ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年09月

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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、詩人・峠三吉が『原爆詩集』をガリ版刷りにより発行した日です。
 「原爆詩集」(げんばくししゅう)は、詩人・峠三吉が広島・長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人や全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧げらた詩集でした。出版社による発行が出来なかったために、広島において、自家版として、ガリ版刷り(500部)で発行されています。
 著者が、広島市内翠町の自宅で被爆後、体に刺さったガラス片や下痢、原爆症に悩まされながらも、知人を求めて焼け跡をさまよい、その克明なメモをもとに、この詩集をまとめたもので、広島市への原子爆弾投下を題材に戦争の皮肉さを訴えた作品で、ベルリン世界青年学生平和祭参加作品でもありました。翌1952年(昭和27)6月には、5篇が追加されたものが青木書店から刊行されています。
 序と24編の詩とあとがきで構成されていますが、特に、“ちちをかえせ ははをかえせ”で始まる『序』は名高く、『にんげんをかえせ』という題でも知られてきました。その後、2016年(平成28)7月15日に、岩波書店から文庫版して発行され、大江健三郎とアーサー・ビナードが解説を寄せています。

〇峠三吉(とうげ さんきち)とは?

 昭和時代に活躍した詩人です。大正時代の1917年(大正6)2月19日に、大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・峠嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれましたが、まもなく父の故郷広島市に転居しました。
 1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。
 1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事。翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。
 1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。
 1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。同年11月に国立広島療養所へ入院し、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。
 1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
 1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。

☆「原爆詩集」の作品構成

・序
・八月六日
・死
・炎
・盲目
・仮繃帯所にて
・眼
・倉庫の記録
・としとったお母さん
・炎の季節
・ちいさい子
・墓標
・影
・友
・河のある風景
・朝
・微笑
・一九五〇年の八月六日
・夜
・巷にて
・ある婦人へ
・景観
・呼びかけ
・その日はいつか
・希い――「原爆の図」によせて――
・あとがき

☆「原爆詩集」(抜粋)

――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧おしつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ
満員電車はそのまま焦こげ
涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿のうしょうを踏み
焼け焦こげた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏いかだへ這はいより折り重った河岸の群も
灼やけつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光かこうの中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠へいきしょうの床の糞尿ふんにょうのうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭いしゅうのよどんだなかで
金かなダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩がんかが
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

(以下略)

   「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1187年(文治3)藤原俊成が『千載和歌集』(第七番目の勅撰和歌集)を後白河法皇に撰進する(新暦10月23日)詳細
1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
1943年(昭和18)農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の命日詳細
1945年(昭和20)「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(勅令第542号)が公布・施行される(ポツダム命令)詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、一般職の国家公務員の政治活動を制限する「人事院規則14-7(政治的行為)」が公布・施行された日です。
 「人事院規則14-7(政治的行為)」は、一般職の国家公務員に対して、禁止される政治活動の行動類型を定めた人事院規則でした。1948年(昭和23)の「国家公務員法」の改正(昭和23年法律第222号)に際して、第102条第1項に「人事院規則で定める政治的行為」を禁止する旨の規定が加わったことによるものです。
 この背景には、太平洋戦争後の占領下、1947年(昭和22)の二・一ゼネストなど官公庁の労働運動の高まりを受けた、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、当時の芦田均首相宛てに書簡を送り、「国家公務員法」の全面的改正を指示したことにありました。尚、人事院は、「人事院規則14-7」の公布施行後すぐの10月21日付けで、人事院事務総長の各省事務次官宛通牒「人事院規則14-7(政治的行為)の運用方針について」を発して、その運用の指導、統一を図っています。
 その内容は、特定の政党への支持・反対を目的として投票の勧誘を行うこと、署名活動を行うこと、寄付を行うこと、宣伝をすることなどですが、労働基本権に対しても大幅な制約を加えるものとなりました。
 以下に、「人事院規則14-7(政治的行為)」と「人事院規則14―7(政治的行為)の運用方針について」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「人事院規則14-7(政治的行為)」(昭和24年人事院規則14-7)1949年(昭和24)9月19日公布・施行

人事院は、国家公務員法に基き、政治的行為に関し次の人事院規則を制定する。

(適用の範囲)
1 法及び規則中政治的行為の禁止又は制限に関する規定は、臨時的任用として勤務する者、条件付任用期間の者、休暇、休職又は停職中の者及びその他理由のいかんを問わず一時的に勤務しない者をも含む全ての一般職に属する職員に適用する。ただし、顧問、参与、委員その他人事院の指定するこれらと同様な諮問的な非常勤の職員(法第六十条の二第一項に規定する短時間勤務の官職を占める職員を除く。)が他の法令に規定する禁止又は制限に触れることなしにする行為には適用しない。
2 法又は規則によつて禁止又は制限される職員の政治的行為は、すべて、職員が、公然又は内密に、職員以外の者と共同して行う場合においても、禁止又は制限される。
3 法又は規則によつて職員が自ら行うことを禁止又は制限される政治的行為は、すべて、職員が自ら選んだ又は自己の管理に属する代理人、使用人その他の者を通じて間接に行う場合においても、禁止又は制限される。
4 法又は規則によつて禁止又は制限される職員の政治的行為は、第六項第十六号に定めるものを除いては、職員が勤務時間外において行う場合においても、適用される。

(政治的目的の定義)
5 法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。
一 規則一四―五に定める公選による公職の選挙において、特定の候補者を支持し又はこれに反対すること。
二 最高裁判所の裁判官の任命に関する国民審査に際し、特定の裁判官を支持し又はこれに反対すること。
三 特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。
四 特定の内閣を支持し又はこれに反対すること。
五 政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し又はこれに反対すること。
六 国の機関又は公の機関において決定した政策(法令、規則又は条例に包含されたものを含む。)の実施を妨害すること。
七 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)に基く地方公共団体の条例の制定若しくは改廃又は事務監査の請求に関する署名を成立させ又は成立させないこと。
八 地方自治法に基く地方公共団体の議会の解散又は法律に基く公務員の解職の請求に関する署名を成立させ若しくは成立させず又はこれらの請求に基く解散若しくは解職に賛成し若しくは反対すること。

(政治的行為の定義)
6 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。
一 政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること。
二 政治的目的のために寄附金その他の利益を提供し又は提供せずその他政治的目的をもつなんらかの行為をなし又はなさないことに対する代償又は報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益を得若しくは得ようと企て又は得させようとすることあるいは不利益を与え、与えようと企て又は与えようとおびやかすこと。
三 政治的目的をもつて、賦課金、寄附金、会費又はその他の金品を求め若しくは受領し又はなんらの方法をもつてするを問わずこれらの行為に関与すること。
四 政治的目的をもつて、前号に定める金品を国家公務員に与え又は支払うこと。
五 政党その他の政治的団体の結成を企画し、結成に参与し若しくはこれらの行為を援助し又はそれらの団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となること。
六 特定の政党その他の政治的団体の構成員となるように又はならないように勧誘運動をすること。
七 政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。
八 政治的目的をもつて、第五項第一号に定める選挙、同項第二号に定める国民審査の投票又は同項第八号に定める解散若しくは解職の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること。
九 政治的目的のために署名運動を企画し、主宰し又は指導しその他これに積極的に参与すること。
十 政治的目的をもつて、多数の人の行進その他の示威運動を企画し、組織し若しくは指導し又はこれらの行為を援助すること。
十一 集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。
十二 政治的目的を有する文書又は図画を国又は行政執行法人の庁舎(行政執行法人にあつては、事務所。以下同じ。)、施設等に掲示し又は掲示させその他政治的目的のために国又は行政執行法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し又は利用させること。
十三 政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること。
十四 政治的目的を有する演劇を演出し若しくは主宰し又はこれらの行為を援助すること。
十五 政治的目的をもつて、政治上の主義主張又は政党その他の政治的団体の表示に用いられる旗、腕章、記章、えり章、服飾その他これらに類するものを製作し又は配布すること。
十六 政治的目的をもつて、勤務時間中において、前号に掲げるものを着用し又は表示すること。
十七 なんらの名義又は形式をもつてするを問わず、前各号の禁止又は制限を免れる行為をすること。
7 この規則のいかなる規定も、職員が本来の職務を遂行するため当然行うべき行為を禁止又は制限するものではない。
8 各省各庁の長及び行政執行法人の長は、法又は規則に定める政治的行為の禁止又は制限に違反する行為又は事実があつたことを知つたときは、直ちに人事院に通知するとともに、違反行為の防止又は矯正のために適切な措置をとらなければならない。

附 則 (平成一一年一〇月二五日人事院規則一―二六)
 この規則は、平成十三年四月一日から施行する。
2 国家公務員法等の一部を改正する法律(平成十一年法律第八十三号)附則第三条に規定する旧法再任用職員に係る再任用及び再任用の任期の更新の状況の報告については、なお従前の例による。

附 則 (平成一二年一二月二七日人事院規則一―三三) 抄
(施行期日)
1 この規則は、平成十三年一月六日から施行する。

附 則 (平成一五年一月一四日人事院規則一―三七) 抄
(施行期日)
1 この規則は、平成十五年四月一日から施行する。

附 則 (平成一九年九月二八日人事院規則一―五〇) 抄
(施行期日)
第一条 この規則は、平成十九年十月一日から施行する。

附 則 (平成二七年三月一八日人事院規則一―六三) 抄
(施行期日)
第一条 この規則は、平成二十七年四月一日から施行する。
(雑則)
第十五条 附則第二条から前条までに規定するもののほか、この規則の施行に関し必要な経過措置は、人事院が定める。

附 則 (令和四年二月一八日人事院規則一―七九) 抄
(施行期日)
第一条 この規則は、令和五年四月一日から施行する。

〇「人事院規則14―7(政治的行為)の運用方針について」(昭和24年10月21日法審発第2078)

1 この規則制定の法的根拠
  この規則は、国会が適法な手続によつて制定した国家公務員法第102条の委任によつて制定されたものである。
2 この規則の目的
  国の行政は、法規の下において民主的且つ能率的に運営されることが要請される。従つて、その運営にたずさわる一般職に属する国家公務員は、国民全体の奉仕者として政治的に中立な立場を維持することが必要であると共に、それらの職員の地位は、たとえば、政府が更迭するごとに、職員の異動が行われたりすることがないように政治勢力の影響又は干渉から保護されて、政治の動向のいかんにかかわらず常に安定したものでなければならない。又、この規則による政治的行為の禁止又は制限は、同時に、他の職員の側からするこれに対応する政治的行為をも合せて禁止することによつて、職員がこれらの政治的行為の禁止に違反しないようにすることが容易に達せられるようなものでなければならない。この規則は、このような考慮に基き、右の要請に応ずる目的をもつて制定されたものである。従つて、この規則が学問の自由及び思想の自由を尊重するように解釈され運用されなければならないことは当然である。
3 規則の適用範囲
 (1) 第1項は、法及び規則中政治的行為の禁止又は制限に関する規定が、特にこの規則で適用を除外している者を除き、一般職に属するすべての職員に適用されるものであることを明らかにしている。
 (2) この規則において、「法及び規則中政治的行為の禁止又は制限に関する規定」とは、法第102条、第1次改正法律附則第2条、規則14-5及びこの規則中に含まれる禁止又は制限に関する規定をいう。
 (3) 「法及び規則中政治的行為の禁止又は制限に関する規定」は、顧問、参与又は委員の名称を有する諮問的な非常勤の職員(国家公務員法第60条の2第1項に規定する短時間勤務の官職を占める職員を除く。以下この(3)において同じ。)の他の法令に違反しない行為には適用されない。また、顧問、参与又は委員の名称を有しない諮問的な非常勤の職員であつても、これらと同様な諮問的な非常勤の職員で、人事院が特に指定するものの同様な行為にも適用されない。なお、委員の名称を有するものであつても、国家行政組織法(昭和23年法律第120号)第3条に規定する委員会の委員は、ここにいう委員には含まれない。第1項ただし書に該当する職員は、他の法令で禁止されていない限り、この規則に規定する政治的行為を行つたり規則14-5に定める公選による公職の候補者となつたり、公選による公職を併せ占めたり、政党の役員等になることを禁止されない。すなわち、この規則は、これらの職員の職務と責任の特殊性に基づき、国家公務員法附則第4条の規定に従い、職員の政治的行為の制限に関する特例を定めたものである。
 (4) 第2項は、職員が単独で又は他の職員と共同して行う場合だけでなく、職員以外の者と共同して行う場合でも、禁止又は制限されることを明らかにしたものである。この場合、「共同して行う」とは、職員が共同意思を単独で又は他人と共に実行に移すことをいう。
 (5) 第3項は、職員が自ら選んだ又は自己の管理に属する代理人等を通じて間接に行う場合でも、その行為を行わせた職員に適用されることを明らかにしたものである。自ら選んだ又は自己の管理に属する者が職員であるか否かは問わない。「自ら選んだ」とは、明示であると黙示であるとを問わず、自らの選任行為があつたと認定されることをもつて足り、「自己の管理に属する」者とは、監督等の原因により通常本人の意思に基いて行為をなすべき地位にある者をいう。たとえば、部下、雇人等のような者である。「その他の者」とは、自ら選んだ又は自己の管理に属する者で代理人又は使用人以外の者をいう。「通じて間接に行う」とは、自己の意思を他人によつて実行に移すことをいう。
 (6) 職員は、職員たる身分又は地位を有する限り、勤務時間外においても、政治的行為を行うことを禁止又は制限される。但し、政治上の主義主張又は政党その他の政治的団体の表示に用いられる腕章、記章、えり章、服飾等を勤務時間外に単に着用することは禁止されない。
 (7) なお、この規則は、職員が本来の職務を遂行するため当然行うべき行為を禁止又は制限するものではない。
4 政治的行為
  職員が行うことを禁止又は制限される政治的行為に関し、この規則では政治的目的と政治的行為を区別して定義し、政治的目的をもつてなされる行為であつても、この規則にいう政治的行為に含まれない限り、国家公務員法第102条第1項の規定に違反するものではないとしている。
  (1) 政治的目的
  第5項は、法及び規則中における政治的目的の定義を行い、これを明らかにしたものである。
 (一) 第1号関係 本号中「規則14-5に定める公選による公職の選挙」とは、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の長及び議会の議員の選挙をいう。「特定」とは、候補者の氏名が明示されている場合のみならず、客観的に判断してその対象が確定し得る場合をも含む。「候補者」とは、法令の規定に基づく正式の立候補届出又は推薦届出により、候補者としての地位を有するに至つた者をいう。「支持し又はこれに反対する」とは、特定の候補者が投票若しくは当選を得又は得ないように影響を与えることをいう。また、候補者としての地位を有するに至らない者を支持し又はこれに反対することは本号に含まれない。選挙に関する法令に従つて候補者の推薦届出をすること自体は本号に該当しない。
 (二) 第2号関係 本号に「国民審査」とは、日本国憲法第79条の規定に基づき、最高裁判所裁判官国民審査法(昭和22年法律第136号)に定める最高裁判所裁判官の任命に関する国民審査をいう。なお、本号中における「特定」及び「支持し又はこれに反対する」の意味については、前号に準じて解釈されるべきである。
 (三) 第3号関係 本号中における「特定」の意味については、第1号に準じて解釈されるべきである。「政党」とは、政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、若しくはこれに反対し又は公職の候補者を推薦し、支持し、若しくはこれに反対することを本来の目的とする団体をいい、「その他の政治的団体」とは、政党以外の団体で政治上の主義若しくは施策を支持し、若しくはこれに反対し、又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくはこれに反対する目的を有するものをいう。「支持し又はこれに反対する」とは、特定の政党その他の政治的団体につき、それらの団体の勢力を維持拡大するように若しくは維持拡大しないように、又はそれらの団体の有する綱領、主張の主義若しくは施策を実現するように若しくは実現しないように、又はそれらの団体に属する者が公職に就任し若しくは就任しないように影響を与えることをいう。
 (四) 第4号関係 本号中「特定の内閣を支持し又はこれに反対する」とは、特定の内閣が存続するように若しくは存続しないように又は成立するように若しくは成立しないように影響を与えることをいう。なお、特定の内閣の首班若しくは閣員全員を支持し又はこれに反対する場合も本号に含まれるものと解する。
 (五) 第5号関係 本号にいう「政治の方向に影響を与える意図」とは、日本国憲法に定められた民主主義政治の根本原則を変更しようとする意思をいう。「特定の政策」とは、政治の方向に影響を与える程度のものであることを要する。最低賃金制確立、産業社会化等の政策を主張し若しくはこれらに反対する場合、又は各政党のよつて立つイデオロギーを主張し若しくはこれらに反対する場合、あるいは特定の法案又は予算案を支持し又はこれに反対するような場合も、日本国憲法に定められた民主主義政治の根本原則を変更しようとするものでない限り、本号には該当しない。
 (六) 第6号関係 本号中「国の機関又は公の機関において決定した政策」とは、国会、内閣、内閣の統轄の下における行政機関、地方公共団体等政策の決定について公の権限を有する機関が正式に決定した政策をいう。「実施を妨害する」とは、その手段方法のいかんを問わず、有形無形の威力をもつて組織的、計画的又は継続的にその政策の目的の達成を妨げることをいう。従つて、単に当該政策を批判することは、これに該当しない。
 (七) 第7号関係 本号中「署名を成立させ」とは、地方自治法第74条及び第75条に定める数に達する選挙権者の連署を得ることをいう。
 (八) 第8号関係 本号中「地方自治法に基く地方公共団体の議会の解散の請求」とは、地方自治法第76条に定める地方公共団体の議会の解散の請求をいい、「法律に基く公務員の解職の請求」とは、地方自治法第80条、第81条若しくは第86条又は地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162号)第8条第1項に定める公務員の解職又は改選の請求をいう。「署名を成立させ」とは、地方自治法第76条、 第80条、第81条若しくは第86条又は地方教育行政の組織及び運営に関する法律第8条第1項に定める数に達する選挙権者の連署又は同意の署名を得ることをいう。「賛成若しくは反対する」とは、本号の請求に基づく解散又は解職の投票において、賛成投票を得若しくは得ないように又は反対投票を得若しくは得ないように影響を与えることをいう。
  (2) 政治的行為
  第6項は、法第102条第1項の規定により禁止又は制限される政治的行為を定めたものである。
 (一) 第1号関係 本号は、職員が、国家公務員としての地位においてであると、私人としての地位においてであるとを問わず、政治的目的の為に自己の影響力を利用する行為を政治的行為としてこれを禁止する趣旨である。「公の影響力」とは、職員の官職に基く影響力を、「私の影響力」とは、私的団体中の地位、親族関係、債権関係等に基く影響力をいう。たとえば、上官が部下に対し、選挙に際して投票を勧誘し、あるいは職員組合の幹部が組合員に対し入党を勧誘するためにその地位を利用するような行為は違反となる。
 (二) 第2号関係 「その他の利益」とは、金銭、物品のみでなく権利の授与、貸与等有形、無形の利益をいう。
 (三) 第3号関係 本号は、法第102条第1項前段の規定と同趣旨の規定であつて、「関与」とは、援助、勧誘、仲介、あつ旋等をいう。たとえば課員が課内の党員の党費をとりまとめることは違反となる。
 (四) 第4号関係 「国家公務員」には、特別職に属する国家公務員をも含み、地方公務員その他国家公務員以外の者に金品を「与え又は支払う」行為は、本号の規定に該当しない。
 (五) 第5号関係 本号に掲げる行為は、それ自体で政治的目的をもつ行為とされ、他に別な政治的目的をもつてすることを要件としない。「企画し」とは、発起人となり、綱領規約等を立案し、又は結成準備会を招集すること等を、「参与し」とは、綱領規約の起草を助け又は準備委員となる等企画者を補佐して推進的役割をすることを、「これらの行為を援助する」とは、企画し参与することにつき、自ら直接に行うと、間接に行うとを問わず、労力、財産、物品等を提供し又は宣伝、広告、仲介、あつ旋等を行うことをいう。又、「政治的顧問」とは、その団体の幹部と同程度の地位にあつて、その団体の政策の決定に参与する者をいい、単なる技術的顧問は含まない。「これらと同様な役割をもつ構成員」とは、名称のいかんを問わず、役員又は政治的顧問と同等の影響力又は支配力を有する構成員をいう。なお、本号は、その団体の本部の場合のみならず地域的支部及びそれに準ずる組織体の場合にも適用される。単にこれらの団体の構成員となり、又は役員、政治的顧問若しくはこれらと同様な役割をもつ構成員以外の地位を占めることは差し支えない。
 (六) 第6号関係 本号の行為も当然政治的目的をもつ行為とされる。「勧誘運動をすること」とは、組織的、計画的、又は継続的に、勧誘をすることをいい、たとえば党員倍加運動のような行為はその例である。従つて、たまたま友人間で入党について話し合うようなことは該当しない。
 (七) 第7号関係 本号の行為も当然政治的目的をもつ行為とされる。自己の購読した機関紙の一部をたまたま友人に交付するような行為及び単なる投稿等は、本号に該当しない。 
 (八) 第8号関係 「勧誘運動」とは、第6号にいう「勧誘運動」に準じて解釈されるべきである。従つて、選挙に際したまたま街頭であつた友人に投票を依頼するような行為は該当しない。
 (九) 第9号関係 「運動」及び「企画し」とは、それぞれ第6号の「運動」及び第5号の「企画し」に準ずる。又「主宰」とは、実施につき自らの責任において総括的な役割を演ずることを、「指導し」とは、樹立された計画に基き実施を具体的に指導することを、「その他これに積極的に参与すること」とは、企画、主宰、指導の外、署名運動を企画、主宰、又は指導するものを助け又はその指示を受けて署名運動において推進的役割を演ずることをいう。なお、単に署名を行う行為は、本号の規定に該当しない。
 (十) 第10号関係 「示威運動」とは、多衆の威力を示すため、公衆の目につき得る道路、広場等を行進すること等をいう。単に「示威運動」に参加することは本号に該当しない。 
 (十一) 第11号関係 「集会」とは、屋内、屋外を問わず一定の目的のための多数人の集合を、「多数の人に接し得る場所」とは、公会堂、公園、街路等をいい、現に多数人の参集していることを要しないが参集し得る状態にあることを要する。「拡声器、ラジオその他の手段を利用し」とは、多数人に音声を伝達することのできる手段を用いることをいい、多数の人に接し得る場所におけると否とを問わない。又「公に」とは、「不特定の多数の者に」の意味である。従つて、組合員だけの非公開の会合の場合等は、本号に該当しない。
 (十二) 第12号関係 「文書又は図画」には、新聞、図書、書簡、壁新聞、パンフレツト、リーフレツト、ビラ、チラシ、プラカード、ポスター、絵画、グラフ、写真、映画の外、黒板に文字又は図形を白墨で記載したもの等も含まれる。「国又は行政執行法人の庁舎(行政執行法人にあつては、事務所。以下同じ。)、施設等」とは、国又は行政執行法人が使用し又は管理する建造物及びその附属物をいい、固定設備であることを要しない。「掲示させ」又は「利用させ」る行為には、他の者が掲示し又は利用することを、国又は行政執行法人の庁舎(行政執行法人にあつては、事務所)、施設、資材又は、資金管理の責任を有する者が許容する行為も含まれる。なお、本号後段の行為には、政治的目的のためにすることが必要であるが、前段の行為にはこれを必要とせず行為の目的物たる文書又は図画が政治的目的を有するものであることをもつて足りる。
 (十三) 第13号関係 「形象」とは、彫刻、塑像、模型、人形、面等をいう。職員が政治的目的をもつ文書、図画等を著作し又は編集した場合、それがこれらの「もの」を「発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ」るために行つたものでない限り、本号にいう政治的行為には含まれない。なお、本号の行為は、行為者の政治的目的のためにする意思の有無を問わず、行為の目的物が、政治的目的を有するものであれば足りる。
 (十四) 第14号関係 「演出」には、俳優として出演することは含まれない。「これらの行為を援助する」とは、演劇の脚本を提供し、その演劇の上演のために資金を与え又は募り、無償又は不当に安い対価で資材、設備、労働力、技術等を提供し、又はこれらをあつ旋し、積極的に宣伝を行うこと等を含む。
 (十五) 第15号関係 「その他これらに類するもの」には、まん幕、のぼり、鉢巻、たすき、ちようちん等が含まれる。
 (十六) 第17号関係 本号は、この規則の脱法行為を禁止するものである。
5 違法性を阻却する場合
  第7項は、形式的には、この規則の違反に該当する行為であつても、職員が正当な職務を遂行するために当然行う行為である場合には、この規則違反の制裁を受けないことを明らかにしたものである。例えば、労働情勢の調査の職務を有する職員が、各種の政党機関紙を関係職員に配布又は回覧に供する行為等は、この規則の禁止又は制限するところではない。また、この規則は、憲法第23条に規定する学問の自由を拘束するような趣旨に解釈されてはならないことも当然である。

   「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1324年(元亨4)後醍醐天皇方が鎌倉幕府討伐を企てた正中の変が起きる(新暦10月7日)詳細
1870年(明治3)「平民苗字許可令」により平民も苗字を名乗ることが許される(新暦10月13日)詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)を出し言論統制検閲が始まる詳細
1955年(昭和30)原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成される詳細
1959年(昭和34)国立青年の家第1号となる「国立中央青年の家」(静岡県御殿場市)が設置される詳細
1978年(昭和53)埼玉古墳群の稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘を解読したと発表される詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、ガラス工芸家で日本のガラス工芸の第一人者だった藤田喬平の亡くなった日です。
 藤田喬平(ふじた きょうへい)は、大正時代の1921年(大正10)4月28日に、東京府豊多摩群大久保町(現在の東京都新宿区百人町)に生まれました。目白商業学校を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科彫金部へ進み、彫金を学びましたが、1944年(昭和19)に同校を卒業後、1946年(昭和21)の第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選、染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加、ガラス工芸に転向し、1947年(昭和22)に岩田工芸硝子に入社します。
 しかし、1949年(昭和24)に同社を退職し、ガラス作家として独立、1955年(昭和30)には、市川市北方に転居しました。1957年(昭和32)に上野松坂屋にて初の個展「藤田喬平手吹きガラス器新作展」を開催、1961年(昭和36)には、日本橋高島屋にて「藤田喬平硝子工芸創作展」が開催され、以降毎年開催されるようになります。
 1964年(昭和39)に個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品されました。1973年(昭和48)の個展で飾筥「菖蒲」を発表し、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられることとなります。
 1976年(昭和51)に日本ガラス工芸協会会長(~2003年)に就任、翌年にイタリアのベネチアを訪れたのを機に、色ガラスの技法を学びました。1986年(昭和61)の第25回「日本現代工芸美術展」に招待出品し、文部大臣賞を受賞、1989年(平成元)には、飾筥「春に舞う」で、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となります。
 1994年(平成6)に勲三等瑞宝章を受章、1996年(平成8)に宮城県松島に藤田喬平美術館が開館、1997年(平成9)には、文化功労者として顕彰を受け、紺綬褒章を受章しました。1998年(平成10)にアメリカ、ガラス・アート・ソサエティーより、ライフタイム・アチーブメントアワードを受賞、1999年(平成11)には、市川市名誉市民となります。
 2002年(平成14)に文化勲章を受章しましたが、2004年(平成16)9月18日に、東京都千代田区の病院において、肺炎のため、83歳で亡くなりました。

〇藤田喬平の主要な作品

・鉄のオブジェ「波」(1946年)日展初入選
・流動ガラス「虹彩」(1964年)
・飾筥「菖蒲」(1973年)
・飾筥「春に舞う」(1989年)芸術院恩賜賞受賞

☆藤田喬平関係略年表

・1921年(大正10)4月28日 東京府豊多摩群大久保町(現在の東京都新宿区百人町)に生まれる
・1944年(昭和19) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科彫金部を卒業する
・1946年(昭和21) 第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選、染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加する
・1947年(昭和22) 岩田工芸硝子に入社する
・1949年(昭和24) 岩田工芸硝子を退社し、ガラス作家として独立する
・1955年(昭和30) 市川市北方に転居する
・1957年(昭和32) 上野松坂屋にて初の個展「藤田喬平手吹きガラス器新作展」が開催される
・1961年(昭和36) 日本橋高島屋にて「藤田喬平硝子工芸創作展」が開催される
・1964年(昭和39) 日本橋高島屋第4回個展にて、流動ガラス「虹彩」を発表する
・1967年(昭和42) 日本橋高島屋第7回個展にて、流動ガラス十数点を発表する
・1973年(昭和48) 日本橋高島屋第13回個展にて、飾筥最初の作品「菖蒲」を発表する
・1974年(昭和49) 神奈川県立近代美術館「日本のガラス展」を出品する
・1975年(昭和50) デンマークの「世界のスタジオグラス展」に招待出品する
・1976年(昭和51) 日本ガラス工芸協会会長に就任する
・1977年(昭和52) イタリアのベネチアを訪れたのを機に,色ガラスの技法を学ぶ
・1978年(昭和53) 日本橋高島屋第18回個展にて、ベネチアムラーノ島にて制作の新作カンナ文様ガラス器を発表する
・1980年(昭和55) 『藤田喬平手吹きガラス作品集』(アート社)を刊行する
・1981年(昭和56) スウェーデン・オレフォス社にてクリスタル・ガラス作品を制作、千葉県立美術館にて第1回「千葉美術工芸展」に、代表理事として出品する
・1983年(昭和58) 『藤田喬平版画集』(現代版画センター)を刊行する
・1984年(昭和59) 日本橋高島屋第25回個展にて、「風」「創生」など新たな造形上の大作を発表する
・1985年(昭和60) NHK日曜美術館「アトリエ訪問-ガラスに日本美をこめて-」に出演する
・1986年(昭和61) 第25回「日本現代工芸美術展」に招待出品し文部大臣賞を受賞、『 雅びの夢-藤田喬平ガラス』(京都書院)を刊行する
・1989年(平成元) 飾筥「春に舞う」で、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となる
・1991年(平成3) 朝日新聞社主催「古稀記念 藤田喬平の世界」展を開催(東京、大阪、京都、横浜高島屋巡回)する
・1992年(平成4) 富山市文化センターにて「藤田喬平ガラス造形の世界展」を開催する
・1994年(平成6) 勲三等瑞宝章を受章する
・1996年(平成8) 宮城県松島に藤田喬平美術館が開館する
・1997年(平成9) 文化功労者として顕彰を受け、紺綬褒章を受章、イタリアのベネチアを訪れる
・1998年(平成10) アメリカ、ガラス・アート・ソサエティーよりライフタイム・アチーブメントアワードを受賞する
・1999年(平成11) 市川市名誉市民となる
・2000年(平成12) 『2000年記念出版 藤田喬平のガラス』(求龍堂)を刊行、日本橋三越にて「〈一期一会〉小倉遊亀・藤田喬平展」を開催、千葉県立現代産業科学館にて「市川の文化人展-藤田喬平の世界展」を開催する
・2001年(平成13) デンマーク コペンハーゲン、デンマーク工芸美術館にて個展を開催、卒寿記念個展を開催する
・2002年(平成14) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 日本ガラス工芸協会会長を辞める
・2004年(平成16)9月18日 東京都千代田区の病院において、肺炎のため、83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手する(新暦11月3日)詳細
1428年(正長元)正長の土一揆で京都・醍醐附近の地下人が徳政を要求して蜂起する(新暦10月26日)詳細
1868年(明治元)日本画家横山大観の誕生日(新暦11月2日)詳細
1869年(明治2)東京・築地に明治新政府により海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設立される(新暦10月22日)詳細
1927年(昭和2)小説家徳富蘆花の命日(蘆花忌)詳細
1931年(昭和6)柳条湖事件が起き、満州事変が始まる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、満蒙開拓団の中で、瑞穂村開拓団集団自決が起き、495人が亡くなった日です。
 瑞穂村開拓団集団自決(みずほむらかいたくだんしゅうだんじけつ)は、満州国北安省(現在の中華人民共和国黒龍江省)において、満蒙開拓団の一つである、瑞穂村開拓団において発生した、集団自決事件でした。1931年(昭和6)の満州事変を契機として、翌年には、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」が建国され、「王道楽土」、「五族協和」のスローガンの下で、国策により満蒙開拓団が送り出されます。
 1934年(昭和9)の第3次試験移民としていまの黒龍江省、ソ連国境に近い草原地帯に入植したのが、瑞穂村開拓団で、日本全国22県からの出身者で構成され、当時の総員は1,056人でした。1945年(昭和20)8月9日に、ソ連が対日参戦し、8月15日に日本は敗戦を迎えましたが、関東軍は開拓団を守ることが任務の一つであったにもかかわらず、ごく一部を除き、残された民間人を見捨てて逃亡し、満蒙開拓団の多くは、満蒙の地に捨て置かれた、「棄民」となります。
 ソ連軍が迫り、原住民の襲撃もある中で、9月17に切羽詰まった瑞穂村開拓団1,056人の内、495人が一斉に青酸カリで集団自決したもので、ほとんどが女子、子供でした。生き残った人も辛酸をなめ、1946年(昭和21)5月に、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされます。
 尚、東京都多摩市にある拓魂公苑に、「瑞穂村開拓団殉難者之碑」が建立されました。

〇満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)の満州事変以後、1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦まで、「満州国」(中国東北部)や内モンゴル地区に、国策として送り込まれた農業移民団のことで、集団で開拓にあたります。関東軍司令部付東宮鉄男、同軍参謀石原莞爾、農業教育家加藤完治、農林次官石黒忠篤らの積極的な建議で、まず1932年(昭和7)から第一次として関東軍と拓務省の主導による試験移民が4年間にわたって入植しました。
 それを踏まえて、1936年(昭和11)5月11日には、日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定されます。同年8月11日に、拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成し、廣田内閣による国策の一つとして、生産の担い手として20年間で計100万戸の農家を送る計画が決定しました。
 この計画の眼目は、①日満両国の関係強化、②対ソ作戦上の後備勢力として、③満州国の産業を開発するため、④日本文化による満州国の文化向上を具体的に助けるものとして、⑤過剰人口の解決策の5点です。集団移民に対しては一戸あたり1,000円、農業自由移民に対しては500円、その他の自由移民に対しては概ね200円の政府補助金が与えられることになりました。
 そして、満蒙開拓移民は武装し組織的な軍事訓練を受け、治安維持や国境警備をも受け持たされたとされます。1939年(昭和14)12月22日は、「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定・発表し、また満州国政府も,同要綱を商議決定の上発表します。これによって基本方針は、「満洲開拓政策ハ日満両国ノ一体的重要国策トシテ東亜新秩序建設ノ為ノ道義的新大陸政策ノ拠点ヲ培養確立スルヲ目途トシ特ニ日本内地人開拓農民ヲ中核トシテ各種開拓民並ニ原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化、民族協和ノ達成、国防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス」とされました。
 そして、基本要領は、この根本方針を実現するための実施事項として、①開拓用地は原則として未利用地開発主義をとり、国営とすること、②開拓民は原住民を包容融合するようにすること、③満蒙開拓青少年義勇軍を結成すること、など26項目を指示し、さらに推進されていったのです。太平洋戦争敗戦までに、日本各地から約27万人が海を渡ったとされますが、ソ連軍侵攻後、関東軍は撤退して置き去りにされ、逃避行は悲惨を極め、約8万人の死者を出し、子供たちが取り残された中国残留孤児の悲劇も起きました。
 尚、満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第2位の山形県の2.4倍でした。長野県内でも南部地域の比重が高く、長野県下伊那郡阿智村には、2013年(平成25)に「満蒙開拓平和記念館」が作られ、歴史・資料の記録・保存・展示・研究が行われています。

☆満蒙開拓関係略年表

<1931年(昭和6)>
・9月18日 中華民国奉天郊外の柳条湖事件を契機に、満州事変が起こる

<1932年(昭和7)>
・3月1日 満洲国が建国される
・9月15日 「日満議定書」が締結される
・10月3日 拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発する

<1933年(昭和8)>
・5月31日 河北省塘沽において日本軍と中国軍との間の塘沽停戦協定により、満州事変の軍事的衝突は停止される

<1936年(昭和11)>
・5月11日 日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定される
・8月11日 拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成する
・8月25日 「国策ニ関スル閣議決定」によって、廣田内閣による七大国策の一つ「対満重要策ノ確立」として決定される

<1937年(昭和12)>
・7月7日 盧溝橋事件が起き、日中全面戦争へ突入する
・11月30日 「満州に対する青少年移民送出に関する件」が閣議決定され、「満州青年移民実施要項」が作られる

<1938年(昭和13)>
・1月 満州青年移民の募集が開始される

<1939年(昭和14)>
・5月11日 満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐってノモンハン事件が起きる
・6月7日 満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進が明治神宮外苑競技場で開催される
・12月22日 「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定し、発表する

<1941年(昭和16)>
・4月13日 日ソ間の領土領域の不可侵を約した「日ソ中立条約」が締結される
・12月8日 米英両国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まる
・12月31日 「満洲開拓第2期5箇年計画要綱」を東条内閣が閣議決定する

<1943年(昭和18)>
・11月22日 「満洲国緊急農地造成計画ニ対スル協力援助ニ関スル件」を東条内閣が閣議決定する

<1945年(昭和20)>
・8月8日 「日ソ中立条約」を破棄したソ連軍が満州に攻め込む
・8月15日 正午に戦争終結の詔書が放送(玉音放送)され、日本が太平洋戦争に敗れる
・8月18日 満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する
・9月17日 瑞穂村開拓団集団自決によって、495人が亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1062年(康平4)源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結する(新暦10月22日)詳細
1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、野田醤油労働組合が全員参加の無期限ストライキ(第2次野田醤油労働争議)に突入した日です。
 野田醤油労働争議(のだしょうゆ ろうどうそうぎ)は、千葉県東葛飾郡野田町(現在の野田市)にある野田醤油株式会社(現在のキッコーマン)において、1922年(大正11)~1928年(昭和3)にかけて、連続的に闘われた労働争議でした。1921年(大正10)に、野田醤油労働組合が結成され、日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属します。
 1923年(大正12)3月16日に、組合員2,600人がストライキに突入(第1次争議)し、4月12日には、労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられ、作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、争議が終わりました。その後、1927年(昭和2)4月に、野田醤油労働組合は、会社に賃上げなどを要求しましたが交渉は決裂、会社側は露骨な組合切りくずしを始めたため、同年9月16日に、労働者1,358人は、待遇改善を再度求めて、全員参加の無期限ストライキに突入(第2次争議)します。
 会社側は、ストライキ参加者1,047名を解雇し、町の諸機関、警察、暴力団などを利用して弾圧を開始しました。組合側はこれに対抗して、日本労働総同盟(総同盟)の全面指導下に闘争を展開し、児童の同盟休校、醤油不買などを展開し、欲年3月20日には、東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による昭和天皇への直訴事件も起きます。
 その後、双方の調停役を務める協調会が斡旋し千葉県知事が立ちあって労使双方による交渉が持たれ、4月20日のストライキ勃発から216日目に、300人の再雇用と解雇手当総額45万円を内容とした「野田醤油問題解決協定」が成立し、組合側の惨敗で終了しました。4月30日には、争議団は解散を決議し、総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部は壊滅しています。
 尚、『文藝戦線』1928年2月号に、黒島伝治と鶴田知也の共同執筆で、「野田争議の実状」というルポが発表され、さらに同誌の1929年4月号に、黒島伝治が「野田争議敗戦まで」を書いて、その争議の実状が流布されました。

〇黒島伝治著「野田争議敗戦まで」(抜粋)

 一昨年の九月十六日大争議が勃発すると、会社は組合を叩き潰すことに、全力を傾注した。それから組合は、田中内閣の極端な反動政策と必死になった会社の圧迫、堕落幹部の裏切に耐え、二百十七日間頑張った。会社は反動団体の暴力を利用して組合員がそれに応じると、官権の峻厳な取締によって、争議団を崩壊させようとしたり、スパイを使って組合を切崩そうとしたり、組合員の食糧庫である購買組合を遠島某に大部の金を掴まして差押えさせたり、附近の村から新工員を募って、事業を継続するなど、約二百円の金を費って、組合叩潰しに熱中した。暴力団は争議団の演説会場を攪乱した。それから組合の事務所を叩潰した。ある晩には組合員の三名が、暴漢に鋭利な短刀で刺され、悲鳴が町にこだました。負傷者は医者に連れて行かれて手当を受けたが、不思議な事は、五分も経たない内に、会社から医者へ電話が掛り、傷の軽重を問合せて来たという。暴力団の背後に会社が、糸を繰っていることはこれによっても明白である。四月二十日になって、到頭争議団も屈伏するの止むなきに至った。その前、協調会で取交された覚書は、会社側から云えば、まるで征服者の解決条件である。争議団から云えば戦敗者の屈服的な解決条件であった。七百名の解雇者を出さなければならない。七百名と云えば争議団の殆ど七割である。

☆野田醤油労働争議関係略年表

・1919年(大正8)1月 野田町(当時)に本社・工場を構える野田醤油の労働者1300人が給与と賞与の増額を求めてストライキに入り、賃金増額の要求が拒否されると辞職戦術をとって多数の労働者が転職した
・1921年(大正10)1月 野田醤油労働組合が結成される
・1921年(大正10)12月 日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属する
・1923年(大正12) 工場経営の方針転換に着手する
・1923年(大正12)3月16日 組合員2,600人がストライキに突入する(第1次争議)
・1923年(大正12)4月12日 労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられ、作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、争議が終わる
・1927年(昭和2)4月 野田醤油労働組合は、会社に賃上げなどを要求する
・1927年(昭和2)9月16日 野田醤油会社の労働者1,358人は、待遇改善を再度求めて、全員参加の無期限ストライキに突入する(第2次争議)
・1928年(昭和3)2月 黒島伝治と鶴田知也の共同執筆で、『文藝戦線』1928年2月号に「野田争議の実状」というルポが発表される
・1928年(昭和3)3月 『プロレタリア芸術』1928年3月号に、西沢隆二がこの争議に取材した、「野田へ行く」という短い作品を発表する
・1928年(昭和3)3月20日 東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴事件が突発する
・1928年(昭和3)4月20日 ストライキ勃発から216日目に、300人の再雇用と解雇手当総額45万円を内容とした「野田醤油問題解決協定」が成立し、組合の惨敗で終了する
・1928年(昭和3)4月30日 争議団は解散を決議し、総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部は壊滅する
・1929年(昭和4)4月 黒島伝治が『文芸戦線』1929年4月号に「野田争議敗戦まで」を書く

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1086年(応徳3)藤原通俊が『後拾遺和歌集』を完成し、奏上する(新暦10月26日)詳細
1789年(寛政元)江戸幕府が旗本・御家人救済の為の「棄捐令」を発布する(新暦11月3日)詳細
1793年(寛政5)武士・画家渡辺崋山の誕生日(新暦10月20日)詳細
1890年(明治23)和歌山県串本沖でオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号遭難事件が起こる詳細
1948年(昭和23)アイオン台風が関東・東北に襲来し、死者・行方不明者838人を出す詳細
1961年(昭和36)第2室戸台風が近畿地方に上陸し、死者行方不明202人を出す詳細
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