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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、免疫学者石坂照子の生まれた日です。
 石坂照子(いしざか てるこ)は、山形県の旧家であった松浦家に生まれ、1944年(昭和19)に、山形第一高等女学校(現在の山形県立山形西高校)を卒業、上京して、東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に入学しました。在学中に通った伝染病研究所の恩師の元で、石坂公成氏と出会い、1949年(昭和24)に首席で卒業し、結婚します。
 1951年(昭和26)から、国立予防衛生研究所 (国立感染症研究所の前身) で血清の研究(~1957年)を進めました。1957年(昭和32)に東京大学より、医学博士号を授与され、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国カリフォルニア工科大学へ研究留学(~1959年)します。1962年(昭和37)から、コロラド大学附属デンバー病院ぜん息研究所病院の助教授職 (小児科) を務め(~1970年)ました。
 1966年(昭和41)に、夫・石坂公成との連名で免疫抗体Eの発見を発表、世界のアレルギー研究に大きな突破口をもたらします。これらの業績により、1972年(昭和47)にパサノ賞(石坂公成と共同)、1973年(昭和48)に朝日賞、ガードナー国際賞を受賞しました。
 1979年(昭和54)に、ジョンズ・ホプキンズ大学教授に就任、ラホイヤ研究所のアレルギー部長とカリフォルニア工科大学教授を兼務します。ジョンズ・ホプキンズ大学を退職後、1989年(平成元)には、ラホイヤ研究所 (LJI、旧 LIAI) で研究施設を開設しました。
 1990年(平成2)に、女性初のベーリング・北里賞を受賞、1995年(平成7)に日本アレルギー協会は、免疫グロブリンE発見を発表した日付を記念日「アレルギーの日」とし、その週を「アレルギー週間」に指定して、石坂夫妻を顕彰します。2004年(平成16)には、「American Men and Women of Science」誌に現役の優れた生物学者として掲載されましたが、2019年(平成31)6月4日に、山形県山形市において、肺炎のため、92歳で亡くなりました。

〇石坂照子関係略年表

・1926年(大正15)9月28日 山形県の旧家であった松浦家に生まれる
・1944年(昭和19) 山形第一高等女学校(現在の山形県立山形西高校)を卒業し、上京して、東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に入学する
・1949年(昭和24) 東京女子医学専門学校を首席で卒業し、石坂公成氏と結婚する
・1951年(昭和26) 国立予防衛生研究所 (国立感染症研究所の前身) で血清の研究を進める(~1957年)
・1957年(昭和32) 東京大学で医学博士号を授与され、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国カリフォルニア工科大学へ研究留学する(~1959年)
・1962年(昭和37) コロラド大学附属デンバー病院ぜん息研究所病院の助教授職 (小児科) を務める(~1970年)
・1966年(昭和41) 石坂公成との連名で免疫抗体Eの発見を発表、世界のアレルギー研究に大きな突破口をもたらす
・1970年(昭和45) 2度目の渡米をする
・1972年(昭和47) パサノ賞(石坂公成と共同)を受賞する
・1973年(昭和48) 朝日賞、ガードナー国際賞を受賞する
・1979年(昭和54) ジョンズ・ホプキンズ大学教授に就任、ラホイヤ研究所のアレルギー部長とカリフォルニア工科大学教授を兼務する
・1989年(平成元) ラホイヤ研究所 (LJI、旧 LIAI) で研究施設を開設する
・1990年(平成2) 女性初のベーリング・北里賞を受賞する
・1995年(平成7) 肥満細胞の培養に成功、日本アレルギー協会は免疫グロブリンE発見を発表した日付を記念日とし、石坂夫妻を顕彰する
・2004年(平成16) 「American Men and Women of Science」誌に現役の優れた生物学者として掲載される
・2019年(平成31)6月4日 山形県山形市において、肺炎のため、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1902年(明治35)「足尾台風」が襲来し、主に関東地方から東北地方南部にかけて大きな被害をもたらす詳細
1912年(大正元)小説家大原富枝の誕生日詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1964年(昭和39)琵琶湖を初めて横断する琵琶湖大橋が開通する詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細