ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年11月

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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、福澤諭吉著『学問のすゝめ』の最終刊・第17篇が刊行された日です。
 『学問のすゝめ』(がくもんのすすめ)は、明治時代前期の1872年(明治5)~1876年(明治9)の5年をかけて、17編の小冊子として順次刊行された、福沢諭吉著の啓蒙書でした。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と、人々の平等を唱え、学問を重視し、自由独立の気風を身につけることを勧め、封建道徳を鋭く批判し、実用的学問の必要を説いています。
 当時のベストセラーとなり、発行部数あわせて340万といわれ、とても多くの人に愛読されました。文明開化期には、教科書としても用いられ、当時の教育政策や自由民権運動にも影響を及ぼします。
 以下に、『学問のすゝめ』初編を掲載しておきますので、ご参照下さい。

<各編の発行日>
・初編 1872年(明治5)2月
・二編[人は同等なること]1873年(明治6)11月
・三編[国は同等なること / 一身独立して一国独立すること]1873年(明治6)12月
・四編[学者の職分を論ず]1874年(明治7)1月
・五編[明治七年一月一日の詞]1874年(明治7)1月
・六編[国法の貴きを論ず]1874年(明治7)2月
・七編[国民の職分を論ず]1874年(明治7)3月
・八編[わが心をもって他人の身を制すべからず]1874年(明治7)4月
・九編[学問の趣旨を二様に記して中津の旧友に贈る文]1874年(明治7)5月
・十編[前編のつづき、中津の旧友に贈る]1874年(明治7)6月
・十一編[身分から偽君子を生じるの論]1874年(明治7)7月
・十二編[演説の法を勧めるの説 / 人の品行は高尚ならざるべからざるの論]1874年(明治7)12月
・十三編[怨望の人間に害あるを論ず]1874年(明治7)12月
・十四編[心事の棚卸し / 世話の字の義]1875年(明治8)3月
・十五編[事物を疑いて取捨を断ずること]1876年(明治9)7月
・十六編[手近く独立を守ること / 心事と働きと相当すべきの論]1876年(明治9)8月
・十七編[人望論]1876年(明治9)11月

〇福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)とは?

 幕末から明治時代の思想家・教育者です。1835年(天保5)に豊前国中津藩士福沢百助の五男として、大坂藩邸で生まれました。
 1854年(安政元)に長崎で蘭学を学び、翌年大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭にまでなりなす。1858年(安政5)藩命によって江戸へ出府し、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開きました。
 その後、英学を独修し、1860年(万延元)には幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米することになります。以後、1861年(文久元)~翌年、1867年(慶応3)と都合3回幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。
 その経験をもとに1866年(慶応2)『西洋事情』初編、1868年(慶応4)『西洋事情』外編、1869年(明治2)『世界国尽』(1869)などを刊行して大衆の啓蒙に寄与します。また、1868年(慶応4)蘭学塾の名を慶応義塾と改め。今日の慶應義塾大学の礎を築きました。
 そして、1872年(明治5)から1876年(明治9)にわたって出版した『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と「一身の独立」「一国の独立」の主張により、ベストセラーとなったのです。このように、教育と啓蒙活動に専念し、1873年(明治6)に明六社を設立、1875年(明治8)『文明論之概略』を出版、(1875)1882年(明治15)「時事新報」を創刊するなどしてきましたが、1901年(明治34)年2月3日に68歳で死去しました。

☆『学問のすゝめ』初編 1872年(明治5)2月発行

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本(もと)を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺(ことわざ)にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
 学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦(よろこ)ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土(ふうど)道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
 学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋つながれず縛られず、一人前(いちにんまえ)の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然(しか)らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。
 また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり。わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易(こうえき)のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷(じょうい)などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺(ことわざ)に言う「井の底の蛙(かわず)」にて、その議論とるに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄(す)てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。
 しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤(いや)しめこれを嫌(きら)い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘(くる)しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。王制一度(ひとたび)新たなりしより以来、わが日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、すでに平民へ苗字(みょうじ)・乗馬を許せしがごときは開闢(かいびゃく)以来の一美事(びじ)、士農工商四民の位を一様にするの基(もとい)ここに定まりたりと言うべきなり。
 されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹(たか)は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦(かわら)にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古(いにしえ)よりこれを嫌いながらまた自然にその仕来(しきたり)に慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り人を畏(おど)して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りてはもはや全日本国内にかかる浅ましき制度、風俗は絶えてなきはずなれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上かみを怨うらむることなく、その路を求め、その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛なげう)ちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。
 前条に言えるとおり、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。
 昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民のうちに人物あれば政府の上に採用せらるべき道すでに開けたることなれば、よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。およそ世の中に無知文盲の民ほど憐(あわ)れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず。智恵なきの極(きわ)みは恥を知らざるに至り、己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴(ごうそ)・一揆(いっき)などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度(ほうど)を頼みてその身の安全を保ち、その家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。あるいはたまたま身本(みもと)慥(たし)かにして相応の身代ある者も、金銭を貯(たくわ)うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。ついには遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。
 かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。仮りに人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風に赴(おもむ)くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛(から)きと寛(ゆる)やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪(にく)む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

端書(はしがき)

 このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧(ふる)く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺す)り、同志の一覧に供うるなり。
 明治四年未(ひつじ)十二月
                    福沢諭吉  
                     記
                   小幡篤次郎 

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国連総会で定められた「女性に対する暴力撤廃の国際デー」の日詳細
1253年(建長5)鎌倉幕府第5代執権北條時頼が建長寺を創建し落慶法要を挙行(新暦12月24日)詳細
1557年(弘治3)戦国武将毛利元就が子の隆元・元春・隆景に「三子教訓状(十四箇条の遺訓)」を記す(新暦12月15日)詳細
1819年(文政2)江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の誕生日(新暦1820年1月10日)詳細
1936年(昭和11)ドイツのベルリンで「日独防共協定」が調印される詳細
1970年(昭和45)小説家三島由紀夫の命日(憂国忌)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、警視庁が「エロ演劇取締規則」を制定した日です。
 「エロ演劇取締規則」(えろえんげきとりしまりきそく)は、東京の警視庁保安部が、風紀取締りのためと称して発出した通牒でした。股下二寸未満のズロースなどを禁止し、レヴューの脚本は警視庁の認可制となり、衣装の露出具合や色、照明の当て方に至るまで演出面で厳しい制限を加えられることとなります。
 この結果、浅草の興行は「レヴュー」を主体とするものから軽演劇を主体とするものに移行し、規模の縮小にも拍車がかかりました。この取り締まりは、全国へ拡大していき、戦時色が強まる中で厳しくなり、太平洋戦争が終わるまで続きます。
 以下に、「エロ演劇取締規則」(抄)を掲載しておきますから、ご参照下さい。

〇「エロ演劇取締規則」(抄) 1930年(昭和5)11月24日警視庁制定

一、レヴュー、ナンセンス、キャバレー、ヴァラエテ等名称の如何を問はず演劇の形式をとり台詞叉は歌を用ふるものは規則の演劇興行に相当するものなるを以て凡て警視庁の認可を受けたる脚本を提出するに非ざれぼ興行を認可せざること
二、演劇演芸興行における所作、服装証明等については、左の各号により、厳重取り締まりにあたること
(イ)ヅロースは股下二寸未満のもの及び肉色のものはこれを禁ずること
(ロ)背部は上体の二分の一より以下を露出せしめざること
(ハ)胸腹部は乳房以下の部分を露出せしめざること
(ニ)静物と称し全身に肉襦袢を着し、裸体の曲線美を表すものは、腰部をスカートその他これに類するものを以て覆はしむること
(ホ)片方の脚のみ股まで肉体を露出するが如きものはこれを禁ずること
(ヘ)照明を以て腰部の着衣を肉色に反射せしむることはこれを禁ずること
(ト)ダンス(例えばインデアンダンス、ハワイダンス等)にして腰を部分的に前後左右に振る所作はこれを禁ずること
(チ)観客に向かい脚ほ挙げ股が継続的に観客に見ゆる如き所作はこれを禁ずること
(リ)日本服の踊りにおいて大腿を観客に顕はすが如き所作はこれを禁ずること
(ヌ)全各項に抵触せざるも著しく性的劣情を挑発するが如き所作、服装をなし又は必要以上に残酷なる所作をなすものを発見したる時は保安部の指揮を受け相当処置を取ること
三、玩具用活動写真機及びこのフイルムを販売するために又はあめ売行商等の手段として道路もしくは店ばたにおいて活動写真に映写するものを禁ずること
四、道路、公園、百貨店、遊園地に傍へ付たフイルム又は絵葉書の自動写真機はこれを撤去せしむること
五、興行の有料無料を問はず有料の場合は入場料以外に種々の名目(下足料、座布団料、火鉢代、煙草盆代等)にて中銭を徴収することはこれを禁ずること
六、二種以上の興行において規則第五十八条〔「興行場及興行取締規則」のこと〕の興行時間の刻限は大なる方の興行時間を標準としてこれを定めてその範囲内において小なる方の興行時間をその種興行時間の最高限度とすること
七、興行中請手続につき省略

   「東京朝日新聞」 1930年(昭和5)11月25日付より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1842年(天保13)佐久間象山が藩主真田幸貫に対して、「海防に關する藩主宛上書」を行なう(新暦12月25日)詳細
1871年(明治4)日本画家山元春挙の誕生日(新暦1872年1月4日)詳細
1873年(明治6)日本画家河合玉堂の誕生日詳細
1909年(明治42)大之浦炭鉱(福岡県)で爆発事故が起こり、死者・行方不明者259人を出す詳細
1919年(大正8)平塚らいてうにより新婦人協会の設立が発表される詳細
1945年(昭和20)GHQが「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を出す詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、大阪・長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われた日です。
 心斎橋(しんさいばし)は、大阪の長堀川に架かっていた橋でした。江戸時代前期の1622年(元和8)に、長堀川の開削と同時に架けられたという有力な説がありますが、1662年(寛文2)に岡田心斎が木橋として架橋したと伝えられています。
 1724年(享保9)に修理され、1739年(元文4)には、総費用銀15貫926匁で、架直しされました。1873年(明治6)に本木昌造の設計によって、ドイツ製の鉄橋に生まれ変わったものの、1908年(明治41)にかけ替えの為に撤去(移設され、鶴見緑地公園の緑地西橋として現存)され、翌年11月23日に、野口孫市の設計によって石造橋が完成し、渡り初め式が行われています。
 1962年(昭和37)に長堀川が埋め立てられて石造橋が撤去されたものの、1964年(昭和39)には、長堀通を横断する陸橋(歩道橋)として移築されました。1997年(平成9)にクリスタ長堀が完成した際、もとの心斎橋の位置に石造橋の一部がガス灯と共に復元されています。

〇心斎橋関係略年表

・1622年(元和8) 長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説がある
・1662年(寛文2) 岡田心斎が架橋(木橋)したと伝えられる
・1724年(享保9) 修理される
・1739年(元文4) 総費用銀15貫926匁で、架直しされる
・1873年(明治6) 本木昌造の設計によって、ドイツ製の鉄橋に生まれ変わる
・1908年(明治41) かけ替えの為に鉄橋が撤去される
・1909年(明治42)11月23日 野口孫市の設計によって石造橋が完成し、渡り初め式が行われる
・1962年(昭和37) 長堀川が埋め立てられて石造橋が撤去される
・1964年(昭和39) 長堀通を横断する陸橋(歩道橋)として移築される
・1997年(平成9) クリスタ長堀が完成した際、もとの心斎橋の位置に石造橋の一部がガス灯と共に復元される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1703年(元禄16)房総半島沖を震源とする元禄地震がおきる(新暦12月31日)詳細
1707年(宝永4) 富士山宝永噴火が始まる(新暦12月16日)詳細
1885年(明治18)自由民権運動激化事件の一つである大阪事件が起きる詳細
1896年(明治29)小説家樋口一葉の命日(一葉忌)詳細
1940年(昭和15)産業報国会の全国連合組織として大日本産業報国会が結成される詳細
2004年(平成16)洋画家吉井淳二の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の連合国軍占領下、1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から、「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」が出された日です。
 GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」(じーえいちきゅーきゅうさいはいきゅうのためにほかんされているよびぶっしにかんするおぼえがき)は、昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、1945年(昭和20)11月22日に発令された、連合国最高司令官指令第333号(SCAPIN-333)のことでした。日本政府に対し、主要な食材と衣料品のすべての在庫の詳細な目録を提供するよう指示し、各都道府県内の正確な位置と、食材と衣料品の配布計画を示したものです。
 政府の保管している予備物資が、横領・横流しなどで散逸するのを防止し、国民の為の救済配給に確実に回されるようにするために、講じられた措置でした。その後、この指令は、同年11月26日のGHQ「救援物資の配布のために保管されている予備物資に関する覚書」(SCAPIN-352)により更新されています。
 以下に、GHQ「救援物資の配布のために保管されている予備物資に関する覚書」(SCAPIN-352)の原文と日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」1945年(昭和20)11月22日GHQ指令

GENERAL HEADQUARTERS
RESERVE SUPPLIES HELD FOR RELIEF DISTRIBUTION

AG 400 (22 Nov 45) PH    22 November 1945
(SCAPIN-333) 

MEMORANDUM FOR:IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
THROUGH:Central Liaison Office, Tokyo.
SUBJECT:Reserve supplies Held for Relief Distribution.

1. Receipt is acknowledged of your memorandum, file number 372, dated 26 October 1945 on the subject of materials, supplies and equipment to be turned over to the Imperial Japanese Government by the Allied Forces.
2. The Imperial Japanese Government will furnish this headquarters without delay a detailed inventory of all stocks of staple foodstuffs and clothing listed in paragraph 3 (1) and 3 (2) of memorandum number 372, showing their exact location within each prefecture.
3. Prior to the distribution of any of the listed foodstuffs and clothing, and before 15 December 1945 a distribution plan will be submitted by the Imperial Japanese Government to this headquarters for approval. This plan will make provision for:
a. Control of relief distribution to be exercised by a central agency operating through prefectural governments.
b. A social welfare agency in each prefecture staffed by perfonnel selected for their training and skill in the handling of welfare problems, and specifically not for their present or former military or naval status;
c. Eligibility for receipt of relief supplies based only upon individual need determined by family budgetary deficiency:
d. Prevention of the use of supplies in mass feeding or distribution schemes without specific authority from this headquarters;
e. Issuance of relief supplies without cost to the recipient;
f. The maintenance of a record for each family to whom supplies are issued containing necessary identifying data;
g. Distribuiion through normal ration channels by withdrawal authorizations issued by the Social Welfare Agency.
h. Local accounting based upon the individual record (item f.) and individual withdrawal authorizations (item g.)
i. Submission by the central agency to this headquarters of a monthly report in metric weights showing by prefecture.
(1) Amount of supplies by item on hand at beginning of each month.
(2) Supplies added to stock during the month by source.
(3) Supplies withdrawn during the month indicating amount issued free to needy persons and amount withdrawn for other reasons (such as spoilage and transfer)
(4) Amount of each item on hand at end of the month.
(5) Number of families, and persons (dependants) represented in those families, to whom supplies were issued during the month.
(6) Totals of above items for all prefectures.

   FOR THE SUPREME COMMANDER:
       H.W.ALLEN,
       Colonel, A.G.D.,
       Asst Adjutant General.

      「国立国会図書館デジタルコレクション」よりGENERAL HEADQUARTERS

<日本語訳>

救済配給のために保管されてゐる予備物資に関する覚書

一九四五年一一月二二日

1. 連合国軍より日本帝国政府に引渡されるべき資材、需品及び裝備の件に関する一九四五年一〇月二六日附貴政府覚書第三七二号を受領した。
2. 日本帝国政府は、覚書第三七二号の第三項(1)及び第三項(2)に列記されてゐる主要食糧及び衣料の一切の在庫につきその詳細目録を遲滯なく本司令部に提出しなければならない。尚これには各府県內に於ける正確な所在地をも示すことを要する。
3. 列記された食料及び衣料の配給に先立ち、又一九四五年一二月一五日以前に、配分計画案が日本帝国政府より本司令部に提出され承認を受けることを要する。この計画案は以下各項を規定しなければならない。
a. 府県庁を通じて運用される中央機関による救済配給の統制管理
b. 特に現在の又は従来の陸海軍に於ける地位のためではなく、厚生関係諸問題の処理に於ける訓練と技量のために選ばれた人員を職員とする各府県社会厚生機関
c. 家庭予算の不足によつて決定される個人的必要のみを基礎とした救済物資受給資格
d. 物資の多数給食に使用されることの防止、及び本司令部の特定認可なき配給予定計画の防止
e. 受給者に入費をかけざる救済物資の配布
f. 物資の配給を受けた各家庭に対する記録の保存、これには必要な確認資料を含むこと
g. 社会厚生機関によつて発行された引取認可による正常配給機構を通ずる配給
h. 個々の記録(f項)と個々の引取認可(g項)を基礎とした各地方の詳細報吿
i. 府県別に以下の各項を示すメートル屯単位による月次報吿の中央機関による当司令部への提出
(1) 各月頭初に於ける手持物資の項目別数量
(2) 補給源別にその月中に在庫に追加された物資
(3) 無料で窮民に配布された量及びその他の理由(例へば腐敗及び移動等で引取られた量を示すその月中の引取物資)
(4) 月末手持の各項目の数量
(5) その月中に物資の配布を受けた家族数及びそれら家族に表はされてゐる個人(家族員)員数
(6) 全府県に対する上記項目の総計

   『日本管理法令研究』12巻より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1724年(享保9)浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日)詳細
1917年(大正6)江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第5条に基づいて、「国民勤労報国協力令」が交布(施行は同年12月1日)される詳細
1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細
1945年(昭和20)「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される詳細
1969年(昭和44)「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が出される詳細
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egamifujio01
 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、生化学者江上不二夫が生まれた日です。
 江上不二夫(えがみ ふじお)は、1910年(明治43)11月21日に東京において生まれ、1933年(昭和8)には、東京帝国大学理学部化学科を卒業しました。1934年(昭和9)にフランス政府の招聘留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学びましたが、1937年(昭和12)には帰国し、東京帝国大学理学部助手となります。
 1942年(昭和17)に、名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得ました。1943年(昭和18)に同大学理学部教授に昇進し、1953年(昭和28)には、「生体酸化環元の研究」で中日文化賞、翌年には、日本化学会賞を受賞しています。
 1957年(昭和32)にタカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高め、1958年(昭和33)には、東京大学理学部教授となりました。1961年(昭和36)に国際生化学連合の評議員(~1970年)となり、1966年(昭和41)に「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞、1967年(昭和42)には、『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務めています。
 1968年(昭和43)に埼玉大学理工学部教授を併任、日本生化学会会長となり、1969年(昭和44)には、日本学術会議会長(~1972年)となりました。1971年(昭和46)に三菱化成生命科学研究所初代所長となって、“生命の起源”の研究に打ち込み、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章も受章し、1977年(昭和52)には、国際生命の起源学会会長に就任します。
 1980年(昭和55)には、三菱化成生命科学研究所名誉所長となりましたが、1982年(昭和57)7月17日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、兄は東洋史学・考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫です。

〇江上不二夫の主要な著作

・『生体の化学』(1946年)
・『生化学研究の進み方』(1950年)
・『核酸および核蛋白質』(1951年)
・『生命を探る』(1967年)
・『生物化学概説』(1975年)

☆江上不二夫関係略年表

・1910年(明治43)11月21日 東京において、生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1934年(昭和9) フランス政府の招聘(しょうへい)留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学ぶ
・1937年(昭和12) 帰国し、東京帝国大学理学部助手となる
・1942年(昭和17) 名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得る
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学理学部教授となる
・1953年(昭和28) 「生体酸化環元の研究」で、中日文化賞を受賞する
・1954年(昭和29) 日本化学会賞を受賞する
・1957年(昭和32) タカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高める
・1958年(昭和33) 東京大学理学部教授となる
・1961年(昭和36) 国際生化学連合の評議員となる(~1970年)
・1966年(昭和41) 「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務める
・1968年(昭和43) 埼玉大学理工学部教授併任となり、日本生化学会会長となる
・1969年(昭和44) 日本学術会議会長(~1972年)となる
・1971年(昭和46) 三菱化成生命科学研究所初代所長となり、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章を受章する
・1977年(昭和52) オパーソン博士の後を継いで、国際生命の起源学会会長となる
・1980年(昭和55) 三菱化成生命科学研究所名誉所長となる
・1982年(昭和57)7月17日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

734年(天平6)「得度・授戒の制」が定められる(新暦12月20日)詳細
1889年(明治22)東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に歌舞伎座が開場する詳細
1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1903年(明治36)小説家伊藤永之介の誕生日詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細
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