ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年02月

Lyttonchyousadan01
 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、日中問題の調査の為、国際連盟のリットン調査団が来日した日です。
 リットン調査団(りっとんちょうさだん)は、満州事変に関する国際連盟現地調査委員会のことで、国際連盟がイギリスのリットン卿を団長とし、満州(今の中国東北区)・中国に送った調査団でした。イギリスのほかにフランス、ドイツ、イタリア、国際連盟非加盟国のアメリカの5ヶ国の委員によって構成され、東京や満州、北平などの中国各地で現地調査を行います。
 2月29日に東京に着き、日本政府、軍部、実業界などの代表者と接触ののち、中国へ向かい、3月13日に上海に着き、その後、1ヶ月にわたり上海、南京、漢口、北京などを視察し、4月19日満州へ向かいました。10月に理事会に報告書(リットン報告書)を提出し、10月1日に日本政府に報告書を通達し、10月2日には、外務省が公表しています。

〇リツトン報告書(りっとんほうこくしょ)とは?

 昭和時代前期の1932年(昭和7)10月2日に公表された、満州事変について国際連盟が派遣した調査委員会(リットン調査団)の報告書です。1931年(昭和6)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道爆破事件を端緒に満州事変が起きましたが、日本は国際連盟で不拡大を言明したものの、同年10月8日関東軍の錦州爆撃、11月の遼西進攻作戦などにより、国際連盟は日本に対する不信を強めました。
 その中で孤立に陥った日本は国際連盟事務総長ドラモントJ.E.Drummondのすすめで、現地への調査委員会派遣を提案し、12月10日の理事会でこれが可決されます。翌年1月に委員長にリットンV.A.G.R.Lytton(イギリス)、委員にマッコイF.R.McCoy(アメリカ)、クローデルH.Claudel(フランス)、シュネーH.Schnee(ドイツ)、アルドロバンディL.Aldrovandi(イタリア)が任命され、米・仏・独・伊各国委員計5名の調査団が編成されました。
 そして、2月の来日後、3~4月に中国、4~6月に満州を調査し、10月2日に報告書が公表されます。この中で、満州(現在の中国東北部)における日本の軍事行動を侵略とみなし、中国の主権を認めながら、日本の特殊権益をも認める妥協的結論を示し、日中間に新条約締結を勧告しました。
 しかし、すでに満州国を承認していた日本はこれを全く受け付けなかったものの、国際連盟は1933年(昭和8)3月24日の総会で42対1(反対は日本のみ)で報告書を採択します。日本はこれを不満として、松岡洋右全権以下の日本代表団は総会から退場し、次いで同年3月27日に日本国政府は連盟事務局に脱退の通告を行うとともに、同日脱退の声明を発表するに至りました。
 以後日本は、国際社会から孤立化することとなり、やがてドイツ・イタリアと提携の道を歩むことになります。

☆リットン報告書 (抄文)  1932年(昭和7)10月2日発表

リットン報告書 

緖論

 第一章 支那ニ於ケル近時ノ發展ノ概要
 第二章 滿洲
 第三章 日支兩國間ノ滿洲ニ關スル諸問題
 第四章 一九三一年九月十八日當日及其後ニ於ケル滿洲ニ於テ發生セル事件ノ概要
 第五章 上海
 第六章 「滿洲國」
 第七章 日本ノ經濟的利益及支那ノ「ボイコット」
 第八章 滿洲ニ於ケル經濟上ノ利益(以上略)
 第九章 解決ノ原則及條件
 第十章 理事會ニ對スル考察及提議

{第一章から第八章は省略}

第九章 解決ノ原則及條件

前各章ノ再檢討 本報吿ノ前各章ニ於テ日支間ノ諸懸案ハ夫レ自體ニ於テ仲裁的方法ニ依リ解決シ得サリシニ非サリシモ之等諸懸案特ニ滿洲問題ニ關スル懸案ヲ日支政府ニ於テ取扱ヒタル結果ハ兩國關係ヲ甚シク惡化セシメ早晩衝突ノ免レ難キモノタリシコトヲ明カニセリ。支那カ過渡時期ニ必然伴ハルヘキ有ラユル政治的紛糾、社會的混亂及分裂的傾向ヲ有スル發達途上ニアル國家ナルコトニ付テモ略述セリ。又日本ノ要求スル權利及利益カ支那中央政府ノ無力ナル爲如何ニ甚タシク影響ヲ受ケタルカ又日本カ滿洲ヲ支那ノ他ノ部分ニ於ケル政府ヨリ引離シ置クコトヲ如何ニ切望シ來レルカヲモ述ヘタリ。尙支那、露國及日本政府ノ滿洲ニ於ケル政策ヲ簡單ニ吟味シタル結果滿洲各省政權ハ其ノ統治者ニ依リ一再ナラス支那中央政府ヨリ獨立セルコトヲ聲明セラレタルモ而モ支那人カ絕對多數ヲ占ムル之等各省人民ハ未タ曾テ支那ノ他ノ部分ヨリ分離スルヲ欲スル旨表明シタルコトナキコトヲモ明カニセリ。最後ニ吾人ハ九月十八日及其ノ以後ニ起レル事態ヲ注意深ク且十分ニ檢討シ之ニ對スル吾人ノ意見ヲ表明セリ。
問題ノ複雜性 今ヤ吾人ハ將來ニ注意ヲ集中スル時期ニ達シタルヲ以テ本章ノ考察ヲ最後トシ此上過去ニハ言及セサルヘシ。前揭各章ノ讀者ニトリテハ本件紛爭ニ包含セラルル諸問題ハ往々稱セラルルカ如ク簡單ナルモノニ非サルコト正ニ明カナルヘシ。卽チ問題ハ寧ロ極度ニ複雜ナルヲ以テ一切ノ事實及其ノ歷史的背景ニ關シ十分ナル知識アルモノノミ之ニ關スル決定的意見ヲ表明スル資格アリトイフヘシ。本紛爭ハ一國カ國際聯盟規約ノ提供スル調停ノ機會ヲ豫メ十分ニ利用シ盡スコトナクシテ他ノ一國ニ宣戰ヲ布吿セルカ如キ事件ニアラス。又一國ノ國境カ隣接國ノ武裝軍隊ニ依リ侵略セラレタルカ如キ簡單ナル事件ニモ非ス。何トナレハ滿洲ニ於テハ世界ノ他ノ部分ニ於テ正確ナル類例ノ存セサル幾多ノ特殊事態アルヲ以テナリ。
本紛爭ハ双方トモ聯盟ノ一員タル二國間ニ於テ佛蘭西ト獨逸トヲ合シタル面積アル地域ニ關シ發生セルモノニシテ右地域ニ關シテハ日支双方ニ於テ各々諸種ノ權益ヲ有スルゴトヲ主張シ而モ此等權益ハ其ノ一部ノミ國際法ニ依リ明瞭ニ定義セラレ居レリ。右地域ハ法律的ニハ完全ニ支那ノ一部分ナルモ其ノ地方政權ハ本紛爭ノ根底ヲナス事項ニ關シ日本ト直接交涉ヲナス程度ノ廣汎ナル自治的性質ノモノナリキ。
満洲ノ事態ハ他ニ類例ナシ 日本ハ海岸ヨリ滿洲ノ中心ニ達スル鐵道及一地帶ヲ支配シ且該財產保護ノ爲約一萬ノ兵力ヲ維持シ且必要ノ場合ニハ條約上之ヲ一萬五千ニ增加スル權利アリト主張ス。又日本ハ總テノ在滿日本人ニ對シ法權ヲ行使シ且滿洲全土ニ亙リ領事館警察ヲ維持ス。
解釋ノ多岐性 問題ヲ討議スルモノハヨク敍上ノ事實ヲ考慮セサルヘカラス。宣戰ヲ布吿スルコトナクシテ疑モナク支那ノ領土タル廣大ナル地域カ日本軍隊ニ依リ强力ヲ以テ押收、占領セラレ且右行動ノ結果トシテ該地域カ支那ノ他ノ部分ヨリ分離セラレ獨立ヲ宣言スルニ至レルハ事實ナリ。日本ハ右事實完了ニ至ラシメタル手段ハコノ種行動ノ防止ヲ目的トスル國際聯盟規約、不戰條約及華府九國條約ノ義務ニ合致スルモノナリト主張ス。更ニ本問題ニ付初メテ聯盟ノ注意カ喚起セラレタル際漸ク開始セラレタル行動ハ其ノ後數ケ月間ニ完結セラレ且日本ハ右行動ヲ以テ九月三十日及十二月十日壽府ニ於テ其ノ代表ノ與ヘタル保障ト合致スルモノナリト主張ス。日本ノ説明ニ依レハ其ノ一切ノ軍事行動ハ正當ナル自衞行爲ニシテ右權利ハ敍上ノ多邊的條約中ニ包含セラレ又國際聯盟理事會ノ何レノ決議ニ於テモ奪ハレタルコトナシトナス。將又東三省ニ於テ支那ノ舊政權ニ代レル新政權ハ其ノ成立カ地方人民ノ行爲ニシテ彼等ハ自發的ニ其ノ獨立ヲ宣言シ支那トノ一切ノ關係ヲ絕チ自己ノ政府ヲ樹立シタルモノナルヲ以テ正當視セラルルモノナリトナセリ。尙日本ノ主張ニ依レハ斯クノ如キ眞正ナル獨立運動ハ如何ナル國際條約若ハ國際聯盟理事會ノ決議ニ依リテモ禁セラレス、且斯ル運動ノ旣ニ行レタリト云フ事實ハ九國條約ノ適用ヲ著シク改變シ聯盟ニ依リ調査セラレツツアル問題ノ全性質ヲ根本的ニ變更セルモノナリトナセリ。
本紛爭ヲ特ニ複雜化且重大化スルモノハ敍上ノ如キ合法性ニ關スル主張ナリ。本件ニ付論議スルコトハ本委員會ノ機能ニ非サルモ本委員會ハ聯盟ヲシテ紛爭國ノ名譽、威嚴及國家的利益ヲ損セスシテ紛爭ヲ解決セシメムカ爲十分ナル材料ヲ供給スルコトニ努メ來レリ。單ニ批評スルコトノミニテハ解決ヲ期シ難シ。兩者ノ調停ニ資スル爲實際的努力ナカルヘカラス。吾人ハ滿洲ニ於ケル過去ノ事件ニ關シ眞相ヲ捕捉スル爲苦心シ來レルカ卒直ニ言ヘハ右ハ吾人ノ仕事ノ僅カ一部分ニシテ而モ決シテ重要部分ニアラサルコトヲ認ム。吾人ハ使命ヲ行フニ當リ終始兩國政府ニ對シ紛爭ヲ調停スル爲國際聯盟ノ援助ノ提供方ヲ申入レタルカ今ヤ本委員會ハ其ノ使命ヲ終ラムトスルニ當リ正義ト平和トニ合致スル方法ニ依リ滿洲ニ於ケル日支ノ永遠ノ利益ヲ確保スル爲吾人ノ提議ヲ聯盟ニ提出セムトス。
解決ニ關スル不満足ナル提議 單ナル原狀回復カ問題ノ解決タリ得サルコトハ如上吾人ノ述ヘタル所ニ依リ明カナルヘシ。蓋シ本紛爭カ去ル九月以前ニ於ケル狀態ヨリ發生セルニ鑑ミ同狀態ノ回復ハ紛糾ヲ繰返ス結果ヲ招來スヘク斯ノ如キハ全問題ヲ單ニ理論的ニ取扱ヒ現實ノ狀勢ヲ無視スルモノナリ。
(一)原狀回復 (二)満洲國ノ維持 前二章ニ述ヘタル所ニ鑑ミ滿洲ニ於ケル現政權ノ維持及承認モ均シク不滿足ナルヘシ。斯ル解決ハ現行國際義務ノ根本的原則若ハ極東平和ノ基礎タルヘキ兩國間ノ良好ナル諒解ト兩立スルモノト認メラレス。右ハ又支那ノ利益ニ違反シ又滿洲人民ノ希望ヲ無視スルノミナラス結局ニ於テ日本ノ永遠ノ利益トナルヘキヤ否ヤニ付少クトモ疑ヒアリ。
現政權ニ對スル滿洲人民ノ感情ニ付テハ何等疑問無シ。而シテ支那ハ東三省ノ完全ナル分離ヲ以テ永久的解決ナリトナシテ進ンテ之ヲ承諾スルカ如キコトナカルヘシ。
滿洲ト遠隔ナル外蒙古地方トノ類似性ヲ論スルハ其ノ當ヲ得サルモノナリ。蓋シ外蒙古ト支那トノ間ニ何等鞏固ナル經濟的若クハ社會的紐帶ナク且人口稀薄ニシテ而モ其ノ大部分ハ支那人ニアラサルヲ以テナリ。滿洲ニ於ケル事態ト外蒙古ニ於ケル夫トハ極端ナル差異アリ。滿洲ニ定着セル數百萬ノ支那農民ハ各般ノ關係ニ於テ滿洲ヲシテ「長城」以南ノ支那ノ延長タラシメタリ。東三省ハ其ノ人種、文化及國民的感情ニ於テ支那化シ其ノ移住者ノ大部分ノ來レル隣省河北山東省ト殆ト變ルコトナシ。
然ノミナラス過去ノ經驗ニ依レハ滿洲ノ支配者支那ノ他ノ部分少クトモ北支那ニ於テ相當ナル程度ノ勢力ヲ行使シ來リ且明白ナル各種軍事上及政治上ノ利益ヲ有セリ。東三省ヲ支那ノ他ノ部分ヨリ法律的ニ若クハ實際的ニ分離スルハ將來ニ向テ重大ナル「イルリデンテスト」問題ヲ發生シ其ノ結果常ニ支那ノ敵愾心ヲ盛ンナラシメ且恐ラク日本商品ノ「ボイコット」ヲ永續的ナラシメ以テ平和ヲ危殆ニ陷ルルモノト云フヘシ。
本委員會ハ日本政府ヨリ滿洲ニ於ケル其ノ重大利益ニ關スル明確且貴重ナル「ステートメント」ヲ受領セリ。前章ニ記述セル程度以上ニ日本ノ滿洲ニ對スル經濟的依據ヲ誇張スルコトナク且右經濟的關係ハ日本ニ對シ東三省ノ政治的ハ勿論經濟的發達ヲ支配スルノ資格ヲ與フルモノナリト提言スルコトナク、日本ノ經濟的開發ノ爲滿洲カ甚タ重大ナルコトヲ認ムルモノナリ。將又日本カ滿洲ノ經濟的開發ノ爲必要ナル治安ヲ維持シ得ヘキ安定セル政府ノ樹立ヲ要求スルコトモ不合理ナリト考フルモノニ非ス。然ルニ斯ノ如キ狀態ハ人民ノ願望ニ合致シ且彼等ノ感情及要望ヲ十分ニ考慮スル政權ニ依リ初メテ確實且有效ニ保障セラルヘシ尙右滿洲ノ急速ナル經濟的開發ニ必要ナル資本ノ集中ハ現在極東ニ見ラレサル外部ノ信賴ト內部ノ平和ノ雰圍氣トニ於テ初メテ可能ナリ。
過剩人口增加ノ壓迫アルニ拘ラス日本國民ハ移民ニ關スル現存ノ便益ヲ從來十分ニ利用スルコトナク、且日本政府ハ滿洲ニ其ノ國民ノ大移住ヲ計畫シタルコトナシ。而ルニ日本國民ハ農業的危機及人口問題ニ善處スル方法トシテ更ニ其ノ工業化ニ希望ヲ懸ケツツアリ。斯ノ如キ工業化ハ新タナル經濟的市場ヲ要求スヘキ處日本ノ唯一ノ廣大且比較的確實ナル市場ハ亞細亞殊ニ支那ニ於テ見出サルヘシ。日本ハ單ニ滿洲市場ノミナラス全支那市場ヲ必要トスル處支那カ統一シ近代化スル結果ハ當然其ノ生活程度向上スルニ至リ、貿易ヲ促進シ支那市場ノ購買力ヲ增加スヘシ。
日本ニトリ重大利益アル右日支ノ經濟的提携ハ同時ニ支那ノ利益問題ナリ。何トナレハ支那カ更ニ日本ト經濟的及技術的ニ合作スルコトハ其ノ國家改造ノ第一事業ヲ助成スルモノナルヲ發見スヘケレハナリ。支那ハ其ノ國民主義ノ狹量ナル傾向ヲ抑壓スルコトニ依リ又友誼關係復活スルヤ否ヤ、組織的「ボイコット」ノ再現スルコトナキ旨ノ有效ナル保障ヲ與フルコトニ依リ右提携ヲ助成シ得ヘシ。一方日本トシテハ滿洲問題ヲ支那關係ノ一般的問題ヨリ切離シ、支那トノ友好及合作ヲ不可能ナラシムル方法ニテ支那問題ヲ解決スルカ如キ有ラユル試ヲ放棄スルコトニ依リ右提携ヲ容易ナラシムルヲ得ヘシ。
然ルニ滿洲ニ於ケル日本ノ行動及方針ヲ決定セシモノハ經濟的考慮ヨリハ寧ロ日本自體ノ安全ニ對スル懸念ナルヘシ。日本ノ政治家及軍部ガ滿洲ハ「日本ノ生命線」ナルコトヲ常ニ口ニスルハ特ニ此ノ關係ニ於テナリトス。世人ハ右ノ如キ懸念ニ同情シ且有ラユル事態ニ於テ日本ノ國防ヲ確保スル爲重大責任ヲ負ハザルヲ得ザル右政治家及軍部ノ行動及動機ヲ了解スルニ努ムベシ。日本ノ領土ニ對スル敵對行動ノ根據地トシテ滿洲ヲ利用スルヲ防止セムトスル日本ノ關心及情勢ノ下ニ外國ノ軍隊カ滿洲ノ國境ヲ越エ來ル場合有ラユル必要ノ軍事的手段ヲ執ルコトヲ可能ナラシメムトスル日本ノ希望ヲ假ニ認ムルトスルモ果シテ滿洲ヲ無期限ニ占領シ又之カ爲當然必要ナルヘキ巨額ノ財政的負擔ヲナスコトカ眞ニ外部ヨリスル危險ニ對スル最モ有效ナル保障ノ方法ナリヤ、將又右ノ如キ方法ニ依リ侵略ニ對抗スル場合、日本軍隊カ若シ敵意ヲ持ツ支那ノ後援ノ下ニ不從順若ハ反抗的ナル民衆ニ依リ包圍セラルル場合ニハ甚タシク困難ヲ感スルコトナキヤ否ヤハ尙疑問トスヘキ所ナルヘシ。從テ現存ノ世界平和機關ノ基礎ヲナス原則ト、ヨリ善ク合致シ且世界ノ各地ニ於ケル他ノ强國ニ依リ締結セラレタル手續ニ類似セル方法ニ依リ安全問題ノ他ノ可能ナル解決方法ヲ考慮スルコトハ確カニ日本ノ爲利益ナリ。日本ハ亦世界ノ他ノ國家ノ同情ト好意トニ依リ而モ日本自身ハ何等ノ負擔ヲナスコトナクシテ日本カ目下執リツツアル高價ナル手段ニ依リ得ラルルヨリ更ニ確實ナル安全ヲ得ル可能性モアリ得ヘシ。
國際的利益 日支兩國ヲ別トシ世界ノ他ノ强國モ此ノ日支紛爭ニ關シ防衞スヘキ重大利益ヲ有ス。吾人ハ曩ニ現行ノ多邊的條約ニ言及セリ。苟モ合意ニ依ル眞正且永續的解決ハ世界平和機關ノ根底ヲ爲ス之等原則的協定ノ條項ト兩立スルモノタルヲ要ス。華府會議ニ於ケル强國ノ代表者ヲ動カシタル諸種ノ考慮ハ今日尙有效ナリ。平和維持ノ爲必要不可缺ナル條件トシテ支那ノ改造ニ協力シ其ノ主權竝ニ其ノ領土的行政的統一ヲ保全スルコトハ今日ニ於テモ一九二二年ニ於ケルカ如クニ列國ノ利益ナリ。支那ノ分裂ハ恐ラク急速ニ重大ナル國際競爭ヲ招來スヘキ處右競爭カ若シ相異レル社會組織ノ間ニ於ケル競爭ト同時ニ起ル場合ハ更ニ激烈ヲ加フヘシ。最後ニ平和ノ利益ハ全世界ヲ通シ同樣ナルヘキ處聯盟規約及不戰條約ノ原則ノ適用ニ關シ世界ノ如何ナル方面ニ於テモ何等信賴ヲ失フコトアラハ斯ル原則ノ價値ト效力ハ他ノ方面ニ於テモ減少スヘシ。
蘇聯邦ノ利益 本委員會ハ滿洲ニ於ケル蘇聯邦ノ利益ノ範圍ニ關シ直接ニ情報ヲ入手スルヲ得ス。又滿洲問題ニ關スル蘇聯邦政府ノ觀察ヲ確ムルヲ得サリキ。尤モ假令直接情報ヲ入手セサリシト雖モ本委員會ハ滿洲ニ於テ露西亞ノ演シタル役割若ハ蘇聯邦カ東支鐵道ノ所有者トシテ將又支那ノ北方及東北方ニ於ケル領土ノ所有者トシテ該地域ニ於ケル蘇聯邦ノ有スル重大ナル利益ヲ看過スルヲ得ス。蘇聯邦ノ重大利益ヲ無視セル解決方法ハ反ツテ將來ニ於ケル平和ヲ攪亂スル危險アリ、從テ永久性ナカルヘキハ明カナリ。
結論 若シ日支兩國政府カ双方ノ主要利益ノ一致セルコトヲ承認シ且平和ノ維持及相互間ニ於ケル友誼關係ノ樹立ヲモ右利益ノ中ニ包含セシムル意志アルニ於テハ兩國間紛爭解決策ノ基礎的大綱ハ敍上ノ考案ニ依リ充分明示セラルヘシ。旣述ノ如ク一九三一年九月以前ノ狀態ヘノ復歸ハ問題ニアラス。將來ニ於ケル滿足スヘキ政權ハ過激ナル變更ナクシテ現政權ヨリ進展セシメ得ヘシ。次章ニ於テ吾人ハ之カ爲或ル提議ヲ提出スヘキモ、吾人ハ先ツ滿足ナル解決方法トシテ準據スルヲ要スル一般的原則ヲ明カニセムト欲ス此等原則ハ次ノ如シ。

満足ナル解決ノ條件 

(一)日支双方ノ利益ト兩立スルコト。
 兩國ハ聯盟國ナルヲ以テ各々聯盟ヨリ同一ノ考慮ヲ拂ハルルコトヲ要求スルノ權利ヲ有ス。兩國カ利益ヲ獲得セサル解決ハ平和ノ爲ノ收得トナラサルヘシ。
(二)蘇聯邦ノ利益ニ對スル考慮。
 第三國ノ利益ヲ考慮スルコトナク兩隣國間ニ於テ平和ヲ講スルハ公正若ハ賢明ナラサルヘク又平和ニ資スル所以ニ非サルへシ。
(三)現存多邊的條約トノ一致。
 如何ナル解決ト雖モ聯盟規約、不戰條約及華府九國條約ノ規定ニ合致スルヲ要ス。
(四)滿洲ニ於ケル日本ノ利益ノ承認。
 滿洲ニ於ケル日本ノ權益ハ無視スルヲ得サル事實ニシテ如何ナル解決方法モ右ヲ承認シ且日本ト滿洲トノ歷史的關聯ヲ考慮ニ入レサルモノハ滿足ナルモノニ非ルヘシ。
(五)日支兩國間ニ於ケル新條約關係ノ成立。
 滿洲ニ於ケル兩國各自ノ權利、利益及責任ヲ新條約中ニ再ヒ聲明スルコトハ合意ニ依ル解決ノ一部ニシテ將來紛糾ヲ避ケ相互的信賴及協力ヲ回復スル爲ニ望マシキコトナリ。
(六)將來ニ於ケル紛爭解決ニ對スル有效ナル規定。
 敍上ニ附隨的ナルモノトシテ比較的重要ナラサル紛爭ノ迅速ナル解決ヲ容易ナラシムル爲規定ヲ設クル要アリ。
(七)滿洲ノ自治。
 滿洲ニ於ケル政府ハ支那ノ主權及行政的保全ト一致シ東三省ノ地方的狀況及特徵ニ應スル樣工夫セラレタル廣汎ナル範圍ノ自治ヲ確保スル樣改メラルヘシ。新文治制度ハ善良ナル政治ノ本質的要求ヲ滿足スル樣構成運用セラルルヲ要ス。
(八)內部的秩序外部的侵略ニ對スル保障。
 滿洲ノ內部的秩序ハ有效ナル地方的憲兵隊ニ依リ確保セラルヘク、外部的侵略ニ對スル安全ハ憲兵隊以外ノ一切ノ武裝隊ノ撤退及關係國間ニ於ケル不侵略條約ノ締結ニ依リ與ヘラルヘシ。
(九)日支兩國間ニ於ケル經濟的提携ノ促進。
 本目的ノ爲兩國間ニ於ケル新通商條約ノ締結望マシ。斯ル條約ハ兩國間ニ於ケル通商關係ヲ公正ナル基礎ノ上ニ置キ双方ノ政治關係ノ改善ト一致セシムルコトヲ目的トスヘシ。
(十)支那ノ改造ニ關スル國際的協力。
 支那ニ於ケル現今ノ政治的不安定カ日本トノ友好關係ニ對スル障害ニシテ且極東ニ於ケル平和ノ維持カ國際的關心事項タル關係上世界ノ他ノ部分ニ對スル危惧ナルト共ニ敍上ニ擧ケタル條件ハ支那ニ於テ强固ナル中央政府ナクシテハ實行スル能ハサル所ナルヲ以テ滿足ナル解決ニ對スル最終的要件ハ故孫逸仙博士カ提議セル如ク支那ノ內部改造ニ對スル一時的國際協力ナリ。
敍上ノ條件ノ實行ヨリ來ルベキ結果 若シ現時ノ事態カ敍上ノ條件ヲ充シ敍上ノ觀念ヲ包含スルカ如キ方法ニ於テ緩和セラレ得ルニ於テハ日支兩國ハ其ノ紛爭ノ解決ヲ達成シ以テ兩國間ニ於ケル密接ナル了解及政治的協力ノ新時代ノ出發點トナスヲ得ヘシ。
若シ斯ル提携カ確保セラレサルニ於テハ其ノ條件カ如何ニモアレ如何ナル解決方法モ眞ノ效果ナカルヘシ。斯ル新關係ヲ企畫スルコトハ現下ノ危機ニ際シテモ眞ニ不可能ナリヤ。靑年日本ハ支那ニ於ケル强硬政策、滿洲ニ於ケル徹底政策ヲ叫ヒ居レリ。右ノ如キ要求ヲナスモノハ九月十八日以前ノ時期ニ於ケル遷延策及小細工ニ厭キ果テ居レリ。彼等ハ其ノ目的ヲ達成スル爲性急ナリ。然レトモ日本ニ於テモ有ラユル目的ヲ達成スル爲適當ナル手段ヲ見出ササルヘカラス。右「積極」政策ノ更ニ熱心ナル代表者ノ若干竝ニ特ニ明白ナル理想主義及大ナル個人的熱誠ヲ以テ「滿洲國」政權ニ於ケル微妙ナル企畫ノ先覺者トナレル人士ト相識レル後日本ノ有スル問題ノ核心ニ近代支那ノ政治的發展及其進ミツツアル將來ノ傾向ニ關スル危惧ノ存スルコトヲ認識セサルヲ得ス。此ノ危惧ハ右支那ノ發展ヲ制御シ且其ノ進路ヲ日本ノ經濟的利益ヲ確保スルト共ニ同帝國ノ防衞ニ對スル軍略的要求ヲ滿足セシムル方向ニ向ケシムル目的ヲ有スル行動ニ導キタリ。然レトモ日本ノ輿論モ朧ケナカラ滿洲ニ對スルモノト支那本部ニ對スルモノト二ツノ別個ノ政策ヲ有スルコトカ最早實行シ得サルコトヲ知覺シツツアリ。故ニ其ノ滿洲ニ於ケル利益ヲ目標トスル場合ニ於テモ日本ハ支那ノ國民的感情ノ再興ヲ認メ同情ヲ以テ之ヲ歡迎スルヤモ知レス。而シテ日本ハ支那カ他ノ何レニ對シテモ支持ヲ求メサルコトヲ確保スル目的ノミヨリスルモ同國ト提携シ之ヲ誘導扶掖スルヤモ知レス。
支那ニ於テモ亦該國家ニ對スル死活問題、眞ノ國家的問題ハ國家ノ改造及近代化ナルコトヲ認ムルニ至レル處彼等ハ右改造及近代化ノ政策ハ旣ニ開始セラレ成功ノ望多キモ其ノ實現ニハ一切ノ國家特ニ其ノ最モ近隣者タル大國トノ友好的關係ノ涵養ヲ必要トスルコトヲ認メサルヲ得サルナリ。支那ハ政治及經濟的事項ニ於テ一切ノ主要國ノ協力ヲ必要トスルモ特ニ支那ニトリ有益ナルハ日本政府ノ友好的態度及滿洲ニ於ケル日本ノ經濟的協力ナリ。新タニ目覺メタル國家主義ノ他ノ一切ノ要求ハ如何ニ正當ニシテ且緊急ナリトモ右國家ノ有效ナル內部的改造ニ對スル重大ナル必要ノ前ニハ之ヲ從トセサルヘカラス。

第十章 理事會ニ對スル考察及提議

終局的解決ヲ容易ナラシムル爲ノ提議 現在ノ紛爭解決ノ爲直接支那及日本政府ニ勸吿ヲ提出スルハ本委員會ノ職務ニ非ス。
然レトモ「ブリアン」氏カ本委員會創設ニ關スル決議ノ案文ヲ理事會ニ説明スルニ當リ使用セル字句ヲ借リテ云ヘハ「兩國間ニ現存スル紛爭原因ノ終局的解決ヲ容易ナラシムル」爲、吾人ハ茲ニ國際聯盟ニ對シ、聯盟ノ適當ナル機關カ紛爭當事國ニ與フヘキ確定的提案ヲ起草スルヲ助ケンコトヲ目的トセル諸提議ヲ吾人ノ硏究ノ成果トシテ提出セントス。此等ノ提議ハ吾人カ前章ニ於テ定メタル諸條件ヲ滿足セシムヘキ一方法ヲ例示スルノ目的ヲ以テ爲サレタルモノト諒解セラルヘシ。此等提議ハ主トシテ廣汎ナル原則ニ關スルモノニシテ、多數ノ組目挿入ノ餘地ヲ存シ、且紛爭當事國カ何等其ノ趣旨ニ副ヘル解決ヲ受諾スルノ意アルニ於テハ當事國ニ依ツテ多大ノ變更ヲ加ヘラレ得ヘキモノトス。
假令日本ノ「滿洲國」正式承認カ壽府ニ於ケル本報吿書ノ審議以前ニ行ハルル事アリトスルモ―右ハ吾人ノ看過スルヲ得サル事態ナルカ、吾人ハ吾人ノ仕事カ徒勞ニ歸スヘシトハ思考セス。吾人ハ孰レニセヨ理事會ハ本報吿カ滿洲ニ於ケル關係兩大國ノ死活的利益ヲ滿足セシムルノ目的ヲ以テセル理事會ノ決議又ハ右兩大國ニ對スル勸吿ニ役立ツヘキ諸提議ヲ包含セルコトヲ見出スヘシト信ス。吾人カ國際聯盟ノ諸原則、支那ニ關スル諸條約ノ精神及字句竝ニ平和ノ一般的利益ヲ念頭ニ置キツツ、他方現實ノ事態ヲ看過セス、且東三省ニ現存シ目下發展ノ過程ニアル行政機關ヲ考慮ニ入レタルハ一ニ此ノ目的ニ出ツルモノナリ。世界平和ノ至高ナル利益ノ爲、事態カ如何ニ結着スルトモ、目下滿洲ニ於テ釀成セラレツツアル健全ナル力ヲ―理想タルト人物タルト將又思想タルト行爲タルト總テ之ヲ利用シ以テ日支兩國間ノ永續的了解ヲ確保セントスル目的ヲ以テ本報吿中ノ諸提議カ今尙日々ニ進展シツツアル事態ニ如何ニ擴張シ適用セラルヘキカヲ決定スルハ理事會ノ職務ナルヘシ。
解決ヲ議センガ爲ノ當事國ノ招請 建言會議 吾人ハ第一ニ理事會カ前章ニ示サレタル大綱ニ依リ其ノ紛爭ノ解決ヲ議センカ爲支那及日本兩國政府ヲ招請スヘキコトヲ提議ス。若シ右招請受諾セラルルニ於テハ次ノ措置ハ東三省統治ノ爲特別ナル制度ノ構成ニ關シ審議シ且詳細ナル提案ヲ爲ス爲可及的速ニ建言會議ヲ招集スルコトニアリ。
右會議ハ支那及日本兩國政府ノ代表者、並ニ支那政府ニヨリ指定セラレタル方法ニヨリ選擇セラレタル者一名、日本政府ニヨリ指定セラレタル方法ニヨリ選擇セラレタル者一名、計二名ノ地方民ヲ代表スル委員ヲ以テ構成セラルヘキコトヲ提議ス。當事國ノ同意アルニ於テハ、中立國「オブザーヴァー」ノ援助ヲ受クルコトヲ得ヘシ。若シ右會議カ何等特殊ノ點ニ付協定ニ達シ得サル場合ニハ會議ハ意見相違ノ點ヲ理事會ニ提出シ而シテ理事會ハ此等ノ點ニ付圓滿ナル解決ヲ得ンコトヲ試ムヘシ。
建言會議ノ開催ト同時ニ相互ノ權利利益ニ關スル日本及支那間ノ懸案ハ、別個ニ審議セラルヘシ。此ノ場合ニ於テモ同意アラハ中立國「オブザーバァー」ノ援助ヲ受クルコトヲ得ヘシ。
最後ニ吾人ハ此等審議及交涉ノ結果ハ四個ノ異リタル文書ニ具現セラルヘキコトヲ提議ス。
一、建言會議ノ勸吿セル條件ニ基キ東三省ニ對シ特別ナル行政組織ヲ構成スヘキ旨ノ支那政府ノ宣言。
二、日本ノ利益ニ關スル日支條約。
三、調停、仲裁裁判、不侵略及相互援助ニ關スル日支條約。
四、日支通商條約。
建言會議會合前右會議ノ考慮スヘキ行政組織ノ概要ハ理事會援助ノ下ニ當事國間ニ協定セラルヘキモノナルヘキコトヲ提議ス。此ノ際考慮セラルヘキ事項中ニハ左ノ如キモノアルヘシ。
 建言會議會合ノ場所、代表ノ性質、及中立國「オブザーヴァー」カ希望セラルルヤ否ヤ。
 支那ノ領土的及行政的保全維持ノ原則ト滿洲ニ對スル廣汎ナル自治ノ賦與。
 內部ノ秩序維持ノ唯一ノ方法トシテノ特別憲兵隊創設ノ方針。提議セラレタルカ如キ別個ノ條約ニヨツテ各般ノ懸案ヲ解決スルノ原則。
 滿洲ニ於ケル最近ノ政治的發展ニ參加セル者全部ニ對スル大赦。
一度此等廣汎ナル原則ニシテ豫メ協定セラレンカ、細目ニ付テハ建言會議ニ於テ又ハ條約締結交涉ノ際當事國代表者ニ對シ能フ限リ充分ナル裁量ノ餘地ヲ殘スヘシ。更ニ國際聯盟理事會ニ付議スルコトハ協定失敗ノ場合ニ於テノミ行ハルヘキモノトス。
本手續ノ有利ナリト主張セラルル諸點 本手續ノ利益アル諸點中吾人ハ本手續カ支那ノ主權ト抵觸スルコトナクシテ今日現存スル滿洲ノ事態ニ適合センカ爲メ有效且實際的ナル手段ヲ執ルコトヲ可能ナラシムルト同時ニ、今後支那ニ於ケル國內事態ノ變化ニ伴ヒ當然ナリト認メラルルカ如キ變革ヲ斟酌スルモノナルコトヲ主張ス。例ヘハ本報吿ニ於テハ地方政府ノ改組、中央銀行ノ創立、外國人顧問ノ傭聘ノ如キ旣ニ提案セラレタルカ又ハ現ニ實施セラレ居ル若干行政及財政上ノ變革ニ注意シタリ。此等事項ハ建言會議ニ於テモ依然之ヲ維持スルコト有利ナルヤモ知レス。吾人ノ提議セルカ如キ方法ニヨリ選擇セラレタル滿洲住民代表者ノ本會議出席モ亦現在ノ制度ヨリ新制度ヘ―轉換ヲ容易ナラシムヘシ。滿洲ニ對シテ企圖セラレ居ル自治制度ハ遼寧(奉天)、吉林及黑龍江ノ三省ニノミ施行スルヲ目的トス。現ニ日本カ熱河(東部內蒙古)ニ於テ享有スル權利ハ日本ノ利益ニ關スル條約中ニ於テ處理セラルヘシ。
茲ニ於テ四個ノ文書ヲ順次考察スルコトヲ得ヘシ。

  一、宣言

建言會議ノ最終提案ハ支那政府ニ提出セラルヘシ。而シテ支那政府ハ國際聯盟及九國條約調印國ニ送付セラルヘキ宣言中ニ於テ之ヲ具現スヘシ。聯盟國及九國條約調印國ハ右宣言ヲ了承シ、右宣言ハ支那政府ニ對シ國際約定ノ拘束的性質ヲ有スルモノナルコト明カナラシメラルヘシ。
爾後必要ニヨリ本宣言ヲ改正スル場合ノ條件ハ上ニ提議セラレタル手續ニ遵ヒ協定セラレタル所ニヨリ宣言自體中ニ規定セラルヘシ。宣言ハ東三省ニ於ケル支那中央政府ノ權力ト自治地方政府ノ權力トヲ區分スヘシ。
中央政府ニ保留セラルベキ權力 中央政府ニ保留セラルヘキ權力ハ左ノ如クナルヘキコトヲ提議ス。
一、別ニ規定ナキ限リ一般條約及外交關係ノ管理。但シ中央政府ハ宣言ノ規定ニ牴觸スル國際約定ヲ爲ササルモノト了解セラル
二、稅關、郵便局及鹽稅竝ニ能フ限リ印花稅及煙酒稅ノ事務ノ管理。中央政府東三省間ノ此等收入ヨリノ純收入ノ衡平ナル配分ハ建言會議ニ依ツテ決定セラルヘシ。
三、宣言中ニ規定セラルヘキ手續ニ依ル東三省政府執政ノ少クトモ第一次ノ任命權。缺員ハ同樣ノ方法又ハ建言會議ニ依ツテ同意セラレ且宣言中ニ挿入セラレタル東三省ニ於ケル或種ノ選任制度ニ依ツテ充タサルヘシ。
四、東三省執政ニ對シ、東三省自治政府ノ管轄下ニアル事項ニ付中央政府カ結ヘル國際約定ノ履行ヲ確保スルニ必要ナルヘキ命令ヲ爲スノ權。
五、本會議ニ依ツテ同意セラレタル其他ノ權力。
地方政府ノ權力 他ノ權力ハ總テ東三省自治政府ニ歸屬ス。
地方輿論ノ表現 能フ限リ商會、同業公會及其他ノ民間團體等ノ傳統的機關ヲ通シテ政府ノ政策ニ關スル民意ノ發現ヲ得セシムル爲何等實際的制度ヲ案出シ得ヘシ。
少數民族 白系露人及其他ノ少數民族ノ利益ヲ保全スル爲ニモ亦何等規定ヲ設クルノ要アルヘシ。
憲兵隊 外國人敎官ノ協力ヲ以テ特別憲兵隊ヲ組織スヘキコトヲ提議ス。右憲兵隊ハ東三省ニ於ケル唯一ノ武裝隊タルヘシ。
特別憲兵隊ノ組織ハ豫メ決定セラレタル期間內ニ完成セラルルカ又ハ完了ノ時期ハ宣言中ニ規定セラルヘキ手續ニ從ヒ決定セラルルコトヲ要ス。該特別憲兵隊ハ東三省領域ニ於ケル唯一ノ武裝隊ナルヘキヲ以テ之カ組織完成ノ暁ニハ該領域ヨリ日支双方ノ何レニ屬スルヲ問ハス有ラユル特別警察隊又ハ鐵道守備兵ヲ含ム他ノ總テノ武裝隊ノ撤收行ハルヘシ。
外國人顧問 自治政府ノ執政ハ適當數ノ外國人顧問ヲ任命スヘク其ノ內日本人カ充分ナル割合ヲ占ムルコトヲ要ス。之カ細目ハ前揭ノ手續ニ依リテ決定セラルヘク且宣言中ニ陳述セラルヘキモノトス。小國ノ國民モ大國ノ國民ト同樣ニ選定セラルルコトヲ得ヘシ。
執政ハ聯盟理事會ヨリ提出スヘキ人名簿中ヨリ二名ノ異レル國籍ニ屬スル外國人ヲ任命シ(一)警察(二)財務行政ヲ監督セシムヘシ。右二名ノ官吏ハ新制度ノ組織期間及試驗期間中廣汎ナル權限ヲ有スヘク其ノ權限ハ宣言中ニ明定セラルヘシ。
執政ハ國際決濟銀行理事會ヨリ提出スヘキ人名簿ヨリ一名ノ外國人ヲ東三省中央銀行ノ總顧問ニ任命スヘシ。
外國人顧問及官吏ノ任用ハ支那國民黨ノ創立者ノ政策及現國民政府ノ政策ニ合致スルモノナリ。吾人ハ東三省ニ於ケル現下ノ狀態並ニ同地方ニ於ケル外國ノ權益及勢力ノ複雜性カ平和及良好ナル施政ノ爲メニ特別ナル措置ヲ必要ナラシムルコトハ支那ノ輿論カ之ヲ認識スルニ難カラサルヘキコトヲ期待ス。然レトモ茲ニ提議セル外國人顧問及官吏(新制度組織ノ期間ニ於テ例外的ニ廣汎ナル權限ヲ行使スヘキ外國人ヲ含ム)ノ存在ハ單ニ國際協力ノ形式ヲ表現スルニ過キサルモノナルコトハ吾人ノ特ニ强調セント欲スル所ナリ。之等外國人顧問及官吏ハ支那政府ノ受諾シ得ヘキ形式ニ依リ又支那ノ主權ニ合致セル方法ニ於テ選任セラレサルヘカラス。彼等ハ從來海關及郵政ノ組織ニ傭聘セラレタル外國人又ハ支那人ト協力セル國際聯盟ノ技術的機關ノ場合ニ於ケルト同樣、任命セラレタル暁ニハ任命セル政府ノ雇傭人ナリト自覺セサルヘカラス。此ノ點ニ關シ內田伯カ一九三二年八月二十五日日本議會ニ於テ爲シタル演説中ノ左ノ一節ハ興味アルモノナリ。
「・・・現ニ我國ノ如キモ明治維新後多數ノ外國人ヲ官吏又ハ顧問トシテ傭聘シテ居タノテアリマシテ、例ヘハ明治八年頃ニ於ケル是等外國人ノ總數ハ五百名ヲ超過シテ居タノテアリマス・・・」
尙日支協力ノ雰圍氣ノ中ニ比較的多數ノ日本人顧問カ任命セラルルコトハ彼等ヲシテ特ニ地方的狀況ニ適合セル訓練及知識ヲ供與セシメ得ヘキ點ニ於テモ亦之ヲ强調スルヲ要ス。過渡期ヲ通シテ目標トスヘキハ結局ニ於テ外國人ノ傭聘ヲ不必要ナラシムヘキ支那人ノミニ依リテ組織セラレタル文官制度ノ創立ナリ。

  二、日本ノ利益ニ關スル日支條約

本報吿書中ニ提議セル日支間ノ三條約締結ノ交涉ニ當ルヘキ者ニ對シテ完全ナル自由裁量ヲ殘スヘキコトハ勿論ナルモ、彼等カ處理スヘキ事項ヲ指示スルコトハ有用ナルヘシ。
東三省ニ於ケル日本ノ利益及熱河ニ於ケル或種ノ日本ノ利益ニ關スル日支條約ハ主トシテ日本人ノ特定ノ經濟的權利及鐵道問題ヲ取扱フヘキモノトス。
條約ノ目的 卽チ該條約ノ目的ハ左ノ如クナルヲ要ス。
一、滿洲ノ經濟的開發ニ對スル日本ノ自由ナル參加、尤モ右ハ同地方ヲ經濟的又ハ政治的ニ支配スル權利ヲ伴ハサルモノトス。
二、熱河ニ於テ現ニ日本カ享有シツツアル權利ノ存續。
三、居住權及商租權ヲ全滿洲地域ニ擴張スルコト及之ニ伴ヒテ治外法權ノ原則ヲ多少修正スルコト。
四、鐵道運行ニ關スル協定。
日本人ノ居住權 今日迄ノ所日本人ノ居住權ハ南滿洲及熱河ニ限定セラレ居リタリ尤モ南北滿洲ノ間ニハ何等確定的境界存セス。而シテ之等權利ハ支那カ受諾シ得スト認メタル條件ノ下ニ行使セラレ其ノ結果絕エス軋轢紛爭ヲ釀シタリ。課稅及司法ニ關スル治外法權的地位ハ日本人及朝鮮人ノ双方ノ爲ニ主張セラレ、後者ニ付テハ不明確ニシテ且論爭ノ原因ヲ爲セル特別規定存セリ。本委員會ニ提出セラレタル證據ヨリ見テ支那ハ治外法權的地位カ伴ハサルニ於テハ現在ノ限定的居住權ヲ全滿洲ニ擴張スルニ同意ヲ與フルモノト信スヘキ理由アリ。治外法權的地位カ之ニ伴フニ於テハ支那領域內ニ日本人國家ヲ創立スルノ結果ヲ招來スヘシト主張セラレタリ。
居住權ト治外法權トハ密接ナル關係ヲ有スルコト明ナリ。然レトモ司法及財政制度カ從來滿洲ニ於ケルヨリモ遙カニ高キ程度ニ到達スル時期迄ハ日本人ハ治外法權的地位ノ放棄ニ同意セサルヘキコトモ同樣ニ明ナリ。
茲ニ二種ノ妥協方法アリ。一ハ治外法權的地位ヲ伴フ現行ノ居住權ハ之ヲ維持シ、治外法權的地位ヲ伴ハサル居住權ヲ日本人及朝鮮人双方ノ爲ニ北滿洲及熱河ニ擴張スヘシト云フニアリ。他ハ日本人ハ滿洲及熱河ノ何處ニ於テモ治外法權的地位ノ下ニ居住スルノ權利ヲ與ヘラルヘク、朝鮮人ハ治外法權的地位ヲ伴ハサル同樣ノ權利ヲ與ヘラルヘシトスルニアリ。右二種ノ提議ハ何レモ或程度ノ長所ヲ有スルモ同時ニ比較的重大ナル故障アリ。本問題ノ最モ滿足ナル解決方法ハ之等地方ノ行政ヲ治外法權的地位ヲ必要トセサル程度ニ有能ナラシムルニアルコト明ナリ。此ノ見地ヨリシテ吾人ハ少クトモ二名ノ外國人顧問(內一名ハ日本國籍ヲ有スルコトヲ要ス)カ最高法院ニ配屬セラレンコト及他ノ顧問カ他ノ法院ニ配屬セラルルコトノ有利ナルコトヲ勸吿ス。之等法院カ外國人關係事項ニ關シ判決スルコトヲ求メラレタル有ラユル事件ニ付之等顧問ノ意見ハ公開セラルヘシ。吾人ハ右ノ外改組期間中ニ於テ外國人カ財務行政ニ關シ或種ノ監督ヲ有スルコト望マシト思考シ宣言ニ關シ右ノ趣旨ノ提議ヲ存シ置キタル次第ナリ。
尙右ノ外日支何レカノ政府カ其ノ名ニ於テ又ハ人民ニ代リテ提起スヘキ苦情ヲ處理スヘキ仲裁裁判所ヲ調停條約中ニ於テ設立スルコトハ更ニ一段ノ保障ヲ取付クル所以ナリ。
複雜ニシテ困難ナル本問題ノ決定ハ條約締結交涉ノ當事國側ニ殘サルヘキモノナルモ、朝鮮人ノ如ク多數ニシテ現ニ人口增加ノ途ニアリ且支那住民ト斯ク迄モ密接ナル關係ノ下ニ居住スル少數民族ニ對シテ現在ノ如キ外國ニ依ル保護ヲ爲スコトハ必然的ニ感情ノ衝突ヲ頻發セシメ延イテハ地方的事件ノ發生及外國ノ干涉ヲ招クモノナリ。本件ノ如キ軋轢ノ源泉カ除去セラルルコトハ平和ノ見地ヨリシテ望マシ。
日本人ニ對シテ與ヘラルヘキ有ラユル居住權ノ擴張ハ「最惠國」條項ノ利益ヲ享有スル他ノ有ラユル列國ノ國民ニ對シテ同樣ノ條件ノ下ニ適用セラルヘキモノトス。但シ右ハ治外法權國カ支那トノ間ニ同樣ノ條約ヲ締結セル場合ニ限ル。
鐵道 鐵道ニ關シテハ第三章ニ於テ日支双方鐵道建設者及鐵道當局ノ間ニ廣汎ニシテ双互ニ利益ヲ齎ス如キ鐵道計畫ヲ目標トスル協力ハ過去ニ於テ皆無又ハ殆ント無カリシコトヲ指摘セリ。若シ將來ニ於ケル軋轢ヲ避ケントセハ過去ニ於ケル競爭制度ヲ終熄セシメ之ニ代フルニ諸線ニ於ケル貨客運賃ニ關スル共通ノ了解ヲ以テスルノ規定ヲ本條約中ニ設クルコト必要ナリ。本問題ハ本報吿ニ附屬スル特別硏究第一ニ於テ檢討セラレ居レリ。吾人ノ意見ニ依レハ二ツノ解決方法アリ。右二方法ハ何レカ一ツヲ選擇スルヲ得ルト共ニ一個ノ終局的解決ノ段楷トモ見ルコトヲ得ヘシ。
其ノ一ハ其ノ範圍ニ於テ稍制限セラレタルモノニシテ日支兩國鐵道當局ノ協力ヲ容易ナラシムヘキ右兩當局間ノ業務協定ナリ。日支兩國ハ協力ノ原則ノ上ニ滿洲ニ於ケル各自ノ鐵道系統經營スルコトニ同意スヘク且日支混合鐵道委員會ハ少クトモ一名ノ外國人顧問ヲ加へ或ル他國ニ存スル理事會ノ職能ニ類似セル職能ヲ行使スヘシ。更ニ徹底的ナル解決ハ日支兩國ノ鐵道ノ利益ヲ合同スルコトニ依リ與ヘラルヘシ。而シテ斯ル合同ハ若シ協定セラレ得ルニ於テ實ニ本報吿カ確保セントスル目的ノ一タル眞ノ日支兩國ノ經濟的協同ノ標徵トナルヘシ。右ハ支那ノ利益ヲ保障シツツ滿洲ニ於ケル凡テノ鐵道ニ對シテ南滿洲鐵道ノ偉大ナル技術的經驗ノ利益ヲ提供スルヲ得シムヘク且過去數ケ月間ニ於テ滿洲ニ於ケル諸鐵道ニ適用セラレタル制度ヨリ容易ニ進展セラレ得ヘキモノナリ。右ハ將來ニ於テ東支鐵道ヲ含ム更ニ廣汎ナル國際協定ノ成立ニ至ルノ途ヲ開クニ至ルヤモ知レス。斯クノ如キ合同二關スル詳細ナル記述ハ實行ノ可能性アル事項ノ例トシテ附屬書ニ之ヲ揭載セルモ詳細ナル計畫ハ當事者間ニ於ケル直接交涉ニ依リテノミ進展セラルヘシ。鐵道問題ノ斯ノ如キ解決ハ南滿洲鐵道ヲシテ純然タル商業的企業トナスヘク且一度特別憲兵隊カ完全ニ組織セラルルニ於テハ右憲兵隊ニ依リ與ヘラルル安全ハ鐵道守備隊ノ撤退ヲ可能ナラシメ相當莫大ナル費用ヲ節約シ得ヘシ。若シ右ニシテ爲シ得ヘクムハ豫メ鐵道附屬地內ニ特別土地章程及特別市政ヲ施行シ南滿洲鐵道及日本國民ノ旣得權ヲ保障スヘキナリ。
敍上ノ大綱ニ依ル條約ニシテ協定シ得ヘクムハ東三省及熱河ニ於ケル日本人ノ權利ニ對スル法律的根據ハ認メラレ且右根據ハ少クトモ現行條約及協定同樣日本ニ有利ナルト共ニ支那ニハヨリ以上ニ受諾シ得ヘキモノナルヲ以テ支那ハ一九一五年ノ條約ノ如キ條約及協定ニ依リ日本ニ爲シタル一切ノ確定的讓與ヲ新條約ニ依リ廢棄又ハ修正セラレサル限リ承認スルニ困難ヲ有セサルヘシ。日本ノ要求スル一切ノ比較的重要ナラサル權利ニシテ其ノ效力ニ付爭アルモノハ協定ノ題目タルヘシ。若シ協定成立セサルニ於テハ調停條約ニ揭ケタル手續ニ訴フヘシ。

  三、調停、仲裁裁判、不侵略及相互援助ニ關スル日支條約

本條約ノ題目ニ付テハ多クノ先例及現存實例存スルヲ以テ詳細ニ記述スルノ必要ナシ。
斯ル條約ハ日支兩國政府間ニ發生スルガ如キ一切ノ紛爭ノ解決ヲ援助スル機能ヲ有スル調停委員會ニ付規定スヘク又法律的經験及極東ニ關スル必要ナル知識ヲ有スル人士ヲ以テ構成スル仲裁裁判所ヲ設置スヘシ。右裁判所ハ宣言又ハ新條約ノ解釋ニ關スル日支兩國政府間ニ於ケル一切ノ紛爭及調停條約中ニ特ニ規定セラルルカ如キ他ノ範疇ニ屬スル紛爭ヲ處理スヘシ。
最後ニ本條約ニ挿入セラレタル不侵略及相互援助ニ關スル規定ニ基キ當事國ハ滿洲カ漸次非武裝地帶トナルコトニ同意スヘシ。右ノ目的ヲ以テ憲兵隊ノ組織カ實行セラレタル後ニ於テ兩當事國ノ一方又ハ第三國ニ依ル非武裝地域ノ侵犯ハ侵略行爲ヲ構成スルモノトナシ他ノ當事國又ハ第三者ノ攻擊ノ場合ニハ兩當事國カ聯盟規約ノ下ニ行動スヘキ聯盟理事會ノ權利ヲ害スルコトナク非武裝地域ヲ防禦スルニ適當ナリト思考スル一切ノ措置ヲ執ルノ權利ヲ有スヘシ。
若シ蘇聯邦政府ニシテ斯ル條約中ノ不侵略及相互援助ニ關スル條章ニ參加セムト欲スルニ於テハ別個ノ三國協定中ニ適當ナル條項ヲ包含セシメ得ヘシ。

  四、日支通商條約

通商條約ハ當然他國ノ現存條約上ノ權利ヲ保障シツツ能フ限リ日支兩國間ニ於ケル交易ヲ增進シ得ヘキ條件ノ設定ヲ目的トスルモノナルヘシ。本條約ハ支那人消費者ノ個人的權利ヲ害スルコトナク日本人ノ商業ニ對スル組織的「ボイコツト」運動ヲ禁壓スル爲其ノ權限內ニ於ケル一切ノ措置ヲ講スヘキ旨ノ支那政府ニ依ル約定ヲ包含スヘシ。
批判 前揭宣言及條約ノ對象ニ關スル叙上ノ提議及考察ハ聯盟理事會ニ提出シ其ノ考慮ニ供セラルヘシ。將來ニ於ケル協定ノ細目ノ如何ニ拘ラス最モ重キヲ置クヘキ點ハ交涉カ與フ限リ速ニ開始セラレ且相互信賴ノ精神ニ依ツテ行ハルヘキコトナリ。
 吾人ノ任務ハ終了セリ。
 滿洲ハ過去一年間爭鬪及混亂ニ委セラレタリ。
 廣大、肥沃且豐饒ナル滿洲ノ人民ハ恐ラク曾テ經驗シタルコトナキ悲慘ナル狀態ニ遭遇セリ。
 日支兩國間ノ關係ハ假裝セル戰爭關係ニテ將來ニ付テ、憂慮ニ堪ヘサルモノアリ。
吾人ハ右ノ如キ狀態ヲ創造セル事情ニ關シ報吿セリ。
 何人ト雖モ聯盟ノ遭遇セル問題ノ重大性及其ノ解決ノ困難ニ付充分了知スル所ナリ。
吾人ハ其ノ報吿ヲ完了セントスル際新聞紙上ニ於テ日支兩國外務大臣ノ二個ノ聲明ヲ閱讀セルカ其ノ双方ニ付最モ重大ナル一點ヲ拔萃スヘシ
八月二十八日羅文幹ハ南京ニ於テ左ノ如ク聲明セリ。
 「支那ハ現事態ノ解決ニ對スル如何ナル合理的ナル提案モ聯盟規約、不戰條約及九國條約ノ條章及精神竝ニ支那ノ主權ト兩立スヘキモノタルヲ要シ又極東ニ於ケル永續的平和ヲ有效ニ確保スルモノタルヲ要スト信ス」
八月三十日內田伯ハ東京ニ於テ左ノ如ク聲明セリト傳ヘラル。
 「帝國政府ハ日支兩國關係ノ問題ハ滿蒙問題ヨリ更ニ重要ナリト思惟ス」
吾人ハ本報吿書ヲ終了スルニ當リ右兩聲明ノ基調ヲ爲ス思想ヲ再錄スルヲ以テ最モ適當ト思考スルモノナリ。右思想ハ吾人ノ蒐集セル證據、問題ニ關スル吾人ノ硏究、從テ吾人ノ確信ト正確ニ對應スルモノニシテ吾人ハ右聲明ニ依リ表示セラレタル政策カ迅速且有效ニ實行セラルルニ於テハ必スヤ極東ニ於ケル二大國及人類一般ノ最善ノ利益ニ於テ滿洲問題ノ滿足ナル解決ヲ遂ケ得ヘキヲ信スルモノナリ。

「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1772年(明和9)江戸で明和の大火が起き、死者1万4千人以上が出る(新暦4月1日)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ashiodouzan0001
 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、古河鉱業が栃木県の足尾銅山を閉山し、363年の歴史に幕を下ろした日です。
 足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。
 尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

〇足尾鉱毒事件】(あしおこうどくじけん)とは?

 明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

☆足尾銅山関係略年表

・1610年(慶長15) 足尾銅山開山
・1816年(文化13) 銅量低下による資金の行き詰まりに見舞われ、戸谷半兵衛光寿ら6人衆が5,000両を幕府に上納し、困窮者の救済にあたる
・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に携わる
・1884年(明治17) 足尾銅山の銅生産量が日本一となる
・1885年(明治18) 『朝野新聞』が鉱毒被害を報道する
・1890年(明治23) 渡良瀬川の大洪水で鉱毒の被害が拡大する
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1896年(明治29) 通洞が貫通、田中正造が第9議会において永久示談の不当性を追及し、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する
・1897年(明治30) 鉱毒被害民、大挙押出し、東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事を命令、第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の榎本武揚)する。
・1898年(明治31) 大蔵省、鉱毒被害民に対して地租条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
・1900年(明治33) 川俣事件が発生する
・1901年(明治34) 田中正造、議会開院式より帰途の明治天皇に直訴状を提出しようとして遮られる。麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・1903年(明治36) 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父陸奥宗光)が足尾銅山の経営を担うようになる
・1905年(明治38) 経営会社を古河鉱業と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる
・1906年(明治39) 谷中村が廃村となり、日光精銅所が操業開始する
・1907年(明治40) 足尾暴動事件が起き、銅山施設の大部分が焼失する
・1912年(大正3) 足尾鉄道桐生駅~間藤駅間(現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)が開通する
・1913年(大正4) 田中正造が亡くなる
・1921年(大正10) 古河商事が破綻し、古河鉱業に合併される
・1934年(昭和9) 沈殿池が溢れて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害が発生する
・1944年(昭和19) 太平洋戦争下で、足尾銅山が軍需会社に指定される
・1950年(昭和25) 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置する
・1954年(昭和29) 小滝坑が廃止される
・1956年(昭和31) 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少する
・1958年(昭和33) 源五郎沢堆積場が決壊し、待矢場両堰に鉱毒が流入、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立する
・1961年(昭和36) 銅・鉛・亜鉛の貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる
・1966年(昭和41) 天狗沢堆積場が決壊、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が古河鉱業に抗議する
・1970年(昭和45) 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出する
・1971年(昭和46) 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される
・1972年(昭和47) 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)する
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山、製錬事業は継続される
・1974年(昭和49) 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と15億5,000万円で和解が成立する
・1976年(昭和51) 草木ダムが竣工する
・1980年(昭和55) 足尾町「足尾銅山観光」がオープンする
・1989年(平成元) 足尾での製錬事業が事実上休止状態になる
・2002年(平成14) 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止する
・2007年(平成19) 足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定される
・2008年(平成20) 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定される
・2010年(平成22) 製錬場が一部の施設を残して解体される
・2011年(平成23)3月11日、源五郎沢堆積場が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により再び決壊、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1638年(寛永15)島原・原城が落城し、島原の乱が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しなる(新暦4月12日)詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1947年(昭和22)第1次吉田茂内閣で、「供米促進対策要綱」が閣議決定される詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

jyoukiponpushya01
 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全焼1,469戸を出した日です。
 東京の明治浅草大火(とうきょうのめいじあさくさたいか)は、東京の浅草区三軒町(現在の東京都台東区)で発生した大火でした。この日の午前0時55分頃、浅草三軒町の薪炭商、木村喜太郎方から出火、折からの北西の強風にあおられて、瞬く間に周辺に燃え移ります。
 さらに、寿町から新福富町、新猿屋町、諏訪町、黒船町、三好町、駒形町、西仲町に延焼し、ようやく午後5時45分に鎮火しました。これによって、12,828坪(42,332㎡)を延焼し、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸という大きな被害を出しています。
 また、この大火では常備されて間もない蒸気ポンプが使用されていて、東京日日新聞では、その情景を「(消防組が)鋭き風火の勢いには勝つ由もなくて、各々はあぐみ果てて見えたるところ、汽笛の響きに先を払わせて三台の蒸気ポンプは馳せ来たり、駒形堂の河岸に陣を取りて(中略)川水を滝の如くに注ぎかくる。」「殊に風下なる厩橋際に二台の蒸気ポンプありて、力の限り食い止めんと働きたれば火先は此処にて止まりたる」と報道しました。尚、大正時代の1921年(大正10)に、大正浅草大火が起き、負傷者544名、全焼1,227戸、半焼73戸を出しています。

〇明治時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の明治浅草大火(死者1名、負傷者7名、全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

anseihietsujishin01
 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出た日ですが、新暦では4月9日となります。
 飛越地震(ひえつじしん)は、江戸時代後期の1858年(安政5年2月26日)午前1時頃に起きた、越中・飛騨国境(現在の富山・岐阜県境)の跡津川断層を震源とする大地震(推定マグニチュード7.0~7.1)で、安政飛越地震とも呼ばれてきました。その後、余震が朝まで続き、一説には夜明け頃までに40余回にわたって大震、小震を繰り返したと言われています。
 土砂災害、とりわけ立山連峰・大鳶山、小鳶山の大崩壊による河川の閉塞、その後の2回にわたる決壊によって、下流域に大災害をもたらしました。この地震は、岐阜県北部、富山県境に近い跡津川断層の活動によるものと推定され、この断層沿いでは家屋の倒壊率が50%を越え、中沢上および森安では100%の倒壊率であり、震度7相当が推定されています。これにより、死者426人、負傷646人、家屋の全半壊・流失2,190戸と甚大な被害が出ました。
 この地震は、1854年(嘉永7年11月4日)の安政東海地震(マグニチュード8.4)、翌日の安政南海地震(マグニチュード8.4)を機に元号が「安政」に改められた後、11月7日の豊予海峡地震(マグニチュード7.4)、翌安政2年2月1日の飛騨地震(マグニチュード6.8)、10月2日の安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)、安政3年7月23日の安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)、安政4年8月25日の伊予大震(マグニチュード7.3)などの連続した大きな一連の地震の一つとされ、これらを含めて「安政の大地震」とも呼ばれています。

〇一連の「安政の大地震」(日付は旧暦です)

・1854年(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震(マグニチュード7.0)
・1854年(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(マグニチュード8.4)
・1854年(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(マグニチュード8.4)
・1854年(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震(マグニチュード7.4)
・1855年(安政2年2月1日)- 飛騨地震(マグニチュード6.8)
・1855年(安政2年8月3日)- 陸前で地震
・1855年(安政2年9月28日)- 遠州灘で地震(安政東海地震の最大余震)
・1855年(安政2年10月2日)- 安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)
・1856年(安政3年7月23日)- 安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)
・1856年(安政3年10月7日)- 江戸で地震
・1857年(安政4年閏5月23日)- 駿河で地震
・1857年(安政4年8月25日)- 伊予大震(マグニチュード7.3)
・1858年(安政5年2月26日)- 飛越地震(マグニチュード7.0~7.1)
・1858年(安政5年5月28日)- 八戸沖で地震

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)「日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

shyoudakenjirou01
 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の生まれた日です。
 正田建次郎(しょうだ けんじろう)は、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれました。東京府立第四中学校、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に入学し、高木貞治の指導を受けます。
 1926年(大正15)にドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究、1929年(昭和4)に日本へ帰国しました。1931年(昭和6)に理学博士となり、1932年(昭和7)には、『抽象代数学』を刊行して、日本における数学の現代化の先頭に立つ人物となります。
 1933年(昭和8)に大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任し、群論、多元環論について活発な研究発表を行いました。1946年(昭和21)に日本数学会初代会長に就任、1949年(昭和24)には、「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)に日本学術会議会員、日本学士院会員となり、1954年(昭和29)には、第6代大阪大学総長に就任、1960年(昭和35)には、大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に東京女子大が教授となりましたが、1962年(昭和37)には、初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰し、京都大学数理解析研究所教授を兼任しています。
 1965年(昭和40)に大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任、1968年(昭和43)には、東京都教育委員ともなりました。1969年(昭和44)に文化勲章を受章、文化功労者となり、1974年(昭和49)には、勲一等瑞宝章を受章します。
 1975年(昭和50)に武蔵学園学園長となったものの、1977年(昭和52)3月20日に、75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、上皇明仁の皇后美智子の伯父にあたります。

〇正田建次郎の主要な著作

・『抽象代数学』(1932年)
・『代数学提要』(1944年)
・『数学へのみち』(1962年)
・『多元数論入門』(1968年)

☆正田建次郎略年表

・1902年(明治35)2月25日 群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれる
・1919年(大正8) 東京府立第四中学校を卒業する
・1922年(大正11) 旧制第八高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部数学科に入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学理学部数学科を卒業する
・1926年(大正15) ドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究する
・1929年(昭和4) 日本へ帰国する
・1931年(昭和6) 理学博士となる
・1932年(昭和7) 『抽象代数学』を刊行する
・1933年(昭和8) 大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任する
・1946年(昭和21) 日本数学会初代会長に就任する
・1949年(昭和24) 「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本学術会議会員、日本学士院会員となる
・1954年(昭和29) 第6代大阪大学総長に就任する
・1960年(昭和35) 大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 東京女子大が教授となる
・1962年(昭和37) 初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰、京都大学数理解析研究所教授を兼任する
・1965年(昭和40) 大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 東京都教育委員となる
・1969年(昭和44) 文化勲章を受章、同時に文化功労者となる
・1974年(昭和49) 勲一等瑞宝章を受章する
・1975年(昭和50) 武蔵学園学園長となる
・1977年(昭和52)3月20日 75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ