ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年03月

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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、「国家総動員法」第6条に基づいて、「工場就業時間制限令」(昭和14年勅令第127号)が公布(施行は同年5月1日)された日です。
 「工場就業時間制限令」(こうじょうしゅうぎょうじかんせいげんれい)は、昭和時代前期の1938年(昭和13)4月1日に公布(同年5月5日施行)された、「国家総動員法」に基づいて、翌年3月31日に公布(施行は同年5月1日)された勅令(昭和14年勅令第127号)でした。「工場法」適用工場で、厚生大臣指定の軍需工場について、労働力の保全を目的とし、16歳以上の男子職工の就業を1日12時間と制限したものです。
 それまでは、1911年(明治44)の「工場法」において、女子と15歳未満の年少者について深夜業を禁止すると共に就業時間を1日12時間に制限していましたが、16歳以上の男子にも1日12時間という規制が設けられたという点では、画期的なものでした。尚、同時に、「国家総動員法」に基づいて、「従業者雇入制限令」(昭和14年勅令第126号)、「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)、「学校技能者養成令」(昭和14年勅令第130号)、「工場事業場技能者養成令」(昭和14年勅令第131号)などが出されています。
 この勅令は、1943年(昭和18)6月16日に「工場法戦時特例」が公布・施行されると、「工場法」の一部の施行停止と共に、「工場就業時間制限令廃止ノ件」(昭和18年勅令第501号)により、同年6月16日をもって廃止され、再び、就業時間の基準がなくなりました。
 以下に、「工場就業時間制限令」(昭和14年勅令第127号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「工場就業時間制限令」(昭和14年勅令第127号)1939年(昭和14)3月31日公布、同年5月1日施行

第一条 国家総動員法第六条ノ規定ニ基ク工場ニ於ケル就業時間ノ制限ハ本令ノ定ムル所ニ依ル

第二条 本令ハ工場法ノ適用ヲ受クル工場ニシテ厚生大臣ノ指定スル事業ヲ営ムモノニ之ヲ適用ス

第三条 工業主ハ十六歳以上ノ男子職工ヲシテ一日ニ付十二時間ヲ超エテ就業セシムルコトヲ得ズ

第四条 工業主ハ十六歳以上ノ男子職工ニ対シ毎月少クトモ二回ノ休日ヲ設ケ一日ノ就業時間ガ六時間ヲ超ユルトキハ少クトモ三十分、十時間ヲ超ユルトキハ少クトモ一時間ノ休憩時間ヲ就業時間中ニ於テ設クベシ

第五条 十六歳以上ノ男子職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル為又ハ業務ノ性質上特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ工業主ハ予メ地方長官(東京府ニ在リテハ警視総監以下之ニ同ジ)ニ届出デ第三条ノ就業時間ヲ延長スルコトヲ得

第六条 已ムヲ得ザル事由ニ因リ臨時必要アル場合ニ於テハ工業主ハ地方長官ノ許可ヲ受ケ期間ヲ限リ第三条ノ規定ニ拘ラズ就業時間ヲ延長シ又ハ第四条ノ休日ヲ廃スルコトヲ得但シ命令ヲ以テ定ムル場合ニ於テハ地方長官ノ許可ヲ受クルコトヲ要セズ
2 臨時必要アル場合ニ於テハ工業主ハ其ノ都度予メ地方長官ニ届出デ一月ニ付七日ヲ超エザル期間就業時間ヲ二時間以内延長スルコトヲ得
3 第一項但書ノ規定ニ依リ就業セシメタルトキハ遅滞ナク地方長官ニ届出ヅベシ

第七条 厚生大臣又ハ地方長官必要アリト認ムルトキハ就業時間ノ制限ニ関シ国家総動員法第三十一条ノ規定ニ基キ工業主ヨリ報告ヲ徴シ又ハ当該官吏ヲシテ工場、事務所其ノ他ノ場所ニ臨検シ帳簿書類ヲ検査セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ニ依リ当該官吏ヲシテ臨検検査セシムル場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ

第八条 本令ハ国ノ事業ニ之ヲ適用セズ

第九条 本令中工場法ノ適用ヲ受クル工場トアルハ朝鮮、台湾又ハ南洋群島ニ在リテハ常時十人以上ノ職工ヲ使用スル工場、樺太ニ在リテハ工場取締規則ノ適用ヲ受クル工場トシ十六歳以上ノ男子職工トアルハ朝鮮、台湾、樺太又ハ南洋群島ニ在リテハ職工トス
2 本令中厚生大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督、樺太ニ在リテハ樺太庁長官、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事、台湾ニ在リテハ州知事又ハ庁長、樺太ニ在リテハ樺太庁長官、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トス

  附 則

本令ハ昭和十四年五月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ朝鮮台湾樺太及南洋群島ニ在リテハ昭和十四年八月一日ヨリ之ヲ施行ス

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)政府が全国17の私鉄を買収することを定めた「鉄道国有法」を公布する詳細
物理学者朝永振一郎の誕生日詳細
1939年(昭和14)「国家総動員法」第6条に基づいて、「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)が公布される詳細
「国家総動員法」第6条に基づいて、「従業者雇入制限令」(昭和14年勅令第126号)が公布される詳細
1947年(昭和22)旧「教育基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)日本国有鉄道(国鉄)が115年の歴史に幕を下ろす(翌日から分割・民営化)詳細

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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、文部次官通達として、「大学教練振作ニ関スル件」(文部次官通牒発専第81号)が出された日です。
 「大学教練振作ニ関スル件」(だいがくきょうれんしんさくにかんするけん)は、同年4月以降は、大学学部在籍学生全員に学校教練を課すと指示した文部次官通達(文部次官通牒発専第81号)でした。1925年(大正14)4月13日に、「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、大学を除く官公立の中等以上の学校に、陸軍現役将校の学校配属が行われ、学校教練の指導に当たることとなりますが、大学と私立学校とは申出により配属されるとなります。
 しかし、学校教練の有無は卒業者の徴兵猶予や兵役期間の短縮などの恩典の有無に影響したので、すべての大学及び中等以上の私立学校でも配属将校を受け入れることになっていきました。そして、本通達(文部次官通牒発専第81号)により、同年4月以降は、大学学部在籍学生全員に学校教練を必須として課すことにしたものです。
 以下に、「大学教練振作ニ関スル件」(文部次官通牒発専第81号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大学教練振作ニ関スル件」(文部次官通牒発専第81号)1939年(昭和14)3月30日

 大学教練振作ニ関スル件

現下内外ノ情勢ニ鑑ミ学校教練ノ振作ヲ図ルハ極メテ緊要ナル事ニ有之予而大学学部教練ニ関シ陸軍省ト協議中ノ処今般別紙要綱ニ基キ昭和十四年度ヨリ之ヲ施行スルコトト相成タルニ付テハ十分御配意相成リ実施上遺憾ナキヲ期セラレ度此段通牒ニ及フ

 大学学部教練ニ関スル要綱

一、昭和十四年四月一日以降大学学部教練ハ総長(又ハ学長)ノ指揮監督ノ下ニ学部在籍学生全員之ヲ受クルモノトス但シ身体的故障アル者二対スル術科ハ之ヲ免除ス
二、教練ノ実施ニ関シ左ノ通走ム
(イ)教材
 学科(戦史、戦術、軍事講話)
 術科(各個、部隊教練、射撃、指揮法)
右教材範囲内ニ於テ土地ノ情況、当該大学ノ学情等ヲ顧慮シ概ネ教練進度参考表ニ準拠シ実施スベシ
学生ノ専攻スル学科ノ種類ニ依リ将来ヲ考慮シ当該学科ニ適応スル事項ヲ以テ教材ノ一部ニ代フルコトヲ得
所要兵器ノ備付無キカ又ハ他ヨリ流用ノ途無キ学部ニ於テハ当分ノ間他ノ教材ヲ以テ之ニ代フロコトヲ得
(ロ)教練進度参考表
 (進度参考表ハ別表トス)
(ハ)授時数数
 一週概ネ二時間ヲ標準トシ毎週行フヲ常トス但シ術科ニ関シテハ土地ノ情況等ニ依リ平素之ヲ実施シ得ザル場合ハ学年毎ニ毎学期某期間ノ連続訓練ヲ実施スルコトヲ得
三、教授カ
 大学学部ニ配属スル現役将校ハ可成之ヲ充足スルコトニカムルモ一部ノ欠員アル場合ニハ陸軍省事務嘱託者ヲ以テ之ヲ補助セシムルコトアルベシ
 大学ニ於テハ適任ノ教練教師ヲ採用シ術科ノ補助又ハ教練事務ノ担当ニ任ゼシムルモノトス
四、教育資材
 教練実施ノ為必要ナル小銃及附属口問ハ予科、専門部ヲ有スル学部ニ在リテハ当分之ヲ流用実施スルコトトシ小銃等ノ備付無キ学部ニ在リテハ昭和十四年五月末日迄ニ所要数ノ一部ヲ優先払下グ
五、成績判定
 成績ノ判定ハ検定規定ニ依ルモ出席不良(概ネ七〇%以下)ナル者ニ就テハ特ニ合否判定上ニ考慮スルモノトス

 別表(略)

〇学校教練(がっこうきょうれん)とは?
 
 大正時代の1925年(大正14)から1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦まで、男子の中等教育以上の教育機関において実施された、正課の軍事教育です。1917年(大正6)の中橋徳五郎のもとに招集された臨時教育会議における、「兵式体操振興二関スル建議」および「兵式教練振作二関スル建議」により、学校における軍事教練の実施が建議されました。
 その後、1923年(大正12)に学生が軍事教育に反対した早稲田大学軍事研究団事件を経て、1925年(大正14)に文政審議会は総会が開催され、特別委員会から軍事予備教育に関する諮詢を受け、付帯決議を附して全会一致で可決され、同年4月13日に「陸軍現役将校学校配属令」が公布されて、大学を除く官公立の中等以上の学校に、陸軍現役将校の学校配属が行われ、学校教練の指導に当たることとなります。同年10月の小樽高商軍事教練事件や11月9日の立教大学、早稲田大学、東京帝国大学の三大学新聞は軍事教育反対の共同宣言などの反対運動もありましたが、全国の学校に拡充されていきました。
 一方で、1926年(大正15)に陸軍省と文部省との協力のもとに「青年訓練所令」が公布され、在郷軍人や青年団幹部を職員とした青年訓練所が各地に設置され、1935年(昭和10)は、「青年学校令」(昭和10年勅令第41号)が公布・施行され、青年訓練所が、実業補習学校と統合されて青年学校となり、軍事教練は広がっていきます。1939年(昭和14)3月30日には、文部次官通牒として、「大学教練振作ニ関スル件」が出され、大学において学校教練が必須化され、青年学校が義務制となりました。
 これらは、学校教育の軍国主義化と相まって、軍国主義思想を社会に浸透させるうえで大きな力を発揮したものの、1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦により行われなくなり、同年11月には、「陸軍現役将校学校配属令」も廃止されています。

☆学校教練関係略年表

<1917年(大正6)>
・10月9日 中橋徳五郎のもとに招集された臨時教育会議における、「兵式体操振興二関スル建議」により、学校における兵式体操の実施が建議される
・12月15日 臨時教育会議において、修正された「兵式教練振作二関スル建議」により、学校における軍事教練の実施が建議される

<1923年(大正12)>
・早稲田大学で軍事教育反対事件(早稲田大学軍事研究団事件)が起きる

<1925年(大正14)>
・1月10日 文政審議会は総会を開催、特別委員会から軍事予備教育に関する諮詢を受け、付帯決議を附して全会一致で可決される
・4月13日 「陸軍現役将校学校配属令」が公布される
・5月~8月 大学を除く官公立の中等以上の学校に、陸軍現役将校の学校配属が行われる
・10月 小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学の前身)で軍事教練反対事件(小樽高商軍事教練事件)が起きる
・11月9日 立教大学、早稲田大学、東京帝国大学の三大学新聞は軍事教育反対の共同宣言を発表する

<1926年(大正15)>
・4月 陸軍省と文部省との協力のもとに「青年訓練所令」が公布され、在郷軍人や青年団幹部を職員とした青年訓練所が各地に設置される

<1935年(昭和10)>
・4月1日 「青年学校令」(昭和10年勅令第41号)が公布・施行され、青年訓練所が、実業補習学校と統合されて青年学校となる

<1938年(昭和13)>
・男子中等学校での滑空部の設立と滑空訓練を推奨、指導のため教官が軍から派遣される

<1939年(昭和14)>
・3月30日 文部次官通牒として、「大学教練振作ニ関スル件」が出され、大学において学校教練が必須化され、青年学校が義務制となる

<1941年(昭和16)>
・太平洋戦争開始により大量育成のため学校教練が正課として格上げされる

<1945年(昭和20)>
・11月 「陸軍現役将校学校配属令」が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1212年(建暦2)鴨長明が『方丈記』を書き上げる(新暦4月22日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年〈明治42〉に、文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の生まれた日です。
 花田清輝(はなだ きよてる〉は、福岡県福岡市東公園において、黒田藩に仕えていた武士を祖先とする花田家の一人っ子として生まれました。旧制福岡中学(現在の県立福岡高等学校)、旧制第七高等学校、九州帝国大学哲学科の聴講生を経て、1929年(昭和4)に京都帝国大学文学部に選科生として入学します。
 在学中の1931年(昭和6)に『七』で、第8回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、その後学費が払えずに中退し、福岡県に戻りました。1933年(昭和8)に上京し、中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時寄宿、翻訳などのアルバイトで暮らし、また、政友会代議士の選挙応援、論文代筆などもしています。
 1935年(昭和10)に朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材、1936年(昭和11)に中野正剛の東方会に参加、1939年(昭和14)には、東大陸社に入社して「東大陸」の実質的編集長となり、中野秀人、岡本潤らと文化再出発の会を結成し「文化組織」を創刊しました。1940年(昭和15)に「東大陸」編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社、翌年には、 最初の評論集「自明の理」(のち「錯乱の論理」と改題)を刊行します。
 1942年(昭和17)に「文化組織」に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぎ、林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職しました。1943年(昭和18)に「現代文学」誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表、翌年には、『小林秀雄』(のち「太刀先の見切り」と改題)を「現代文学」に発表、「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社しますが、戦時下にありながら、抵抗精神を韜晦した文体に託した評論活動を続けます。
 戦後の1946年(昭和21)に、「復興期の精神」を刊行し、新日本文学会に入会、1947年(昭和22)に綜合文化協会を設立、「綜合文化」を発行、1952年(昭和27)には、「新日本文学」の編集長となりました。しかし、1954年(昭和29)に新日本文学の内紛のため編集長を下ろされ、1956年(昭和31)には、「群像」3月号に『モラリスト批判』を掲載、“「モラリスト」論争”が起こります。
 1958年(昭和33)に歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆、舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞を受賞、1959年(昭和34)には、安部公房、千田是也、木下順二、野間宏らと「三々会」を結成して、演劇刷新運動を展開しました。1960年(昭和35)に記録芸術の会を結成して「現代芸術」を創刊、1962年(昭和37)には、小説『鳥獣戯話』で第16回毎日出版文化賞を受賞します。
 1966年(昭和41)には、新日本文学会議長に選出されたものの、1974年(昭和49)9月23日に、東京都内の慶応病院において、脳出血のため、65歳で亡くなりました。

〇花田清輝の主要な著作

・評論集『自明の理』(1941年)
・評論集『錯乱の論理』(1947年)
・評論集『アヴァンギャルド芸術』(1954年)
・戯曲『泥棒論語』(1958年)第1回週刊読売新劇賞受賞
・評論集『近代の超克』(1959年)
・評論集『もう一つの修羅』(1961年)
・小説『鳥獣戯話』(1960~62年)第16回毎日出版文化賞受賞
・小説『爆裂弾記』(1962年)
・小説『俳優修業』(1964年)
・戯曲『ものみな歌でおわる』(1964年)
・小説『小説平家』(1967年)
・小説『室町小説集』(1973年)
・評論集『日本のルネッサンス人』(1974年)

☆花田清輝関係略年表

・1909年〈明治42〉3月29日 福岡県福岡市東公園において、生まれる
・1929年(昭和2) 京都帝国大学文学部に選科生として入学する
・1931年(昭和6) 『七』で、第8回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、京都帝国大学文学部英文科を中退する
・1933年(昭和8) 福岡より上京し、中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時寄宿、翻訳などのアルバイトで暮らす
・1934年(昭和9) 李東華自伝完成、政友会代議士の選挙応援、論文代筆などのアルバイトで生計をたてる
・1935年(昭和10) 朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材する
・1936年(昭和11) 中野正剛の東方会に参加する
・1939年(昭和14) 東大陸社に入社して「東大陸」の実質的編集長となり、中野秀人、岡本潤らと文化再出発の会を結成し「文化組織」を創刊する
・1940年(昭和15) 「東大陸」編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社する
・1941年(昭和16) 第1評論集「自明の理」(のち「錯乱の論理」と改題)を刊行する
・1942年(昭和17) 「文化組織」に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぎ、林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職する
・1943年(昭和18) 「現代文学」誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表する
・1944年(昭和19) 『小林秀雄』(のち「太刀先の見切り」と改題)を「現代文学」に発表、「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社する
・1946年(昭和21) 「復興期の精神」を刊行し、新日本文学会に入会する
・1947年(昭和22) 綜合文化協会を設立、「綜合文化」を発行する
・1948年(昭和23) 「新日本文学」の編集員となる
・1952年(昭和27) 「新日本文学」の編集長となる
・1954年(昭和29) 新日本文学の内紛のため「新日本文学」の編集長をおろされる
・1956年(昭和31) 「群像」3月号に『モラリスト批判』を掲載、“「モラリスト」論争”が起こる
・1958年(昭和33) 歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆、舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞を受賞する
・1959年(昭和34) 安部公房、千田是也、木下順二、野間宏らと「三々会」を結成して、演劇刷新運動を展開する
・1960年(昭和35) 記録芸術の会を結成して「現代芸術」を創刊する
・1962年(昭和37) 小説『鳥獣戯話』で第16回毎日出版文化賞を受賞する
・1966年(昭和41) 新日本文学会議長に選出される
・1974年(昭和49)9月23日 東京都内の慶応病院において、脳出血のため、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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shinnihonfujinkyoukaisoukai
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、平塚らいてうら70名によって、新婦人協会の発会式が行われた日です。
 新婦人協会(しんふじんきょうかい)は、大正時代に日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体でした。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めます。
 1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約(全21条)を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになりました。男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みます。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めました。その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しています。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至りましたが、約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員

<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言

 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領

一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)

一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より

☆平塚らいてふ(ひらつか らいちょう)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した評論家・婦人解放運動家です。明治時代前期の1886年(明治19)2月10日に、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)で、会計検査院高官だった父・平塚定二郎と母・光沢の3女として生まれましたが、本名は明(はる)と言いました。知的で裕福な家庭で、ハイカラで自由な環境で育ち、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を経て、1903年(明治36)に日本女子大学校家政学部へ入学しました。しかし、良妻賢母教育に失望して、文学、哲学、宗教などの本を読み、参禅し自我を追求、1906年(明治39)に卒業します。その後、英語を学びましたが、1908年(明治41)に森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)を起こしました。1911年(明治44)に生田長江にすすめられ、母から資金提供を受け、婦人文芸集団青鞜社を興し、雑誌『青鞜』を発刊以後、編集と経営にあたります。その創刊の辞「元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――」は、「新しい女」の出現を主張し、今日に至る女権宣言となりました。1914年(大正3)には、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけています。1920年(大正9)に、市川房枝、奥むめおらと新婦人協会を発足させ、婦人参政権運動に取り組みました。1930年(昭和5)に高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加して『婦人戦線』に関与、また協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立しています。太平洋戦争後は、反戦・平和運動に力を注ぎ、1953年(昭和28)に日本婦人団体連合会会長、1962年(昭和37)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成しました。晩年まで、安保条約廃棄やベトナム反戦運動に関わりましたが、1971年(昭和46)5月24日に、東京において、85歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1312年(正和元)京極為兼が『玉葉和歌集』(二十一代集の14番目)を撰進する(新暦5月5日)詳細
1682年(天和2)連歌師・俳人・談林派の祖西山宗因の命日(新暦5月5日)詳細
1868年(慶応4)神祇官事務局達(いわゆる神仏判然令)が出される詳細
1929年(昭和4)「国宝保存法」が公布される詳細
1940年(昭和15)内務省がミス・ワカナ、ディック・ミネ、藤原釜足ら16人に改名を命令する詳細
1993年(平成5)東京都立の「東京都江戸東京博物館」が開館する詳細
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、「市町村義務教育国庫負担法」が公布(施行は同年4月1日)された日です。
 「市町村義務教育費国庫負担法」(しちょうそんぎむきょういくこっこふたんほう)は、市町村財政の負担軽減と教育の改善とを目的として、初めて、教員の俸給の一部を国が負担することを定めた法律(大正7年法律第18号)でした。大正時代になって、義務教育が普及しますが、第1次大戦後の地方財政の窮乏化と不均等化が進行します。
 その中で、教員給与の改善と市町村財政改善のため、 義務教育費の国庫負担を要求する建議案や請願があいついで、帝国議会に出されました。 そこで、1917年(大正6)に、内閣直属の臨時教育会議が設置され、小学校教員給与の国庫負担に関する答申が出されるに至ります。
 その結果、本法が成立し、1918年(大正7)3月27日に公布され、4月1日から施行されることになりました。これにより、 義務教育学校教員給与の一部を国が負担し(第一条)、 その金額は毎年1千万円を下らぬこととし(第二条)、 その半額は教員数、 半額は生徒数に比例して市町村に交付し(第三条)、 一部は財政力の弱い町村に特別交付する(第四条)とされます。
 この法律は、1940年(昭和15)に、「義務教育費国庫負担法」(昭和15年法律第22号)に受け継がれることとなりました。
 以下に、「市町村義務教育費国庫負担法」(大正7年法律第18号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「市町村義務教育費国庫負担法」(大正7年法律第18号)1918年(大正7)3月27日公布、4月1日施行

第一条 市町村立尋常小学校ノ正教員及准教員ノ俸給ニ要スル費用ノ一部ハ国庫之ヲ負担ス

第二条 前条ノ規定ニ依リ国庫ノ負担トシテ支出スヘキ金額ハ毎年度千万円ヲ下ラサルモノトス

第三条 国庫支出金ハ第四条ノ規定ニ依リ交付スル金額ヲ除キ其ノ半額ハ前年六月一日ニ於ケル市町村立尋常小学校ノ正教員及准教員ノ数ニ、他ノ半額ハ前年六月一日ニ於ケル市町村ノ就学児童数ニ比例シテ之ヲ市町村ニ交付ス

第四条 文部大臣ハ国庫支出金ノ十分ノーヲ超エサル範囲内ニ於テ資力薄弱ナル町村ニ対シ特ニ交付金額ヲ増加スルコトヲ得

第五条 本法ノ適用ニ付テハ市町村組合又ハ町村組合ハ之ヲ市町村ト看做ス市制又ハ町村制ヲ施行セサル地域ニ於ケル市町村ニ準スヘキ公共団体、其ノ組合又ハ小学校設置区域亦同シ
2 本法ノ適用ニ付テハ市町村立尋常高等小学校ニ於テ尋常小学校ノ教科ヲ授クヘキ部分ハ之ヲ市町村立尋常小学校ト看做ス

  附 則

本法ハ大正七年四月一日ヨリ施行ス

☆義務教育費国庫負担制度の沿革

・1896年(明治29) 「教員年功加俸国庫補助法」により、教員の俸給の一部を国庫補助とする
・1900年(明治33) 「市町村立小学校教育費国庫補助法」により、国庫補助を拡充、「改正小学校令」により、授業料徴収を廃止し、義務教育無償制を実現する
・1918年(大正7) 「市町村義務教育費国庫負担法」 により、市町村財政の負担軽減と教育の改善とを目的として、教員の俸給の一部を国が負担する
・1940年(昭和15) 「義務教育費国庫負担法」、「市町村立小学校教員俸給及び旅費の負担に関する件」(勅令)により、市町村財政力の不均衡拡大を背景に、定額負担制から実支出額の1/2国庫負担制になり、給与負担を市町村負担から道府県負担へ変更する
・1949年(昭和24) 「教育公務員特例法」、「市町村立学校職員給与負担法」により、給与費等の都道府県負担を制定する
・1950年(昭和25) 義務教育費国庫負担制度が廃止され、地方財政平衡交付金制度が創設され、これに吸収されねる(昭和24年シャウプ勧告)
・1953年(昭和28) 「義務教育国庫負担法」により、義務教育無償の原則に則り、「国民のすべてに対しその妥当な規模と内容とを保障する」ため、教職員の給与費等の実支出額の1/2国庫負担となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1689年(元禄2)松尾芭蕉が曾良と共に深川から『おくのほそ道』の旅に出発(新暦5月16日)詳細
1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1968年(昭和43)厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、カドミウム汚染の状況が明らかにされる詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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