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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、野田醤油労働組合が全員参加の無期限ストライキ(第2次野田醤油労働争議)に突入した日です。
 野田醤油労働争議(のだしょうゆ ろうどうそうぎ)は、千葉県東葛飾郡野田町(現在の野田市)にある野田醤油株式会社(現在のキッコーマン)において、1922年(大正11)~1928年(昭和3)にかけて、連続的に闘われた労働争議でした。1921年(大正10)に、野田醤油労働組合が結成され、日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属します。
 1923年(大正12)3月16日に、組合員2,600人がストライキに突入(第1次争議)し、4月12日には、労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられ、作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、争議が終わりました。その後、1927年(昭和2)4月に、野田醤油労働組合は、会社に賃上げなどを要求しましたが交渉は決裂、会社側は露骨な組合切りくずしを始めたため、同年9月16日に、労働者1,358人は、待遇改善を再度求めて、全員参加の無期限ストライキに突入(第2次争議)します。
 会社側は、ストライキ参加者1,047名を解雇し、町の諸機関、警察、暴力団などを利用して弾圧を開始しました。組合側はこれに対抗して、日本労働総同盟(総同盟)の全面指導下に闘争を展開し、児童の同盟休校、醤油不買などを展開し、欲年3月20日には、東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による昭和天皇への直訴事件も起きます。
 その後、双方の調停役を務める協調会が斡旋し千葉県知事が立ちあって労使双方による交渉が持たれ、4月20日のストライキ勃発から216日目に、300人の再雇用と解雇手当総額45万円を内容とした「野田醤油問題解決協定」が成立し、組合側の惨敗で終了しました。4月30日には、争議団は解散を決議し、総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部は壊滅しています。
 尚、『文藝戦線』1928年2月号に、黒島伝治と鶴田知也の共同執筆で、「野田争議の実状」というルポが発表され、さらに同誌の1929年4月号に、黒島伝治が「野田争議敗戦まで」を書いて、その争議の実状が流布されました。

〇黒島伝治著「野田争議敗戦まで」(抜粋)

 一昨年の九月十六日大争議が勃発すると、会社は組合を叩き潰すことに、全力を傾注した。それから組合は、田中内閣の極端な反動政策と必死になった会社の圧迫、堕落幹部の裏切に耐え、二百十七日間頑張った。会社は反動団体の暴力を利用して組合員がそれに応じると、官権の峻厳な取締によって、争議団を崩壊させようとしたり、スパイを使って組合を切崩そうとしたり、組合員の食糧庫である購買組合を遠島某に大部の金を掴まして差押えさせたり、附近の村から新工員を募って、事業を継続するなど、約二百円の金を費って、組合叩潰しに熱中した。暴力団は争議団の演説会場を攪乱した。それから組合の事務所を叩潰した。ある晩には組合員の三名が、暴漢に鋭利な短刀で刺され、悲鳴が町にこだました。負傷者は医者に連れて行かれて手当を受けたが、不思議な事は、五分も経たない内に、会社から医者へ電話が掛り、傷の軽重を問合せて来たという。暴力団の背後に会社が、糸を繰っていることはこれによっても明白である。四月二十日になって、到頭争議団も屈伏するの止むなきに至った。その前、協調会で取交された覚書は、会社側から云えば、まるで征服者の解決条件である。争議団から云えば戦敗者の屈服的な解決条件であった。七百名の解雇者を出さなければならない。七百名と云えば争議団の殆ど七割である。

☆野田醤油労働争議関係略年表

・1919年(大正8)1月 野田町(当時)に本社・工場を構える野田醤油の労働者1300人が給与と賞与の増額を求めてストライキに入り、賃金増額の要求が拒否されると辞職戦術をとって多数の労働者が転職した
・1921年(大正10)1月 野田醤油労働組合が結成される
・1921年(大正10)12月 日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属する
・1923年(大正12) 工場経営の方針転換に着手する
・1923年(大正12)3月16日 組合員2,600人がストライキに突入する(第1次争議)
・1923年(大正12)4月12日 労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられ、作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、争議が終わる
・1927年(昭和2)4月 野田醤油労働組合は、会社に賃上げなどを要求する
・1927年(昭和2)9月16日 野田醤油会社の労働者1,358人は、待遇改善を再度求めて、全員参加の無期限ストライキに突入する(第2次争議)
・1928年(昭和3)2月 黒島伝治と鶴田知也の共同執筆で、『文藝戦線』1928年2月号に「野田争議の実状」というルポが発表される
・1928年(昭和3)3月 『プロレタリア芸術』1928年3月号に、西沢隆二がこの争議に取材した、「野田へ行く」という短い作品を発表する
・1928年(昭和3)3月20日 東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴事件が突発する
・1928年(昭和3)4月20日 ストライキ勃発から216日目に、300人の再雇用と解雇手当総額45万円を内容とした「野田醤油問題解決協定」が成立し、組合の惨敗で終了する
・1928年(昭和3)4月30日 争議団は解散を決議し、総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部は壊滅する
・1929年(昭和4)4月 黒島伝治が『文芸戦線』1929年4月号に「野田争議敗戦まで」を書く

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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