ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年09月

YS11
 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、国産旅客機YS-11(日本航空機製造製)が、日本エアコミューター(JAC)により、最後の旅客飛行を行った日です。
 YS-11(わいえす いちいち)は、日本で初めて開発製造された(日本航空機製造が製造)短距離用双発ターボプロップエンジン方式の旅客機でした。1959年(昭和34)に基礎設計が終わり、実機を製作するため日本航空機製造株式会社が設立され、1962年(昭和37)7月11日に試作1号機が完成し、同年8月30日に初飛行、続いて同年12月には2号機も飛びます。
 この機体は、全金属製の低翼単葉の双発プロペラ機で旅客60人乗り、エンジンはロールスロイス・ダート・ターボプロップ (3060馬力) 2を使用し、プロペラの直径を特に大きくして、離陸滑走路長1,110m,着陸 1,100mと離着陸距離を短くしたのが特徴でした。全長26.3m、全幅32m、自重15.4t、総重量 24.5tあり、速度は最大時速600km、巡航時速470km、航続距離1,200kmです。
 1965年(昭和40)4月1日に日本国内航空の東京~徳島~高知線で初就航し、国内では民間航空のほか自衛隊や海上保安庁が採用、182機を生産、国外へも76機が輸出され、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、ギリシア、フィリピン、インドネシアなどで使われました。しかし、赤字のため1973年(昭和48)に生産が打ち切られ、1983年(昭和58)には、日本航空機製造も解散しています。
 運航については、2006年(平成18)9月30日に日本エアコミューター(JAC)が定期旅客輸送を打ち切り、国内航空会社の旅客輸送からはすべて姿を消しました。民間外では、2011年(平成23)には、海上保安庁や海上自衛隊での運用も廃止となったものの、航空自衛隊では改造されたものが運航されてきました。

〇日本航空機製造YS-11関係略年表

・1956年(昭和31) 運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究が行われる
・1957年(昭和32)1月20日 水田三喜男通商産業大臣と池田勇人大蔵大臣の大臣交渉で予算を獲得することができる
・1957年(昭和32)5月 「財団法人 輸送機設計研究協会(通称:輸研)」が東京大学内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まる
・1958年(昭和33)12月11日 日本飛行機の杉田工場でモックアップを完成披露した。試作機の予算を獲得するためのデモンストレーションがある 
・1959年(昭和34)6月1日 官民共同の特殊法人として日本航空機製造(日航製、NAMC)が設立され、輸研は解散する
・1962年(昭和37) 01号機を使用して静荷重試験が実施される
・1961年(昭和36)7月 02号機を使用した疲労試験が開始される
・1962年(昭和37)7月11日 飛行試作機1号機(1001)が三菱小牧工場でロールアウトする
・1962年(昭和37)8月30日 日航製は200人以上のマスメディアを招き、実況中継放送の中で1号機が初飛行する 
・1962年(昭和37)10月 全日本空輸(全日空)との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始する 
・1962年(昭和37)12月18日 皇太子明仁親王を招いての完成披露式典が羽田空港で開かれる
・1964年(昭和39)8月 運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始する
・1965年(昭和40)3月30日 量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入する
・1965年(昭和40)4月 航空各社への納入が始まる
・1965年(昭和40)4月1日 日本国内航空の東京~徳島~高知線で初就航する
・1965年(昭和40)9月 FAAの型式証明も取得して、輸出の体制が整う
・1965年(昭和40)4月10日 民間航空会社に最初として東亜航空に納入される
・1965年(昭和40)10月 フィリピンのフィリピナス・オリエント航空に引き渡される
・1966年(昭和41)9月15日~10月13日 北米へ渡航、アメリカ合衆国のサンフランシスコ・デンバー・セントルイス・ワシントンD.C.・マイアミを飛ぶ
・1966年(昭和41)11月13日 松山空港沖の海中に墜落し、乗員乗客50名全員が死亡する(全日空松山沖墜落事故)   
・1967年(昭和42)1月25日~3月15日 南アメリカのペルー・アルゼンチン・チリ・ブラジルをデモ飛行する
・1967年(昭和42)10月11日・12日 ベネズエラをデモ飛行する
・1967年(昭和42)12月2日~12日 カナダをデモ飛行する
・1968年(昭和43)8月27日~10月28日 イギリス・西ドイツ・スウェーデン・イタリア・ユーゴスラビア・ギリシャ・サウジアラビア・パキスタン・ネパール・ビルマ・タイ・マレーシアをデモ飛行する
・1969年(昭和44)2月27日~3月1日にメキシコをデモ飛行する
・1967年(昭和42)末 小牧工場は月産1.5機から2機に増産する
・1968年(昭和43)末 確定受注が100機を超える
・1969年(昭和44)4月17日 全日空に量産100号機(通算102号機)を納入し、輸出は7カ国15社に達する
・1969年(昭和44)7月 当初の量産計画(150機)を上回る180機の量産計画が認可される
・1970年(昭和45)3月末 80億円の赤字となる
・1970年(昭和45)8月12日 豪雨の中、台北松山空港へ強行着陸を試み墜落し、乗員乗客31人中死亡14人、負傷17人を出す(中華航空206便墜落事故)
・1971年(昭和46)3月末 145億円の赤字となる
・1971年(昭和46)7月3日 函館空港北方の七飯町横津岳に墜落し、乗員乗客68名全員が死亡する(ばんだい号墜落事故)   
・1973年(昭和48)3月 総数182機を生産し、生産終了となる
・1981年(昭和56)12月28日 閣議で、日本航空機製造の業務の民間への移管と1982年(昭和57年)度中の解散が正式決定される
・1983年(昭和58)3月11日 中標津空港へ着陸降下中に手前で墜落し、乗員乗客53人中重傷18人、軽傷34人を出す(日本近距離航空機中標津空港事故)
・1983年(昭和58)3月23日 日本航空機製造は解散する
・1994年(平成6)3月8日 南紀白浜~東京便を最後に日本エアシステム(JAS)から引退する
・2006年(平成18)9月30日 日本エアコミューター(JAC)が定期旅客輸送を打ち切り、国内航空会社の旅客輸送からはすべて姿を消す
・2011年(平成23)1月 海上保安庁所有の機が全機退役させられる
・2011年(平成23)5月31日 海上自衛隊での全機用途廃止となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1943年(昭和18)御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定が決定され、「絶対国防圏」が定められる詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細
1978年(昭和53)小説家山岡荘八の命日詳細
1992年(平成4)「世界遺産条約」が日本国内で発効する詳細
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yamazakitoyoko01
 今日は、平成時代の2013年(平成25)に、小説家山崎豊子の亡くなった日です。
 山崎豊子(やまさき とよこ)は、大正時代の1924年(大正13)1月2日に、大阪市南区横堀において、老舗の昆布商「小倉屋昆布」を営む父・山本菊蔵、母・ますの長女として生まれました。相愛高等女学校(現在の相愛中学校・高等学校)を経て、京都女子専門学校(現在の京都女子大学)国文学科に進学し、1944年(昭和19)に卒業後、毎日新聞社大阪本社に入社して、調査部に配属されます。
 1945年(昭和20)に毎日新聞学芸部に転属、当時の学芸部長は井上靖で、強い影響を受け、1957年(昭和32)には、生家の昆布屋をモデルに、10年掛かりで書き上げた『暖簾』を刊行し、作家デビューを果しました。1958年(昭和33)に『花のれん』により第39回直木賞を受賞、『船場狂い』『死亡記事』など、大阪が舞台の小説を続々発表、本格的に作家生活に入るため、毎日新聞社を退社します。
 1959年(昭和34)に『ぼんち』の連載開始、この作品で大阪府芸術賞を受賞、1961年(昭和36)には、『女の勲章』の舞台を訪ねてフランスを始めヨーロッパの各国を回り、毎日新聞学芸部記者・杉本亀久雄と結婚しました。1962年(昭和37)にインフルエンザ肺炎で倒れ、半年間病気療養しながら執筆活動を続け、1963年(昭和38)には、『花紋』で第2回婦人公論読者賞を受賞、『白い巨塔』の「サンデー毎日」への連載を開始します。
 1964年(昭和39)にオスローで開催された国際ペンクラブ大会に川端康成、平林たい子と共に出席、1966年(昭和41)には、『白い巨塔』が映画化され、大ヒットしました。1968年(昭和43)に『花宴』で第6回婦人公論読者賞を受賞(後に、盗作問題で賞を返上)、1969年(昭和44)には、『華麗なる一族』の執筆取材のため、都市銀行や大蔵省、金融専門家に取材します。
 1973年(昭和48)には、『不毛地帯』執筆のため、シベリア、ハバロフスク、イルクーツクの日本人捕虜収容所、さらにテヘランの油田地帯に取材しました。1978年(昭和53)にハワイ州立大学へ客員教授として招聘され、1年間『ぼんち』をテキストに「上方文化」を講義、1979年(昭和54)には、『二つの祖国』執筆のため、ハワイ大学図書館、カリフォルニア大学図書館に出向き、資料収集します。
 1984年(昭和59)に『大地の子』執筆取材のため中国に渡り、胡耀邦総書記と対面し、1990年(平成2)に『大地の子』で、第52回文藝春秋読者賞、翌年には、第39回菊池寛賞を受賞しました。1993年(平成5)に『大地の子』の印税などを基にに「山崎豊子文化財団」を設立し、日本に帰国した中国残留孤児の学資援助などを行い、1995年(平成7)には、『沈まぬ太陽』の連載を開始、『大地の子』がNHKでテレビドラマ化されます。
 2009年(平成21)には、『運命の人』で第63回毎日出版文化賞特別賞を受賞しましたが、2013年(平成25)9月29日に、大阪府堺市において、呼吸不全により、89歳で亡くなりました。

〇山崎豊子の主要な著作

・『暖簾(のれん)』(1957年)
・『花のれん』(1958年)第39回直木賞受賞
・『しぶちん』(1958年)
・『ぼんち』(1959年)大阪府芸術賞受賞
・『女の勲章』(1960~61年)
・『女系家族』(1962~63年)
・『花紋(かもん)』(1962~64年)第2回婦人公論読者賞受賞
・『白い巨塔』(1963~65年)
・『続白い巨塔』(1967~68年)
・『華麗なる一族』(1973年)
・『不毛地帯』(1976~78年)
・『二つの祖国』(1980~83年)
・『大地の子』(1987~1991年)第52回文藝春秋読者賞、第39回菊池寛賞受賞
・『沈まぬ太陽』(1995~98年)
・『運命の人』(2009年)第63回毎日出版文化賞特別賞受賞
・『約束の海』(2013年)遺作

☆山崎豊子関係略年表

・1924年(大正13)1月2日 大阪市南区横堀において、老舗の昆布商「小倉屋昆布」を営む父・山本菊蔵、母・ますの長女として生まれる
・1936年(昭和11) 旧制大阪市芦池尋常小学校(現在の大阪市立南小学校)を卒業する
・1941年(昭和16) 相愛高等女学校(現在の相愛中学校・高等学校)を卒業する。同窓生には随筆家、岡部伊都子、バイロオリニストの辻久子がいた。
・1944年(昭和19) 京都女子専門学校(現在の京都女子大学)国文学科を卒業、毎日新聞社大阪本社に入社して、調査部に配属される
・1945年(昭和20) 毎日新聞学芸部に転属、当時の学芸部長は井上靖で、強い影響を受ける
・1957年(昭和32) 生家の昆布屋をモデルに、10年掛かりで書き上げた『暖簾』を刊行して作家デビューを果たす
・1958年(昭和33) 『花のれん』により第39回直木賞を受賞、『船場狂い』『死亡記事』など、大阪が舞台の小説を続々発表、本格的に作家生活にはいるため、毎日新聞社を退社する
・1959年(昭和34) 『ぼんち』の連載開始、大阪府芸術賞を受賞する
・1961年(昭和36) 『女の勲章』の舞台を訪ねてフランスを始めヨーロッパの各国を回り、毎日新聞学芸部記者・杉本亀久雄と結婚する
・1962年(昭和37) インフルエンザ肺炎で倒れ、半年間病気療養しながら執筆活動を続ける
・1963年(昭和38) 『花紋』にて第2回婦人公論読者賞を受賞、『白い巨塔』の「サンデー毎日」への連載を開始する
・1964年(昭和39) オスローで開催された国際ペンクラブ大会に川端康成、平林たい子と共に出席する
・1966年(昭和41) 『白い巨塔』が映画化される
・1968年(昭和43) 『花宴』で第6回婦人公論読者賞を受賞する(後に、盗作問題で賞を返上)
・1969年(昭和44) 『華麗なる一族』の執筆取材のため、都市銀行や大蔵省、金融専門家に取材する
・1973年(昭和48) 『不毛地帯』執筆のため、シベリア、ハバロフスク、イルクーツクの日本人捕虜収容所、さらにテヘランの油田地帯に取材する
・1978年(昭和53) ハワイ州立大学へ客員教授として招聘され、1年間『ぼんち』をテキストに「上方文化」を講義する
・1979年(昭和54) 『二つの祖国』執筆のため、ハワイ大学図書館、カリフォルニア大学図書館に出向き、資料収集する
・1984年(昭和59) 『大地の子』執筆取材のため中国に渡り、胡耀邦総書記と対面する
・1990年(平成2) 『大地の子』で、第52回文藝春秋読者賞を受賞する
・1991年(平成3) 『大地の子』で、第39回菊池寛賞を受賞する
・1993年(平成5) 『大地の子』の印税などを基にに「山崎豊子文化財団」を設立し、日本に帰国した中国残留孤児の学資援助などを行う
・1995年(平成7) 『沈まぬ太陽』の連載を開始、『大地の子』がNHKでテレビドラマ化される
・1997年(平成9) 北京日本人学校で創立20周年記念講演を行う
・2009年(平成21) 『運命の人』で第63回毎日出版文化賞特別賞を受賞する
・2013年(平成25)9月29日 大阪府堺市において、呼吸不全により、89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

747年(天平19)東大寺大仏の鋳造が開始される(新暦11月6日)詳細
930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
949年(天暦3)第57代の天皇とされる陽成天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)「学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細
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ishizakateruko01
 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、免疫学者石坂照子の生まれた日です。
 石坂照子(いしざか てるこ)は、山形県の旧家であった松浦家に生まれ、1944年(昭和19)に、山形第一高等女学校(現在の山形県立山形西高校)を卒業、上京して、東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に入学しました。在学中に通った伝染病研究所の恩師の元で、石坂公成氏と出会い、1949年(昭和24)に首席で卒業し、結婚します。
 1951年(昭和26)から、国立予防衛生研究所 (国立感染症研究所の前身) で血清の研究(~1957年)を進めました。1957年(昭和32)に東京大学より、医学博士号を授与され、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国カリフォルニア工科大学へ研究留学(~1959年)します。1962年(昭和37)から、コロラド大学附属デンバー病院ぜん息研究所病院の助教授職 (小児科) を務め(~1970年)ました。
 1966年(昭和41)に、夫・石坂公成との連名で免疫抗体Eの発見を発表、世界のアレルギー研究に大きな突破口をもたらします。これらの業績により、1972年(昭和47)にパサノ賞(石坂公成と共同)、1973年(昭和48)に朝日賞、ガードナー国際賞を受賞しました。
 1979年(昭和54)に、ジョンズ・ホプキンズ大学教授に就任、ラホイヤ研究所のアレルギー部長とカリフォルニア工科大学教授を兼務します。ジョンズ・ホプキンズ大学を退職後、1989年(平成元)には、ラホイヤ研究所 (LJI、旧 LIAI) で研究施設を開設しました。
 1990年(平成2)に、女性初のベーリング・北里賞を受賞、1995年(平成7)に日本アレルギー協会は、免疫グロブリンE発見を発表した日付を記念日「アレルギーの日」とし、その週を「アレルギー週間」に指定して、石坂夫妻を顕彰します。2004年(平成16)には、「American Men and Women of Science」誌に現役の優れた生物学者として掲載されましたが、2019年(平成31)6月4日に、山形県山形市において、肺炎のため、92歳で亡くなりました。

〇石坂照子関係略年表

・1926年(大正15)9月28日 山形県の旧家であった松浦家に生まれる
・1944年(昭和19) 山形第一高等女学校(現在の山形県立山形西高校)を卒業し、上京して、東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に入学する
・1949年(昭和24) 東京女子医学専門学校を首席で卒業し、石坂公成氏と結婚する
・1951年(昭和26) 国立予防衛生研究所 (国立感染症研究所の前身) で血清の研究を進める(~1957年)
・1957年(昭和32) 東京大学で医学博士号を授与され、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国カリフォルニア工科大学へ研究留学する(~1959年)
・1962年(昭和37) コロラド大学附属デンバー病院ぜん息研究所病院の助教授職 (小児科) を務める(~1970年)
・1966年(昭和41) 石坂公成との連名で免疫抗体Eの発見を発表、世界のアレルギー研究に大きな突破口をもたらす
・1970年(昭和45) 2度目の渡米をする
・1972年(昭和47) パサノ賞(石坂公成と共同)を受賞する
・1973年(昭和48) 朝日賞、ガードナー国際賞を受賞する
・1979年(昭和54) ジョンズ・ホプキンズ大学教授に就任、ラホイヤ研究所のアレルギー部長とカリフォルニア工科大学教授を兼務する
・1989年(平成元) ラホイヤ研究所 (LJI、旧 LIAI) で研究施設を開設する
・1990年(平成2) 女性初のベーリング・北里賞を受賞する
・1995年(平成7) 肥満細胞の培養に成功、日本アレルギー協会は免疫グロブリンE発見を発表した日付を記念日とし、石坂夫妻を顕彰する
・2004年(平成16) 「American Men and Women of Science」誌に現役の優れた生物学者として掲載される
・2019年(平成31)6月4日 山形県山形市において、肺炎のため、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1902年(明治35)「足尾台風」が襲来し、主に関東地方から東北地方南部にかけて大きな被害をもたらす詳細
1912年(大正元)小説家大原富枝の誕生日詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1964年(昭和39)琵琶湖を初めて横断する琵琶湖大橋が開通する詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細
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yokohamaBayBridge01
 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、横浜港の港口に横浜ベイブリッジが、着工から約9年で、開通した日です。
 横浜ベイブリッジ(よこはまべいぶりっじ)は、横浜港口の人工島の大黒埠頭と本牧埠頭の突堤とを結ぶ、中央支間長460m、全長860mの2層構造の斜張橋で、正式名称は、横浜港横断橋と言いました。1964年(昭和39)に横浜市港湾局を中心に調査が開始され、1969年(昭和44)に建設省による調査が開始、1977年(昭和52)8月には、都市計画が決定(鶴見区扇島~中区千鳥町)されます。
 1980年(昭和55)11月に着工し、1989年(平成元)9月27日に、上層部の首都高速湾岸線が開通しましたが、当時は、日本一の長さの斜張橋でした。1998年(平成10)にベイブリッジ一般部事業に着手、2004年(平成16)4月24日には、下層部の国道357号が開通しています。
 大黒ふ頭側には、橋脚の道路下にある展望台までの遊歩道「横浜スカイウォーク」があり、開業以来有料で開放されていましたが、2010年(平成22)9月に閉鎖され、2022年(令和4)6月25日には、リニューアルオープンし、土曜日、日曜日、祝日に無料開放されました。横浜ライトアップの象徴的存在であり、264灯の投光器で主塔部分をライトアップし、正時には色を変え、時刻を知らせています。尚、「日本夜景遺産」にも選定されました。

〇横浜港横断橋(横浜ベイブリッジ)関係略年表

・1964年(昭和39) 横浜市港湾局を中心に調査開始する
・1969年(昭和44) 建設省により調査開始する
・1977年(昭和52)8月 都市計画決定(鶴見区扇島 - 中区千鳥町)
・1980年(昭和55)11月 着工する
・1989年(平成元)9月27日 上層部の首都高速湾岸線が開通する
・1998年(平成10) ベイブリッジ一般部事業に着手する
・2004年(平成16)4月24日 下層部の国道357号が開通する
・2010年(平成22)9月 橋脚の道路下にある展望台までの遊歩道「横浜スカイウォーク」が閉鎖される
・2022年(令和4)6月25日 「横浜スカイウォーク」がリニューアルオープンする

☆日本の斜張橋の中央支間長ベスト10

①890m―多々羅大橋(広島県尾道市)全長:1,480m[1999年5月1日開通]
②590m―名港中央大橋(愛知県名古屋市港区)全長:1,170m[1998年3月30日開通]
③510m―鶴見つばさ橋(神奈川県横浜市鶴見区)全長:1,020m[1994年12月21日開通]
④490m―生口橋(広島県尾道市)全長:790m[1891年12月8日開通]
⑤485m―東神戸大橋(兵庫県神戸市東灘区)全長:885m[1994年4月2日開通]
⑥480m―女神大橋(長崎県長崎市)全長:1,289m[2005年12月11日]
⑦460m―横浜ベイブリッジ(神奈川県横浜市中区・鶴見区)全長:860m[1989年9月27日開通]
⑧420m―櫃石島橋(香川県坂出市)全長:792m[1988年4月10日開通]
⑧420m―岩黒島橋(香川県坂出市)全長:792m[1988年4月10日開通]
⑩410m―名港東大橋(愛知県東海市新宝町・名古屋市港区潮見町)中央支間長:全長:700m

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)日本初の地下鉄・銀座線(上野~浅草2.2km)の起工式が行われる詳細
1940年(昭和15)「日独伊三国同盟」が調印される 詳細
1945年(昭和20)GHQが「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-66)を出す詳細
1946年(昭和21)「労働関係調整法」が公布される詳細
1958年(昭和33)狩野川台風が神奈川県に上陸し、死者・行方不明1,269人を出す詳細
1989年(平成元)哲学者・文芸美術評論家谷川徹三の命日詳細
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kimurahisashi01
 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、天文学者木村栄の亡くなった日です。
 木村栄(きむら ひさし)は、明治時代前期の1870年(明治3年9月10日)に、石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市泉野町)において、菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家の父・篠木庄太郎の次男として生まれましたが、翌年には、木村民衛の養子となりました。1877年(明治10)に越田善七の和算塾で算数、大島塾で漢文を学び、翌年には、養父の木村塾で小先生と呼ばれるようになります。
 1880年(明治13)に加賀藩藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に入学、1887年(明治20)に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進みました。1889年(明治22)に同校を首席で卒業し、帝国大学理科大学星学科に入学、今川覚神より天文学を学んで、1892年(明治25)に卒業後、星を研究するため、帝国大学大学院に進学、寺尾寿、田中館愛橘に師事して位置天文学および地球物理学を専攻します。
 1895年(明治28)に嘱託として「緯度変化観測方」となり、東京で緯度観測を始め、1896年(明治29)には、田中舘と共に観測地の選定のため、水沢に来て数カ所の経緯度を測定し、天文台の候補位置を決定しました。1897年(明治30)に、日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎と共に、インドへ出張し、翌年には、第12回万国測地学(学会)協会に出席、岩手県の水沢が万国共同緯度観測所に決まります。
 1899年(明治32)に帰国し、臨時緯度観測所(水沢)の所長となり、観測を開始、1901年(明治34)には、地軸運動の解析的研究で緯度変化の二つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Z項(木村項)を発見、翌年に論文を発表し、国際的に認められました。この成果により、1904年(明治37)に理学博士の学位を授与され、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席、1910年(明治43)に英国王立天文学会会友に推薦され、翌年には、帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1920年(大正9)に緯度観測所長、万国緯度変化委員会委員長となり、1922年(大正11)には、実績を認められ、国際緯度観測事業中央局長に推挙され、水沢が中央局を担当する事になりました。1925年(大正14)に帝国学士院会員となり、1935年(昭和10)には、国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行します。
 1936年(昭和11)に、14年間務めた中央局長の職を辞し、中央局はイタリアに移り、王立天文学会ゴールドメダル、朝日文化賞を受賞、1937年(昭和12)には、第1回文化勲章も受章しました。1941年(昭和16)に緯度観測所長を辞任し、東京都世田谷区新町に移り住み、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行します。
 しかし、1942年(昭和17)に持病の喘息がひどくなり、暖かな伊東へ転地療養(翌年4月まで)したものの、1943年(昭和18年)9月26日に、東京都世田谷区の自宅において、72歳で亡くなりました。

〇木村栄の主要な著作

・『緯度観測所に就て』(1908年)
・『緯度変化に就て』(1908年)

☆木村栄関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1870年(明治3年9月10日) 石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市泉野町)において、菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家の父・篠木庄太郎の次男として生まれる
・1871年(明治4年) 木村民衛の養子となる
・1877年(明治10) 越田善七の和算塾で算数、大島塾で漢文を学ぶ
・1878年(明治11) 養父の木村塾で小先生と呼ばれる
・1880年(明治13年) 加賀藩藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に入学する
・1885年(明治18年) 赴任してきた北条時敬に学んで数学に目覚める
・1887年(明治20年) 同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進む
・1889年(明治22年) 第四高等中学校を首席で卒業し、帝国大学理科大学星学科に入学する
・1892年(明治25年) 大学を卒業後、星を研究するため、帝国大学大学院に進学する
・1895年(明治28年) 嘱託として「緯度変化観測方」となり、東京で緯度観測を始める
・1896年(明治29年) 田中舘と共に観測地の選定のため、水沢に来て数カ所の経緯度を測定し、天文台の候補位置を決定する
・1897年(明治30年) 日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎と共に、インドへ出張する
・1898年(明治31年) 第12回万国測地学(学会)協会に出席、岩手県の水沢が万国共同緯度観測所に決まる
・1899年(明治32年) 帰国し、臨時緯度観測所(水沢)の所長となり、観測を開始する
・1901年(明治34年) 地軸運動の解析的研究で緯度変化の二つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Z項(木村項)を発見する
・1902年(明治35年) Z項の発見論文を発表し、国際的に認められる
・1904年(明治37年) 理学博士の学位を授与され、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席する
・1910年(明治43年) 英国王立天文学会会友に推薦される
・1911年(明治44年) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1920年(大正9年) 緯度観測所長、万国緯度変化委員会委員長となる
・1922年(大正11年) 実績を認められ、国際緯度観測事業中央局長に推挙され、水沢が中央局を担当する事になる
・1925年(大正14年) 帝国学士院会員となる
・1935年(昭和10年) 国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行する
・1936年(昭和11年) 14年間務めた中央局長の職を辞し、中央局はイタリアに移り、王立天文学会ゴールドメダル、朝日文化賞を受賞する
・1937年(昭和12年) 第1回文化勲章を受章する
・1941年(昭和16年) 緯度観測所長を辞任し、東京都世田谷区新町に移り住み、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行する
・1942年(昭和17年) 持病の喘息がひどくなり、暖かな伊東へ転地療養する
・1943年(昭和18年)9月26日 東京都世田谷区の自宅において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
1968年(昭和43)厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定する詳細
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