amenimomakezu01
 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の詩を書いた日です。
 『雨ニモマケズ』(あめにもまけず)は、作者である宮沢賢治の死後に発見された詩で、代表作の一つとされてきました。「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」から始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ文です。
 1931年(昭和6)11月3日に手帳に書かれたと考えられ、病床に伏し、自らの死を覚悟した中で記したものでした。没後1年を記念した、1934年(昭和9)9月21日付の『岩手日報』夕刊の学芸第八十五輯「宮沢賢治氏逝いて一年」に「遺作(最後のノートから)」と題して掲載されます。
 続いて、1936年(昭和11)7月に、日本少国民文庫の『人類の進歩につくした人々』(山本有三編)に収録され、さらに、1939年(昭和14)刊行の児童向け作品集『風の又三郎』(羽田書店)への収録等により、世間に広く知られるようになりました。

〇宮沢賢治(みやざわけんじ)とは?

 大正時代から昭和時代前期に活躍した詩人・児童文学者です。明治時代後期の1896年(明治29)8月27日に、岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)の質古着商の父宮澤政次郎と母イチの長男として生まれました。
 1903年(明治36)花巻川口尋常小学校に入学、1909年(明治42)には、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に進み、寄宿舎「自彊寮」に入寮します。在学中は、鉱物採集や星座に熱中し、自然に親しみ、短歌を作るようになりました。
 卒業後は、1915年(大正4)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)へ首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮します。在学中は、友人らと同人誌『アザリア』を発行し、『校友会会報』へも短歌や短編を寄稿しました。
 卒業後さらに研究生として稗貫郡土性調査に従事し、この頃から童話を書き始めるようになります。1920年(大正9)に、田中智学の国柱会に入会、上京して布教活動等に加わりながら、童話を書き続けました。しかし、家の事情で帰郷して、稗貫農学校(後の花巻農学校)教諭となり、以後4年余り教壇に立つことになります。
 この間、1924年(大正13)に詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を自費出版しました。1926年(大正15)に農学校を退職し、開墾自炊生活にはいり、羅須地人協会を設立して農民指導に献身します。
 しかし、病気などのために挫折し、病状回復後、東北砕石工場技師となって石灰の宣伝販売に携わりましたが、無理がたたり、1933年(昭和8)9月21日に、37歳の若さで病死しました。代表作に童話では『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』、詩では『永訣の朝』、『雨ニモマケズ』などがあり、1982年(昭和57)、花巻市に「宮沢賢治記念館」が開設されています。

<宮沢賢治の主要な著作>

・童話『どんぐりと山猫』(1921年)
・童話『かしはばやしの夜』(1921年)
・童話集『注文の多い料理店』(1924年)
・詩集『春と修羅』(1924年)
・童話『銀河鉄道の夜』(1927年頃) 
・童話『グスコーブドリの伝記』(1932年)
・詩『雨ニモマケズ』(1931年)

☆「雨ニモマケズ」宮澤賢治著

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ影ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)俳人山口誓子の誕生日詳細
俳人秋元不死男の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「東亜新秩序の建設」(第二次近衛声明)を出す詳細
1945年(昭和20)新日本婦人同盟(会長:市川房枝)が結成される詳細
1946年(昭和21)「日本国憲法」が公布される詳細
1949年(昭和24)湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞が決定、日本人初のノーベル賞受賞となる詳細