ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年10月

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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、建築家・建築史学者伊東忠太が生まれた日ですが、新暦では11月21日となります。
 伊東忠太(いとう ちゅうた)は、出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれました。1871年(明治4)に米沢藩藩学・興譲館へ入学したものの、1873年(明治6年)に父が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学します。
 1878年(明治11)に、父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入し、1879年(明治12)には、旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)へ入学しました。1881年(明治14)に東京外国語学校独逸語科へ入学したものの、1885年(明治18)に同校の廃止により第一高等中学校へ編入、一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になります。
 1892年(明治25)に帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学、1893年(明治26)には、東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表し、日本建築史研究の端緒となりました。1896年(明治29)に古社寺保存会委員、1897年(明治30)に帝国大学工科大学講師、1898年(明治31)には、造神宮技師兼内務技師となります。
 1899年(明治32)に帝国大学工科大学助教授となり、1901年(明治34)には、東京帝国大学より工学博士を得ました。1902年(明治35)に建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発し、雲崗の石窟を発見、1905年(明治38)には、欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となります。
 1923年(大正12)に明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力し、1924年(大正13)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1928年(昭和3)に帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になります。
 1930年(昭和5)に帝都復興記念章を受章、1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1943年(昭和18)には、建築界で初めて、文化勲章を受章しました。1951年(昭和26)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、米沢市名誉市民・第1号となったものの、4月7日に東京において、87歳で亡くなっています。

〇伊東忠太の主要な作品

<建築物>

・平安神宮(1895年)
・明治神宮(1920年)
・大倉集古館(1927年)
・震災祈念堂(1930年)
・東京都復興記念館(1931年)
・築地(つきじ)本願寺(1934年)

<著書>

・『伊東忠太建築文献』
・『支那(しな)建築装飾』
・『日本建築の美』
・『伊東忠太見聞野帖―清国』
・時事漫画集『阿修羅帖』

☆伊東忠太関係略年表

・1867年(慶応3年10月26日) 出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれる
・1871年(明治4年) 米沢藩藩学・興譲館へ入学する
・1873年(明治6年) 父・伊東祐順が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学する
・1878年(明治11年) 父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入する
・1879年(明治12年) 旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)入学する
・1881年(明治14年) 東京外国語学校独逸語科へ入学する
・1885年(明治18年) 同校の廃止により第一高等中学校編入。一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になる
・1892年(明治25年) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学する
・1893年(明治26年) 東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表する
・1896年(明治29年) 古社寺保存会委員となる
・1897年(明治30年) 帝国大学工科大学講師となる
・1898年(明治31年) 造神宮技師兼内務技師となる
・1899年(明治32年) 帝国大学工科大学助教授となる
・1901年(明治34年) 東京帝国大学より工学博士を得る
・1902年(明治35年) 建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発する
・1905年(明治38年) 欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となる
・1921年(大正10年) 正四位となる
・1923年(大正12年) 明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力する
・1924年(大正13年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 従三位となる
・1928年(昭和3年) 帝国大学を定年退官し、東京帝国大学名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になる
・1930年(昭和5年) 帝都復興記念章を受章する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1943年(昭和18年) 建築界で初めて、文化勲章を受章する
・1951年(昭和26年) 文化功労者となる
・1954年(昭和29年) 米沢市名誉市民・第1号となるが、4月7日に東京において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、東京の明治神宮外苑に明治神宮競技場が竣功した日です。
 明治神宮競技場(めいじじんぐうがいえんきょうぎじょう)は、東京・青山の明治神宮外苑内にあった陸上競技場施設でした。内務省明治神宮造営局技師の小林政一が設計し、総工費は当時の金額で726万円で、収容人員は65,000人、楕円形のトラックは一周400m、メインスタンド側の直線部分を延長して200mの直線コースをとっています。
 1915年(大正4)に明治神宮外苑造営のために「明治神宮奉賛会」が結成され、1917年(大正6)には、明治神宮造営局に外苑の設計・施工を依頼しました。1922年(大正11)に定礎式が行われたものの、1923年(大正12)の関東大震災により一時工事が中止され、ようやく1924年(大正13)10月25日に、竣功式が行われ、第1回明治神宮競技大会(10月30日~11月3日)が開催されています。
 1930年(昭和5)に第9回極東選手権大会(5月24日~31日)が開催され、1931年(昭和6)の第六回明治神宮体育大会においては、織田幹雄(三段跳び)と南部忠平(走り幅跳び)が世界新記録を樹立しました。1934年(昭和9)に日本で初めてのアメリカンフットボールの公式試合(日本学生選抜対横浜外国人チーム)が行われ、1936年(昭和11)には、ベルリンでのIOC総会で1940年国際オリンピック大会の東京開催が決定したものの、戦争の為に中止となっています。
 1937年(昭和12)に明治神宮奉賛会が解散、1940年(昭和15)に、紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(6月5日~9日)、1943年(昭和18)には、出陣学徒壮行会(10月21日)が開催されました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に進駐軍により接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と呼称され、1952年(昭和27)の接収解除後は、明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となっています。
 同年に、保安隊が発足すると観閲式が行われ、大改修され、日本で初めてアンツーカー舗装が行なわれました。1954年(昭和29)にアジア大会の東京開催決定をうけ、衆議院で国立競技場建設が決議され、1956年(昭和31)には、外苑競技場惜別奉告祭(11月25日)、国立競技場起工式(12月28日)が行われます。
 1957年(昭和32)に明治神宮外苑競技場が解体され、翌年には、国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成(3月30日)しました。

〇明治神宮外苑競技場関係略年表

・1915年(大正4) 明治神宮奉賛会が設立される
・1917年(大正6) 明治神宮奉賛会が明治神宮造営局に外苑の設計・施工を依頼する
・1919年(大正8) 明治神宮外苑競技場の設計が終了する
・1922年(大正11) 定礎式が行われる
・1923年(大正12) 関東大震災により一時工事が中止(翌年再開)する
・1924年(大正13) 明治神宮外苑競技場竣功式(10月25日)が行われ、第1回明治神宮競技大会(10月30日~11月3日)が開催される
・1930年(昭和5) 第9回極東選手権大会(5月24日~31日)が開催される
・1931年(昭和6) 第六回明治神宮体育大会において織田幹雄(三段跳び)と南部忠平(走り幅跳び)が世界新記録を樹立する
・1934年(昭和9) 日本で初めてのアメリカンフットボールの公式試合(日本学生選抜対横浜外国人チーム)が行われる
・1936年(昭和11) ベルリンでのIOC総会で1940年国際オリンピック大会の東京開催が決定する
・1937年(昭和12) 明治神宮奉賛会が解散する
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(6月5日~9日)が開催される
・1943年(昭和18) 出陣学徒壮行会(10月21日)が開催される
・1945年(昭和20) 進駐軍により接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と呼称される
・1952年(昭和27) 接収解除され、明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となり、保安隊が発足して、観閲式が行われ、大改修され、日本で初めてアンツーカー舗装が行なわれる
・1953年(昭和28) サッカー、1954 FIFAワールドカップ・予選、日本対韓国戦が行われるも一分一敗で日本が敗退する
・1954年(昭和29) アジア大会の東京開催決定をうけ、衆議院で国立競技場建設が決議される
・1956年(昭和31) 外苑競技場惜別奉告祭(11月25日)、国立競技場起工式(12月28日)が行われる
・1957年(昭和32) 明治神宮外苑競技場が解体(1月~4月)される
・1958年(昭和33) 国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成(3月30日)する

☆明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)とは?

 東京都新宿区霞ヶ丘町・港区北青山(一部)に所在する緑地です。明治時代は、青山練兵場でしたが、1912年(明治45)に明治天皇が亡くなった時に、葬場殿が設けられ、大葬儀が行われました。その後、明治神宮が国費で造営(内苑)されるにあたって、記念施設として民間の献金により外苑として造成されます。
 1918年(大正7)6月1日に明治神宮外苑地鎮祭で着工されたものの、当初計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとするものでした。1923年(大正12)の関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設、翌年には計画が変更され、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになります。
 1924年(大正13)10月25日に、先行して明治神宮競技場が竣功(戦後に国立競技場として建替)、第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催されました。1926年(大正15)10月22日には、絵画館、野球場、相撲場、児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われます。
 翌日から野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われ、その後は東京六大学リーグ戦の会場となりました。1931年(昭和6)に水泳場、1933年(昭和8)に相撲場併用バスケットボール場設備が出来、1936年(昭和11)には絵画館壁画が完成しています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)の東京大空襲の際に、野球場をはじめ、苑内樹木が被災、戦後はGHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場ともなりました。1952年(昭和27)にGHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場は軟式球場として公開されます。
 1952年(昭和27)に「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となりましたが、1956年(昭和31)に1964年の東京オリンピック開催のため、外苑競技場は国(文部省)に譲渡され、国立競技場に建て替えられました。その後、諸施設が設けられ、洋風庭園としても整備され、現在は面積約30万㎡で、聖徳記念絵画館、明治記念館、明治神宮野球場、明治神宮外苑アイススケート場、日本青年館などのスポーツ、文化施設があります。
 絵画館前へ通ずるイチョウ並木は、東京におけるもっとも美しい街路樹の一つとされ、1982年(昭和57)には「新東京百景」にも選定されました。

<現在の明治神宮外苑の主な施設>

・聖徳記念絵画館 - 1926年竣工。明治天皇にまつわる幕末・明治期の政局を描いた絵画を中心に展示されている
・明治記念館 - 明治神宮による結婚式場として有名、大日本帝国憲法の草案を作った建物も残っている
・明治神宮野球場 - 東京ヤクルトスワローズの本拠地、また全日本大学野球選手権大会の舞台
・明治神宮外苑軟式グラウンド - 絵画館の正面にある野球場。
・明治神宮外苑にこにこパーク - 山やログハウスなど緑豊かな有料児童遊園(大人200円、子供50円)
・明治神宮外苑アイススケート場 - 一年中利用できる室内アイススケート場
・神宮外苑フットサルクラブ - 神宮外苑によるフットサルコート
・明治神宮外苑テニスクラブ - 神宮外苑によるテニスクラブ、1957年設立、室内と屋外の2つがある
・明治神宮外苑ゴルフ練習場 - 神宮外苑によるゴルフ練習場
・明治神宮バッティングドーム - 神宮にある全12打席のバッティングセンター
・日本青年館 - 宿泊・会議などもできる施設
・日本文化芸術研究センター - 2010年7月、京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が共同で設置したサテライトキャンパス
・三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア - 2019年11月22日に開業した三井ガーデンホテルの1つ

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
1907年(明治40)第1回文部省美術展覧会(通称:文展)が東京上野で開催される詳細
1909年(明治42)写真家土門拳の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)を出す詳細
1951年(昭和26)戦後初の国内民間航空会社日本航空が、東京~大阪~福岡間で運航開始する(民間航空記念日)詳細
1991年(平成4)「再生資源の利用の促進に関する法律」(リサイクル法)が施行(公布は前年4月26日)される詳細

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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の生まれた日です。
 渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)は、北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれました。父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住、札幌第一中学校、札幌南高等学校を経て、1952年(昭和27)に北海道大学理類に入学しましたが、1954年(昭和29)には、札幌医科大学医学部に進学しています。
 同年に、処女作『イタンキ浜にて』を発表、1957年(昭和32)には、同人雑誌「凍檣」に参加しました。1958年(昭和35)に札幌医科大学医学部を卒業、翌年には、整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し、テレビ放映されます。
 1964年(昭和39)に札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考され、1965年(昭和40)には、『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞しました。1966年(昭和41)に札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、前年の『死化粧』が第54回芥川賞候補となり、1967年(昭和42)に『霙』が第57回直木賞候補、1968年(昭和43)には、『訪れ』が第58回芥川賞候補となります。
 1969年(昭和44)に札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京、1970年(昭和45)には、総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞しました。1980年(昭和55)に『遠き落日』、『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞、1984年(昭和59)の『化身』発表後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、1986年(昭和61)の『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞します。
 1995年(平成7)に「日本経済新聞」に『失楽園』を連載、1997年(平成9)には、映画化・テレビドラマ化されて一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞しました。1998年(平成10)に「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成して一般公開され、2003年(平成15)に紫綬褒章受章、第51回菊池寛賞受賞、2007年(平成19)には、エッセー『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられます。
 医学小説、伝記、男女の愛と性をえがく恋愛小説と幅ひろく執筆してきましたが、2014年(平成26)4月30日に、東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。

〇渡辺淳一の主要な著作

・『死化粧』(1965年)第12回新潮同人雑誌賞受賞、第54回芥川賞候補
・『霙』(1967年)第57回直木賞候補
・『訪れ』(1968年)第58回芥川賞候補
・『光と影』(1970年)第63回直木賞受賞
・『花埋(はなうず)み』(1970年)
・『リラ冷えの街』(1971年)
・『野分け』(1972年)
・『冬の花火』(1975年)
・『女優』(1977年)
・『峰の記憶』(1978年)
・『白き旅立ち』(1979年)
・『流氷への旅』(1980年)
・『遠き落日』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『長崎ロシア遊女館』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『化粧』(1982年)
・『ひとひらの雪』(1983年)
・『化身(けしん)』(1986年)
・『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』(1986年)文藝春秋読者賞受賞
・『うたかた』(1990年)
・『失楽園』(1995年)
・『愛の流刑地』(2006年)

☆渡辺淳一関係略年表

・1933年(昭和8)10月24日 北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれる
・1946年(昭和21) 札幌第一中学校入学する
・1950年(昭和25) 札幌南高等学校へ入学する
・1952年(昭和27) 北海道大学理類に入学する
・1954年(昭和29) 札幌医科大学医学部に入学、処女作『イタンキ浜にて』を発表する
・1957年(昭和32) 同人雑誌「凍檣」に参加する
・1958年(昭和35) 札幌医科大学医学部を卒業する
・1959年(昭和34) 整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し,テレビ放映される
・1964年(昭和39) 札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考される
・1965年(昭和40) 『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞する
・1966年(昭和41) 札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、『死化粧』が第54回芥川賞候補となる
・1967年(昭和42) 『霙』が第57回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『訪れ』が第58回芥川賞候補となる
・1969年(昭和44) 札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京する
・1970年(昭和45) 総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『リラ冷えの街』が刊行され、“リラ冷え”が季語として定着する
・1972年(昭和47) 『野分け』『氷紋』を発表する
・1974年(昭和49) 『白き旅立ち』『まひる野』を発表する
・1977年(昭和52) 『女優』を発表する
・1979年(昭和54) 『くれなゐ』を発表する
・1980年(昭和55)『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞する
・1982年(昭和57)『化粧』を発表する
・1983年(昭和58)『ひとひらの雪』刊行後、“ひとひら族”という造語が生まれる。
・1984年(昭和59)『化身』を発表する
・1986年(昭和61) 『化身』刊行後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞、『別れぬ理由』を発表する
・1987年(昭和62) 『桜の樹の下で』を発表する
・1988年(昭和63) 『メトレス 愛人』『男というもの』を発表する
・1990年(平成2) 『うたかた』刊行後、“うたかた族”という造語が生まれる
・1993年(平成5) 『春の別れ』を発表。
・1995年(平成7) 「日本経済新聞」に『失楽園』を連載する
・1997年(平成9) 『失楽園』が映画化・テレビドラマ化され、一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞する
・1998年(平成10) 「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成し、一般公開される
・2003年(平成15) 紫綬褒章を受章、第51回菊池寛賞を受賞する
・2006年(平成18) 『愛の流刑地』を刊行する
・2007年(平成19) 『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられる
・2008年(平成20) 『熟年革命』を刊行する
・2009年(平成21) 『欲情の作法』刊行 発売1週間で23万部を突破する
・2010年(平成22) 『幸せ上手』を刊行する、『孤舟』を刊行する
・2011年(平成23) 『天上紅蓮』を刊行する
・2013年(平成25)『愛ふたたび』を刊行する
・2014年(平成26)4月30日 東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・2015年(平成27) 集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、田中正造が足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

〇足尾銅山(あしおどうざん)とは?

 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大しました。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されました。尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となっています。

〇田中 正造(たなか しょうぞう)とは?

 明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
 1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
 1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。
 そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てたのです。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みました。
 そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなったのです。その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しました。
 尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵しています。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、足尾銅山製錬所が操業する
・1885年(明治18) 渡良瀬川における魚類の大量死が始まる
・1890年(明治23) 渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなる
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1895年(明治28) 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する
・1896年(明治29) 田中正造が第9帝国議会において永久示談の不当性を追及、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所を設ける
・1897年(明治30) 鉱毒被害民が第1回大挙押出しを行う
・1900年(明治33) 鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕され、2日後と4日後、田中正造は国会で事件に関する質問を行なう
・1901年(明治34) 田中正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みる
・1902年(明治35) 時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て
・1903年(明治36) 政府は鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案が浮上する
・1904年(明治37) 田中正造は、実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組む
・1906年(明治39) 谷中村村長職務管掌鈴木豊三が、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する
・1907年(明治40) 政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかける
・1911年(明治44) 谷中村民16戸137人が北海道サロマベツ原野に移住する
・1913年(大正2) 田中正造は71歳で没し、運動は途切れることになる
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山する
・2011年(平成23) 発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
1873年(明治6)明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就く詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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sakataaio01
 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) が亡くなった日です。
 坂田栄男(さかた えいお)は、大正時代の1920年(大正9)2月15日に、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれましたが、囲碁好きの父の影響で子供の頃から囲碁を覚えました。1929年(昭和4)に、増淵辰子六段(後に八段)に入門し、翌年に日本棋院院生となり、1935年(昭和10)に、入段後、二段となります。
 1937年(昭和12)に三段、1938年(昭和13)に四段、1940年(昭和15)に五段、1943年(昭和18)には、六段に昇段しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本棋院を脱退し囲碁新社を結成し、翌年に七段に昇段しましたが、1949年(昭和24)には、日本棋院に復帰しています。
 1951年(昭和26)に第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れた後、翌年には、八段に昇段しました。1953年(昭和28)に、呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとし、1955年(昭和30)には、九段に昇段します。
 1959年(昭和34)に日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固め、1961年(昭和36)には、高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作りました。1963年(昭和38)に名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となり、1964年(昭和39)には、名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たします。
 1967年(昭和42)に7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得、1978年(昭和53)に日本棋院理事長となり、1979年(昭和54)には、紫綬褒章を受章しました。1982年(昭和57)にNHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得、1983年(昭和58)には、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とします。
 1986年(昭和61)に日本棋院理事長を辞め、1988年(昭和63)に日本棋院顧問となり、1990年(平成2)に勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に 二十三世本因坊を名乗ることを認められ、切れ味鋭い棋風で「かみそり坂田」とよばれてきたものの、2000年(平成12)の80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退しています。
 2009年(平成21)には、日本棋院名誉顧問となったものの、2010年(平成22)10月22日に、胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈されました。

<坂田栄男の記録>

・総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多)
・年間30勝2敗(1964年)
・一般棋戦29連勝(1963~64年)
・同一タイトル戦17連勝(第18期本因坊戦第5局~第22期本因坊戦第3局)
・通算成績1,117勝654敗16ジゴ
・連勝記録歴代1位(29連勝)

〇坂田栄男関係略年表

・1920年(大正9)2月15日 東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれる
・1929年(昭和4) 故増淵辰子八段に入門する
・1930年(昭和5) 日本棋院院生となる
・1935年(昭和10) 入段後、二段となる
・1937年(昭和12) 三段に昇段する
・1938年(昭和13) 四段に昇段する
・1940年(昭和15) 五段に昇段する
・1943年(昭和18) 六段に昇段する
・1944年(昭和19) 2ヶ月の教育召集を受ける
・1947年(昭和22) 日本棋院を脱退し囲碁新社を結成する
・1948年(昭和23) 七段に昇段する
・1949年(昭和24) 日本棋院に復帰する
・1951年(昭和26) 第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れる
・1952年(昭和27) 八段に昇段する
・1953年(昭和28) 呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする
・1955年(昭和30) 九段に昇段する
・1959年(昭和34) 日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める
・1961年(昭和36) 高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る
・1963年(昭和38) 名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となる
・1964年(昭和39) 名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たす
・1967年(昭和42) 7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得る
・1978年(昭和53) 日本棋院理事長となる
・1979年(昭和54) 紫綬褒章を受章する
・1982年(昭和57) NHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得る 
・1983年(昭和58) NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とする
・1986年(昭和61) 日本棋院理事長を辞める
・1988年(昭和63) 日本棋院顧問となる
・1990年(平成2) 勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 二十三世本因坊を名乗ることを認められる
・2000年(平成12) 80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退する
・2009年(平成21) 日本棋院名誉顧問となる
・2010年(平成22)10月22日 胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈される
・2019年(平成31) 第16回囲碁殿堂入りが決まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
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