
学習院(がくしゅういん)は、東京において、皇族・華族のの子弟の教育機関として設立された学校でした。前身は、1847年(弘化4)に、京都の宮廷内に創立された公家の学校である学習所で、1849年(嘉永2)に「学習院」の勅額が孝明天皇より下賜され、経書を主とし国書も講じられています。
文久年間には尊王攘夷派(尊王攘夷運動)の集会所となっていましたが、1867年(慶応3)に一端閉鎖されました。1868年(明治元)には、京都において、復興され、大学寮代、漢学所と名称変更されましたが、1870年(明治3)に再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となっています。
その後、「華族学校学則」が制定され、1877年(明治10)10月17日に、私立の華族学校が東京・神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号が与えられました。開設当時は小学、女子小学、中学を置き、入学資格は原則として華族の男女でしたが、当初から士族・平民も一部入学しています。
1884年(明治17)4月17日には、華族会館経営の私立学校から、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置されました。1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現在の初等科所在地)に華族女学校を設置します。
1888年(明治21)に学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転、1889年(明治22)に華族女学校が麹町区永田町に移転、翌年には、学習院が華族女学校跡に移転しました。1893年(明治26)に大学科が設置されたものの、1905年(明治38)に、前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科が閉鎖されます。
1906年(明治39)に華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称、1908年(明治41)には、東京府下高田村(現在の目白)に移転(初等学科と女学部は旧位置)しました。1918年(大正7)に女学部が青山に移転して、女子学習院となり、1919年(大正8)には、学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改めます。
1922年(大正11)に摂政宮裕仁親王のもと「学習院学制」、「女子学習院学制」が敷かれ官営化されました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転、翌年には、学習院学制・女子学習院学制が廃止され、男女両院を合併し、財団法人として私立学校となって、宮内省から独立し、1949年(昭和24)に旧高等科を母体に、新制大学を発足させ、翌年には、女子の短期大学部が設置されます。
現在では、幼稚園から初等科、中等科、高等科までの一貫した教育体制を持ち、大学は法学、経済学、文学、理学の4学部からなり、法学、政治学、経済学、経営学、人文科学、自然科学、法務の7研究科を置く大学院が設置されました。
文久年間には尊王攘夷派(尊王攘夷運動)の集会所となっていましたが、1867年(慶応3)に一端閉鎖されました。1868年(明治元)には、京都において、復興され、大学寮代、漢学所と名称変更されましたが、1870年(明治3)に再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となっています。
その後、「華族学校学則」が制定され、1877年(明治10)10月17日に、私立の華族学校が東京・神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号が与えられました。開設当時は小学、女子小学、中学を置き、入学資格は原則として華族の男女でしたが、当初から士族・平民も一部入学しています。
1884年(明治17)4月17日には、華族会館経営の私立学校から、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置されました。1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現在の初等科所在地)に華族女学校を設置します。
1888年(明治21)に学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転、1889年(明治22)に華族女学校が麹町区永田町に移転、翌年には、学習院が華族女学校跡に移転しました。1893年(明治26)に大学科が設置されたものの、1905年(明治38)に、前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科が閉鎖されます。
1906年(明治39)に華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称、1908年(明治41)には、東京府下高田村(現在の目白)に移転(初等学科と女学部は旧位置)しました。1918年(大正7)に女学部が青山に移転して、女子学習院となり、1919年(大正8)には、学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改めます。
1922年(大正11)に摂政宮裕仁親王のもと「学習院学制」、「女子学習院学制」が敷かれ官営化されました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転、翌年には、学習院学制・女子学習院学制が廃止され、男女両院を合併し、財団法人として私立学校となって、宮内省から独立し、1949年(昭和24)に旧高等科を母体に、新制大学を発足させ、翌年には、女子の短期大学部が設置されます。
現在では、幼稚園から初等科、中等科、高等科までの一貫した教育体制を持ち、大学は法学、経済学、文学、理学の4学部からなり、法学、政治学、経済学、経営学、人文科学、自然科学、法務の7研究科を置く大学院が設置されました。
〇学習院関係略年表
・1847年(弘化4) 京都御所日御門前に学習所(京都学習院)が開講する
・1849年(嘉永2) 「学習院」の勅額が孝明天皇より下賜される
・1867年(慶応3) 学習院が閉鎖される
・1868年(明治元) 京都に学習院が復興され、大学寮代、漢学所と名称変更される
・1870年(明治3) 再び閉鎖され、京都府に移管して京都府中学校となる
・1877年(明治10)10月17日 華族学校学則を制定し、私立の華族学校が神田錦町にて開業式を挙行、天皇が臨席して「学習院」の称号を与える
・1884年(明治17) それまでは華族会館経営の私立学校であったのを4月17日、宮内省所轄の官立学校となり、初等、普通、高等の3科が設置される
・1885年(明治18) 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現初等科所在地)に華族女学校を設置する
・1888年(明治21) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する
・1889年(明治22) 華族女学校が麹町区永田町に移転する
・1890年(明治23) 学習院が四谷区尾張町の華族女学校跡に移転する
・1893年(明治26) 大学科を設置する
・1905年(明治38) 前年の近衛篤麿第7代院長の死去に伴い、大学科を閉鎖する
・1906年(明治39) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する
・1908年(明治41) 東京府下高田村(現・目白)に移転する(初等学科と女学部は旧位置)
・1912年(明治45) 初等科における英語教育を廃止。1922年(大正11年)に復活するも、1938年(昭和13年)に再度廃止する
・1918年(大正7) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる
・1919年(大正8) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める
・1922年(大正11) 摂政宮裕仁親王のもと学習院学制、女子学習院学制が敷かれ官営化される
・1928年(昭和3) 学習院開校創立五十年祝典が挙行され、『開校五十年記念学習院史』が発行される
・1935年(昭和10) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する
・1945年(昭和20) 宮相から戦後の教育方針について諮問を受けた学習院評議会は、学習院を特殊学校として存続させるとともに一般国民の子弟にも開放することを決定する
・1946年(昭和21) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の小金井公園の敷地内)に移転する
・1947年(昭和22) 学習院学制・女子学習院学制が廃止。4月、男女両院を合併し、財団法人として宮内省から独立する
・1949年(昭和24) 旧高等科を母体に、新制大学が発足する