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 今日は、室町時代の1482年(文明14)に、室町幕府第8代将軍足利義政が、東山に慈照寺観音殿(銀閣寺)の造営を開始した日ですが、新暦では2月21日となります。
 慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある銀閣寺の正称で、室町幕府第8代将軍足利義政の山荘東山殿を義政の死後、1490年(延徳2)に遺言により禅寺に改めて開創されたものです。宗派は臨済宗相国寺派、本尊は釈迦如来で、初期書院造りの遺構である東求堂と、2層の観音殿(銀箔を押す計画があったところから、銀閣と呼ばれている)からなり、いずれも1951年(昭和26)に国宝に指定されました。
 また、瀟湘八景の意匠による庭園は相阿弥の造築で、室町時代の東山文化を代表する名園として知られており、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。そして、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

〇足利義政(あしかが よしまさ)とは?

 室町時代の室町幕府第8代将軍です。1436年(永享8)1月2日に、室町幕府第6代将軍の父・足利義教の五男(母は日野重子)として生まれましたが、幼名は三春丸と言いました。
 1441年(嘉吉元)の嘉吉の乱で父・義教が赤松満祐に暗殺され、兄義勝が第7代将軍となります。しかし、1443年(嘉吉3)にの兄の急死により、わずか8歳の幼少で細川持賢、畠山持国、山名持豊ら宿老に擁立されて家督を継ぎ、将軍継嗣と定められました。
 1446年(文安3)に後花園天皇から義成(よししげ)と命名され、従五位上に叙任、1448年(文安5)に左馬頭となります。翌年には、15歳で元服して第8代将軍となり、参議・左中将を兼ねました。
 1453年(享徳2)に義政と改名、1460年(寛正元)に左大臣、1464年(寛正5)に准后宣下を受けます。当初子供がなく、同年に弟義視(よしみ)を後嗣に定めましたが、翌年に妻日野富子が義尚を生み、これを将軍にしようとして応仁の乱(1467~77年)の一因となり、執政が乱れました。
 1473年(文明5)には嫡子の義尚に将軍を譲りますが、実権は理財の才に優れた妻富子が握ります。その後、京都東山に山荘を造り、ここに慈照寺(銀閣寺)を建て、1483年(文明15)に移り住んで、東山殿と称されました。
 1485年(文明17)に出家、戦乱をよそに芸能風流を好み、文化人を庇護、茶の湯、絵画、能などを育て、いわゆる東山文化が栄える契機となります。1489年(延徳元)、義尚が近江陣中に没すると政務に復帰しましたが、幕政を立て直せぬまま、1490年(延徳2)1月7日、京都において、55歳で亡くなりました。

☆「古都京都の文化財」(こときょうとのぶんかざい)とは?

 京都府(京都市・宇治市)、滋賀県大津市の2府県3市に点在する17件[賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、教王護国寺(東寺)、清水寺、延暦寺、醍醐寺、仁和寺(別称・御室御所)、平等院、宇治上神社、高山寺、西芳寺(別称・苔寺)、天龍寺、鹿苑寺(相国寺塔頭、別称・金閣寺)、慈照寺(相国寺塔頭、別称・銀閣寺)、龍安寺(妙心寺塔頭)、西本願寺(本願寺)、二条城]から構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)で、日本では5件目として登録されました。古都京都は、桓武天皇が、794年(延暦13)の平安京遷都によって都市の基盤ができ、1,000年以上に渡って、文化・経済・政治の中心として繁栄します。
 そのために、平安時代~江戸時代に至る各時代の文化的背景を伝える貴重な建物や庭園が数多く残されてきました。首都として栄え、文化、宗教、産業などの面で先進性を保っていたことを今日まで伝える、貴重な建造物群や庭園などがその歴史的価値を認められ、世界遺産に登録されたのです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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