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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、尾崎紅葉著の『金色夜叉』が読売新聞で連載開始された日です。
 『金色夜叉』(こんじきやしゃ)は、尾崎紅葉著の長編小説でした。明治時代後期の1897年(明治30)1月1日~1902年(明治35)5月11日まで、『読売新聞』に断続して連載され、空前の人気となります。翌年には、新続編を『新小説』に発表しましたが、未完のまま中絶しました。
 主人公間貫一は、許婚の鴫沢宮を金銭のために、富山唯継に奪われ、高利貸しになって復讐しようとする物語です。金銭による人間破壊を真正面に据えて、愛の再発見による復活を求めていました。
 以下に、『金色夜叉』前編第一章の冒頭部分を掲載しておきますから、ご参照下さい。

〇尾崎紅葉(おざき こうよう)とは?

 明治時代に活躍した小説家、俳人です。本名は、尾崎徳太郎といい、幕末明治維新期の1868年(慶応3)に、江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれました。
 府立第二中学校(現在の都立日比谷高校)卒業後、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入学し、ここで石橋思案、山田美妙らと硯友社を結成、機関誌『我楽多文庫』を創刊します。1888年(明治21)、帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学法学部)に入学、翌年に国文科に転科しました。
 しかし、1889年(明治22)に小説『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、読売新聞社に入社し、作家としてたったので、翌年には退学します。その後、「読売新聞」に『伽羅枕』、『三人妻』などの女性風俗を写実的に描いた長短編を連載し、好評を博しました。
 そして、心理的写実主義の体得や言文一致体への移行に努力し、『多情多恨』や『金色夜叉』(未完)を連載して、幸田露伴と共に紅露時代を現出することになります。明治時代の文壇に重きをなし、門下として泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声などを育てましたが、1903年(明治36)10月30日に胃癌のため、37歳で亡くなりました。

☆『金色夜叉』前編の冒頭部分

第一章

 未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横(よこた)はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留(とど)めず、いと寂(さびし)くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或(あるひ)は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓(ししだいこ)の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小(ちひさ)き膓(はらわた)は断(たた)れぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌(しる)されたる日記を涜(けが)して、この黄昏(たそがれ)より凩(こがらし)は戦出(そよぎい)でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥(なだ)むる者無きより、憤(いかり)をも増したるやうに飾竹(かざりだけ)を吹靡(ふきなび)けつつ、乾(から)びたる葉を粗(はした)なげに鳴して、吼(ほ)えては走行(はしりゆ)き、狂ひては引返し、揉(も)みに揉んで独(ひと)り散々に騒げり。微曇(ほのぐも)りし空はこれが為に眠(ねむり)を覚(さま)されたる気色(けしき)にて、銀梨子地(ぎんなしぢ)の如く無数の星を顕(あらは)して、鋭く沍(さ)えたる光は寒気(かんき)を発(はな)つかと想(おも)はしむるまでに、その薄明(うすあかり)に曝(さら)さるる夜の街(ちまた)は殆(ほとん)ど氷らんとすなり。
 人この裏(うち)に立ちて寥々冥々(りようりようめいめい)たる四望の間に、争(いかで)か那(な)の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重(きゆうちよう)の天、八際(はつさい)の地、始めて混沌(こんとん)の境(さかひ)を出い)でたりといへども、万物未(いま)だ尽(ことごと)く化生(かせい)せず、風は試(こころみ)に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫(ただみだり)に邈(ひろ)く横(よこた)はれるに過ぎざる哉(かな)。日の中(うち)は宛然(さながら)沸くが如く楽み、謳(うた)ひ、酔(ゑ)ひ、戯(たはむ)れ、歓(よろこ)び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚(はかな)くも夏果てし孑孑(ぼうふり)の形を歛(をさ)めて、今将(いまはた)何処(いづく)に如何(いか)にして在るかを疑はざらんとするも難(かた)からずや。多時(しばらく)静なりし後(のち)、遙(はるか)に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽(たちま)ち一点の燈火(ともしび)は見え初(そ)めしが、揺々(ゆらゆら)と町の尽頭(はづれ)を横截(よこぎ)りて失(う)せぬ。再び寒き風は寂(さびし)き星月夜を擅(ほしいまま)に吹くのみなりけり。唯有(とあ)る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間(ひあはひ)の下水口より噴出(ふきい)づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温(ぬくもり)の四方に溢(あふ)るるとともに、垢臭(あかくさ)き悪気の盛(さかん)に迸(ほとばし)るに遭(あ)へる綱引の車あり。勢ひで角(かど)より曲り来にければ、避くべき遑無(いとまな)くてその中を駈抜(かけぬ)けたり。
「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後は語(ことば)絶えて、車は驀直(ましぐら)に走れり、紳士は二重外套(にじゆうがいとう)の袖(そで)を犇(ひし)と掻合(かきあは)せて、獺(かはうそ)の衿皮(えりかは)の内に耳より深く面(おもて)を埋(うづ)めたり。灰色の毛皮の敷物の端(はし)を車の後に垂れて、横縞(よこじま)の華麗(はなやか)なる浮波織(ふはおり)の蔽膝(ひざかけ)して、提灯(ちようちん)の徽章(しるし)はTの花文字を二個(ふたつ)組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭(はづれ)を北に折れ、稍(やや)広き街(とほり)に出いでしを、僅(わづか)に走りて又西に入(い)り、その南側の半程(なかほど)に箕輪(みのわ)と記しるしたる軒燈(のきラムプ)を掲げて、剡竹(そぎだけ)を飾れる門構(もんがまへ)の内に挽入(ひきい)れたり。玄関の障子に燈影(ひかげ)の映(さ)しながら、格子(こうし)は鎖固(さしかた)めたるを、車夫は打叩(うちたた)きて、
「頼む、頼む」
 奥の方(かた)なる響動(どよみ)の劇(はげし)きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪(おとな)ひつつ、格子戸を連打(つづけうち)にすれば、やがて急足(いそぎあし)の音立てて人は出(い)で来(き)ぬ。
 円髷(まるわげ)に結ひたる四十ばかりの小(ちひさ)く痩(や)せて色白き女の、茶微塵(ちやみじん)の糸織の小袖(こそで)に黒の奉書紬(ほうしよつむぎ)の紋付の羽織着たるは、この家の内儀(ないぎ)なるべし。彼の忙(せは)しげに格子を啓(あく)るを待ちて、紳士は優然と内に入(い)らんとせしが、土間の一面に充満(みちみち)たる履物(はきもの)の杖(つゑ)を立つべき地さへあらざるに遅(ためら)へるを、彼は虚(すか)さず勤篤(まめやか)に下立(おりた)ちて、この敬ふべき賓(まらうど)の為に辛(から)くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄(こまげた)のみは独(ひと)り障子の内に取入れられたり。

   「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1041年(長久2)平安時代中期の公卿・歌人藤原公任の命日(新暦2月4日)詳細
1720年(享保5)第115代の天皇とされる桜町天皇の誕生日(新暦2月8日)詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
1950年(昭和25)「年齢のとなえ方に関する法律」が施行され、年齢の表示を満年齢に一本化される詳細
1995年(平成7)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」によって、世界貿易機関(WTO)が発足する詳細