
『更級日記』(さらしなにっき)は、菅原孝標女著の日記文学で、平安時代後期の1060年(康平3)頃に成立したと考えられてきました。1020年(寛仁4)の13歳の秋、父・菅原孝標の任国上総から帰京する旅行記に始まり、少女時代から1058年(康平元)に夫・橘俊通(たちばなとしみち)の亡くなった後までの40年間の身の変化と心境の推移とを回想して記してあります。
全1巻で、特に『源氏物語』への強い憧憬を記しており、非現実的な物語的世界への憧れと浄土欣求の心情が描き出されました。平安時代中期の下級貴族の娘の生活記録としても貴重で、平安女流日記文学の代表作の一つとなっています。
全1巻で、特に『源氏物語』への強い憧憬を記しており、非現実的な物語的世界への憧れと浄土欣求の心情が描き出されました。平安時代中期の下級貴族の娘の生活記録としても貴重で、平安女流日記文学の代表作の一つとなっています。
〇菅原孝標女(すがわらの たかすえの むすめ)とは?
平安時代中期の1008年(寛弘5)に、菅原道真の玄孫(5世の孫)となる父・菅原孝標、母・藤原倫寧の娘の子として生まれましたが、本名は伝わっていません。1017年(寛仁元)の10歳の時、父の任国である上総に下向し、1020年(寛仁4)の13歳の時、父に従って上総国から帰京する旅から、『更級日記』を書き始めます。
以後、父は官途に恵まれず、一家は不如意な生活が続きましたが、1021年(治安元)の14歳の時、叔母から『源氏物語』全巻をもらい、耽読しました。1024年(万寿元)に姉が二女を残して亡くなり、以後、二人の遺児を世話することとなります。
1039年(長暦3)の32歳の時、後朱雀天皇の祐子内親王に仕えたものの、翌年には、橘俊通(たちばなとしみち)と結婚しました。しかし、1041年(長久2)の34歳の時、夫の下野国(栃木県)赴任に同行せず、再出仕して、右中弁源資通(すけみち)と春秋の優劣を語るなどの交流も生まれます。
1045年(寛徳2)に一男(仲俊)を出産し、その他にも二女をもうけました。1057年(天喜5)の50歳の時、夫の俊通は信濃守に任ぜられ、任国に赴任しましたが、再び京に留まり、翌年には、夫は京に戻ったものの、発病して亡くなります。
その後、養育した甥なども離散し、子供達も独立して、孤独になりました。1059年(康平2)以降に亡くなったと思われますが、没年は不詳です。
尚、物語『みづから悔ゆる』、『朝倉』の作者と伝えられていますが、現存していません。他に、『夜の寝覚(夜半の寝覚)』、『浜松中納言物語』の作者とする説も有力であって、物語作者として活躍したことが推測されています。また、和歌については、『新古今集』以下の勅撰集に、15首が入集しました。
1039年(長暦3)の32歳の時、後朱雀天皇の祐子内親王に仕えたものの、翌年には、橘俊通(たちばなとしみち)と結婚しました。しかし、1041年(長久2)の34歳の時、夫の下野国(栃木県)赴任に同行せず、再出仕して、右中弁源資通(すけみち)と春秋の優劣を語るなどの交流も生まれます。
1045年(寛徳2)に一男(仲俊)を出産し、その他にも二女をもうけました。1057年(天喜5)の50歳の時、夫の俊通は信濃守に任ぜられ、任国に赴任しましたが、再び京に留まり、翌年には、夫は京に戻ったものの、発病して亡くなります。
その後、養育した甥なども離散し、子供達も独立して、孤独になりました。1059年(康平2)以降に亡くなったと思われますが、没年は不詳です。
尚、物語『みづから悔ゆる』、『朝倉』の作者と伝えられていますが、現存していません。他に、『夜の寝覚(夜半の寝覚)』、『浜松中納言物語』の作者とする説も有力であって、物語作者として活躍したことが推測されています。また、和歌については、『新古今集』以下の勅撰集に、15首が入集しました。
<代表的な和歌>
・「浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月」(新古今集)
・「天のとを雲ゐながらもよそにみて昔の跡をこふる月かな」(新勅撰集)
・「月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」(更級日記)
☆菅原孝標女関係略年表
・1008年(寛弘5) 菅原道真の玄孫となる父・菅原孝標、母・藤原倫寧の娘の子として生まれる
・1017年(寛仁元) 10歳のとき,父の任国である上総に下向する
・1020年(寛仁4) 13歳の時、父に従って上総国から上京して『更級日記』を書き始める
・1021年(治安元) 14歳の時、叔母から『源氏物語』全巻をもらい、耽読する
・1024年(万寿元) 姉が二女を残して亡くなり、二人の遺児の世話をする
・1039年(長暦3) 32歳の時、後朱雀天皇の祐子内親王に仕える
・1040年(長久元) 33歳の時、橘俊通と結婚する
・1041年(長久2) 34歳の時、夫の下野国(栃木県)赴任に同行せず、再出仕する
・1042年(長久3) 右中弁源資通(すけみち)と春秋の優劣を語る
・1045年(寛徳2) 一男(仲俊)を設ける
・1057年(天喜5) 50歳の時、夫の俊通は信濃守に任ぜられ、任国に赴任したが、作者は再び京に留まる
・1058年(康平元) 51歳の時、夫・橘俊通は京に戻ったが、発病して亡くなる
・1059年(康平2)以降 亡くなる(没年不詳)