ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年02月

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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、文芸評論家青野季吉の生まれた日です。
 青野季吉(あおの すえきち)は、新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれましたが、1894年(明治27)に母・ヒサ、1896年(明治29)に父・半五郎を亡くしました。新潟県立佐渡中学校、新潟県立高田師範学校第二部を経て、1910年(明治43)に早稲田大学文科予科一年に編入し、1912年(明治45)には、本科に進みます。
 1915年(大正4)に卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となったものの、1918年(大正7)に社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まり、1919年(大正8)に日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表後、読売新聞社を辞職しました。1921年(大正10)に市川正一、平林初之輔、佐野文夫らと「無産階級」を発刊、1922年(大正11)に評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出ます。
 1923年(大正12)に「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表、1924年(大正13)には、徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となり、プロレタリア文学理論の確立に努めました。1925年(大正14)に『無産政党と社会運動』、1926年(大正15)に最初の評論集『解放の芸術』、1927年(昭和2)に第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属します。
 1929年(昭和4)に第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行、1936年(昭和11)には、早稲田大学文学部講師となりましたが、1938年(昭和13)に第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙され、翌年に保釈出獄しました。戦争中の1941年(昭和16)に『文学の場所』、『文学の本願』、1942年(昭和17)に『回心の文学』、『文学の美徳』、1943年(昭和18)には、自伝『一つの石』を刊行しています。
 戦後の1946年(昭和21)に『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行、1948年(昭和23)に日本ペンクラブの副会長となり、1949年(昭和24)には、『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務めました。1950年(昭和25)に『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞、1951年(昭和26)に日本文藝家協会会長に就任、1952年(昭和27)には、「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となります。
 1954年(昭和29)に『現代文学論大系』の編集に従事し、1956年(昭和31)に中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となり、1958年(昭和33)には、回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞しました。1960年(昭和35)に早稲田大学文学部講師を定年退職したものの、1961年(昭和36)6月23日に、東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなっています。

〇青野季吉の主要な著作

・評論『心霊の滅亡』(1922年)
・『「調べた」芸術』(1925年)
・『自然生長と目的意識』(1926年)
・『解放の芸術』(1926年)
・評論集『解放の芸術』(1926年)
・評論集『転換期の文学』(1927年)
・評論集『マルクス主義文学闘争』(1929年)
・評論集『文芸と社会』(1936年)
・『現代文学論』(1950年)第1回読売文学賞の文芸評論賞受賞
・回想記『文学五十年』(1957年)毎日出版文化賞受賞

☆青野季吉関係略年表

・1890年(明治23)2月24日 新潟県佐渡郡沢根町(現在の佐渡市)において、酒造業、廻船問屋を営む地主であった父・青野半五郎と母・ヒサの長男として生まれる
・1894年(明治27) 母・ヒサが亡くなる
・1896年(明治29) 沢根町尋常小学校に入学するが、父・半五郎が亡くなる
・1902年(明治35) 新潟県立佐渡中学校へ入学する
・1907年(明治40) 新潟県立佐渡中学校を卒業して上京する
・1908年(明治41) 脚気のため帰郷し、新潟県立高田師範学校第二部へ入学する
・1909年(明治42) 新潟県立高田師範学校第二部を卒業し、神原郡袋津小学校に勤務する
・1910年(明治43) 早稲田大学文科予科一年に編入する
・1912年(明治45) 早稲田大学文科本科に進む
・1915年(大正4) 早稲田大学文科英文科卒業後、読売新聞社入社し、社会部記者となる
・1918年(大正7) 社内上層部のシベリア出兵論に反対し対立が深まる
・1919年(大正8) 日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表、読売新聞社を辞職する
・1921年(大正10) 市川正一、平林初之輔、佐野文男らと「無産階級」を発刊する
・1922年(大正11) 評論『心霊の滅亡』を「新潮」に発表して評論家として世に出る
・1923年(大正12) 「種まく人」の同人となり、『階級闘争と芸術運動』を発表する
・1924年(大正13) 徳田球一とともに上海に渡り、帰国後「文芸戦線」の同人となる
・1925年(大正14) 『無産政党と社会運動』を刊行する
・1926年(大正15) 最初の評論集『解放の芸術』を刊行する
・1927年(昭和2) 第二評論集『転換期の文学』を刊行、プロレタリア文学団体の分裂の際に労農芸術家連盟(労芸)に所属する
・1929年(昭和4) 第三評論集『マルクス主義文学闘争』を刊行する
・1936年(昭和11) 早稲田大学文学部講師となる
・1938年(昭和13) 第二次人民戦線事件において、「治安維持法」違反で検挙される
・1939年(昭和14) 保釈出獄する 
・1941年(昭和16) 『文学の場所』、『文学の本願』を刊行する
・1942年(昭和17) 『回心の文学』、『文学の美徳』を刊行する
・1943年(昭和18) 自伝『一つの石』を刊行する
・1946年(昭和21) 『文学と人間』、『芸術の園』などを刊行する
・1948年(昭和23) 日本ペンクラブの副会長となる
・1949年(昭和24) 『日本現代小説体系』の編集に参加、発足したばかりの国語審議会の委員を務める
・1950年(昭和25) 『現代文学論』で第1回読売文学賞の文芸評論賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本文藝家協会会長に就任する
・1952年(昭和27) 「社会タイムス」発刊に際し、社長兼編集局長となる
・1954年(昭和29) 『現代文学論大系』の編集に従う
・1956年(昭和31) 中国に招かれて旅行、日本芸術院会員となる
・1958年(昭和33) 回想記『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 早稲田大学文学部講師を定年退職する
・1961年(昭和36)6月23日 東京の慶應義塾大学病院において、胃癌のため、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1901年(明治34)奥村五百子らによって愛国婦人会が創立される詳細
1906年(明治39)日本社会党[明治期]が結成され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する詳細
1933年(昭和8)国際連盟総会のリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、連盟脱退宣言をする詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、平安時代後期の1167年(仁安2)に、平清盛が厳島神社に参詣し、『平家納経』の一部とされる、自ら書写した『般若心経』1巻を奉納した日ですが、新暦では3月16日となります。
 『平家納経』(へいけのうきょう)は、平清盛が平家一門の繁栄を祈願して、安芸国の厳島神社に奉納した装飾経(装飾した写経)でした。1164年(長寛2年9月)の供養願文を持ち、『法華経』 28品、開経『無量義経』、結経『観普賢経』、さらに『阿弥陀経』、『般若心経』各1巻の32巻に願文を合せた、計33巻から成っています。
 平家の繁栄を祈り一族32人が一品一巻を分担して写経・製作したもので、各巻意匠を異にし、当代工芸技術の粋を集めていて、1167年(仁安2)には、全てが完成し、厳島神社への奉納が完了しました。平安時代に流行した装飾経の最高峰をなすものであり、大和絵の史料としても貴重であるとされています。
 1897年(明治30)に旧国宝指定され、1954年(昭和29)には、付属の経箱、経箱を納める唐櫃(からびつ)と共に、「平家納経 一具」として国宝に指定されました。

〇平清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

☆『平家納経』関係略年表

・1164年(長寛2年9月) 厳島神社に一部が奉納される
・1167年(仁安2年) 全てが完成し、厳島神社への奉納が完了する
・1602年(慶長7年) 福島正則が願主となって修理が行われる
・1648年(慶安元年) 浅野長晟が『平家納経』を重修(唐櫃蓋裏銘)する
・1882年(明治15年)10月 第1回内国絵画共進会にて、出展目録「廣島縣下安芸國 嚴島神社出品」に「古寫經及ヒ願文 丗三巻」名義で出品され、この機会に帝室学芸員の手で2年をかけて模写される
・1897年(明治30年)12月28日 旧国宝指定される
・1920年(大正9年)4月18日 大師会にて、厳島神社の高山昇宮司が高橋義雄と益田孝に『平家納経』副本制作を訴え、大倉喜八郎らがその場で協力を約束する
・1925年(大正14年) 田中親美が5年半をかけて副本2組を完成させ、1組を奉納、1組をさらなる副本制作の見本とする
・1954年(昭和29年)3月20日 法華経等33巻、金銀荘雲龍文銅製経箱、蔦蒔絵唐櫃が「平家納経 一具」として国宝に指定される
・1959年(昭和34年) 『薬草喩品』の表紙と見返しが安田靫彦による彩絵(だみえ)に改められる
・1985年(昭和60年) 松井正光らによる装飾金具の修復が始まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1576年(天正4)織田信長が岐阜から近江の安土城へ移る(新暦3月23日)詳細
1784年(天明4)筑前志賀島の百姓甚兵衛により、「漢倭奴國王」の金印発見される(新暦4月12日)詳細
1904年(明治37)「日韓議定書」に調印する詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)目指し、翼賛政治体制協議会が結成される詳細
1943年(昭和18)陸軍省が「撃ちてし止まむ」の戦時標語ポスター5万枚を全国に配布する詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争下の言論弾圧(竹槍事件)の原因となる、「毎日新聞」朝刊の戦局解説記事が掲載される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、「緊急国民勤労動員方策要綱」に基き、国民登録が始まった日です。
 「緊急国民勤労動員方策要綱」(きんきゅうこくみんきんろうどういんほうさくようこう)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)1月17日に、東条英機内閣によって閣議決定されました。太平洋戦争の戦局が厳しくなり、銃後の労働力不足が深刻となる中で、国民を戦争のための生産に駆り立てるものです。これは、「国民勤労総力ノ最高度ノ発揚ヲ目途トシ国民勤労配置ノ適正化其ノ他国民勤労能率ノ飛躍的向上ヲ図ルト共ニ軍動員ト緊密ナル連繋ヲ保持シツツ国家ノ動員所要数ヲ充足為綜合的且計画的国民勤労動員ヲ強力ニ実施スル」(第一 方針)ために、①国民登録制度の確立、②国民徴用運営の確立、③学校在学者の勤労動員、④女子の勤労動員、⑤勤労給源の確保、⑥勤労配置の適正、⑦勤労能率の増進、⑧行政の刷新、⑨国民運動の展開を求めたものでした。
 翌日には、「緊急学徒勤労動員方策要綱」も閣議決定され、学徒勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられます。そして、同年2月22日から国民登録が始まりましたが、これまで技能者登録と青壮年国民登録に分かれていた国民登録を一元化し、その拡充整備をはかったものでした。
 以下に、「緊急国民勤労動員方策要綱」を全文掲載しておきますからご参照下さい。

〇「緊急国民勤労動員方策要綱」 (全文)  1944年(昭和19)1月17日閣議決定

緊急国民勤労動員方策要綱 

第一 方針

国民勤労総力ノ最高度ノ発揚ヲ目途トシ国民勤労配置ノ適正化其ノ他国民勤労能率ノ飛躍的向上ヲ図ルト共ニ軍動員ト緊密ナル連繋ヲ保持シツツ国家ノ動員所要数ヲ充足スル為総合的且計画的国民勤労動員ヲ強力ニ実施スルニ付左ノ方途ヲ講ズルモノトス
尚昭和十九年度国民動員計画ノ策案ニ際シ更ニ必要ナル方途ヲ講ズルコトアルモノトス

第二 要領

一 国民登録制度ノ確立
現行青壮年登録及技能者登録ノ制度ヲ統合スルト共ニ登録ノ範囲ヲ拡大シ一元的普遍的ナル国民登録制度ヲ確立スルコト
二 国民徴用運営ノ改善
国民徴用ノ実施範囲ノ拡大ニ伴ヒ
(一)現行ノ居住地主義的徴用制度ノ外職域徴用制度ヲ創設スルコト
(二)被徴用者ノ身上、従事スベキ総動員業務ノ種類等ニ応ジ徴用期間及徴用ノ解除方法ニ付弾力的運用ヲ更ニ強化スルコト
(三)被徴用者ノ援護ニ関スル措置ヲ強化スルコト
備考
徴用ノ国家性ヲ更ニ鮮明ニシ、徴用ニ関シ信賞必罰ヲ励行スル等ノコトニ関シ根本的ナル方策ノ樹立ニ付別途至急立案スルモノトスルコト

三 学校在学者ノ勤労動員
学校在学者ノ勤労動員ヲ一層積極的ナラシムルモノトシ之ガ為講スベキ措置ニ付テハ別ニ之ヲ定ムルコト

四 女子ノ勤労動員
我国ノ家族制度並ニ女子ノ特性ト民族力強化ノ必要トヲ勘案シツツ女子ノ勤労動員ヲ促進拡大スルモノトスルコト
之ガ為
(一)既定ノ諸方策ヲ更ニ強化推進スルコト
(二)挺身隊制度ノ運用ヲ強化スルト共ニ、極力家庭ヨリノ通勤制ヲ採リ且学校別、地域別ニ責任者ヲ設ケ之ヲ統率セシムル等之ガ改善整備ニ努ムルコト、尚要スレバ之ガ組織、運営、隊員ノ紀律、処遇等ニ付法的措置ヲ講ズルコト
(三)各産業別、工場事業場別等ニ付女子使用目標率ヲ明示シ女子使用ノ範囲ヲ拡大スルコト
(四)男子ノ就業制限ニ伴フ女子ニ依ル補充ハ産業ノ緊要度ニ応ジ重点的計画的ニ之ヲ為スコト
(五)在家庭女子ノ勤労力ノ活用ニ付有効ナル措置ヲ講ズルコト
備考
女子ノ勤労管理ハ特ニ現在尚極メテ不備ナルノ実情ニ顧ミ之ニ関スル具体的方途ノ徹底励行ニ付別途特段ノ措置ヲ講ズルコト

五 勤労給源ノ確保
(一)存続セシムルモノトシテ決定シタル以外ノ各種学校ニ在学スル者ニ対シテハ之ヲ積極的ニ勤労ヘ動員スルコト
(二)勤労給源ノ供出ヲ目途トスル企業整備ノ強力且計画的ナル遂行ヲ為スコト
(三)男子ノ就業制限ノ範囲ヲ更ニ拡充スルコト
(四)現行勤労配置規制ノ年齢範囲ヲ引上グルコト
(五)要員充足困難ナル緊要産業部門ニ付テハ勤労者ノ充足ニ関スル現行制度ノ制限ヲ緩和又ハ撤廃スルコト
(六)朝鮮人勤労者ノ内地集団移入ヲ強化スルコト
(七)華人勤労者ノ内地移入ノ本格化ヲ図ルコト
(八)在監者ノ活用並ニ俘虜ノ利用ヲ拡充スルコト
備考
一 広ク国民ノ職業ノ自由転換ヲ規制スルコトニ関シ別途攻究ヲ進ムルコト
二 青少年ニ対シ包括的ニ一定期間勤労ニ服スル義務ヲ課スルコトニ付テモ至急研究ヲ為スモノトスルコト

六 勤労配置ノ適正
(一)地方長官ヲシテ国民動員計画ニ基キ都道府県別需給計画ヲ設定セシメ之ニ依リ適時的確ナル要員ノ充足ヲ図ラシムルコト
都道府県間ノ調整ハ原則トシテ地方行政協議会長ヲシテ之ニ当ラシムルコト
(二)農、工、鉱、運輸其ノ他ノ緊急産業ニ付適正ナル勤労配置ヲ確保スル為計画的且一元的ニ勤労配置ヲ強力ニ調整スルノ措置ヲ講ズルコト
(三)勤労者ノ需要ハ極力地元ニ於テ充足スルノ方針ヲ採ルト共ニ現ニ工場事業場ニ就業スル者ニ付テモ之ガ地域的配置転換ニ関シ強力ナル措置ヲ講ズルコト
(四)企業系列ノ調整強化ニ即応シ親工場ト協力工場トヲ一体トセル勤労配置態勢ヲ確立スルコト
(五)軽易ナル作業ニ従事スル男子勤労者ハ之ヲ重筋作業部門ニ転換セシメ男女勤労配置ノ再編整備ヲ断行スルコト
(六)技術者及熟練労務者ノ全面的活用ヲ図ル為現場還元、配置転換及適正配置ヲ図ルコト
(七)中等及専門程度以上ノ学校卒業者ニ対シテハ職場ニ於ケル特別ノ養成等ノ方途ヲ講ジ努メテ現場幹部工員又ハ職員タラシムル如ク措置スルコト
(八)常備勤労報国隊ヲ更ニ整備シ常時待機態勢ヲ確立シ其ノ出動ノ迅速且的確化ヲ図ルコト
備考
生産等ノ量及質ニ対応スル所要勤労ノ量及質ヲ明確ニシ各工場事業場ニ付生産等ノ計画ニ真ニ適合セル勤労要員ノ配置ヲ図ル為勤労定員制ノ確立等所要ノ措置ヲ急速ニ攻究スルモノトスルコト

七 勤労能率ノ増進
勤労管理ノ刷新、勤労精神ノ昂揚、勤労者ノ援護ノ拡充、勤労者ノ規律ノ確立、勤労者ノ保健、作業能率ノ増進、勤労者用住宅及物資ノ確保等ヲ重点トシ勤労能率ノ増進ニ付別途具体的措置ヲ定ムルモノトスルコト
尚朝鮮人及華人労務者ノ勤労管理ノ刷新強化ニ付テハ特ニ格段ノ措置ヲ講ズルコト
備考
一 六及七ニ関シ速ニ行政査察ヲ行フコト
二 勤労者ノ給与制度ノ根本的合理化ニ関シテハ至急研究ヲ進ムルモノトスルコト

八 行政ノ刷新
勤労動員業務ノ拡大強化ニ伴ヒ動員行政機能及機構ノ刷新ヲ図ルコト

九 国民運動ノ展開
(一)運動ノ主体ハ大政翼賛会トシ関係各省及関係団体之ニ協力スルモノトスルコト
(二)運動ノ重点ヲ皇国勤労観ノ徹底、国民動員ノ促進及勤労能率ノ発揚ニ置クコト

  「内閣制度百年史 下」内閣制度百年史編纂委員会偏より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

622年(推古天皇30)政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日(新暦4月8日)詳細
1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1585年(天正13)天正遣欧使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する(新暦3月23日)詳細
1875年(明治8)板垣退助が大阪で自由民権運動の政治団体「愛国社」を創設する詳細
1967年(昭和42)歌人で大正三美人の1人とされる柳原白蓮の命日詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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 今日は、平成時代の1990年(平成2)に、新交通システムである神戸新交通六甲アイランド線[通称:六甲ライナー]が開業した日です。
 神戸新交通(こうべしんこうつう)は、1977年(昭和52)7月18日に、兵庫県神戸市で新交通システムを営むために、神戸市などの出資による第三セクター方式の鉄道事業者として設立されました。神戸市が、1976年(昭和51)度に策定した「新・神戸市総合基本計画」の中で、市民交通機関の体系は、鉄道を大動脈、バスを毛細血管、新交通システムはそのギャップを埋める、いわば中動脈の役割を果たすものと位置づけられ、建設方式は、インフラ部(下部構造)は公共事業(道路)として神戸市が建設し、神戸新交通は運輸事業に必要な車両・電気・通信・信号・駅設備など、インフラ外部の建設および運行・経営を担当するとされます。
 それによって、建設が進められ、1981年(昭和56)2月5日に恒久的輸送機関として初めての新交通システムとなる自動案内軌条式旅客輸送システム (AGT) 路線として、兵庫県神戸市の三宮駅~中公園駅に至るポートアイランド線[通称:ポートライナー]が開業し、博覧会ポートピア'81の会場への足として活躍しました。1990年(平成2年)2月21日には、六甲アイランド線[通称六甲ライナー](神戸市の住吉駅~六甲アイランドのマリンパーク駅間4.5km・6駅)が開業、さらに、2006年(平成18)2月2日にポートアイランド線が神戸空港駅まで延伸開通し、空港へのアクセスルートともなります。この路線からは、瀬戸内海が見渡せ、眺望が良いのが特徴とさてきました。

〇神戸新交通関係略年表

・1977年(昭和52)7月18日 神戸新交通が第三セクター方式の鉄道事業者として設立される
・1978年(昭和53)5月26日 ポートアイランド線の起工式が行われる
・1995年(平成7)1月17日 阪神・淡路大震災により全線不通となる
・1981年(昭和56)2月5日 ポートアイランド線(三宮駅~中公園駅)が開業、日本初の実用的な新交通システムおよび世界初の自動無人運転方式となる
・1986年(昭和61)9月2日 六甲アイランド線の建設工事が着手される
・1990年(平成2)2月21日 六甲アイランド線(住吉駅~リンパーク駅)が開業する
・2006年(平成18)2月2日 ポートアイランド線が神戸空港まで複線化・延伸開業(市民広場駅~神戸空港駅)し、運賃を均一制から対キロ区間制に変更する
・2014年(平成26)3月1日 交通系ICカード全国相互利用サービスへの対応を開始する
・2017年(平成29)4月15日 IC乗車カード「ICOCA」の発売を開始する

〇新交通システムとは?

 1960年代以降の高度経済成長の中で、モータリゼーションの進展により、都市部において自動車交通の著しい渋滞や騒音、大気汚染の問題等に対応するために研究・開発された新しい交通システムのことです。広義には、モノレール、エアクッション艇、動く歩道、リニアモータカー、磁気浮上鉄道などを含みますが、狭義には、省エネルギー、経費節減をはかりつつ、快適で機動性のあるサービスを提供する目的で開発された都市型交通機関の組合せとされてきました。
 遊園地の遊戯施設としてですが、京成電鉄沿線の谷津遊園内で、1972年(昭和47)に走ったのが最初で(1982年谷津遊園廃止に伴い廃止)、その後、1975年(昭和50)に沖縄で開催された国際海洋博覧会で、開催期間中限定で、乗客輸送を行いました。恒久的輸送機関としての最初は、1981年(昭和56)2月5日に開業した、神戸新交通ポートアイランド線となります。
 その定義は、「都市モノレールの整備促進に関する法律」2条及び3条に基づき定められている都市モノレールに準じ、①「桁上に設置された走行路(床版)の上を、車両が案内レールに従って走行するシステムで、人又は貨物を運送する施設であるこ、②一般交通の用に供するものであること、③軌道桁は主として道路法による道路に架設されるものであること、④その路線の大部分が都市計画区域内に存するものであること、とされてきました。

☆現在の日本の新交通システム一覧

・埼玉新都市交通伊奈線[愛称:ニューシャトル](埼玉県さいたま市の大宮駅~伊奈町の内宿駅間12.7km・13駅)
・日暮里・舎人ライナー(東京都荒川区の日暮里駅~足立区の見沼代親水公園駅間9.7Km・13駅)
・東京臨海高速鉄道臨海線ゆりかもめ(東京都港区の新橋駅科~江東区の豊洲駅間14.7km・16駅)
・横浜新都市交通金沢シーサイド線(神奈川県横浜市磯子区の新杉田駅~金沢区の金沢八景駅間10.6km・14駅)
・西武山口線[通称:レオライナー](東京都東村山市の西武遊園地駅~埼玉県所沢市の西武球場前駅間2.8Km・3駅)
・ユーカリが丘線(千葉県佐倉市のユーカリが丘駅を起点とした4.1Km・6駅)
・愛知高速交通東部丘陵線[通称:リニモ](愛知県名古屋市の藤が丘駅~愛知県豊田市の八草駅間8.9km・9駅)
・大阪市中量軌道南港ポートタウン線[通称:ニュートラム](大阪府大阪市のコスモスクエア駅~住之江公園駅間7.9km・10駅)
・神戸新交通ポートアイランド線[通称:ポートライナー](三宮駅~神戸空港駅と途中から分岐して北埠頭駅を経て中公園駅に至る2路線10.8km・12駅)
・神戸新交通六甲アイランド線[通称:六甲ライナー](兵庫県神戸市の住吉駅~六甲アイランドのマリンパーク駅間4.5km・6駅)
・広島高速交通広島新交通1号線[通称:アストラムライン](広島県広島市の本通駅~広域公園前駅間18.4km・21駅)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

799年(延暦18)奈良時代から平安時代初期の貴族和気清麻呂の命日(新暦4月4日)詳細
1800年(寛政12)第120代の天皇とされる仁孝天皇の誕生日(新暦3月16日)詳細
1911年(明治44)関税自主権を完全に回復するように改正された「日米通商航海条約」が調印(4月4日公布)される詳細
1942年(昭和17)「食糧管理法」公布される詳細
1951年(昭和26)東ドイツの東ベルリンで世界平和評議会第1回総会が始まる詳細
1988年(昭和63)内科学者・第10代東北大学学長黒川利雄の命日詳細
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nakanoyoshio01
 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、評論家・英文学者・平和運動家中野好夫が亡くなった日です。
 中野好夫(なかの よしお)は、明治時代後期の1903年(明治36)8月2日に、愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれましたが、翌年に父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居しました。旧制徳島県立徳島中学校、旧制第三高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、千葉県成田町成田中学校の英語教師となりましたが、胸の疾患で入院して退職、1928年(昭和3)には、東京都郁文館中学に英語教師として再び就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をしました。1929年(昭和4)に東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務め、1931年(昭和6)にルーカスの『批評論』を翻訳刊行、1934年(昭和9)には、『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となります。
 1935年(昭和10)に東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となり、1940年(昭和15)に評伝『アラビアのロレンス』、1943年(昭和18)に『文学評論集』を刊行しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に『反省と出発』、1947年(昭和22)に『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行し、1948年(昭和23)には、東京大学文学部教授となります。
 1949年(昭和24)に「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、1950年(昭和25)には、日本英米文学会の会長(~1952年)となりました。1953年(昭和28)に東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤め、1954年(昭和29)には、渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ねます。
 1958年(昭和33)に東京女子大学講師を辞め、、1960年(昭和35)に沖縄資料センターを東京に設立、1961年(昭和36)には、『最後の沖縄県知事』を刊行し、1964年(昭和39)には、中央大学文学部教授(~1968年)となりました。1965年(昭和40)に『私の憲法勉強』を刊行、1967年(昭和42)には、日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞しています。
 1968年(昭和43)に『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行、1969年(昭和44)に『戦後資料沖縄』を編纂して刊行、1970年(昭和45)には、「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受けました。1971年(昭和46)に東京女子大学大学院講師となり、1974年(昭和49)には、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞しています。
 1978年(昭和53)に第14回琉球新報賞受賞を受賞、1983年(昭和58)には、「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞しました。その他に、憲法擁護や第五福竜丸の保存運動、原水禁運動の統一などに力を尽くしてきましたが、1985年(昭和60)2月20日に、東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなっています。

〇中野好夫の主要な著作

・翻訳『雨』サマセット・モーム作(1940年) 
・翻訳『ガリヴァ旅行記』ジョナサン・スウィフト作(1940年) 
・『文学試論集』全三冊(1942~52年)
・『エリザベス朝演劇講話』(1947年)
・翻訳『ベニスの商人』シェークスピア作(1948年)
・『人間の名において』(1954年)
・『ぼらのへそ』(1958年)
・評伝『アラビアのロレンス』(1963年)
・『シェイクスピアの面白さ』(1967年)第21回毎日出版文化賞受賞
・『スウィフト考』(1969年)
・『人間の死にかた』(1969年)
・『蘆花徳冨健次郎(ろかとくとみけんじろう)』全三部(1972~74年)第1回大仏次郎賞受賞
・翻訳『ローマ帝国滅亡史』ギボン作(1976~85年)未完

☆中野好夫関係略年表

・1903年(明治36)8月2日 愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれる
・1904年(明治37) 父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居する
・1910年(明治43) 徳島市立寺島尋常小学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制徳島県立徳島中学校へ入学する
・1920年(大正9) 旧制徳島中学校4年修了で、京都に出て旧制第三高等学校文科甲類に入学する
・1923年(大正12) 東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部英文科を卒業し、千葉県成田町成田中学校の英語教師となるが、胸の疾患で入院する
・1928年(昭和3) 東京都郁文館中学に英語教師として就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をする
・1929年(昭和4) 東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務める
・1930年(昭和5) 土井晩翠の娘・信と結婚する
・1931年(昭和6) ルーカスの『批評論』を翻訳刊行する
・1934年(昭和9) 『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となる
・1935年(昭和10) 東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となる
・1939年(昭和14) 「知識人のある傾向について」を「思想」に発表する
・1940年(昭和15) 評伝『アラビアのロレンス』を刊行、妻・信が亡くなる
・1942年(昭和17) 中村勝麻呂の娘・静と再婚する
・1943年(昭和18) 『文学評論集』を刊行する
・1946年(昭和21) 『反省と出発』を刊行する
・1947年(昭和22) 『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行する
・1948年(昭和23) 東京大学文学部教授となり、『怒りの花束』、『英米文学論』を刊行する
・1949年(昭和24) 「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、『南極のスコット』を刊行する
・1950年(昭和25) 日本英米文学会の会長(~1952年)となる
・1951年(昭和26) 『良識と寛容』を刊行する
・1952年(昭和27) 『私の平和論』を刊行する
・1953年(昭和28) 東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤める
・1954年(昭和29) 渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ね、『人間の名において』を刊行する
・1956年(昭和31) 『私の消極哲学』を刊行する
・1957年(昭和32) バーチェット『十七度線の北』を翻訳刊行、『平和と良識』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京女子大学講師を辞め、『ぼらのへそ』を刊行する
・1960年(昭和35) 沖縄資料センターを東京に設立する
・1961年(昭和36) 『最後の沖縄県知事』を刊行する
・1964年(昭和39) 中央大学文学部教授(~1968年)となる
・1965年(昭和40) 『私の憲法勉強』を刊行する
・1967年(昭和42) 日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞する
・1968年(昭和43) 『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行する
・1969年(昭和44) 『戦後資料沖縄』を編纂して刊行する
・1970年(昭和45) 「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受け、新崎盛暉と共著で『沖縄・70年前後』を刊行する
・1971年(昭和46) 東京女子大学大学院講師となる
・1972年(昭和47) 『沖縄と私』、『蘆花徳富健次郎 第一部・第二部』を刊行する
・1973年(昭和48) 『忘れえぬ日本人』を刊行する
・1974年(昭和49) 『蘆花徳富健次郎 第三部』を刊行、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1976年(昭和51) 『沖縄戦後史』、『風雨前後』を刊行、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅰを翻訳刊行する
・1978年(昭和53) 第14回琉球新報賞受賞を受賞、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅱを翻訳刊行する
・1981年(昭和56) ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅲを翻訳刊行する
・1983年(昭和58) 「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞する
・1985年(昭和60)2月20日 東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなる

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