yamadafuutarou01
 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、小説家山田風太郎の生まれた日です。
 山田風太郎(やまだ ふうたろう)は、兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市関宮)において、代々続いた共に医者の家系の父・山田太郎、母・寿子の子として生まれましたが、本名は山田誠也(やまだ せいや)と言いました。1927年(昭和2)に父が脳溢血で急逝し、1931年(昭和6)に母の実家・兵庫県美方郡浜坂町へ転居したものの、1933年(昭和8)には、母が叔父(父の弟で医師)と再婚し、関宮に帰って、山田医院を再開します。
 1935年(昭和10)に兵庫県立豊岡中学(5年制)に入学し、寮生活が始まりましたが、翌年に母が肺炎で急逝、叔父は再婚し、養父母になじめずに「不良学生」となりました。1939年(昭和14)に学校の文芸誌「達徳」に、小説、詩を発表、表紙絵やカットも描き、雑誌「映画朝日」に初めて山田風太郎の筆名で投稿します。
 1940年(昭和15)の卒業直前、仲間と本を盗んだ疑いで警察に捕まり、留置場に入りましたが、なんとか卒業は出来たものの、高校受験に失敗、雑誌「受験旬報」に小説「石の下」が入選しました。1942年(昭和17)に2年間浪人したものの受からず、家出同然に上京し、品川の電気工場で働きながら受験勉強を続け、ようやく1944年(昭和19)には、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に合格します。
 1945年(昭和20)に空襲に会い、学校も焼かれ信州に疎開、その後帰京するものの、食料・物資欠乏で辛酸をなめました。1946年(昭和21)に雑誌「宝石」の懸賞小説で「達磨峠の事件」が入選。江戸川乱歩に認められ、あちこちの雑誌に推理小説などを発表し始め、1949年(昭和24)には、「眼中の悪魔」、「虚像淫楽」で、第2回日本探偵作家クラブ賞を受賞します。
 1950年(昭和25)に東京医科大学を卒業しましたが医者にはならず、作家としてデビュー、1958年(昭和335)には、雑誌に「甲賀忍法帖」を連載開始しました。1963年(昭和38)には、新書版の「山田風太郎忍法全集」が爆発的にヒットし、人気作家の地位を不動のものとします。
 1971年(昭和46)に昭和20年の日記が『戦中派不戦日記』として出版されると、全国に大きな反響を呼び起こし、1973年(昭和48)には、雑誌に『警視庁草紙』を連載し、いわゆる「明治もの」シリーズが本格的に始まりました。1986年(昭和61)に異色のノンフィクション『人間臨終図巻』を刊行、1989年(平成元)には、『室町少年倶楽部』、『室町の大予言』を発表、またもや「室町もの」と言われる新境地を拓きます。
 1991年(平成3)に新聞に『柳生十兵衛死す』を連載、1995年(平成7)に糖尿病を患い入院、1996年(平成8)には、突然倒れ、その後筆を握れなくなったものの、口述筆記でエッセイを発表していきました。1997年(平成9)に大衆文芸に新たな面白さをもたらした功績で、第45回菊池寛賞を受賞、エッセイ集『あと千回の晩飯』を刊行します。
 2000年(平成12)には、第4回日本ミステリー文学大賞を受賞しましたが、2001年(平成13)7月28日に、東京都多摩市の病院において、79歳で亡くなりました。

〇山田風太郎の主要な著作

・『達磨峠の事件』(1946年)雑誌「宝石」第1回懸賞小説入選
・『眼中の悪魔』(1948年)第2回日本探偵作家クラブ賞(短篇賞)受賞
・『虚像淫楽』(1948年)第2回日本探偵作家クラブ賞(短篇賞)受賞
・『山田風太郎忍法全集』全15巻(1963年)
・『魔界転生』(1967年)
・『戦中派不戦日記』(1971年)
・『警視庁草紙』(1975年)
・ノンフィクション『人間臨終図巻』(1986年)
・『室町少年倶楽部』(1989年)
・『室町の大予言』(1989年)
・『婆娑羅』(1990年)
・『柳生十兵衛死す』(1991年)
・エッセイ集『あと千回の晩飯』(1997年)
・『戦中派焼け跡日記』(2002年)

☆山田風太郎関係略年表

・1922年(大正11)1月4日 兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市関宮)において、代々続いた共に医者の家系の父・山田太郎、母・寿子の子として生まれる
・1927年(昭和2) 父・太郎が脳溢血で急逝する
・1931年(昭和6) 母の実家がある兵庫県美方郡浜坂町へ転居する
・1933年(昭和8) 母が叔父(父の弟で医師)と再婚し、関宮に帰って、山田医院を再開する
・1935年(昭和10) 兵庫県立豊岡中学(5年制)に入学し、寮生活が始まる
・1936年(昭和11) 母・寿子が肺炎で急逝、叔父は再婚し、養父母になじめずに「不良学生」となる
・1939年(昭和14) 学校の文芸誌「達徳」に、小説、詩を発表、表紙絵やカットも描き、雑誌「映画朝日」に初めて山田風太郎の筆名で投稿する
・1940年(昭和15) 卒業の直前、仲間と本を盗んだ疑いで警察に捕まり、留置場に入る。なんとか卒業はできたが、高校受験に失敗、雑誌「受験旬報」に小説『石の下』が入選する
・1942年(昭和17) 2年間浪人したものの受からず、家出同然に上京し、品川の電気工場で働きながら受験勉強を続ける
・1944年(昭和19) 東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に合格、召集されたものの肋膜炎のため帰郷する
・1945年(昭和20) 空襲に会い、学校も焼かれ信州に疎開、10月に帰京するが、食料・物資欠乏で辛酸をなめる
・1946年(昭和21) 雑誌「宝石」の第1回懸賞小説で『達磨峠の事件』が入選、江戸川乱歩に認められ、あちこちの雑誌に推理小説などを発表し始める
・1949年(昭和24) 『眼中の悪魔』、『虚像淫楽』で、第2回日本探偵作家クラブ賞(短篇賞)を受賞する
・1950年(昭和25) 東京医科大学を卒業するが医者にはならず、作家としてデビュー、高木彬光、島田一男、香山滋らと新人探偵作家の会「鬼クラブ」を結成して、同人誌「鬼」を刊行する
・1958年(昭和33) 雑誌に『甲賀忍法帖』を連載開始する
・1963年(昭和38) 新書版の『山田風太郎忍法全集』が爆発的にヒットし、人気作家の地位を不動のものとする
・1971年(昭和46) 昭和20年の日記が『戦中派不戦日記』として出版されるや、純真な一青年の手になる戦中・戦後の希有な記録として、また作家の知性と教養の深さを示すものとして、全国に大きな反響を呼び起こす
・1973年(昭和48) 雑誌に『警視庁草紙』を連載。いわゆる「明治もの」シリーズが本格的に始まる。忍法帖とはまるで異なる新境地を拓いた作品群で、風太郎の評価は一段と高まる
・1986年(昭和61) 異色のノンフィクション『人間臨終図巻』を刊行し話題となる
・1989年(平成元) 『室町少年倶楽部』、『室町の大予言』を発表、またもや「室町もの」と言われる新境地を拓く
・1991年(平成3) 新聞に『柳生十兵衛死す』を連載する
・1995年(平成7) 糖尿病を患い入院する
・1996年(平成8) 突然倒れ、その後筆を握れなくなったが、口述筆記でエッセイを発表していく
・1997年(平成9) 大衆文芸に新たな面白さをもたらした功績で、第45回菊池寛賞を受賞、エッセイ集『あと千回の晩飯』を刊行する
・2000年(平成12) 第4回日本ミステリー文学大賞を受賞する
・2001年(平成13)7月28日 東京都多摩市の病院において、79歳で亡くなる
・2002年(平成14) 世田谷文学館で大規模な追悼展開催される
・2003年(平成15) 郷里の旧関宮小学校跡に「山田風太郎記念館」がオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1882年(明治15)「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」(軍人勅諭)が発布される詳細
1888年(明治21)三井財閥、藤田伝三郎などの出資により、山陽鉄道会社(現在の山陽本線)が設立される詳細
1912年(明治45)公家・政治家・伯爵東久世通禧の命日詳細
1946年(昭和21)GHQが「超国家主義団体の解体の指令」(SCAPIN-548)を出す詳細
GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細