
志太野坡(しだ やば)は、江戸時代前期の1662年(寛文2年1月3日)に、越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれましたが、幼名を庄一郎、通称を弥助、半次郎と言いました。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店に勤め、手代となりましたが、室井其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされます。
1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られています。
1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。
1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。
1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。
その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。
1687年(貞享4)の其角撰『読虚栗』に初めて野馬の名が見え、1693年(元禄6)には、芭蕉の指導を受けるようになったとされてきました。1694年(元禄7)に越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加し、1695年(元禄8)には、深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られています。
1698年(元禄11)に江戸を立ち、途中に膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向き、1699年(元禄12)の芭蕉の七回忌には撰文して、長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立し、1701年(元禄14)に江戸に戻り、越後屋の番頭を辞めました。1702年(元禄15)から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎、田代、久留米、日田、博多などを巡って、多くの弟子を獲得します。
1704年(元禄17)に大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となりました。1708年(宝永5)に筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着、1710年(宝永7)には、筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行します。
1714年(正徳4)から翌年にかけて、森川許六と俳論書翰の応酬を行いました。1724年(享保9年)に大火に遭って無一文になり、翌年、難波に浅生庵(あそうあん)を新築します。
その後、積極的に上方や九州を行脚して、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くし、その数は、千人を越え、後世に名を残すこととなりました。作風は軽み・枯淡を旨とし平明で、温厚な人柄として親しまれたものの、1740年(元文5年1月3日)に、大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなっています。
<志太野坡の代表的な句>
・「鉢まきをとれば若衆ぞ大根引」(炭俵)
・「朝霜や師の脛おもふゆきのくれ」
・「寒きほど案じぬ夏の別れ哉」
・「ちからなや膝をかかえて冬篭り」
・「手まはしに朝の間凉し夏念仏」(続猿蓑)
・「金屏の松の古さよ冬篭り」(許六宛芭蕉書簡)
〇志太野坡の主要な著作
・編纂『炭俵』(1694年)
・『万句四季之富士』(1715年)
・『放生日』(1726年)
・『野坡吟草』(1759年)
☆志太野坡関係略年表(日付は旧暦です)
・1662年(寛文2年1月3日) 越前国福井において、商家を営む父・斎藤庄三郎の子として生まれる
・1687年(貞享4年) 其角撰『読虚栗』に野馬の名が見える
・1693年(元禄6年) 芭蕉の指導を受けるようになる
・1694年(元禄7年) 越後屋の同僚の小泉孤屋、池田利牛と共に『炭俵』の編集に参加する
・1695年(元禄8年) 深川の芭蕉庵で芭蕉の一周忌があり、許六から芭蕉の画像を贈られる
・1696年(元禄9年) 土芳を訪ねる
・1698年(元禄11年) 江戸を立ち、膳所の無名庵を訪ね、商用で長崎に出向く
・1699年(元禄12年) 芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立する
・1700年(元禄13年) 箱崎の俳人哺川が枯野塚を建立し、野坡が揮毫する
・1701年(元禄14年) 長崎の商用より戻り、越後屋の番頭を辞める
・1702年(元禄15年) 筑紫から豊後の日田に吟遊して、野紅亭に逗留、日田で越年する
・1703年(元禄16年) 筑紫行脚から戻る
・1704年(元禄17年) 大坂に移住、現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心し、樗木社を結んで俳諧宗匠となる
・1705年(宝永2年) 長崎に旅立つ魯九に餞別の句を詠む
・1708年(宝永5年) 筑紫行脚に出立、黒崎水颯亭を経て吉井の素児亭に到着する
・1710年(宝永7年) 筑前博多で芭蕉の十七回忌追善歌仙を興行する
・1714年(正徳4年) 森川許六と翌年にかけて、俳論書翰の応酬を行う
・1716年(正徳6年) 露川は門人燕説を伴い西国行脚の途上、難波の野坡を訪れる
・1718年(享保3年) 筑紫行脚中に直方を訪れ、多賀宮神官青山文雄、直方藩士有井浮風が入門する
・1719年(享保4年) 冬に塩足村の市山邸を訪ねる
・1721年(享保6年) 熊本壺風亭に遊び、門人30余人に送られて熊本を去る
・1724年(享保9年) 大火に遭い、無一文になる
・1725年(享保10年) 難波に浅生庵(あそうあん)を新築する
・1728年(享保13年) 再び直方を訪れ、弟子たちとに上野の皿山や白糸滝を見物する
・1729年(享保14年) 上京する
・1730年(享保15年) 廬元坊が西国行脚の途上、浅生庵を訪れる
・1734年(享保19年) 風之を伴い赤間関に下り、小倉へ行き、風之は熊本に赴く
・1735年(享保20年) 芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立する
・1737年(元文2年) 風律亭で歌仙興行し、三原からの福山に移り素浅を訪れる。
・1738年(元文3年) 伊勢神宮参詣に出立する
・1739年(元文4年) 高津の新庵が落成し、瓦屋町より新庵に移る
・1740年(元文5年1月3日) 大坂において、痰咳が原因で、数え年78歳で亡くなる
・1756年(宝暦6年) 十七回忌追善句集『窓の春』(浮風編)が出される
・1759年(宝暦9年) 『野坡吟草』(風之編)が刊行される
・1761年(宝暦11年) 二十回忌に湖白菴浮風は野坡の墓を建立する
・1785年(天明5年) 許六との往復書簡が、嘯山(しょうざん)によって『許野消息(きょやしょうそこ)』として公刊される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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