ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年09月

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 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、被差別部落問題をテーマとした、住井すゑ著の長編小説『橋のない川』第一部が刊行された日です。
 『橋のない川』(はしのないかわ)は、住井すゑ著で、被差別部落問題をテーマとした、全7部(5500枚)に及ぶ長編小説でした。1957年(昭和32)から、茨城県稲敷郡牛久町(現在の牛久市)で執筆を開始、第1部(950枚)は部落問題研究所の機関誌『部落』に連載されて、1961年(昭和36)9月15日に新潮社から刊行されます。
 以後は、書き下ろしで第7部は、1992年(平成4)に刊行して完結します。明治時代後期の奈良県のある被差別部落(小森部落)を舞台に、理不尽な差別の実態と、開放を求める人々の生きざまが描かれ、最終的には京都市・岡崎で行われた水平社宣言をもって締めとしました。
 36年かけての大作で、1部~7部までの累計発行部数は800万部を超え、隠れたロングセラー小説となります。尚、1969年~1970年(今井正監督)と1992年(東陽一監督)の2度にわたって映画化されました。

〇住井すゑ(すみい すえ)とは?

 大正時代から平成時代に活躍した小説家・児童文学者です。明治時代後期の1902年(明治35)1月7日に、奈良県磯城郡平野村満田(現在の田原本町)の富裕な家庭に生まれ、田原本技芸女学校在学中に「少女世界」等の雑誌に投稿、田原本高等女学校を卒業しました。
 1919年(大正8)に17歳で上京して講談社の編集記者となりましたが、翌年に女性社員差別に抗議して辞め、19歳で農民作家犬田卯(しげる)と結婚します。1921年(大正10)に、長編小説『相剋』を出版(住井すゑ子名義)して作家としてデビュー、1924年(大正13)に夫と共に、農民文芸研究会をつくり、1927年(昭和2)には、農民文芸会に改組しました。
 1929年(昭和4)に『大地にひらく』が読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位に当選、翌年には、無産婦人芸術連盟に参加し、機関誌「婦人戦線」に寄稿を始め、講演「母性は起つ」を行うなど、女性解放・農民文学運動に打ちと込みます。1931年(昭和6)の満州事変以降、プロレタリア文学運動への弾圧が激しくなり、1935年(昭和10)には、夫の郷里である茨城県稲敷郡牛久村城中(現在の牛久市)に転居、4人の子育てをしながら、農業と執筆活動に従事しました。
 1940年(昭和15)に『農婦譚』、1941年(昭和16)に『子供の村』、短編小説集『土の女たち』、1942年(昭和17)に『子供日本』、1943年(昭和18)には、長編『大地の倫理』を刊行するなどします。太平洋戦争後は、児童文学でも活躍し、1952年(昭和27)に『みかん』で第1回小学館児童文化賞、1954年(昭和29)には、『夜あけ朝あけ』で第8回毎日出版文化賞を受賞しました。
 1957年(昭和32)に夫・犬田卯が亡くなったのを契機に、翌年から被差別者の人間的解放を願った大河小説『橋のない川』に着手、1973年(昭和48)までに第1部から第6部を刊行してロングセラーとなり、1969~70年と1992年の2度にわたって映画化されます。1978年(昭和53)に自宅敷地内に「抱樸舎」を建て、時事問題や文化などをテーマに、著名人を講師に招いて公開学習会を続け、読者と積極的に交流し続けました。
 1992年(平成4)に小説『橋のない川』第7部を刊行しましたが、1997年(平成9)6月16日に、茨城県牛久市において、老衰のため95歳で亡くなっています。

<住井すゑの主要な著作>

・長編小説『相剋』(1921年)
・『大地にひらく』(1929年)読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位当選
・『農婦譚』(1940年)
・『子供の村』(1941年)
・短編小説集『土の女たち』(1941年)
・『子供日本』(1942年)
・長編『大地の倫理』(1943年)
・『みかん』(1952年)第1回小学館児童文化賞受賞
・『夜あけ朝あけ』(1954年)第8回毎日出版文化賞受賞
・長編『橋のない川』第1部(1961年)、第2部(同年)、第3部(1963年)、第4部(1964年)、第5部(1970年)、第6部(1973年)、第7部(1992年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国際デーの一つ、「国際民主主義デー」です詳細
1305年(嘉元3)第90代の天皇とされる亀山天皇の命日(新暦では10月4日)詳細
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利する(新暦10月21日)詳細
1932年(昭和7)「日満議定書」が調印される詳細
1945年(昭和20)文部省が「新日本建設ノ教育方針」を公表する詳細
1964年(昭和39)八郎潟干拓の干拓式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、木下恵介監督の映画『二十四の瞳』(壺井栄原作)が封切られた日です。
 『二十四の瞳』(にじゅうしのひとみ)は、壺井栄著の長編小説で、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、キリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、同年光文社から刊行されました。瀬戸内海のある岬の分教場に勤める若い女性教師大石先生と12人の教え子とのふれあいを描きながら、戦争に突入してから敗戦に至る時代をみつめた作品です。
 1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化され、大ヒットし、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されました。小豆島には、再映画化時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」があります。

〇壺井 栄(つぼい さかえ)とは?

 昭和時代に活躍した小説家・童話作家で、1899年(明治32年)8月5日に、香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)の醤油樽職人岩井藤吉の五女として生まれました。内海高等小学校卒業後,郵便局や村役場などで働きながら、同郷の黒島伝治,壺井繁治らの影響を受けます。
 1925年(大正14)に上京後、プロレタリア詩人だった壺井繁治と結婚し、プロレタリア文学運動を通じて宮本百合子、佐多稲子を知るようになりました。創作活動を始めて、38歳のとき処女作『大根の葉』を発表、以後小説と童話の多彩な作品を作ります。
 代表作として、小説に『暦』、『妻の座』、『柿の木のある家』、『母のない子と子のない母と』などがあり、『二十四の瞳』は、戦後反戦文学の名作として、後に映画化され大ヒットしました。童話集に『海のたましひ』、『十五夜の月』などがあり、童話風、民話風の作品で認められることになります。しかし、1967年(昭和42)6月23日に、67歳で亡くなりました。

〇木下 惠介(きのした けいすけ)とは?

 昭和時代に活躍した映画監督・脚本家です。大正時代の1912年(大正元)12月5日に、静岡県浜松市(現在の浜松市中区)伝馬町で食料品店を営む父・周吉、母・たまの4男として生まれましたが、旧名は正吉と言いました。
 浜松工業学校(現在の浜松工業高等学校)紡績科を卒業後、上京して、オリエンタル写真学校で学びます。1933年(昭和8)に、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入所し、1936年(昭和11)には、新設された松竹大船撮影所に移り、島津保次郎の助監督となりました。
 島津監督の『浅草の灯』や吉村公三郎監督の『暖流』などを担当しましたが、1940年(昭和15)に応召されて入隊し、中国各地を転戦したものの、事故で負傷し、内地送還され帰国します。撮影所に戻り、1943年(昭和18)に監督となり、『花咲く港』でデビューし、注目されました。
 もっとも優れた新人監督を対象とした山中貞雄賞を黒澤明と共に受賞し、将来を期待されます。『陸軍』(1944年)では、出征する息子を追う母親を長回しで撮影し、軍部の批判も受けました。
 太平洋戦争後は、『大曽根家の朝』(1946年)、『破戒』(1948年)、『破れ太鼓』(1949年)などを発表して、評価されます。1951年(昭和26)には、日本初の長編カラー映画となる『カルメン故郷に帰る』を発表し、NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞を受賞しました。
 さらに、1954年(昭和29)には『二十四の瞳』でブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞し、日本を代表する監督の一人となります。その後も、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『喜びも悲しみも幾歳月』 (1957年)、 『楢山節考』(1958年)などと多彩な作品を発表し、日本映画の黄金期をきずいた一人となり、テレビでも「木下恵介劇場」、「木下恵介アワー」などを手がけました。
 晩年まで映画製作に携わり、1991年(平成3)、文化功労者に選出されましたが、1998年(平成10)12月30日に、東京において、86歳で亡くなっています。尚、死後にその功績に対し、エランドール賞特別賞が贈られました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1590年(天正18)日本画家狩野永徳の命日(新暦10月12日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母春日局の命日(新暦10月26日)詳細
1905年(明治38)奥羽線の湯沢駅~横手駅間が開業し、福島駅~青森駅間(奥羽本線)が全通する詳細
1947年(昭和22)カスリーン台風が来襲し甚大な被害をもたらし始める詳細
1950年(昭和25)キジア台風によって、大雨に見舞われ、山口県岩国市の錦川にかかる錦帯橋が流失する詳細
2007年(平成19)日本画家高山辰雄の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1791年(寛政3)に、俳人で中興五傑の一人とされる加舎白雄が亡くなった日ですが、新暦では10月10日となります。 
 加舎白雄(かや しらお)は、江戸時代中期の1738年(元文3年8月20日)に、江戸・深川の上田藩深川抱屋敷において、上田藩江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれましたが、幼名を五郎吉。本名は吉春、また競と言いました。5歳の時に母に死別、16歳の時に俳句を知り、19歳の時に、初めて上田へ移住し、宝暦末期に宗匠の青峨門に入門して舎来と号し、11765年(明和2)の銚子滞在中に、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称するようになります。
 1766年(明和3)に、白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚し、翌年には、俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れました。1769年(明和6)に、姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立、1770年(明和7)には、鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、『おもかげ集』を刊行します。
 1771年(明和8)に上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行しました。1772年(安永元)に伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰り、翌年には、斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出ています。
 1775年(安永4)に海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚、1779年(安永8)に初めて白雄の号を使うようになり、翌年には、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立しました。しかし、1783年(天明3)に春秋庵は火災に遭って復興したものの、1786年(天明6)には再び類焼し、日本橋馬喰町に移転します。
 1788年(天明8)に海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、武州毛呂の碩布亭を訪問し、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行しました。1790年(寛政2)に上田へ行って虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑のために揮毫しましたが、翌年9月13日に、江戸・日本橋の春秋庵において、数え年54歳で亡くなっています。
 尚、妻帯せず清貧孤高だったものの、門人は、関東から中部地方に4,000人を数え、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われてきました。没後、1793年(寛政5)の三回忌に春秋庵社中が句碑を建立、1798年(寛政10)には、追善集『くろねぎ』が刊行されています。

<加舎白雄の代表的な句>

・「みちのくの空たよりなや霜の声」
・「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」
・「いなづまやとゞまるところ人のうへ」
・「吹つくし後は草根に秋のかぜ」

〇加舎白雄の主要な著作・編著

・『おもかげ集』(1770年)
・『田毎の春』(1771年)
・俳論書『加佐里那止(かざりなし)』(1771年)
・『春秋稿』(1780年)
・『俳諧寂栞(はいかいさびしおり)』
・『文車(ふぐるま)』
・碩布編『白雄句集』(1793年)
・追善集『くろねぎ』(1798年)
・『寂栞 (さびしおり) 』(1812年)
・『白雄夜話』(1833年)

☆加舎白雄関係略年表(日付は旧暦です)

・1738年(元文3年8月20日) 江戸・深川の上田藩松平家の深川抱屋敷において、信濃国上田藩の江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれる
・1742年(寛保2年) 5歳の時、母に死別する
・1753年(宝暦3年) 16歳の時、俳句を知る
・1756年(宝暦6年) 19歳の時、初めて上田へ移住する
・1762~64年(宝暦末期) 宗匠の青峨門に入門し、舎来と号する
・1765年(明和2年) 銚子滞在中、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称する
・1766年(明和3年) 白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏 の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚する
・1767年(明和4年) 俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れる
・1768年(明和5年) 宮本虎杖が姨捨山に案内する
・1769年(明和6年) 姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立する
・1770年(明和7年) 鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、記念集『おもかげ集』を刊行する
・1771年(明和8年) 上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行する
・1772年(安永元年) 伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰る
・1773年(安永2年) 斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出る
・1775年(安永4年) 海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚する
・1779年(安永8年) 初めて白雄の号を使う
・1780年(安永9年) 箕田村の桃源庵文郷の許で新春を迎え、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立する
・1782年(天明2年) 海晏寺に白井鳥酔の墓参を行う
・1783年(天明3年) 相模の用田(現藤沢市用田)に門人楚雀を訪問し歌仙を巻き、夏に呉水 を伴い相模の真鶴・厚木を訪ね、呉水を同伴して 小河原雨塘を訪問、春秋庵は火災に遭う
・1784年(天明4年) 呉水を伴ない房総行脚、横芝では坂田小堤村(現在の横芝光町)の神保家を訪ね鳥酔の懐紙を見、呉水を伴なって伊那の中村伯先を訪れ、白井、渋川、引間を訪れた折、大久保の金谷里恭宅に数泊する
・1785年(天明5年) 大輪寺で兄吉重一周忌、虎杖菴に滞留、海晏寺で白井鳥酔十七回忌法要、伯先が芭蕉の句碑を建立に際し揮毫する
・1786年(天明6年) 春秋庵が再び類焼し、日本橋馬喰町移転する
・1788年(天明8年) 蝶夢が訪問、海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、八王子に星布を訪ね、松原庵二世の嗣号を許し、武州毛呂の碩布亭を訪問、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行する
・1790年(寛政2年) 兄吉重七周忌に上田へ行き、虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑に揮毫する
・1791年(寛政3年9月13日) 江戸・日本橋の春秋庵において、54歳で亡くなる
・1793年(寛政5年) 三回忌に春秋庵社中は白雄の句碑を建立する
・1798年(寛政10年) 追善集『くろねぎ』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1948年(昭和23)昭和電工事件で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕される詳細
1953年(昭和28)弁護士・社会運動家布施辰治の命日詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争)詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細
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 幕末明治維新期の1868年(明治元)に、明治新政府が江戸幕府の洋学教育研究機関「開成所」を「開成学校」として復興した日ですが、新暦では10月27日となります。
 開成学校(かいせいがっこう)は、明治初期の官立学校で、江戸幕府が設立していた開成所が、明治新政府に接収されて改称されたもので、洋学教育、翻訳・出版認可等の役割が課されました。翌年(明治2年12月17日)に、大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となり、南校,第一大学区第一番中学を経て、1873年(明治)に専門学校として開成学校が設置されます。
 翌年に東京開成学校と改称され、外国人教師指導の下で、英語で法学・理学・工業学、フランス語で諸芸学、ドイツ語で鉱山学の専門教育が行われると共に、予科の語学教育と普通教育にも力点が置かれました。1877年(明治10年)には、東京医学校と統合されて、東京大学が設立されます。

〇開成学校関係略年表(日付は旧暦です)

・1744年(延享元年) 徳川吉宗が外神田に天文台を建てる
・1811年(文化8年) 天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられる
・1853年(嘉永6年6月) 黒船(ペリー艦隊)が来航する
・1854年(安政元年3月) 「日米和親条約」締結の中で、蕃書和解御用方が多忙となる
・1855年(安政2年8月30日) 御用方は「洋学所」と改めて独立する
・1855年(安政2年10月2日) 安政江戸地震で全壊焼失する
・1856年(安政3年2月11日) 幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称する
・1856年(安政3年2月13日) 江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立する
・1857年(安政4年1月18日) 開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになる
・1858年(安政5年) 藩士の入学も認められるようになる
・1860年(万延元年) 小川町に移転する
・1860年(万延元年7月) プロシア東洋遠征艦隊来航の際、蕃書調所の市川斎宮が「独逸学」を学ぶ公命を受ける
・1862年(文久2年) 学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り、幕府官立学校となる
・1862年(文久2年) 洋書調所に独逸学科が開設される
・1862年(文久2年5月18日) 一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移転する
・1862年(文久2年5月23日) 「洋書調所」と改称してに開校する
・1863年(文久3年8月29日) 洋書調所を「開成所」に改称する
・1864年(元治元年) 「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められる
・1868年(明治元年9月12日) 幕府が倒れ、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称される
・1869年(明治2年12月17日) 大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となる(医学校が大学東校)
・1871年(明治4年) 南校と改称される、
・1872年(明治5年) 第一大学区第一番中学と改称される
・1873年(明治6年) 専門学校として開成学校が設置される
・1874年(明治7年) 東京開成学校と改称される
・1877年(明治10年) 東京医学校と統合されて、東京大学が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細
1887年(明治20)日本画家堅山南風の誕生日詳細
1913年(大正2)「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始される詳細
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 今日は、平安時代前期の810年(大同5)に、藤原藥子・仲成らが平城天皇の復位を企てて失敗した、薬子の変が起きた日ですが、新暦では10月12日となります。
 薬子の変(くすこのへん)は、平城上皇の寵愛を受けていた藤原薬子が、兄・仲成らと共に、上皇の重祚と平城京への復都を企てたものの、失敗に終わった事件でした。在位後3年の平城天皇が、809年(大同4年4月)に発病、同月13日に退位し、弟の神野親王が第52代天皇(嵯峨天皇)として即位し、上皇となります。
 それによって権勢を失った、平城上皇に寵愛を受けていた女官の藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、その兄・仲成(なかなり)が天皇の復位を画策、同年12月に、平城上皇は旧都である平城京へ移りました。そして、翌年6月に平城上皇は、突如として、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発し、さらに、9月6日には、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、政治に関与します。
 これに対し、嵯峨天皇側は、9月10日に使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処しました。そのため、11日に上皇は薬子とともに平城京から東国に向かい対抗しようとした薬子の変が起きましたが、坂上田村麻呂らに抑えられて失敗に終わり、藤原仲成は射殺されます。
 そこで、12日に平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺することとなりました。尚、9月17日に、越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらています。

〇薬子の変関係略年表(日付は旧暦です)

<806年(大同元)>
・3月17日 桓武天皇が亡くなり、皇太子・安殿親王が第51代天皇(平城天皇)として即位する

<809年(大同4)>
・4月 平城天皇が発病する
・4月13日 平城天皇が退位し、弟の神野親王が第52代天皇(嵯峨天皇)として即位する
・12月 平城上皇は旧都である平城京へ移る

<810年(大同5)>
・1月 嵯峨天皇が病に倒れて元日の朝賀が中止になる
・3月 嵯峨天皇は蔵人所を設置する
・6月 平城上皇は突如、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発する
・9月6日 平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出す
・9月10日 嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処する
・9月11日 平城天皇の復位を企てた薬子の変が起きるが、藤原仲成は射殺される
・9月12日 平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺する
・9月17日 越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらる
・9月19日 元号が「弘仁」と改元される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚する(新暦10月10日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1008年(寛弘5)第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細
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