今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港した日です。
第1回南極探検隊(だいいっかいなんきょくたんけんたい)は、明治時代後期の1910年(明治43)~1912年(明治45)にかけて、白瀬矗中尉を隊長として、南極探検をめざした探検隊でした。1909年年(明治42)9月8日に、白瀬は新聞でピアリー一行が5ヶ月前の4月6日、北極点の踏破に成功したことを知り、それまでの北極探検を南極探検に180度転換します。
1910年(明治43)1月に、白瀬はスコット大佐と南極点レースを争うことを決意し、元宮城県知事千頭清臣(ちかみきよおみ)らのアドバイスにより第26帝国議会に「国土領域ノ拡大ト国ノ富強」の見地から「南極探検ニ要スル経費下付請願」を提出しましたが、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の補助金を支出しなかったため、渡航費用14万円は国民の義援金に頼ることとなりました。7月3日の朝日新聞紙上で、「身体強健にして係累なきもの」を資格として南極探検隊員を募集、300人もの応募者の中から28人が決定します。
11月28日に芝浦埋め立て地で盛大な送別式が行われ、翌日に、開南丸(204トン)が芝浦埠頭を出港し、南極探検に向かいました。1911年(明治44)2月8日にニュージーランドのウェリントン港に入港し、物資を積み込み、2月11日に南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増していたので、5月1日にシドニーに入港します。
11月19日には、再び南極を目指して、出港し、翌年1月16日に、開南丸は南極ロス海ホエール湾に到着し、その地点を「開南湾」と命名しました。1月20日にクジラ湾より再上陸し、極地に向け出発しましたが、1月28日には、帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経156度37分地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱をし上で、戻ります。
2月4日に開南丸はホエール湾を出帆し、帰国の途に就き、6月18日に日本の館山に到着し、6月19日に横浜へ回航され、6月20日には、延べ48,000km、1年7ヶ月近くにわたる長旅を終えて、出発地である芝浦へ帰還しました。その後、1913年(大正2)には、第1回南極探検の記録として、『南極探検』が東京・博文館から出版されています。
1910年(明治43)1月に、白瀬はスコット大佐と南極点レースを争うことを決意し、元宮城県知事千頭清臣(ちかみきよおみ)らのアドバイスにより第26帝国議会に「国土領域ノ拡大ト国ノ富強」の見地から「南極探検ニ要スル経費下付請願」を提出しましたが、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の補助金を支出しなかったため、渡航費用14万円は国民の義援金に頼ることとなりました。7月3日の朝日新聞紙上で、「身体強健にして係累なきもの」を資格として南極探検隊員を募集、300人もの応募者の中から28人が決定します。
11月28日に芝浦埋め立て地で盛大な送別式が行われ、翌日に、開南丸(204トン)が芝浦埠頭を出港し、南極探検に向かいました。1911年(明治44)2月8日にニュージーランドのウェリントン港に入港し、物資を積み込み、2月11日に南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増していたので、5月1日にシドニーに入港します。
11月19日には、再び南極を目指して、出港し、翌年1月16日に、開南丸は南極ロス海ホエール湾に到着し、その地点を「開南湾」と命名しました。1月20日にクジラ湾より再上陸し、極地に向け出発しましたが、1月28日には、帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経156度37分地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱をし上で、戻ります。
2月4日に開南丸はホエール湾を出帆し、帰国の途に就き、6月18日に日本の館山に到着し、6月19日に横浜へ回航され、6月20日には、延べ48,000km、1年7ヶ月近くにわたる長旅を終えて、出発地である芝浦へ帰還しました。その後、1913年(大正2)には、第1回南極探検の記録として、『南極探検』が東京・博文館から出版されています。
〇第1回南極探検隊関係略年表
<1909年年(明治42)、
・9月8日 白瀬は新聞でピアリー一行が5ヶ月前の4月6日、北極点の踏破に成功したことを知り、それまでの北極探検を南極探検に180度転換する
<1910年(明治43)>
・1月 白瀬はスコット大佐と南極点レースを争うことを決意し、元宮城県知事千頭清臣(ちかみきよおみ)らのアドバイスにより第26帝国議会に「国土領域ノ拡大ト国ノ富強」の見地から「南極探検ニ要スル経費下付請願」を提出する
・5月下旬 東京毎日新聞と萬朝報が白瀬の南極探検計画を報道する
・7月3日 朝日新聞紙上で、南極探検隊事務局は「身体強健にして係累なきもの」を資格として南極探検隊員を募集する
・7月5日 東京・神田錦輝館で南極探検発表演説会が開かれる
・7月16日 秋田魁新報社が義金募集の社告を掲げる
・11月21日 18馬力の補助エンジンを装備した開南丸(東郷平八郎元帥命名204トン)が品川沖で試運転をする
・11月28日 芝浦埋め立て地で盛大な送別式が行われる
・11月29日 開南丸が芝浦埠頭を出港し、南極探検に向かう
<1911年(明治44)>
・2月8日 ニュージーランドのウェリントン港に入港し、物資を積み込む
・2月11日 南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増す
・5月1日 シドニーに入港する
・11月19日 再び南極を目指して、出港する
<1912年(明治45)>
・1月16日 開南丸が南極ロス海ホエール湾に到着し、その地点を「開南湾」と命名する
・1月20日 クジラ湾より再上陸し、極地に向け出発する
・1月26日 開南丸は南極東方洋上、南緯76度06分、西経151度20分まで回航する
・1月28日 帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経156度37分地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱をする
・2月4日 開南丸はホエール湾を出帆し、帰国の途に就く
・6月18日 日本の館山に到着する
・6月19日 横浜へ回航する
・6月20日 開南丸は、延べ48,000km、1年7ヶ月近くにわたる長旅を終えて、出発地である芝浦へ帰還する
<1913年(大正2)>
・1月 東京・博文館から『南極探検』が出版される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1875年(明治8) | 新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する | 詳細 |
1890年(明治23) | 「大日本帝国憲法」が施行される | 詳細 |
第1回帝国議会が開会する | 詳細 | |
1928年(昭和3) | 文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日 | 詳細 |
1973年(昭和48) | 大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す | 詳細 |
2002年(平成14) | 歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日 | 詳細 |