ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2024年01月

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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、神田松枝町大火が起き、10,673戸を焼失し、36,542人の被災者を出した日です。
 神田松枝町大火(かんだまつえだちょうたいか)は、東京府神田区松枝町(現在の東京都千代田区岩本町)で発生した大火で、両国の大火とも呼ばれてきました。この日の午前1時半頃、松枝町22番地から出火し、折から北西の強風にあおられて瞬く間に松枝町周辺を焼き尽し、北へ延びて岩本町へ、斜めに東南方向へ転じて大和町から元岩井町さらに江川町方面へと一挙に拡大し、元岩井町に伸びた火は更に周辺の町々に延焼し東神田一帯を焼き尽くします。
 さらに、日本橋馬喰町、横山町へと延焼し、神田川沿いの元柳町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及びました。この火は、出火より16時間半後の午後6時10分にようやく鎮火しましたが、神田、日本橋、本所、深川の4区、52ヶ町421,400㎢、10,673戸を全焼、36,542人の被災者という甚大な被害となります。
 明治時代最大の大火で、これ以降東京では、1万戸以上を焼失したのは、関東大震災、東京大空襲以外ありません。火災後に作成された都市計画では、水路の新設や民有地の買い上げなどによる道路拡張などにより市街火災防禦線を設置し、路線防火制の確立が目指されます。また、同年2月25日に、「東京防火令」が発布されたことと相まって、東京の防火対策は改善され、明治20年以降、大火の発生は大きく減少しました。

〇明治時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田松枝町大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1944年(昭和19)内務省が「(改正)防空法」により、東京と名古屋に初の建物疎開の命令を出す詳細
1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入した日です。
 三井三池争議(みついみいけそうぎ)は、三井鉱山三池鉱業所(福岡県大牟田市)で起こった労働争議のことで、1953年(昭和28)にも大規模なものが有りましたが、一般的には、1959年(昭和34)から翌年にかけてのものを指します。石炭から石油へのエネルギー転換政策を背景に、1955年(昭和30)に「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになりました。
 1959年(昭和34)、石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切ります。その中で、1959年(昭和34)1月19日、三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示し、同年8月29日には4,580人の人員削減案を発表しました。
 続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人に対し12月11日に指名解雇を通告します。しかし、そこには労働組合つぶしをねらった、約300人の職場活動家の解雇問題がありました。
 労働組合側はこれに強く反発し、日本労働組合総評議会(総評)、日本炭鉱労働組合 (炭労) の支援で白紙撤回を要求して対立し、会社側は翌年1月25日に、同鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入します。財界が三井鉱山を全面的に支援、一方、日本労働組合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支援し、全国から応援されたので、この争議は“総資本対総労働の対決”などと呼ばれ、折からの安保反対闘争と結びついて大規模な闘いとなりました。
 しかし、1960年(昭和35)3月に三池労組内に第2組合が結成されるなど労働組合側の足並みが乱れ、中央労働委員会の斡旋も不調に終わります。最後は、三川坑のホッパー(貯炭槽)を巡っての対立となり死傷者も出ましたが、同年11月1日に、会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件で、282日に及ぶストライキは中止され、終結に向かいました。

〇三井三池争議関係略年表

・1955年(昭和30) 「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになる
・1959年(昭和34) 石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切る
・1959年(昭和34)1月19日 三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示する
・1959年(昭和34)8月29日 4,580人の人員削減案を発表する
・1959年(昭和34)12月2日・3日 1,492人に退職を勧告する
・1959年(昭和34)12月11日 退職勧告に応じない1,278人に対し指名解雇を通告する
・1960年(昭和35)1月25日 会社側は三井鉱山鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入する
・1960年(昭和35)3月17日 三池労組内に第2組合(三池炭鉱新労働組合:三池新労)が結成される
・1960年(昭和35)3月18日 三井鉱山社員労組連合会(三社連)は炭労を脱退し、正式にストから離脱する
・1960年(昭和35)3月29日 ピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺される
・1960年(昭和35)4月6日 中労委から出された斡旋案(藤林斡旋案)に対し、三鉱連内部でその取扱が分かれる
・1960年(昭和35)4月9日 炭労臨時大会では、強行に闘争完遂を訴える三池労組に対し、他の5労組(美唄、芦別、田川、砂川、山野)は、早期妥結を求めたため、対立する
・1960年(昭和35)4月18日 三池労組は三鉱連を脱退する
・1960年(昭和35)7月7日 石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下す
・1960年(昭和35)8月10日 中央労働委員会は、会社は指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという斡旋案を発表する
・1960年(昭和35)11月1日 会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件でストライキが中止される

☆三池炭鉱(みいけたんこう)とは?

 福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていたのです。明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発してきました。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成したのです。太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に「三井三池争議」が勃発して、大きな社会問題となりました。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出したことが知られています。その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至りました。閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されています。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されました。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されています。 

☆三井三池炭鉱三川鉱の爆発事故とは?

 昭和時代中期の1963年(昭和38)に、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出した事故の事です。
 この日の午後3時12分に、第1斜坑で石炭を満載した炭車の連結器が破断して炭車が暴走し、坑内に積もっていた炭塵が舞い上がって、それに引火爆発しました。
 当時坑内には、約1,400人の労働者が従事していて、458人が死亡(爆死20人、一酸化炭素中毒死438人)し、救出された940人の内、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出しましたが、犠牲者数は戦後日本の炭坑爆発事故中最大のものです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、大逆事件によって、幸徳秋水ら11名の処刑が行われた日です。
 大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治時代後期の1910年(明治43)に、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われてきました。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴します。
 同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡しました。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、世界中の抗議の内に、1月24日に幸徳秋水、宮下太吉ら11名、25日に管野スガが処刑されます。
 実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞しました。

〇幸徳 秋水(こうとく しゅうすい)とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

☆大逆事件判決理由書 (抄文)  1911年(明治44)1月18・19日判決言い渡し

主文

右幸徳伝次郎外二十五名に対する刑法第七十三条の罪に該当する被告事件審理を遂げ、判決すること左の如し。
被告幸徳伝次郎、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、坂本清馬、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、松尾卯一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎、内山愚童、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治を各死刑に処し、被告新田融を有期懲役十一年に処し、被告新村善兵衛を有期懲役八年に処す。
差押物件中、鉄葉整小鑵二個、同切包一個、同紙包二個、鉄製小鑵一個、鶏冠石紙包一個、同鑵入一個、調合剤二十三匁、塩酸加里九十二匁は之を没収す。
公訴に関する訴訟費用の全部は、被告人共之を連帯負担すべし。
没収に係らざる差押物件は、各差出人に還付す。

理由

被告幸徳伝次郎は別に社会主義を研究して明治三十八年北米合衆国に遊び、深く其の地の同主義者と交り、遂に無政府共産主義を奉ずるに至る。其帰朝するや専ら力を同主義の伝播に致し、頗る同主義者の間に重ぜられて隠然其首領たる観あり。管野スガは数年前より社会主義を奉じ、一転して無政府共産主義に帰するや漸く革命思想を懐き1908年世に所謂錦輝館赤旗事件に坐して入獄し、無罪の判決を受けたりと雖も、忿伊恚の情禁じ難く心ひそかに報復を期し、一夜その心事を幸徳に告げ、幸徳は協力事を挙げんことを約し、且つ夫妻の契りを結ぶに至る。その他の被告人もまた概ね無政府共産主義をその信条となす者、若しくは之を信条となすに至らざるもその臭味を帯びる者にして、其中幸徳を崇拝し若しくは之と親交を結ぶ者多きに居る。
明治四十一年六月廿二日、「錦輝館赤旗事件」と称する官吏抗拒及び治安警察法違反被告事件発生し、数人の同主義者獄に投ぜられ、遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察吏の処置と裁判とに平ならず、其報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈々盛にして、秘密出版の手段に依る過激文書相次で世に出で、当局の警戒注視益々厳密を加うるの已むを得ざるに至る。是に於て被告人被告人共の中、深く無政府共産主義に心酔する者、国家の権力を破壊せんと欲せば先ず元首を除くに若くなしとなし、凶逆を逞うせんと欲し、中道にして兇謀発覚したる顛末は即ち左の如し。

第一

明治四十一年六月二十二日錦輝館赤旗事件の獄起るや、被告幸徳伝次郎は時に帰省して高知県幡多郡中村町に在り、当局の処置を憤慨して其後図を為さんと欲し、其訳する所の無政府共産主義者ペートル・クロポトキン原著『パンの略取』と題する稿本を携え、七月上京の途に就き、被告大石誠之助を迂路和歌山県東牟婁新宮町に訪ひ、誠之助及び被告成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一と会見して、政府の迫害甚しきに由り反抗の必要なることを説き、越へて八月新宮を去りて、被告内山愚童を箱根林泉寺に訪ひ、赤旗事件報復の必要なることを談じ、帰京の後、東京府豊多摩郡淀橋町柏木に卜居し、尋て同府北豊多摩郡巣鴨町に転住して、同主義者に対し常に暴力の反抗必要なる旨を唱道せり。
同年九月、被告森近運平、坂本清馬上京して伝次郎の宅に客居す。初運平は無政府共産主義を奉じ、大阪に在りて『大阪平民新聞』或は『日本平民新聞』と称したる社会主義の新聞を発刊し、又定時茶話会を開き無政府共産説を鼓吹す。偶々被告宮下太吉心を同主義に傾けたるも、皇室前途の解決に付て惑ふ所あり、明治四十年十二月十三日、運平を大阪平民社に訪うて之を質す。運平、即ち帝国紀元の史実信するに足らざることを説き、自ら太吉をして不臣の念を懐くに至らしむ。其後太吉は内山愚童出版の『入獄紀念・無政府共産』と題する暴慢危激の小冊子を携へ、東海道大府駅に到り、行幸の鹵簿(ろぼ)を拝観する群集に頒与し、且之に対して過激の無政府共産説を宣伝するや、衆皆傾聴するの風あれども、言一たび皇室の尊厳を冒すや、復耳を仮す者なきを見て心に以為く、帝国の革命を行んと欲すれば、先ず大逆を犯し、以て人民忠愛の信念を殺ぐに若かずと。是に於て太吉は爆裂弾を造り大逆罪を犯さんことを決意し、明治四十一年十一月十三日其旨を記し、且つ
一朝東京に事あらば直ちに起て之に応ずべき旨を記したる書面を運平に送り、運平は之を伝次郎に示し、且つ太吉の意思強固なることを推奨したるに、伝次郎は之を聴て喜色あり。是時に当り被告大石誠之助上京して被告伝次郎及び被告菅野すがを診察し伝次郎の余命永く保つべからざることを知る。伝次郎之を聞て心大に決する所あり。十一月十九日誠之助の伝次郎を訪ふや伝次郎は運平、誠之助に対し、赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪の財を奪ひ貧民を賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ宮城に迫りて大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平、誠之助は之に同意したり。同月中、被告松尾卯一太も亦事を以て出京し一日伝次郎を訪問して、伝次郎より前記の計画あることを聴て、均しく之に同意したり。
是に於て被告伝次郎は更に其顛末を被告新村忠雄及び清馬に告げ、特に清馬に対しては各地に遊説して決死の士を募るべきことを勧告したり。忠雄は伝次郎より無政府共産主義の説を聴て之を奉じ、深く伝次郎を崇信す。曽て群馬県高崎市に於て『東北評論』と称する社会主義の新聞を発行し、其印刷人となりて主義の鼓吹に努め、信念最も熱烈なり。又清馬は明治四十年春頃より 無政府共産説を信じて、伝次郎方に出入し、其後熊本評論社に入り、同社発行の『熊本評論』に過激の論説を掲載して、主義の伝播に力め、赤旗事件発生の後上京して、伝次郎方に寄食し、前示伝次郎の勧説に接するや其逆謀に同意し奮て決死の士を募らんことを快諾したり。然れども其後事を以て伝次郎と隙を生じ遂に伝次郎方を去りて宮崎県に往き、或は熊本県に入りて松尾卯一太方に寄食し、卯一太及び被告飛松与次郎等に対し暴慢危激の言を弄し、更に各地に放浪したる。明治四十三年三月に至り、佐藤庄太郎を東京市下谷区万年町2丁目の寓居に訪ふて、爆裂弾の製法を問へり。
同年十二月、被告伝次郎は『パンの略取』を出版す。又被告すがは、近日当局の同主義者に対する圧抑益甚しと為して之を憤激し、爆裂弾を以て大逆罪を犯し、革命の端を発せんと欲する意思を懐き、一夜伝次郎を巣鴨町に訪うて之を図る。伝次郎は喜んで之に同意し、協力事を挙げんことを約し、且告ぐるに宮下太吉が爆裂弾を造りて、大逆を行はんとする計画あること、及び事起るときは紀州と熊本とに決死の士出づべきことを以てせり。
明治四十二年一月十四日、被告愚童は上京して伝次郎を訪ふ。伝次郎は欧字新聞に載せたる爆裂弾図を愚童に貸与し、清馬と共に之を観覧せしむ。翌日愚童は転じて東京府豊多摩軍淀橋町柏木に往きすがを訪ふ、すがは之に対して、若し爆裂弾あらば直に起て一身を犠牲に供し革命運動に従事すべき旨を告げ愚童の賛否を試む。
同年二月十三日被告太吉は上京して、被告伝次郎を訪ひ予定の逆謀を告ぐ。当時伝次郎は未だ深く太吉を識らざりしを以て故らに不得要領の答を為し、其去るに及んで之をすが及び忠雄に語り、太吉の決意を賞揚しすがは聴て大に之を喜び忠雄は感奮して心に自ら其挙に加らんことを誓ふ。又太吉は当時運平が伝次郎方を去りて巣鴨町に寓居したるを訪ひ、逆謀を告ぐ。運平は家に係累者ありて実行に加ふること能はざるを概し、且被告古河力作が曾て桂総理大臣を刺さんと欲し、単身匕首を懐にして、其官邸を覗ひたる事実を語り、其軀幹矮小なれども胆力は以て事を共にするに足るべしと賞揚して暗に推薦の意を諷したり。越へて五月中被告太吉は愛知県知多郡亀崎町に在りて松原徳重なる者より、爆裂薬は塩酸加里十匁、鶏冠石五匁の割合を以て配合すべき旨を聞きたるに因り、爆裂薬の製法を知り得たるを以て、主義の為めに斃るべき旨を伝次郎に通信す時に、被告すがは伝次郎と同棲し、其旨を承けて太吉に成功を喜ぶ旨返信し、且附記するに自己も同一の決心あることを以てしたり。
同年六月被告太吉は亀崎町より長野県東筑摩郡中川手村明科所在長野大林区署明科製材所に転勤の途次東京に出づ、是より先伝次郎は再び居を東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町に移す。六日・七日の両日太吉は、伝次郎を訪ひ、伝次郎及びすがに対して逆謀の経路を詳説し、伝次郎・すがの両人は忠雄及び力作は各勇敢の人物なることを説き、之を太吉に推薦したり。
(以下略)

 ※縦書きの原文を横書きにし、句読点を付してあります。

      「日本政治裁判史録」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1865年(元治2)長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1942年(昭和17)「国民錬成所官制」により、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとされる詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1570年(永禄13)に、織田信長が殿中御掟追加5か条を室町幕府第15代将軍足利義昭に示した日ですが、新暦では2月27日となります。
 「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭に承認させた掟であり、1569年(永禄12年1月14日)に9か条、2日後の16日に追加7か条が出されましたが、制定した後も義昭はこれを守ることをしなかったので、新たに、1570年(永禄13年1月23日)に5か条が追加され、計21か条となりました。これによって、義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないようにして、必ず信長の副状をつけることや義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し、再検討すべきことなどを定め、将軍としての権限を大幅に制約するものとなります。
 しかし、その後も義昭がこれらの殿中御掟を遵守した形跡もありませんでした。
 以下に、「殿中御掟」の追加を含めた21か条を現代語訳付で掲載しておきますからご参照下さい。

〇「殿中御掟9か条」 1569年(永禄12年1月14日)

・不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
・公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
・惣番衆、面々可有祗候事
・各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
・公事篇内奏御停事之事
・奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
・公事可被聞召式目、可為如前々事
・閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
・諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りとする。
・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
・訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・奉公衆が出した結論を将軍が一存で決めてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・訴訟規定は従来通りとする。
・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

〇「殿中御掟追加7か条」 1569年(永禄12年1月16日)

・寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
・請取沙汰停止事
・喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
・理不尽入催促儀堅停止事
・直訴訟停止事
・訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
・於当知行之地者、以請文上可被成御下知事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・(幕臣が)寺社本所領を押領することを停止すること。
・請取沙汰を停止する事。
・喧嘩口論の禁止、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものは同罪。
・理不尽に催促する事の禁止。
・将軍が訴訟を直接取り扱う事を禁止。
・もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと。
・占有地については関係を把握して差配すること。

〇「殿中御掟追加5か条」1570年(永禄13年1月23日)

・諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
・御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
・公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
・天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
・天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

<現代語訳>

・諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。
・これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。
・天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(天下静謐のための軍事的行動について信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
・天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。

  「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1914年(大正3)第31帝国議会で島田三郎議員がシーメンス社の日本海軍への贈賄を追及する(シーメンス事件)詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、歴史学者網野善彦が生まれた日です。
 網野善彦(あみの よしひこ)は、山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)において、江戸時代から続く地主網野家の父・勝丸の末男として生まれました。幼少期に東京市麻布区桜田町(現在の東京都港区西麻布)へ転居し、白金小学校卒業後、1940年(昭和15)に旧制東京高等学校尋常科(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)へ入学します。
 1947年(昭和22)に東京大学文学部国史学科へ入学し、学生時代は石母田正に私淑すると共に学生運動にも参加しました。1950年(昭和25)に卒業後、財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務しましたが、1954年(昭和29)に水産庁からの予算打ち切りが決まると研究所を辞めます。
 1955年(昭和30)に永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務、1956年(昭和31)には正式の教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務めました。1966年(昭和41)に『中世荘園の様相』を著し、1967年(昭和42)には、東京都立北園高等学校を退職し、名古屋大学文学部助教授に就任、名古屋に転居します。
 1973年(昭和48)に中世史研究会発足に参加、1978年(昭和53)には、『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録しました。1979年(昭和54)に神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任、1980年(昭和55)には、神奈川大学短期大学部教授に就任します。
 1984年(昭和59)に『日本中世の非農業民と天皇』を刊行、1989年(平成元)には、絵本『河原にできた中世の町 へんれきする人びとの集まるところ』で第36回産経児童出版文化賞美術賞、絵本『瓜と龍蛇 いまは昔 むかしは今』で第43回毎日出版文化賞を受賞しました。1992年(平成4)にビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』で、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞、1993年(平成5)に神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設、1995年(平成7)には、神奈川大学経済学部特任教授となります。
 1998年(平成10) 神奈川大学を定年退職し、2000年(平成12)には、『日本の歴史〈』(講談社刊)の第1回配本、『日本とは何か』が10万部を超えたものの、肺癌だと分かり闘病生活に入りました。“網野史学”と呼ばれる民衆史の観点からの新たな日本史像を作り上げましたが、2004年(平成16)2月27日に、東京都内の病院において、76歳で亡くなっています。

〇網野善彦の主要な著作

・『中世荘園の様相』(1966年)
・『日本の歴史 第10巻 蒙古襲来』(1974年)
・『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』(1978年)
・『中世東寺と東寺領荘園』(1978年)
・『日本中世の民衆像』(1980年)
・『日本中世の非農業民と天皇』(1984年)
・『異形の王権』(1986年)
・絵本『瓜と龍蛇 いまは昔 むかしは今』(1989年)第43回毎日出版文化賞受賞
・『日本の歴史をよみなおす』正・続(1991・1996年)
・『日本社会の歴史』(1997年)
・『日本社会の歴史』全3巻(1997年)
・『日本中世の百姓と職能民』(1998年)
・『日本の歴史〈00〉 『日本』とは何か』(2000年)

☆網野善彦関係略年表

・1928年(昭和3)1月22日 山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)において、江戸時代から続く地主網野家の父・勝丸の末男として生まれる
・1940年(昭和15) 旧制東京高等学校尋常科(現在の東京大学教育学部附属中等教育学校)へ入学する
・1947年(昭和22) 東京大学文学部国史学科へ入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文学部史学科を卒業、財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務する
・1954年(昭和29) 水産庁からの予算打ち切りが決まると日本常民文化研究所を辞める
・1955年(昭和30) 永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務する
・1956年(昭和31) 東京都立北園高等学校の教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務める
・1966年(昭和41) 『中世荘園の様相』を著す
・1967年(昭和42) 東京都立北園高等学校を退職し、名古屋大学文学部助教授に就任、名古屋に転居する
・1973年(昭和48) 中世史研究会発足に参加する
・1978年(昭和53) 『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録する
・1979年(昭和54) 神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任する
・1980年(昭和55) 神奈川大学短期大学部教授に就任する
・1984年(昭和59) 『日本中世の非農業民と天皇』を刊行する
・1989年(平成元) 絵本『河原にできた中世の町 へんれきする人びとの集まるところ』で第36回産経児童出版文化賞美術賞受賞、絵本『瓜と龍蛇 いまは昔 むかしは今』で第43回毎日出版文化賞を受賞する
・1992年(平成4) ビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』で、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞する
・1993年(平成5) 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設する
・1995年(平成7) 神奈川大学経済学部特任教授となる
・1998年(平成10) 神奈川大学を定年退職する
・2000年(平成12) 『日本の歴史〈』(講談社刊)の第1回配本、『日本とは何か』が10万部を超え、肺癌だと分かり闘病生活に入る
・2004年(平成16)2月27日 東京都内の病院において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20)東京電燈会社が営業開始し、移動式発電機により鹿鳴館に日本初の電灯が灯る詳細
1893年(明治26)歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の命日詳細
1925年(大正14)第50回帝国議会で加藤高明首相の普通選挙法提案理由の説明がなされる詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア美術家同盟(AR)が結成される詳細
1941年(昭和16)「人口政策確立要綱」を閣議決定し、1夫婦の出産目標数を平均5児とする詳細
1993年(平成5)小説家・劇作家・演出家安部公房の命日詳細

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