの道なり。しかのみならず、花は木ごとにさきて、つひに心の山をかざり、露は草の葉よりつもりて、言葉の海となる。しかはあれど、難波江のあまの藻汐は、汲めどもたゆることなく、筑波山の松のつま木は、拾へどもなほしげし。
同、賀
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極

There is nothing so well done, but may be mended.

   「青空文庫」より

☆大槻文彦(おおつき ふみひこ)とは?

 明治から昭和時代前期に活躍した、国語学者・国語辞典『言海』の編纂者です。江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。
 1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。
 1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。
 1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。
 1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。
 1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)八王子大火で、死者42名、負傷者223名、焼失3,500余戸を出す詳細
1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1912年(明治45)映画監督・脚本家新藤兼人の誕生日詳細
松本明治45年「北深志の大火」で、死者5名、焼失1,341戸の被害を出す詳細
1950年(昭和25)日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が結成される詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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oomiyamachitaika01
 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、大宮町大火(静岡県富士郡大宮町)が起こり、全焼1,102戸、死者1名、負傷者97名を出した日です。
 大宮町大火(おおみやまちたいか)は、この日の午後8時40分頃、栄町のあんま業斉藤方から出火、朝から吹いていた西北の烈風に煽られて、周囲に次から次へと燃え移りました。本町、神田町の目抜き通りをはじめ栄町、乙女町、末広町、神田宮町、神田橋、北神田町、御殿町、緑町、仲宿町、幸町、清水町、伝馬町、千代田町と神田川東岸で駅の北側に当たる町の主要部分を焦土と化し、ようやく翌日の午前3時半に鎮火しています。
 これによって、全焼1,102戸(全町の28%)、死者1名、負傷者97名、被災者4,914人名(全町の21%)の大きな被害を出し、町役場、警察署、郵便局、登記所などがほとんど焼失しました。防火を担うべき肝心な渋沢用水が、当時改修中だったのが被害を大きくしたといわれています。
 この大火は、大々的に全国各地の新聞で報道され、多くの義捐金・物資が集まり、これらをもとにして、災害復興に取り組まれました。

〇昭和時代の日本の大火(500棟以上の焼失で、戦災・地震によるものを除く)

・1932年(昭和7)4月21~22日 - 大宮町大火(静岡県富士郡大宮町)
 死者1名、負傷者97名、全焼1,102戸、被災者4,914人名
・1934年(昭和9)3月21日 - 箱館大火(北海道函館市)
 死者2,166名、負傷者9,485名、焼失家屋11,105棟、罹災世帯22,667世帯、罹災人員約102,001名
・1940年(昭和15)1月15日 - 静岡大火(静岡県静岡市)
 死者1名、負傷者788名、焼失家屋5,275戸、羅災人員27,518名
・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
 死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
 死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
 死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
 死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
 行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
 死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
 死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
 死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
 死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

748年(天平20)第44代の天皇とされる元正天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1583年(天正11)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北する(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)「五箇条の御誓文」に基づき「政体書」が発布される(新暦6月11日)詳細
1875年(明治8)数学者高木貞治の誕生日詳細
1952年(昭和27)「公職追放令」が廃止され、最後まで追放解除にならなかった5,700人の公職追放が解除される詳細
日本民間放送連盟(民放連)が社団法人化する(民放の日)詳細
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