
伊東忠太(いとう ちゅうた)は、出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれました。1871年(明治4)に米沢藩藩学・興譲館へ入学したものの、1873年(明治6年)に父が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学します。
1878年(明治11)に、父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入し、1879年(明治12)には、旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)へ入学しました。1881年(明治14)に東京外国語学校独逸語科へ入学したものの、1885年(明治18)に同校の廃止により第一高等中学校へ編入、一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になります。
1892年(明治25)に帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学、1893年(明治26)には、東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表し、日本建築史研究の端緒となりました。1896年(明治29)に古社寺保存会委員、1897年(明治30)に帝国大学工科大学講師、1898年(明治31)には、造神宮技師兼内務技師となります。
1899年(明治32)に帝国大学工科大学助教授となり、1901年(明治34)には、東京帝国大学より工学博士を得ました。1902年(明治35)に建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発し、雲崗の石窟を発見、1905年(明治38)には、欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となります。
1923年(大正12)に明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力し、1924年(大正13)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1928年(昭和3)に帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になります。
1930年(昭和5)に帝都復興記念章を受章、1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1943年(昭和18)には、建築界で初めて、文化勲章を受章しました。1951年(昭和26)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、米沢市名誉市民・第1号となったものの、4月7日に東京において、87歳で亡くなっています。
1878年(明治11)に、父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入し、1879年(明治12)には、旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)へ入学しました。1881年(明治14)に東京外国語学校独逸語科へ入学したものの、1885年(明治18)に同校の廃止により第一高等中学校へ編入、一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になります。
1892年(明治25)に帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学、1893年(明治26)には、東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表し、日本建築史研究の端緒となりました。1896年(明治29)に古社寺保存会委員、1897年(明治30)に帝国大学工科大学講師、1898年(明治31)には、造神宮技師兼内務技師となります。
1899年(明治32)に帝国大学工科大学助教授となり、1901年(明治34)には、東京帝国大学より工学博士を得ました。1902年(明治35)に建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発し、雲崗の石窟を発見、1905年(明治38)には、欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となります。
1923年(大正12)に明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力し、1924年(大正13)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1928年(昭和3)に帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になります。
1930年(昭和5)に帝都復興記念章を受章、1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1943年(昭和18)には、建築界で初めて、文化勲章を受章しました。1951年(昭和26)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、米沢市名誉市民・第1号となったものの、4月7日に東京において、87歳で亡くなっています。
〇伊東忠太の主要な作品
<建築物>
・平安神宮(1895年)
・明治神宮(1920年)
・大倉集古館(1927年)
・震災祈念堂(1930年)
・東京都復興記念館(1931年)
・築地(つきじ)本願寺(1934年)
<著書>
・『伊東忠太建築文献』
・『支那(しな)建築装飾』
・『日本建築の美』
・『伊東忠太見聞野帖―清国』
・時事漫画集『阿修羅帖』
☆伊東忠太関係略年表
・1867年(慶応3年10月26日) 出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれる
・1871年(明治4年) 米沢藩藩学・興譲館へ入学する
・1873年(明治6年) 父・伊東祐順が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学する
・1878年(明治11年) 父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入する
・1879年(明治12年) 旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)入学する
・1881年(明治14年) 東京外国語学校独逸語科へ入学する
・1885年(明治18年) 同校の廃止により第一高等中学校編入。一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になる
・1892年(明治25年) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学する
・1893年(明治26年) 東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表する
・1896年(明治29年) 古社寺保存会委員となる
・1897年(明治30年) 帝国大学工科大学講師となる
・1898年(明治31年) 造神宮技師兼内務技師となる
・1899年(明治32年) 帝国大学工科大学助教授となる
・1901年(明治34年) 東京帝国大学より工学博士を得る
・1902年(明治35年) 建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発する
・1905年(明治38年) 欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となる
・1921年(大正10年) 正四位となる
・1923年(大正12年) 明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力する
・1924年(大正13年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 従三位となる
・1928年(昭和3年) 帝国大学を定年退官し、東京帝国大学名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になる
・1930年(昭和5年) 帝都復興記念章を受章する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1943年(昭和18年) 建築界で初めて、文化勲章を受章する
・1951年(昭和26年) 文化功労者となる
・1954年(昭和29年) 米沢市名誉市民・第1号となるが、4月7日に東京において、87歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
968年(安和元) | 第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日) | 詳細 |
1311年(応長元) | 鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日) | 詳細 |
1868年(明治元) | 戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する | 詳細 |
1908年(明治41) | 幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日 | 詳細 |
1909年(明治42) | 政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される | 詳細 |
1983年(昭和58) | 国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する | 詳細 |