
伊能忠敬の第1次測量は、1800年(寛政12年閏4月14日)に、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下され、同月19日に伊能忠敬の自宅から蝦夷地へ向けて出発しましたが、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となりました。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を開始します。
測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わり、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動し、出発して21日目の5月10日に、津軽半島最北端の三厩に到達しました。船で蝦夷地へと渡り、箱館8泊してから、5月29日に出発し、本格的な蝦夷地測量が始まります。
シャマニ(様似町)~ホロイズミ(幌泉、えりも町)~クスリ(釧路市)~ゼンホウジ(仙鳳趾)~アツケシ(厚岸町)~アンネベツ(姉別)~ニシベツ(西別、別海町)~ネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定でしたが、鮭漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたため、そのまま引き返すことになりました。9月18日に、蝦夷地を離れて三厩に到着し]、そこから本州を南下して、10月21日には、人々が出迎えるなか、千住に帰着しましたが、日数は180日を要しています。
11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させ、12月21日に下勘定所に提出されました。
測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わり、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動し、出発して21日目の5月10日に、津軽半島最北端の三厩に到達しました。船で蝦夷地へと渡り、箱館8泊してから、5月29日に出発し、本格的な蝦夷地測量が始まります。
シャマニ(様似町)~ホロイズミ(幌泉、えりも町)~クスリ(釧路市)~ゼンホウジ(仙鳳趾)~アツケシ(厚岸町)~アンネベツ(姉別)~ニシベツ(西別、別海町)~ネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定でしたが、鮭漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたため、そのまま引き返すことになりました。9月18日に、蝦夷地を離れて三厩に到着し]、そこから本州を南下して、10月21日には、人々が出迎えるなか、千住に帰着しましたが、日数は180日を要しています。
11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させ、12月21日に下勘定所に提出されました。
〇伊能忠敬(いのう ただたか)とは?
江戸時代後期の商人・測量家・地理学者で、1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれました。1762年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、養子となり、名を忠敬と改めます。
酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学天文を学びます。
その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行います。
これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、71歳で没しました。千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられています。
酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学天文を学びます。
その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行います。
これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、71歳で没しました。千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられています。
☆伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)
・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる
・1762年(宝暦12) 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元) 佐原村本宿組名主となる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する
・1794年(寛政6)12月 隠居して家督を長男景敬に譲る
・1795年(寛政7) 江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ
・1800年(寛政12)閏4月19日~10月21日 第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間
・1801年(享和元) 第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間
・1802年(享和2) 第3次測量(奥州街道‐山形‐秋田‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間
・1803年(享和3) 第4次測量(東海道‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間
・1805年(文化2) 第5次測量(東海道‐紀伊半島‐大阪‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐下関‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐琵琶湖‐東海道)幕府直轄事業となる
・1808年(文化5) 第6次測量(東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道)
・1809年(文化6) 第7次測量(中山道‐岐阜‐大津‐山陽道‐小倉‐九州東海岸‐鹿児島‐天草‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐中国内陸部‐名古屋‐甲州街道)
・1811年(文化8) 第8次測量(甲府‐小倉‐鹿児島‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐‐対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間
・1815年(文化12) 第9次測量(東海道‐三島‐下田‐八丈島‐御蔵島‐三宅島‐神津島‐新島‐利島‐大島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は参加せず
・1816年(文化13) 第10次測量(江戸府内)
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される