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 今日は、平安時代後期の平治元年に、院近臣らの対立により発生した平治の乱が、源義朝、藤原信頼と平清盛とが六条河原などで戦うものの、平清盛側が勝利して終結した日ですが、新暦では1160年2月5日となります。
 平治の乱(へいじのらん)は、後白河院政開始後の藤原通憲(信西)の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱でした。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきます。
 藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきました。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展します。
 熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功しました。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗します。
 その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されました。翌年に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えます。しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきました。
 以下に、『平治物語』六波羅合戦の事と義朝敗北の事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『平治物語』六波羅合戦の事・義朝敗北の事

 六波羅合戦の事

 悪源太は、そのまま六波羅へ寄せらるるに、一人当千の兵ども、真前に進んで戦ひけり。金子十郎家忠(いへただ)は、保元の合戦にも、為朝(ためよし)の陣に駆け入り、高間の三郎兄弟を組んで討ち、八郎御曹子の矢先を逃れて名を上げけるが、今度も真つ先駆けて戦ひけり。矢種も皆射尽くし、弓も引き折り、太刀をも討ち折りければ、折れ太刀をひつ下げて、「あはれ太刀がな。今一つ合戦せん」と思ひて、駆け回(まは)るところに、同国の住人足立右馬允遠元(とほもと)馳せ来れば、「これ御覧候へ、足立殿。太刀を討ち折つて候ふ。御帯(は)き副(そ)へ候はば、御恩に蒙(かうぶ)り候はん」と申しければ、折節帯き副へなかりしかども、「御辺の乞ふがやさしきに」とて、前を討たせける郎等の太刀を取つて、金子にぞ与へける。家忠大きに喜んで、また駆け入つて敵数多(あまた)討つてけり。
 足立が郎等申しけるは、「日来より御前途に立つまじき者と思し召せばこそ、戦の中にて太刀を取つて人には給はるらめ。これほどは最後の御供とこそ存ぜしかども、これほどに見限られ奉ては、先立ち申しにしかじ」とて、すでに腹を斬らんと、上帯を押をし切ければ、遠元(とほもと)馬より飛むで下り、「汝が恨むるところもつとも理(ことはり)なり。しかれども金子が所望の黙(もだ)し難さに、御辺が太刀を取りつるなり。戦をするも主のため、討ち死にする傍輩に太刀を請はれて、与へぬものや侍らん。漢朝の季札(きさつ)も除君に剣を請はれては、惜しまずとこそ承(うけたまは)れ。しばらく待て」と言ふところに、敵三騎来て、足立を討たんと駆け寄せたり。遠元先づ真つ先に進みたる武者を、よつぴいてひやうど射る。その矢過(あやま)たず内兜に立て、馬より真倒に落ちければ、残り二騎は馬を惜しみて駆けざりけり。遠元やがて走り寄つて、帯たる太刀を引き切つておつ取り、「汝が恨み真中、くわ、太刀取らするぞ」とて、郎等に与へ、うち連れてこそまた駆けれ。
 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へ寄せて、門の中へ入らざるこそ口惜しけれ。進めや、者ども」とて、究竟(きうきやう)の兵五十余騎、錏(しころ)を傾(かたぶ)けて駆け入れば、平家の侍防ぎかね、ばつと引てぞ入りにける。義平(よしひら)先づ本意を遂げぬと喜んで、喚おめ)き叫んで駆け入り給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、戦下知して居ゐ)給ひけるが、妻戸の扉に、敵の射る矢雨の降る如くに当たりければ、清盛怒つてのたまひけるは、「防ぐ兵に恥ある侍がなければこそ、ここまで敵は近づくらめ。出で出で、さらば駆けん」とて、紺の直垂(ひたたれ)に黒糸縅の鎧着、黒漆(くろうるし)の太刀を履き、黒母衣(くろほろ)の矢負ひ、塗り籠め藤の弓持つて、黒き馬に黒鞍置(を)かせて乗り給へり。上より下まで大人しやかに、出たたれけるが、鐙(あぶみ)踏む張り大音上げて、「寄せての大将軍は誰人ぞ。かう申すは太宰大弐清盛なり。見参せん」とて、駆け出られければ、御曹子これを聞き給ひ、「悪源太義平ここにあり。得たりやおう」と叫びて駆く。平家の侍これを見て、筑後守父子・主馬判官、館親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、真前に馳せ塞がつて戦ひけり。
 源平互ひに入り乱れて、ここを最後ともみ合ふたり。孫子が秘せしところ、子房が伝ふところ、互ひに知れる道なれば、平家の大勢、陽に開いて囲まんとすれども囲まれず、陰に閉ぢて討たんとすれども討たれず、千変万化して、義平(よしひら)三方をまくりたて、面(おもて)も振らず斬つて回(まは)り給ひしかども、源氏は今朝よりの疲れ武者、息をもつかず攻め戦ひ、平家は新手(あらて)を入れ替へ入れ替へ、城にかかつて馬を休め、駆け出で駆け出で戦ひければ、源氏終(つゐ)に討ち負けて、門より外へ引き退き、やがて河をかけ渡し、河原を西へぞ引きたりける。

 義朝敗北の事

 平家追つ駆けて攻めければ、三条河原にて鎌田兵衛申しけるは、「頭殿(かうのとの)は思し召す旨あつて落ちさせ給ふぞ。よくよく防ぎ矢仕れ」と言ひければ、平賀四郎義宣(よしのぶ)、引つ返し散々に戦はれければ、義朝返(かへ)り見給ひて、「あつぱれ、源氏は鞭差しまでも、愚(をろ)かなる者はなきものかな。あたら兵、平賀討たすな。義宣討たすな」とのたまへば、佐々木の源三・須藤刑部・井沢四郎を始めとして、我も我もと真つ先に馳せ塞がつて防ぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎斬つて落とし、我が身も手負ひければ、近江を指して落ちにけり。須藤形部俊通(としみち)も、六条河原にて、滝口と共に討ち死にせんと進みしを、止(とど)め給ひしかども、ここにて敵三騎討ち取つて、終(つゐ)に討たれてけり。井沢四郎宣景のぶかげ)は、二十四差したる失をもつて、今朝の戦ひに敵十八騎討落とし、今の合戦によき敵四騎射殺したれば、箙(ゑびら)に二つぞ残りたる。その後打ち物になつて振る舞ひけるが、痛手負ふて引きにけり。東近江に落ちて傷療治し、弓うち切り杖につき、山伝ひに甲斐の井沢へぞ行きにける。
 かやうに面々戦ふ間に、義朝(よしとも)落ち延び給ひしかば、鎌田を召して、「汝に預(あづ)けし姫はいかに」とのたまへば、「私の女に申し置(を)き参らせて候ふ」と申せば、「戦に負けて落つると聞き、いかばかりの事か思らん。中々殺して帰(かへ)れ」とのたまへば、鞭を上げて、六条堀川の宿所に馳せ来てみければ、戦に恐れて人一人もなきに、持仏堂の中に人音しければ、行きて見るに、姫君仏前に経うち読みておはしけるが、政家(まさいへ)を御覧じて、「さてそも、戦はいかに」と問ひ給へば、「頭殿(かうのとの)は打ち負けさせ給ひて、東国の方へ御落ち候ふが、姫君の御事をのみ、悲しみ参らつさせ給ひ候ふ」と申せば、「さては我らもただ今敵に探し出だされ、これこそ義朝の娘(むすめ)よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ、貴きも賎しきも、女の身ほど悲しかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なれば戦に出でて、御供申し給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置(を)かれ、我が身の恥を見るのみならず、父の骸(むくろ)を汚さん事こそ悲しけれ。兵衛、先づ我を殺して、頭殿の見参に入れよ」とくどき給へば、「頭殿もその仰せにて候ふ」と申せば、「さてはうれしき事かな」とて、御経を巻き納め、仏に向かひ手を合はせ、念仏申させ給へば、政家つと参り、殺し奉らんとすれども、御産屋(うぶや)の内より抱き取り奉りし養君にて、今まで負ふし立て参らせたれば、いかでか哀れに泣かるべき。涙に暮れて、刀の立ち所も思えずして、泣き居(ゐ)たりければ、姫君、「敵や近付くらん、疾と)く疾く」と勧め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸をば深く納めて馳せ帰り、頭殿の見参に入れたりければ、ただ一目御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりに知り給へる僧の所へ、この御首を遣はして、「弔(とぶら)ひて賜(た)び給へ」とてぞ落ちられける。
 さるほどに、平家の軍兵馳せ散つて、信頼(のぶより)・義朝(よしとも)の宿所を始めて、謀反の輩(ともがら)の家々に、押(を)し寄せ押し寄せ火をかけて、焼き払ひしかば、その妻子眷属(けんぞく)、東西に逃げ惑ひ、山野に身をぞ隠しける。方々に落ち行く人々は、我が行く前は知らねども、跡の煙(けぶり)を返(かへ)り見て、敵は今や近付くらむ、急げ急げと身を揉みけり。比叡山には、信頼・義朝討ち負けて、大原口へ落つると沙汰しければ、西塔法師これを聞きて、「いざや落人討ち止とど)めん」とて、二三百人千束が崖(がけ)に待ちかけたり。義朝この由聞き及び、「都にてともかくもなるべき身の、鎌田が由なき申し状によつて、ここまで落ちて山徒の手にかかり、甲斐(かひ)なき死をせんずるこそ口惜しけれ」とのたまへば、斉藤別当申しけるは、「ここをば実盛さねもり)通(とを)し参らせ候はん」とて、馬より下り、兜を脱いで手に引つ提げ、乱れ髪を面に振りかけ、近付き寄つて言ひけるは、「右衛門督、左馬頭殿以下、御許(おもと)の人々は、皆大内・六波羅にて討ち死にし給ひぬ。これは諸国の借り武者どもが、恥をも知らず妻子を見んために、本国に落ち下り候ふなり。討ち止めて、罪作りに何かし給はん。具足を召されむためならば、物の具をば参らせ候はん。通して給はれ」と申しければ、「げにも大将たちにてはなかりけり。葉武者は討ちて何かせん。具足をだに脱ぎ捨てば、通されよかし」と詮議しければ、実盛重ねて、「衆徒は大勢おはします。我らは小勢なり。草摺を切つてもなほ及び難し。投げんに従ひ奪ひ取り給へ」と言へば、面(おもて)に進める若大衆、「もつともしかるべし」とて相あひ)集まる。後陣の老僧も、我劣らじと一所に寄つて、競(きほ)ひ争ふところに、実盛兜をかつぱと投げたりけり。我取らんとひしめきければ、敢へて敵の体をも見つくろはざりけるところに、三十二騎の兵、打ち物を抜きて、兜の錏(しころ)を傾(かたぶ)け、がはと駆け入り蹴散らして通りければ、大衆にはかに長刀を取り直なを)し、余すまじとて追つ駆ければ、実盛大童(わらは)にて、大の中差(なかざし)取つて継がひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんと思うはば寄れや。手柄のほど見せん」とて、取つて返せば、大衆の中に弓取りは少しもなし、敵はじとや思ひけん、皆引きてぞ帰りける。
 義朝(よしとも)八瀬(やせ)の松原を過ぎられけるに、後ろより、「やや」と呼ぶ声(こゑ)しければ、何者やらんと見給へば、はるかに前へぞ延べぬらんと思えつる信頼(のぶより)卿追ひ付きて、「もし戦に負けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れて下らんとこそ聞こえしか。心変はりかや」とのたまへば、義朝余りの憎さに腹を据へかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立つて、一つ戦だにせずして、我が身も滅び人をも失ふにこそ。面(おもて)つれなふ物をのたまふものかな」とて、持たれたる鞭をもつて、信頼の弓手(ゆんで)の頬先を、したたかに打たれけり。信頼この返事をばし給はず、まことに臆したる体にて、しきりに鞭目を押(を)し撫で押し撫でぞせられける。乳母子の式部大夫助吉(すけよし)これを見て、「何者なれば、督殿をばかうは申すぞ。和人(わひと)ども心の剛ならば、など戦には勝たずして、負けては国へ下るぞ」と言ひければ、義朝、「あの男に物な言はせそ。討ちて捨てよ」とのたまひければ、鎌田兵衛、「何条ただ今さる事の候ふべき。敵や続き候ふらん。延べさせ給へ」とて行くところに、また横河(よかは)法師上下四五百人、信頼・義朝の落つるなる、討ち止めんとて、竜華越に逆茂木引き、掻楯(かいだて)かいて待ち懸けたり。
 三十余騎の兵、各々(をのをの)馬より飛び下り飛び下り、手々に逆茂木をばものともせず、引き伏せ引き伏せ通(とを)るところに、衆徒の中より、差し詰め引き詰め散々に射たりければ、陸奥六郎義隆(よしたか)の首の骨を射られて、馬よりさかさまに落ちられてけり。中宮大夫進朝長(ともなが)も、弓手(ゆんで)の股をしたたかに射られて、鐙(あぶみ)を踏みかね給ひければ、義朝、「大夫は失に当たりつるな。常に鎧突(づ)きをせよ。裏かかすな」とのたまへば、その矢引つかなぐつて捨て、「さも候はず、陸奥六郎殿こそ痛手おはせ給ひ候つれ」とて、さらぬ体にて馬をぞ速められける。六郎殿討たれ給へば、首を取らせて義朝のたまひけるは、「弓矢取る身の習(なら)ひ、戦に負けて落つるは、常の事ぞかし。それを僧徒の身として、助くるまでこそなからめ、結句討ち止めんとし、物の具剥がんなどするこそ奇怪なれ。憎い奴ばら、後代の例(ためし)に一人も残さず討てや者ども」と、下知せられければ、三十余騎轡(くつばみ)を並べ、駆け入り割り付け追ひ回(まは)し、攻め詰め攻め詰め斬り付けられければ、山徒立ち所に三十余人討たれにければ、残る大衆、大略手負ひて、はうはう谷々へ帰(かへ)るとて、「この落人討ち止(とど)めんと言ふ事は、誰が言ひ出だせる事ぞ」とて、あれよこれよと論じけるほどに、同士戦をしいだして、また多(おほ)くぞ死にける。誠に出家の身として、落人討ち止め、物具奪ひ取らんなどして、わづかの落ち武者に駆けたてられ、多くの人を討たせ、また同士戦し出だして、数多(あまた)の衆徒を失ふ事、僧徒の法にも恥辱なり、武芸のためにも瑕瑾(かきん)なり。されば冥慮にも背き、神明にも放たれ奉りぬとぞ思えし。
 この敵をも追ひ散らしければ、竜華のふもとに皆下り居ゐて、馬を休められけるが、義朝(よしとも)、後藤兵衛真基(さねもと)を召して、「汝に預あづ)け置(を)きし姫はいかに」とのたまへば、「私の女によくよく申し含めて候へば、別の御事は候ふまじ」と申しけり。「さては心安けれども、汝これより都へ帰り上り、姫を育てて尼にもなし、義朝が後世菩提弔(とぶら)はせよ」とのたまへば、「先いづくまでも御供仕り、ともかくもならせ給はん御有様を見とつけ参らせてこそ帰り上り候はんずれ」と申せども、「存ずる旨あり。疾(と)く疾く」とのたまへば、力及ばず都へ帰り、姫君につき奉り、ここかしこに隠し置き参らせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保(よしやす)卿の北の方になし奉りけるなり。真基も鎌倉殿の御時に世に出でけるとぞ聞こえし。

☆平治の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<平治元年> 

・12月4日 平清盛が熊野詣に出発する
・12月9日 三条殿および信西邸が焼き討ちに合う
・12月10日 信西の子ら解官、流刑となる
・12月14日 源義朝らが昇進、任官する
・12月15日 信西の遺骸が源光保に発見される
・12月17日 信西の首が梟首される、同日、平清盛が帰京する
・12月中旬 内大臣・藤原公教を中心に、二条天皇六波羅行幸の計画が練られる
・12月25日 平清盛、藤原信頼に名簿を提出する(臣下の礼を取る)、同日夜、後白河上皇の内裏脱出と、二条天皇の六波羅行幸が実行される
・12月26日 六波羅合戦で平清盛側が勝利する、同日、藤原信頼が仁和寺に出頭する
・12月27日 藤原信頼が処刑される
・12月29日 尾張国の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって源義朝が殺害される、平重盛、平頼盛ら乱平定功労者に恩賞が与えられる

<平治2年>

・時期不明 藤原経宗・藤原惟方、後白河上皇が御所としていた藤原顕長邸の桟敷の回りに板を打ち付けて視界をさえぎるという狼藉を行なう
・1月26日 近衛天皇の皇后であった藤原多子が二条天皇のもとに入内する
・2月9日 源頼朝が捕縛される
・2月20日 後白河上皇の命により藤原経宗・藤原惟方が平清盛の郎党によって内裏で捕縛される
・2月22日 信西の子らが赦免される
・2月28日 藤原経宗・藤原惟方が解官される
・3月11日 藤原経宗・藤原惟方・源師仲・源頼朝・源希義が流刑に処される
・6月14日 源光保が流刑に処される
・6月20日 平清盛、正三位に叙される
・7月9日 藤原公教が死去する
・8月11日 平清盛、参議となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
2004年(平成16)詩人石垣りんの命日詳細