
加舎白雄(かや しらお)は、江戸時代中期の1738年(元文3年8月20日)に、江戸・深川の上田藩深川抱屋敷において、上田藩江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれましたが、幼名を五郎吉。本名は吉春、また競と言いました。5歳の時に母に死別、16歳の時に俳句を知り、19歳の時に、初めて上田へ移住し、宝暦末期に宗匠の青峨門に入門して舎来と号し、11765年(明和2)の銚子滞在中に、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称するようになります。
1766年(明和3)に、白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚し、翌年には、俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れました。1769年(明和6)に、姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立、1770年(明和7)には、鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、『おもかげ集』を刊行します。
1771年(明和8)に上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行しました。1772年(安永元)に伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰り、翌年には、斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出ています。
1775年(安永4)に海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚、1779年(安永8)に初めて白雄の号を使うようになり、翌年には、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立しました。しかし、1783年(天明3)に春秋庵は火災に遭って復興したものの、1786年(天明6)には再び類焼し、日本橋馬喰町に移転します。
1788年(天明8)に海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、武州毛呂の碩布亭を訪問し、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行しました。1790年(寛政2)に上田へ行って虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑のために揮毫しましたが、翌年9月13日に、江戸・日本橋の春秋庵において、数え年54歳で亡くなっています。
尚、妻帯せず清貧孤高だったものの、門人は、関東から中部地方に4,000人を数え、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われてきました。没後、1793年(寛政5)の三回忌に春秋庵社中が句碑を建立、1798年(寛政10)には、追善集『くろねぎ』が刊行されています。
1771年(明和8)に上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行しました。1772年(安永元)に伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰り、翌年には、斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出ています。
1775年(安永4)に海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚、1779年(安永8)に初めて白雄の号を使うようになり、翌年には、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立しました。しかし、1783年(天明3)に春秋庵は火災に遭って復興したものの、1786年(天明6)には再び類焼し、日本橋馬喰町に移転します。
1788年(天明8)に海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、武州毛呂の碩布亭を訪問し、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行しました。1790年(寛政2)に上田へ行って虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑のために揮毫しましたが、翌年9月13日に、江戸・日本橋の春秋庵において、数え年54歳で亡くなっています。
尚、妻帯せず清貧孤高だったものの、門人は、関東から中部地方に4,000人を数え、俳人として名を知られた者だけでも200人以上いたと言われてきました。没後、1793年(寛政5)の三回忌に春秋庵社中が句碑を建立、1798年(寛政10)には、追善集『くろねぎ』が刊行されています。
<加舎白雄の代表的な句>
・「みちのくの空たよりなや霜の声」
・「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」
・「いなづまやとゞまるところ人のうへ」
・「吹つくし後は草根に秋のかぜ」
〇加舎白雄の主要な著作・編著
・『おもかげ集』(1770年)
・『田毎の春』(1771年)
・俳論書『加佐里那止(かざりなし)』(1771年)
・『春秋稿』(1780年)
・『俳諧寂栞(はいかいさびしおり)』
・『文車(ふぐるま)』
・碩布編『白雄句集』(1793年)
・追善集『くろねぎ』(1798年)
・『寂栞 (さびしおり) 』(1812年)
・『白雄夜話』(1833年)
☆加舎白雄関係略年表(日付は旧暦です)
・1738年(元文3年8月20日) 江戸・深川の上田藩松平家の深川抱屋敷において、信濃国上田藩の江戸詰め藩士であった父・加舎吉亨の二男として生まれる
・1742年(寛保2年) 5歳の時、母に死別する
・1753年(宝暦3年) 16歳の時、俳句を知る
・1756年(宝暦6年) 19歳の時、初めて上田へ移住する
・1762~64年(宝暦末期) 宗匠の青峨門に入門し、舎来と号する
・1765年(明和2年) 銚子滞在中、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称する
・1766年(明和3年) 白井鳥酔 の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏 の家を訪問、その後、地引村(現長生郡長南町)に墓参、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚する
・1767年(明和4年) 俳人として初めて信州を行脚して自藩に入り、上田の小島麦二宅を訪れる
・1768年(明和5年) 宮本虎杖が姨捨山に案内する
・1769年(明和6年) 姨捨山の長楽寺に 芭蕉面影塚を建立する
・1770年(明和7年) 鴫立庵 に滞留後、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵に逗留、記念集『おもかげ集』を刊行する
・1771年(明和8年) 上田で『田毎の春』を刊行、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊び、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出て、加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ね、秋には松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入り、京において俳論書『加佐里那止』を刊行する
・1772年(安永元年) 伊勢神宮内宮で新年を迎え、古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に 「南紀紀行」 の旅に出、松坂から東海道を下り江戸に帰る
・1773年(安永2年) 斗墨、烏光を伴い 「奥羽紀行」 の旅に出る
・1775年(安永4年) 海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営んだ後、鳥明から破門され、江戸を去って甲州を行脚する
・1779年(安永8年) 初めて白雄の号を使う
・1780年(安永9年) 箕田村の桃源庵文郷の許で新春を迎え、江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて自立する
・1782年(天明2年) 海晏寺に白井鳥酔の墓参を行う
・1783年(天明3年) 相模の用田(現藤沢市用田)に門人楚雀を訪問し歌仙を巻き、夏に呉水 を伴い相模の真鶴・厚木を訪ね、呉水を同伴して 小河原雨塘を訪問、春秋庵は火災に遭う
・1784年(天明4年) 呉水を伴ない房総行脚、横芝では坂田小堤村(現在の横芝光町)の神保家を訪ね鳥酔の懐紙を見、呉水を伴なって伊那の中村伯先を訪れ、白井、渋川、引間を訪れた折、大久保の金谷里恭宅に数泊する
・1785年(天明5年) 大輪寺で兄吉重一周忌、虎杖菴に滞留、海晏寺で白井鳥酔十七回忌法要、伯先が芭蕉の句碑を建立に際し揮毫する
・1786年(天明6年) 春秋庵が再び類焼し、日本橋馬喰町移転する
・1788年(天明8年) 蝶夢が訪問、海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を実施、呉水を伴って相模に行脚、八王子に星布を訪ね、松原庵二世の嗣号を許し、武州毛呂の碩布亭を訪問、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行する
・1790年(寛政2年) 兄吉重七周忌に上田へ行き、虎杖菴を訪れ、信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑に揮毫する
・1791年(寛政3年9月13日) 江戸・日本橋の春秋庵において、54歳で亡くなる
・1793年(寛政5年) 三回忌に春秋庵社中は白雄の句碑を建立する