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 今日は、江戸時代中期の俳人・蕉風復興運動の中心者加藤暁台の生まれた日ですが、新暦では10月19日となります。
 加藤暁台(かとう きょうたい)は、尾張藩士岸上林右衛門の子として名古屋に生まれましたが、名は周挙(かねたか)と言いました。同藩士加藤仲右衛門の養子となり、加藤姓となり、17歳で尾張徳川家に出仕し、江戸の尾張藩邸において右筆部屋総帳方を務めます。
 俳諧は、1751年(宝暦元)頃に、武藤巴雀の門に入って他朗と号し、翌年に巴雀が亡くなると、その子白尼に師事し、買夜(ばいや)と号しました。1759年(宝暦9)の28歳の時、致仕して脱藩し、江戸を去って、俳諧に専念するようになります。
 名古屋を中心に「暮雨巷(ぼうこう)」と称する一派を形成、1763年(宝暦13)に、記念集『蛙啼集』を出し、始めて暁台を名乗り、1768年(明和5)には、『姑射文庫』を刊行し、明和年間に至って、名古屋前津に竜門と称する庵を結びました。1770年(明和7)に名古屋を立ち、芭蕉の『奥の細道』の跡を辿り、『しをり萩』を出し、1772年(安永元)には、『秋の日』(暁台編・也有序)を刊行して、蕉風復興の意図を明らかにします。
 安永年間(1772~81年)に、与謝蕪村一派と交遊して、中興俳諧の一中心となり、『去来抄』、『熱田三歌仙』(共に1775年)を世に紹介するに至りました。1783年(天明3)には、湖南幻住庵(義仲寺)、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3ヶ所において、芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行します。
 1790年(寛政2)に、京都二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受け、名声を高めました。高雅優美で多様な作風を示し、蕪村と並んで中興俳諧の代表的俳人とされましたが、1792年(寛政4年1月20日)に、京都において、数え年61歳で亡くなり、翌年には、一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)が出されています。

<加藤暁台の代表的な句>

・「秋の雨 ものうき顔に かかるなり」
・「秋の蚊や 香の煙の 前を行く」
・「あら海や 波をはなれて 秋の雲」
・「人の親の 焼野のきゝす うちにけり」
・「桐の花 寺は桂の 町はづれ」
・「馬の尾を むすび揚げたる 雪間かな」
・「梅林に 夜のほこりや 薄曇り」(辞世)

〇加藤暁台の主要な著作

・編著『蛙啼 (あてい) 集』(1763年)
・連句集『秋の日』(1772年)
・編著『風羅念仏 (ふうらねんぶつ) 』(1782~83年)
・『暁台句集』桜田臥央編(1809年)

☆加藤暁台関係略年表(日付は旧暦です)

・1732年(享保17年9月1日) 尾張藩士岸上林右衛門の子として名古屋に生まれる
・1748年(延享5年) 17歳の時、尾張徳川家に出仕する
・1751年(宝暦元年) 20歳の頃、武藤巴雀の門に入る
・1752年(宝暦2年) 21歳の時、武藤巴雀が亡くなり、その子白尼に師事する
・1759年(宝暦9年) 28歳の時、致仕して脱藩し、江戸を去る
・1762年(宝暦12年10月) 矢作の橋守園連中は聖願寺十王堂に蛙塚を建立。買夜(暁台の前号)書。「古池や蛙飛込む水のおと」
・1763年(宝暦13年) 記念集『蛙啼集』(暁台自序)を出し、始めて暁台を名乗る
・1765年(明和2年秋) 信濃路・武蔵野の旅をする。也有の紹介で鴻巣の布袋庵を訪ねる
・1768年(明和5年) 『姑射文庫』を刊行する
・1770年(明和7年3月16日) 名古屋を立ち、芭蕉の『奥の細道』の跡を辿る。『送別しをり萩』、『二編しをり萩』。仙台を訪れ、山田丈芝と出会う。
・1772年(安永元年12月) 『秋の日』(暁台編・也有序)を刊行する
・1773年(安永2年春) 丈芝は名古屋へ赴き暁台に俳諧を学ぶ
・1774年(安永3年4月) 暁台は丈芝を伴って上京。7日、夜半亭興行。夏四月七日、於夜半亭興行 長安萬戸子規一聲
・1774年(安永3年9月) 加藤暁台は義仲寺の幻住庵に滞在。蕪村来訪。
・1775年(安永4年3月) 加藤暁台は『去来抄』(去来著)板行。暁台序、士朗跋。
・1775年(安永4年5月) 『熱田三歌仙』(暁台編)自序。
・1775年(安永4年6月12日) 暁台は出雲崎から佐渡へ渡る。29日、出雲崎に戻る。
・1776年(安永5年2月) 暁台は上京。蕪村を訪ね、伏見・嵯峨に遊ぶ
・1781年(天明元年) 加藤暁台は江戸に出て、周辺を遊歴する
・1782年(天明2年) 隅田川西岸再可子の楼上で新年を迎え、『風羅念仏』(房総の巻)を刊行する
・1782年(天明2年9月) 加藤暁台は再度白川の関を越えて奥州に入る
・1783年(天明3年3月2日) 加藤暁台は上京。湖南幻住庵、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3ケ所で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行、『風羅念仏』(法会の巻)を刊行する
・1783年(天明3年秋) 加藤暁台は信濃から甲斐に赴き、可都里を訪ねている
・1783年(天明3年冬) 加藤暁台は上田に来遊、大輪寺で歌仙を巻く
・1786年(天明6年8月1日) 母を喪う
・1786年(天明6年9月9日 大津に遊ぶ
・1787年(天明7年) 栗田樗堂は京都・大和・尾張を巡る。『爪しるし』暮雨奄暁台序
・1790年(寛政2年) 京都二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受ける
・1792年(寛政4年1月20日) 京都において、数え年61歳で亡くなる
・1793年(寛政5年) 一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)が出される
・1799年(寛政11年) 『幽蘭集』(暁台編・臥央校)が出される
・1801年(亨和元年8月) 尾張国春日井郡内津村に暁台の句碑「人の親の焼野のきゝすうちにけり」が建立される
・1809年(文化6年) 『暁台句集』(臥央編・士朗序。自跋)刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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