今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、医師・細菌学者二木謙三の生まれた日です。
二木謙三(ふたぎ けんぞう)は、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町)において、秋田藩主の侍医であった父・樋口順泰、母・ヱイの二男として生まれましたが、1876年(明治9)には、土崎港に住まいする二木家の養子となりました。1893年(明治26)に秋田中学を卒業し、仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学したものの、神経衰弱に襲われて休学後、官立山口高等学校に転校します。
その後、東京帝国大学医科大学に進み、1901年(明治34)に卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力しました。1903年(明治36)に志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立します。
1905年(明治38)にドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻、1908年(明治41)に帰国し、翌年には駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務しました。1914年(大正3)に助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となります。
1917年(大正6)に高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見、1919年(大正8)には、駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行しました。1921年(大正10)に東京帝国大学教授に昇任し、1923年(大正12)に日本医科大学教授を兼任、1924年(大正13)には、嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表します。
1926年(大正15)に日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となり、1929年(昭和4)に共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1931年(昭和6)には、駒込病院の第5代院長を辞めました。1932年(昭和7)に豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂、1933年(昭和8)に東京帝国大学名誉教授となり、1939年(昭和14)には、東宮御成婚記念賞を受賞します。
1951年(昭和26)に日本学士院会員となり、1955年(昭和30)に文化勲章を受章、1966年(昭和41)には、勲一等瑞宝章も受章しましたが、4月27日に東京において、老衰により、93歳で亡くなりました。
その後、東京帝国大学医科大学に進み、1901年(明治34)に卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力しました。1903年(明治36)に志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立します。
1905年(明治38)にドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻、1908年(明治41)に帰国し、翌年には駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務しました。1914年(大正3)に助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となります。
1917年(大正6)に高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見、1919年(大正8)には、駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行しました。1921年(大正10)に東京帝国大学教授に昇任し、1923年(大正12)に日本医科大学教授を兼任、1924年(大正13)には、嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表します。
1926年(大正15)に日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となり、1929年(昭和4)に共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1931年(昭和6)には、駒込病院の第5代院長を辞めました。1932年(昭和7)に豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂、1933年(昭和8)に東京帝国大学名誉教授となり、1939年(昭和14)には、東宮御成婚記念賞を受賞します。
1951年(昭和26)に日本学士院会員となり、1955年(昭和30)に文化勲章を受章、1966年(昭和41)には、勲一等瑞宝章も受章しましたが、4月27日に東京において、老衰により、93歳で亡くなりました。
〇二木謙三の主要な著作
・『栄養の適応と体質改善』(1943年)
・『健康への道 : 完全正食の医学』(1957年)
・『完全にして正しき食物』(1961年)
・『二木博士講話集』(1966年)
・『食べ物と病気 : 栄養の適応と体質改善』(1969年)
☆二木謙三関係略年表
・1873年(明治6)1月10日 秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町)において、秋田藩主の侍医であった父・樋口順泰、母・ヱイの二男として生まれる
・1876年(明治9) 土崎港に住まいする二木家の養子となる
・1893年(明治26) 秋田中学を卒業し、仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学する
・1901年(明治34) 東京帝国大学医学部を卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力する
・1903年(明治36) 志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立する
・1905年(明治38) ドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻する
・1908年(明治41) ドイツ留学より帰国する
・1909年(明治42) 駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務する
・1914年(大正3) 東京帝国大学助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となる
・1917年(大正6) 高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見する
・1919年(大正8) 駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行する
・1921年(大正10) 東京帝国大学教授を兼任する
・1923年(大正12) 日本医科大教授を兼任する
・1924年(大正13) 嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表する
・1926年(大正15) 日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となる
・1929年(昭和4) 共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1931年(昭和6) 駒込病院の第5代院長を辞める
・1932年(昭和7) 豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学名誉教授となる
・1939年(昭和14) 東宮御成婚記念賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本学士院会員となる
・1955年(昭和30) 文化勲章を受章する
・1966年(昭和41)4月27日 勲一等瑞宝章を受章、東京において、老衰により、93歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1871年(明治4) | 文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人島村抱月の誕生日(新暦2月28日) | 詳細 | |||||
1891年(明治24) | 刑法学者・弁護士小野清一郎の誕生日 | 詳細 | |||||
1920年(大正9) | 東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が筆禍事件(森戸辰男事件)により休職処分を受ける | 詳細 | |||||
1922年(大正11) | 政治家・教育者大隈重信の命日 | 詳細 | |||||
1947年(昭和22) | 小説家織田作之助の命日 | 詳細 | |||||
1951年(昭和26) | 「日本の現代物理学の父」とも言われる物理学者仁科芳雄の命日 | 詳細 |