
大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は、愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれましたが、1944年(昭和19)に父が亡くなりました。1950年(昭和25)に愛媛県立内子高校に入学、1951年(昭和26)の二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合います。
1953年(昭和28)に卒業後、1年浪人して、1954年(昭和29)に東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆し、1956年(昭和31)には、フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事しました。1957年(昭和32)に東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、1958年(昭和33)には、『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞します。
1959年(昭和34)に卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行、1960年(昭和35)には、安保批判の会、若い日本の会に参加、『大江健三郎集』を刊行しました。1961年(昭和36)に東欧、西欧、ソビエトを旅行、翌年に紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行、1964年(昭和39)には、『個人的な体験』により、第11回新潮社文学賞を受賞します。
1965年(昭和40)にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をし、1966年(昭和41)には、『大江健三郎全集』全6巻を刊行しました。1967年(昭和42)に『万延元年のフットボール』で、第3回谷崎潤一郎賞を受賞、1968年(昭和43)には、オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行します。
1970年(昭和45)に『沖縄ノート』を刊行、1971年(昭和46)には、広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊しました。1973年(昭和48)に書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』で、第26回野間文芸賞を受賞、1975年(昭和50)には、韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをしています。
1976年(昭和51)に芥川賞選考委員(~1984年)となり、1977年(昭和52)に、『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行、1978年(昭和53)には、朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)しました。1982年(昭和57)に連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』で第34回読売文学賞、1983年(昭和58)には、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞しています。
1989年(平成元)にEC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞、1990年(平成2)には、芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』で第1回伊藤整文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞、1994年(平成6)には、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退しています。
1996年(平成8)に米プリンストン大学の客員講師となり、翌年には、米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国しました。2002年(平成14)に仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞、2003年(平成15)に仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判、2004年(平成16)には、加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加します。
2005年(平成17)に「大江健三郎賞」創設を発表、2007年(平成19)に『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞、2009年(平成21)には、『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞しましたが、2023年〈令和5〉3月3日に、老衰のため88歳で亡くなりました。
1953年(昭和28)に卒業後、1年浪人して、1954年(昭和29)に東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆し、1956年(昭和31)には、フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事しました。1957年(昭和32)に東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、1958年(昭和33)には、『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞します。
1959年(昭和34)に卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行、1960年(昭和35)には、安保批判の会、若い日本の会に参加、『大江健三郎集』を刊行しました。1961年(昭和36)に東欧、西欧、ソビエトを旅行、翌年に紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行、1964年(昭和39)には、『個人的な体験』により、第11回新潮社文学賞を受賞します。
1965年(昭和40)にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をし、1966年(昭和41)には、『大江健三郎全集』全6巻を刊行しました。1967年(昭和42)に『万延元年のフットボール』で、第3回谷崎潤一郎賞を受賞、1968年(昭和43)には、オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行します。
1970年(昭和45)に『沖縄ノート』を刊行、1971年(昭和46)には、広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊しました。1973年(昭和48)に書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』で、第26回野間文芸賞を受賞、1975年(昭和50)には、韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをしています。
1976年(昭和51)に芥川賞選考委員(~1984年)となり、1977年(昭和52)に、『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行、1978年(昭和53)には、朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)しました。1982年(昭和57)に連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』で第34回読売文学賞、1983年(昭和58)には、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞しています。
1989年(平成元)にEC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞、1990年(平成2)には、芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』で第1回伊藤整文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞、1994年(平成6)には、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退しています。
1996年(平成8)に米プリンストン大学の客員講師となり、翌年には、米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国しました。2002年(平成14)に仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞、2003年(平成15)に仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判、2004年(平成16)には、加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加します。
2005年(平成17)に「大江健三郎賞」創設を発表、2007年(平成19)に『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞、2009年(平成21)には、『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞しましたが、2023年〈令和5〉3月3日に、老衰のため88歳で亡くなりました。
〇大江健三郎の主要な著作
・『奇妙な仕事』(1957年)五月祭の懸賞小説入賞
・『死者の奢り』(1957年)
・『他人の足』(1957年)
・『飼育』(1958年)第39回芥川龍之介賞受賞
・『性的人間』(1963年)
・『個人的な体験』(1964年)第11回新潮社文学賞受賞
・ルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』(1964~65年)
・随筆集『厳粛な綱渡り』(1965年)
・『万延元年のフットボール』(1967年)第3回谷崎潤一郎賞受賞
・『沖縄ノート』(1970年)
・『洪水はわが魂に及び』(1973年)第26回野間文芸賞受賞
・『ピンチランナー調書』(1976年)
・『同時代ゲーム』(1978年)
・短編連作『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982年)第34回読売文学賞受賞
・『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)第10回大佛次郎賞受賞
・『懐かしい年への手紙』(1987年)
・『人生の親戚』(1990年)第1回伊藤整文学賞受賞
・三部作『燃えあがる緑の樹』(1993~95年)
☆大江健三郎関係略年表
・1935年(昭和10)1月31日 愛媛県喜多郡大瀬村(現在の内子町)において、父・大江好太郎、母・小石の三男として生まれる
・1944年(昭和19) 父・好太郎が亡くなる
・1947年(昭和22) 大瀬中学に入学する
・1950年(昭和25) 愛媛県立内子高校に入学する
・1951年(昭和26) 二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校し、文芸部で雑誌「掌上」を編集、伊丹十三と知り合う。
・1953年(昭和28) 松山東高校を卒業、東京大学を受験するが、試験を途中で放棄し帰郷、神奈川県の藤沢に下宿し、浪人生活を送る
・1954年(昭和29) 東京大学文科二類に入学、東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」を執筆する
・1955年(昭和30) 「火山」を<学園>九月号に発表、脚本「夏の休暇」執筆する
・1956年(昭和31) フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事、脚本「死人に口なし」、「獣たちの声」執筆する
・1957年(昭和32) 東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」(「獣たちの声」を小説化したもの)が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー、「死者の奢り」、「他人の足」、「石膏のマスク」、「偽証の時」、戯曲「動物倉庫」を発表する
・1958年(昭和33) 「飼育」、「人間の羊」、「運搬」を発表。『死者の奢り』を刊行、「飼育」により第39回芥川龍之介賞を受賞する
・1959年(昭和34) 卒論「サルトルの小説におけるイメージについて」を書いて、東京大学を卒業、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する
・1960年(昭和35) 安保批判の会、若い日本の会に参加、短編集『孤独な青年の休暇』、長編『青年の汚名』、『大江健三郎集』を刊行する
・1961年(昭和36) 東欧、西欧、ソビエト旅行をする
・1962年(昭和37) 長編『遅れてきた青年』、紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』を刊行する
・1963年(昭和38) 長編『叫び声』を刊行する
・1964年(昭和39) 長編『日常生活の冒険』、書き下ろし長編『個人的な体験』を刊行、『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞する
・1965年(昭和40) エッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』を刊行、夏から初冬まで米国旅行をする
・1966年(昭和41) 『大江健三郎全集』全6巻を刊行する
・1967年(昭和42) 『万延元年のフットボール』を刊行、第3回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1968年(昭和43) オーストラリア旅行をし、エッセイ集『持続する志』を刊行する
・1969年(昭和44) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を刊行する
・1970年(昭和45) 評論『壊れものとしての人間-活字のむこうの暗闇』、講演集『核時代の想像力』、『沖縄ノート』を刊行する
・1971年(昭和46) 広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』を刊行、大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊「沖縄経験」を創刊する
・1972年(昭和47) 全エッセイ集『鯨の死滅する日』を刊行する
・1973年(昭和48) 書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』を刊行、第26回野間文芸賞を受賞する
・1974年(昭和49) 評論集『状況へ』、『文学ノート 付=15篇』を刊行する
・1975年(昭和50) 韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込みをする
・1976年(昭和51) 評論集『言葉によって 状況・文学*』、長編『ピンチランナー調書』を刊行、芥川賞選考委員となる
・1977年(昭和52) 『大江健三郎全作品』第二期・全6巻を刊行する
・1978年(昭和53) 朝日新聞の文芸時評担当(~1979年)、評論『小説の方法』、評論集『表現する者 状況・文学**』を刊行する
・1979年(昭和54) 書き下ろし『同時代ゲーム』を刊行する
・1980年(昭和55) 評論集『方法を読む=大江健三郎文芸時評』、中短編集『現代伝奇集』、『大江健三郎同時代論集』全十巻を刊行する
・1982年(昭和57) 講演集『核の大火と「人間」の声』、連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』を刊行、第34回読売文学賞を受賞する
・1983年(昭和58) カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在、『新しい人よ眼ざめよ』で第10回大佛次郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 芥川賞選考委員を辞任する
・1985年(昭和60) 『河馬に噛まれる』を刊行する
・1987年(昭和62) 書き下ろし長編『懐かしい年への手紙』を刊行する
・1988年(昭和63) 新潮5月号にて江藤淳、開高健、石原慎太郎の四人で座談会を開く
・1989年(平成元) EC文学賞、ユーロパリア文学賞(ベルギー)を受賞する
・1990年(平成2) 芥川賞選考委員に復帰、『人生の親戚』にて第1回伊藤整文学賞を受賞する
・1991年(平成3) 政府の湾岸戦争貢献策批判の声明を出す
・1992年(平成4) 『僕が本当に若かった頃』、『人生の習慣』を刊行する
・1993年(平成5) 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』でモンデッロ賞(イタリア)を受賞する
・1994年(平成6) 長男光の作曲家としての成功を期に小説執筆の終止を宣言、ノーベル文学賞を受賞、文化勲章と愛媛県の賞を辞退する
・1995年(平成7) 朝日賞を受賞、ノーベル賞記念講演『あいまいな日本の私』を刊行する
・1996年(平成8) 作曲家武満徹の告別式で作家復帰を宣言、エッセイ集『ゆるやかな絆』を刊行、米プリンストン大学の客員講師となる
・1997年(平成9) 米国芸術アカデミーの外国人名誉会員となり、日本へ帰国する
・1998年(平成10) 『私という小説家の作り方』を刊行する
・1999年(平成11) ベルリン自由大学で客員教授として「日本作家の現実」というテーマで講義する
・2000年(平成12) 有楽町朝日ホールにて朝日賞記念講演「『知』をめぐる私の意見」を行う
・2001年(平成13) 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定不合格を求める声明を三木睦子氏らと発表する
・2002年(平成14) 仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドールを受賞する
・2003年(平成15) 仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判する
・2004年(平成16) 加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加する
・2005年(平成17) 「大江健三郎賞」創設を発表する
・2007年(平成19) 『さようなら、私の本よ!』が中国で魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞受賞する
・2009年(平成21) 『臈たしアナベル・リイ』が、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞する