ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年10月

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、適性語に関わって、大蔵省専売局がタバコの名称の日本名への改名(ゴールデンバット⇒金鵄、チェリー⇒桜、カメリア⇒椿)を発表した日です。
 敵性語(てきせいご)は、敵国の言葉のことですが、日中戦争~太平洋戦争中の日本では、英語が敵性語とみなされました。英語は、「軽佻浮薄」(気分が浮ついていて、行動が軽々しいという意味)であるとして、排斥が進みます。
 特に法的に規制された事実はありませんが、1940年(昭和15)3月28日に内務省が16人の芸人に芸名の改名を命令したり、9月頃から鉄道省によって駅構内の英語表記が撤廃され始めたり、10月31日に大蔵省専売局がタバコの改名を発表するなどして、英語名を使わない風潮が醸成されていきました。1941年(昭和16)12月の太平洋戦争突入後はその運動はより顕著なものとなり、「マスゴミ」や「大政翼賛会」などにより、自主的な規制運動も進みます。
 1943年(昭和18)2月には、英語の雑誌名が禁止されて改名されたり、同年に大日本体育会により英名スポーツの名称を和名に改称、3月2日に職業野球の理事会で英米語をやめ、野球用語も全面日本語化することを決定して拍車がかかりました。しかし、太平洋戦争後は、英語名が復活したものも多数あります。

〇戦時下の敵性語一覧(日中戦争~太平洋戦争)

<地名>
・日本アルプス⇒中部山岳(ちゅうぶさんがく)
・パールハーバー⇒真珠湾(しんじゅわん)
・シンガポール⇒昭南島(しょうなんとう)

<芸名(1940年3月28日に内務省が16人に芸名の改名を命令)>
・ディック・ミネ (歌手)⇒三根 耕一
・ミス・コロンビア (歌手)⇒松原操
・リーガル千太・万吉 (漫才師)⇒柳家千太・万吉
・秋スケ (漫才師)⇒徳山英助・美助
・ミスワカナ (漫才師)⇒玉松ワカナ
・あきれたぼういず⇒新興快速舞隊
・朝吹英一とカルア (ハワイアン)⇒南海楽友
・ビクター合唱団⇒勝鬨
・コロンビア合唱団⇒日畜合唱団
・シンフォニック・コーラス⇒交響合唱団
・モアナ・グリークラブ (ハワイアン)⇒灰田兄弟と岡の楽団

<音楽関係(1940年6月に文部省が絶対音感教育採用ドレミ階名唱法をハニホ音名唱法に改正、翌年4月実施)>
・クラリネット⇒堅笛(たてぶえ)
・サクソフォーン⇒金属性先曲がり音響出し機(きんぞくせいさきまがりおんきょうだしき)
・トロンボーン⇒抜き差し曲がり金真鍮喇叭(ぬきさしまがりがねしんちゅうらっぱ)
・ヴァイオリン⇒提琴(ていきん)
・コントラバス⇒妖怪的四弦(ようかいてきよんげん)、大提琴(だいていきん)
・ピアノ⇒洋琴(ようきん)、鋼琴(こうきん)
・ビオラ⇒中提琴(ちゅうていきん)
・オルガン⇒風琴(ふうきん)
・アコーディオン⇒手風琴(てふうきん)
・フルート⇒洋笛(ようぶえ)
・トランペット⇒喇叭(らっぱ)
・ホルン⇒角笛(つのぶえ)
・ティンパニ⇒半円鍋型ぎゅう縛り高低自在太鼓(はんえんなべがたぎゅうしばりこうていじざいだいこ)
・トライアングル⇒三角鉄(さんかくてつ)
・タンバリン⇒鈴鼓
・ギター⇒六絃琴 (ろくげんきん)
・エレクトーン⇒電子琴(でんしごと)
・ハープ⇒竪琴(たてごと)
・ハーモニカ⇒口風琴(くちふうきん)
・オカリナ⇒鳩琴(きゅうきん)
・チャイム⇒鐘琴(しょうきん)
・オルゴール⇒自鳴琴(じめいきん)
・ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド⇒ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ

<放送関係>
・アナウンサー⇒放送員(ほうそういん)
・マイクロホン⇒送話器(そうわき)
・アンテナ⇒空中線
・レコード⇒音盤(おんばん)
・ニュース⇒報道(ほうどう)
・臨時ニュース⇒臨時報道(りんじほうどう)

<飲食物関係>
・サイダー⇒噴出水(ふんしゅっすい)
・ビール⇒麦酒(ばくしゅ)
・フライ⇒洋天(ようてん)
・キャラメル⇒軍粮精(ぐんろうせい)
・コロッケ⇒油揚げ肉饅頭(あぶらあげにくまんじゅう)
・カレーライス⇒辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)
・パン⇒麪包(めんぽう)

<タバコ関係(1940年10月31日にタバコの改名が発表される)
・ゴールデンバット⇒金鵄(きんし)
・チェリー⇒桜(さくら)
・カメリア⇒椿(つばき)

<野球関係(1943年3月2日に職業野球の理事会で英米語をやめ、野球用語も全面日本語化することを決定)>
・ベースボール⇒野球(やきゅう)
・ヒット⇒よし
・ホ-ムイン⇒生還(せいかん)
・ストライク⇒よし1本、正球
・ストライク ツー⇒よし2本
・ストライク スリー、ユー アー アウト⇒よし3本、それまで
・ボール⇒(だめ)1つ、悪球
・ファウル⇒だめ、圏外、もとえ
・アウト⇒ひけ、無為
・セーフ⇒よし、安全
・バッテリー⇒対打機関
・タイム⇒停止(ていし)
・バント⇒軽打(けいだ)
・スクイズ⇒疑投打生還
・スチールスクイズ⇒盗塁・奪走塁
・ボーク⇒疑投
・ホームラン⇒本塁打(ほんるいだ)
・ファウルグラウンド⇒圏外区域(けんがいくいき)
・フェアグラウンド⇒正打区域
・ホームチーム⇒迎戦組(げいせんぐみ)
・ビジターチーム⇒往戦組(おうせんぐみ)
・リーグ戦⇒連盟戦(れんめいせん)
・コーチ⇒助令(じょれい)
・マネージャー⇒秘書(ひしょ)  

<ゴルフ関係>
・ゴルフ⇒打球(だきゅう)、芝球(しきゅう) 
・ホ-ルインワン⇒鳳(おおとり)
・パー⇒基準数(きじゅんすう)
・キャディ⇒球童(きゅうどう)
・ブービー賞⇒幸運賞(こううんしょう)
・バンカー⇒砂窪
・バーディ⇒隼
・パター⇒短杖
・OB⇒免れ球
・ハンディキャップ⇒均率
・マッチプレー⇒区数競技
・エチケット⇒打球作法(だきゅうさほう)
・グリーン⇒球孔区域
・コース⇒打球場(だきゅうじょう)
・フェアウェイ⇒芝地(しばち)
・ティグラウンド⇒打出区域
・ラフ⇒野地
・ウッド⇒木
・アイアン⇒金
・アドレス⇒照準(しょうじゅん)

<その他スポーツ関係(1943年に大日本体育会は英名スポーツの名称を和風に改称した)>
・スポーツ⇒運動競技(うんどうきょうぎ)
・ラグビー⇒闘球(とうきゅう)
・バレーボール⇒排球(はいきゅう)
・ハンドボール⇒送球(そうきゅう)
・バスケットボール⇒籠球(ろうきゅう)
・バトミントン⇒羽球(うきゅう)
・テニス⇒庭球(ていきゅう)
・ピンポン⇒卓球(たっきゅう)
・アメリカンフットボール⇒鎧球(がいきゅう)
・サッカー⇒蹴球(しゅうきゅう)
・ホッケー⇒杖球(じょうきゅう)
・アイスホッケー ⇒氷球(ひょうきゅう)
・ウォーターポロ⇒水球(すいきゅう)
・ドッジボール⇒避球(ひきゅう)
・スキー⇒雪滑(ゆきすべり)
・スケート⇒氷滑(こおりすべり)
・レスリング⇒重技(じゅうぎ)
・ボクシング⇒拳闘(けんとう)
・クロール⇒速泳(そくえい)
・ビリヤード⇒撞球(どうきゅう)
・ボウリング⇒投球(とうきゅう)、十柱戯(じゅっちゅうぎ)
・テント⇒天幕(てんまく)
・キャンプ⇒露営(ろえい)

<鉄道関係>
・プラットホーム⇒乗車廊(じょうしゃろう)
・オーライ⇒発車(はっしゃ)
・ストップ⇒停車(ていしゃ)
・ゴンドラ⇒搬器(はんき)
・ロープウェイ⇒策道(さくどう)
・ケーブルカー⇒鋼索鉄道(こうさくてつどう)

<自動車関係>
・ロータリー⇒円交路
・バック⇒背背(はいはい)
・バス⇒乗合自動車(のりあいじどうしゃ)
・トラック⇒自動貨車(じどうかもつ)
・ハンドル⇒走行転把(そうこうてんば)
・アクセル⇒噴射践板(ふんしゃせんばん)
・アクセルペダル⇒加速践板(かそくせんばん)
・エンジン⇒発動機(はつどうき)
・チェンジレバー⇒変速槓棹(へんそくこうかん)
・クラッチ⇒剪断器(せんだんき)、連軸器(れんじくき)
・シリンダー⇒気筒(きとう)
・ピストン⇒吸鍔(すいつば・きゅうがく)
・ガソリン⇒揮発油(きはつゆ)
・オイル⇒潤滑油(じゅんかつゆ)
・キャブレター⇒気化器(きかき)
・ヘッドライト⇒前照灯(ぜんしようとう)
・キャタピラ⇒無限軌道(むげんきどう)
・スプリング⇒発条(はつじょう)
・ワイパー⇒前面硝子掃除機(ぜんめんがらすそうじき)
・コンデンサ⇒蓄電器(ちくでんき)
・バッテリー⇒蓄電池(ちくでんち)

<植物関係>
・カスタービン⇒支那油桐(しなあぶらぎり)
・コスモス⇒秋桜(あきざくら)
・シクラメン⇒篝火草(かがりびそう)
・チューリップ⇒鬱金香(うこんこう)
・ヒヤシンス⇒風信子(ひやしんす / ふうしんす)
・プラタナス⇒鈴懸樹(すずかけのき)
・カーネーション⇒和蘭石竹(おらんだせきちく)
・サルビア⇒緋衣草(ひごろもそう)
・ダリア⇒天竺牡丹(てんじくぼたん)
・デイジー⇒雛菊(ひなぎく)

<動物関係>
・カンガルー⇒袋鼠(ふくろねずみ)
・ライオン⇒獅子(しし)

<衣料品関係>
・ズボン⇒袴(こ)
・トランクス⇒猿股(さるまた)

<雑誌関係(1943年2月英語の雑誌名が禁止される)>
・『キング』⇒『富士』(ふじ)
・『サンデー毎日』⇒『週刊毎日』(しゅうかん まいにち)
・『エコノミスト』⇒『経済毎日』(けいざい まいにち)
・『ユーモアクラブ』⇒『明朗』(めいろう)
・『経済マガジン』⇒『経済ニツポン』(けいざい にっぽん)
・『オール讀物』⇒『文藝讀物』(ぶんげい よみもの)
・『キンダーブック』⇒『ミクニノコドモ』

<鉛筆関係(1943年頃からトンボ鉛筆は、鉛筆の濃さの表記を以下のように変えると告知した)>
・2B⇒二軟
・B⇒一軟
・HB⇒中庸
・H⇒一硬
・2H⇒二硬

<日用品関係>
・ハンカチ⇒手巾(てきん)
・スリッパ⇒上靴(じょうか)
・ライター⇒点火器(てんかき)
・マッチ⇒燐寸(りんすん)
・ファスナー⇒チャック
・ハンドバッグ⇒皆入袋
・フォーク⇒肉刺(にくさし)
・スコップ⇒円匙(えんぴ)
・ドライバー⇒柄付き螺回し(えつきらまわし)
・テーブル⇒卓子(たくし)
・スクラップブック⇒オサイク
・コンパス⇒文回し(ぶんまわし)

<軍事関係>
・レーダー⇒電波探信儀(でんぱたんしんぎ)
・酸素マスク⇒与圧面(よあつめん)
・ミサイル⇒噴進弾(ふんしんだん)
・サーチライト⇒探照灯(たんしょうとう)
・ソナー⇒音波探知機(おんぱたんちき)

<その他>
・パーマ⇒電髪(でんぱつ)
・キス⇒接吻(せっぷん)、口づけ
・スイッチ⇒開閉器(かいへいき)
・ステンレス⇒不錆(せい)鋼・耐錆鋼・不銹(しゅう)鋼
・デート⇒逢い引き(あいびき)
・ブラウン管⇒陰極線管(いんきょくせんかん)
・アクリルガラス⇒有機硝子(ゆうきがらす)
・チェーンストア⇒連鎖店(れんさてん)
・ホステス⇒女給(じょきゅう)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1903年(明治36)土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉の命日詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)「軍需会社法」が公布される詳細
1964年(昭和39)関門連絡船の最後の便が就航し、この日限りで廃止される詳細
1967年(昭和42)医学者佐々木隆興の命日詳細
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 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、劇作家木下順二の亡くなった日です。
 木下順二(きのした じゅんじ)は、大正時代の1914年(大正3)8月2日に、東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれましたが、第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻りました。旧制熊本中学(現在の県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1936年(昭和11)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 中野好夫のもとでシェイクスピアを専攻し、1939年(昭和14)に卒業後、大学院へ進み、法政大学講師となり、1941年(昭和16)には、修士課程を修了しました。1943年(昭和18)には、民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書きます。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に明治大学講師(演劇)となり、1947年(昭和22)には、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成しました。1949年(昭和24)に『夕鶴』で毎日演劇賞、1954年(昭和29)に『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞、1955年(昭和30)には、アジア諸国会議や世界平和大会に参加するなど良心的、進歩的な活動にも参加します。
 1959年(昭和34)に『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)、1966年(昭和41)には、『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞するなど、リアリズム演劇でも、戦後の演劇界を代表する存在となりました。1967年(昭和42)に山本安英らと「ことばの勉強会」を開始し、1979年(昭和54)には、『子午線の祀り』で第30回読売文学賞、翌年には、この上演により第21回毎日芸術賞を受賞しています。
 1984年(昭和59)に日本芸術院会員に選ばれたが辞退、1985年(昭和60)に『ぜんぶ馬の話』で第36回読売文学賞(随筆部門)、1986年(昭和61)に「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で朝日賞、1990年(平成2)には、『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞しました。1992年(平成4)に『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞、1995年(平成7)に『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞しましたが、1998年(平成10)には、東京都名誉都民に選ばれたものの辞退するなど、国家的名誉は一切受けず、元号法制化、小選挙区制度等の反対運動に参加するなどしています。
 2000年(平成12)に趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈しましたが、2006年(平成18)10月30日に、東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなりました。

〇木下順二の主要な著作

・脚本『赤い陣羽織』(1947年)
・脚本『夕鶴(ゆうづる)』(1949年)毎日演劇賞受賞
・脚本『山脈(やまなみ)』(1949年)
・脚本『暗い火花』(1950年)
・脚本『蛙(かえる)昇天』(1951年)
・脚本『風浪(ふうろう)』(1954年)岸田演劇賞受賞
・脚本『沖縄』(1961年)
・脚本『オットーと呼ばれる日本人』(1962年)
・小説『無限軌道』(1965年)
・脚本『神と人とのあいだ』2部(1972年)
・脚本『子午線の祀り』(1978年)読売文学賞受賞
・評論的な作品『戯曲の日本語』(1982年)
・小説『本郷』(1983年)
・脚本『巨匠』(1991年)
・『絵巻平家物語』(1992年)産経児童出版文化賞大賞受賞
・評論『“劇的”とは』(1995年)

☆木下順二関係略年表

・1914年(大正3)8月2日 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる
・1925年(大正14) 小学4年時、郷里熊本の小学校に転校する
・1933年(昭和8) 第五高等学校へ入学する 
・1936年(昭和11) 第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1939年(昭和14) 東京帝国大学英文科を卒業し、大学院へ進み、法政大学講師となる
・1941年(昭和16) 東京大学大学院文学部英文科修士課程を修了する
・1943年(昭和18) 民話を素材に、『鶴女房』『二十二夜待ち』『彦市(ひこいち)ばなし』などを書く
・1946年(昭和21) 明治大学講師(演劇)となる
・1947年(昭和22) 山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成する
・1949年(昭和24) 『夕鶴』で毎日演劇賞を受賞する
・1954年(昭和29) 『風浪』で第1回岸田演劇賞を受賞する
・1955年(昭和30) アジア諸国会議に参加する
・1959年(昭和34) 『日本民話選』で第6回産経児童出版文化賞、『ドラマの世界』で第13回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1966年(昭和41) 『無限軌道』で、第20回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞する
・1967年(昭和42) 山本安英らと「ことばの勉強会」を開始する
・1979年(昭和54) 『子午線の祀り』で第30回読売文学賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『子午線の祀り』上演により第21回毎日芸術賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院会員に選ばれたが辞退する
・1985年(昭和60) 『ぜんぶ馬の話』で、第36回読売文学賞(随筆部門)を受賞する
・1986年(昭和61) 「夕鶴」「子午線の祀り」など、長年にわたる劇作活動で、朝日賞を受賞する
・1990年(平成2) 『木下順二集』ほかで第31回毎日芸術賞を受賞する
・1992年(平成4) 『絵巻平家物語』を刊行し、第39回産経児童出版文化賞大賞を受賞する
・1995年(平成7) 『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 東京都名誉都民に選ばれるが辞退する
・2000年(平成12) 趣味で収集した国内有数の“馬の本”コレクション約3000冊を馬事文化財団に寄贈する
・2006年(平成18)10月30日 東京都文京区において、肺炎により、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1890年(明治23)「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布される詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」を出す詳細
1999年(平成11)上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する詳細
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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)、東京浅草に12階建ての凌雲閣が竣工した日です。
 凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代中頃から大正時代まで、東京市浅草区(現在の東京都台東区)にあった、八角形の12階建ての塔で、「浅草十二階」とも呼ばれていました。凌雲閣の開業起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者は、お雇い外国人の英国人技師ウィリアム・K・バートンで、「雲を凌ぐほど高い」という意味で命名されています。
 明治時代中頃の1890年(明治23)10月29日に竣工し、11月11日に開業しましたが、当時の日本で最も高い建築物(約52m)で、構造は、10階までが煉瓦造り、11・12階は木造で、10階から12階は眺望室となり、望遠鏡が置かれていました。また、8階までは日本最初の電動式エレベーターが設置されていて、「エレベーターの日」(11月10日)は、この設置に関わるものです。
 しかし、開業当日より故障が頻発し、翌年5月には使用中止になり、1914年(大正3)に再設されました。東京一の高さを誇る建物として、東京名所となり、連日見物客でにぎわいます。
 ところが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で、8階より上が崩落し、経営難から復旧が困難であったため再建は断念され、9月23日には、陸軍赤羽工兵隊により爆破解体されて姿を消しました。

〇凌雲閣関係略年表

・1890年(明治23)10月29日 凌雲閣が竣工する
・1890年(明治23)11月11日 凌雲閣が開業する
・1891年(明治24)5月 エレベーターは、開業当日より故障が頻発し、使用中止になる
・1911年(明治44)6月1日 階下に「十二階演芸場」ができる
・1912年(明治45)2月 隣地に浅草国技館」が開館する
・1914年(大正3) エレベーターが再設される
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災で半壊する
・1923年(大正12)9月23日に陸軍赤羽工兵隊により爆破解体され姿を消す

☆明治時代に建てられた主要な高層建築

・五層楼眺望閣(大阪府)1888年(明治21)高さ約31m
・九層楼凌雲閣(大阪府)1889年(明治22)高さ約40m
・浅草凌雲閣(東京府)1890年(明治23)煉瓦造り高さ約52m
・岡山集成閣(岡山県)1891年(明治24)高さ約31m

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1720年(享保5)水戸藩が『大日本史』250巻(享保本)を幕府へ献上する(新暦11月28日)詳細
1779年(安永8)第118代の天皇とされる後桃園天皇の命日(新暦12月6日)詳細
1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1935年(昭和10)映画監督・アニメーション演出家・プロデューサー・翻訳家高畑勲の誕生日詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細
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 今日は、1882年(明治15)に、田鎖式速記の考案者・田鎖綱紀が東京で日本初の速記講習会を開催した日で、「速記記念日」とされる
 速記記念日(そっききねんび)は、日本速記協会が制定した記念日でした。1882年(明治15)9月19日に、田鎖綱紀が『時事新報』紙上で発表した自ら考案の速記法について、この日、東京・日本橋で初の速記講習会を開催します。
 その速さから田鎖綱紀は「電筆将軍」と呼ばれるようになりました。1888(明治22)に、講習会の7周年記念会を開いた時に、この日が「速記記念日」として定められます。現在では日本速記協会が中心となり、ひろく国民に速記に関する関心を啓発する催し等が行われてきました。

〇速記(そっき)とは?

 速記文字や速記符号と呼ばれる特殊な記号を用い、言葉を簡単な符号にして、人の発言などを書き記す方法です。主に、議会や法廷の発言を記録する分野や出版、ジャーナリズムなどで口述筆記する場合に利用されてきました。
 日本では、1882年(明治15)9月16日に、田鎖綱紀が『時事新報』にグラハム式を参考にした日本傍聴記録法として発表、10月28日には、日本傍聴筆記法講習会を開設し、田鎖式速記の指導を開始します。1888年(明治22)に、講習会の7周年記念会を開いた時に、10月28日が「速記記念日」として定められました。
 1890年(明治24)に帝国議会が開設され、議会速記が必要とされる時代を迎え、1906年(明治39)に熊崎(くまざき)式(熊崎健一郎創案)、1914年(大正3)には、中根(なかね)式(中根正親創案)が発表されます。1918年(大正7)に帝国議会では、速記練習生を募集し内部養成する方針に転換され、1920年(大正9)には、日本速記協会結成され、機関誌「日本速記協会雑誌」が発刊されました。
 1930年(昭和5)に早稲田(わせだ)式(川口渉創案)が発表され、1932年(昭和7)に速記発表50周年記念全国速記者大会が開催され、1936年(昭和11)には、第1回速記技術認定試験が実施されるようになります。1942年(昭和17)に衆議院式標準符号が定められ、1944年(昭和19)には、ソクタイプ(川上晃(あきら)創案)が特許を受け、最高裁判所書記官研修所に採用されました。
 太平洋戦争後、衆議院速記者養成所、参議院速記者養成所は、各機関の速記者養成を目標としたものでしたが、2006年(平成18)に閉所され、2008年(平成20)に参議院では、担当職員がモニターで音声と映像を確認してパソコン入力する方式となり、2011年(平成23)に、衆議院では、音声認識システムが導入されるようになります。また、地方議会でも、手書き速記が廃止されてきました。

〇日本の速記関係略年表

・1882年(明治15)9月16日 田鎖綱紀が『時事新報』にグラハム式を参考にした日本傍聴記録法として発表する
・1882年(明治15)10月28日 日本傍聴筆記法講習会を開設し、田鎖式速記の指導を開始する
・1888年(明治22) 講習会の7周年記念会を開いた時に、10月28日が「速記記念日」として定められる
・1890年(明治24) 帝国議会が開設され、議会速記が必要とされる時代を迎える
・1906年(明治39) 熊崎(くまざき)式(熊崎健一郎創案)が発表される
・1914年(大正3) 中根(なかね)式(中根正親創案)が発表される
・1918年(大正7) 帝国議会では、速記練習生を募集し内部養成する方針に転換される
・1920年(大正9) 日本速記協会結成され、機関誌「日本速記協会雑誌」が発刊される
・1930年(昭和5) 早稲田(わせだ)式(川口渉創案)が発表される
・1932年(昭和7) 速記発表50周年記念全国速記者大会が開催される
・1936年(昭和11) 第1回速記技術認定試験が実施される
・1942年(昭和17) 衆議院式標準符号が定められる
・1944年(昭和19) この年を最後に速記技術認定試験が中断、ソクタイプ(川上晃(あきら)創案)が特許を受ける
・1947年(昭和22) 戦後初の速記技術認定試験が実施される
・1949年(昭和24) 「日本の速記」復刊される
・1950年(昭和25) 速記技術試験要綱が制定される
・1951年(昭和26) 日本速記協会速記士証交付規程が制定される
・1952年(昭和27) 速記発表70周年記念式典が開催される
・1962年(昭和37) 速記発表80周年記念式典が開催される
・1965年(昭和40) 文部省より、社団法人日本速記協会として認可される
・1966年(昭和41) 社団法人日本速記協会第1回総会が開催され、速記技術認定試験廃止・第1回速記技能検定試験が実施される
・1964年(昭和42) 第1回速記技能検定試験成績優秀者が表彰される
・1975年(昭和50) 「標準用字例」初版が刊行される
・1982年(昭和57) 速記発表100周年記念式典
・2002年(平成14) 速記発表120周年記念式典
・2006年(平成18) 国会の各院独自に設けられていた速記者の養成所が廃止される
・2008年(平成20) 参議院では、担当職員がモニターで音声と映像を確認してパソコン入力する方式となる
・2009年(平成21) 千代田区永田町にあった事務所を同区麹町に移転
・2011年(平成23) 衆議院では、音声認識システムが導入されるようになる
・2012年(平成24) 内閣府より公益社団法人として認定され、速記発表130年記念式典(盛岡市先人記念館)が開催される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1861年(文久元)江戸幕府が種痘所を西洋医学所と改称、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となる詳細
1876年(明治9)萩の乱がおきる詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
1956年(昭和31)大阪府大阪市浪速区に現在の通天閣(二代目)が完成する詳細
1962年(昭和37)小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日詳細
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kadokawagenyoshi01
 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、実業家・国文学者・俳人角川源義の亡くなった日です。
 角川源義(かどかわ げんよし)は、大正時代の1917年(大正6)10月9日に、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれました。1930年(昭和5)に富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学し、1931年(昭和6)に中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿、1932年(昭和7)には、「草上」に投句をはじめます。
 1935年(昭和10)に中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出ましたが、1936年(昭和11)には、上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会いました。1937年(昭和12)に折口の在籍する国学院大学に入学、折口や武田祐吉、柳田國男に師事したものの、1941年(昭和16)には、臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業します。
 1942年(昭和17)に東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京都板橋区小竹町で角川書店を設立、1947年(昭和22)に金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加、1948年(昭和23)には、雑誌「表現」を刊行(~1949年)します。
 1949年(昭和24)に角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救い、1951年(昭和26)には、山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版しました。1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、現代俳句協会に入会し、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こします。
 1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)に第1句集『ロダンの首』を刊行、1958年(昭和33)には、俳誌「河」を創刊・主宰しました。1961年(昭和36)に現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となり、『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)を得て、1964年(昭和39)には、国学院大学文学部講師となります。
 1967年(昭和42)に俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立、1971年(昭和46)に俳句文学館建設委員長に就任、1972年(昭和47)には、随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。1975年(昭和50)には、慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞したものの、10月27日に入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈されています。

<角川源義の代表的な句>

・「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(ロダンの首)
・「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(秋燕)
・「花あれば西行の日とおもふべし」(西行の日)
・「後の月雨に終るや足まくら」

〇角川源義の主要な著作

・論文集『悲劇文学の発生』(1942年)
・句集『ロダンの首』(1956年)
・文芸評論集『語り物文芸の発生』(1961年)
・文芸評論集『源義経』(1966年)
・句集『秋燕』(1966年)
・句集『神との宴』(1969年)
・随想集『雉子の声』(1972年)第20回日本エッセイストクラブ賞受賞
・句集『冬の虹』(1972年)
・句集『西行の日』(1975年)第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞 

☆角川源義関係略年表

・1917年(大正6)10月9日 富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれる
・1930年(昭和5) 富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学する
・1931年(昭和6) 中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿する
・1932年(昭和7) 「草上」に投句をはじめる
・1935年(昭和10) 中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出る
・1936年(昭和11) 上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会います
・1937年(昭和12) 折口信夫の在籍する国学院大学に入学、折口信夫や武田祐吉、柳田國男に師事する
・1941年(昭和16) 臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業する
・1942年(昭和17) 東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となる
・1945年(昭和20) 東京都板橋区小竹町で角川書店を設立する
・1947年(昭和22) 金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加する
・1948年(昭和23) 雑誌「表現」を刊行(~1949年)する
・1949年(昭和24) 角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救う
・1951年(昭和26) 山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版する
・1952年(昭和27) 俳句総合誌「俳句」創刊、現代俳句協会に入会する
・1953年(昭和28) 『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こす
・1954年(昭和29) 短歌総合誌「短歌」創刊する
・1955年(昭和30) 角川俳句賞と角川短歌賞を設立する
・1956年(昭和31) 第1句集『ロダンの首』を刊行する
・1958年(昭和33) 俳誌「河」を創刊・主宰する
・1961年(昭和36) 現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となる。『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)となる
・1964年(昭和39) 国学院大学文学部講師となる
・1967年(昭和42) 俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立する
・1971年(昭和46) 俳句文学館建設委員長に就任する
・1972年(昭和47) 随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1975年(昭和50) 慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、10月27日に、入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈される
・1979年(昭和54) 文学・歴史の学術賞「角川源義賞」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1933年(昭和8)小説家半村良の誕生日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細
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