ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年07月

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 今日は、江戸時代後期の1825年(文政8)に、江戸中村座で鶴屋南北(四代目)作の『東海道四谷怪談』が初演された日ですが、新暦では9月8日となります。
 『東海道四谷怪談』(とうかいどうよつやかいだん)は、鶴屋南北(四代目)作の歌舞伎脚本で、通称「四谷怪談」とも呼ばれてきました。世話物で、5幕11場からなり、1825年(文政8年7月26日)に、江戸中村座で、3世尾上菊五郎(お岩・小平・与茂七役)、7世市川団十郎(伊右衛門役)、5世松本幸四郎(直助権兵衛役)らにより、初演されています。
寛文年間(1661~73年)に四谷左門町に住んでいた田宮又左衛門の娘お岩が嫉妬によってたたりをなしたという巷説などを素材としたもので、塩冶えんや家の浪人民谷伊右衛門は、仲間とともに立身のために妻お岩の毒殺をはかり、憤死させるが、その怨霊にたたられて破滅するというストーリーでした。怪談物の代表作とされ、お岩の髪梳きの場、戸板返しの場など、舞台効果にも富んでいます。

〇鶴屋 南北(四代目)(つるや なんぼく)とは?

 江戸時代の歌舞伎作者です。江戸時代中期の1755年(宝暦5)に江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれたとされますが、本名は伊之助または勝次郎と言いました。
 生来の芝居好きで、20代初めに狂言作者を志し、1776年(安永5)に初代桜田治助の門に入り、翌年には、初世桜田治助の苗字をもらい桜田兵蔵の名で番付に載ります。1782年(天明2)に、道化方の俳優三世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のり、1786年(天明6)から狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められました。
 1797年(寛政9)に三世坂東彦三郎付きの作者となり、1799年(寛政10)の5歳の時、立作者となります。1803年(享和3)の49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書き、翌年の江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなりました。
 1805年(享和5)に河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させ、1806年(享和6)には五世松本幸四郎一座の立作者となります。1808年(文化5)に市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成させ、1811年(文化8)には、四代目鶴屋南北を襲名しました。
 以後、25年間に五世松本幸四郎、五世岩井半四郎、三世尾上菊五郎のため、120編の作品を書き、中でも1825年(文政8)の『東海道四谷怪談』は代表作とされます。生世話(きぜわ)に巧みで、趣向に富むとされたものの、1829年(文政12)に『金幣猿島郡』を一世一代として引退、同年11月27日に江戸において、75歳で亡くなりました。
 尚、一般的に鶴屋南北といえば、四代目を指し、大南北と呼ばれ、孫の五代目は小南北とも呼ばれています。 

〇中村座(なかむらざ)とは?

 江戸にあった歌舞伎劇場で、市村座、森田座(のち守田座)と共に、江戸三座と呼ばれています。江戸時代前期の1624年(寛永元)に、猿若勘三郎(初世中村勘三郎)が猿若座と称して中橋広小路に創設し、後に中村座と改称されました。
 禰宜町、堺町を経て、1842年(天保13)に浅草猿若町へ移転し、1876年(明治9)に休座、のち都座、猿若座、中村座、鳥越座と名称をかえて、何度か再興したものの、長続きせず、1893年(明治26)に焼失して廃座となっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1651年(慶安4)軍学者・慶安の変の首謀者由比正雪が自害する(新暦9月10日)詳細
1881年(明治14)劇作家・演出家小山内薫の誕生日詳細
1940年(昭和15)第2次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)で協議の上、ポツダム宣言が出される詳細
1981年(昭和56)全国8番目の地下鉄として、福岡市地下鉄初の天神駅~室見駅間(1号線)が開業する詳細
1992年(平成4)将棋棋士・15世永世名人大山康晴の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」に日本が批准し、日本において発効した日です。
 「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(じょしにたいするあらゆるけいたいのさべつのてっぱいにかんするじょうやく)は、政治参加、国籍、教育、雇用、保健、経済・社会活動など女性に対するあらゆる形態の差別を撤廃するための措置を規定した条約で、「女子差別撤廃条約(婦人差別撤廃条約)」とも呼ばれてきました。「国連憲章」「世界人権宣言」「国際人権規約」の人権尊重を基調にして、1967年(昭和42)に採択された「女子に対する差別撤廃宣言」を充実するため、1979年(昭和54)の国連第34回総会で採択され、1981年(昭和56)に発効し、1982年(昭和57)には国連内に、各国における差別撤廃の進捗状況を審査する女子差別撤廃委員会が設置されます。
 日本では1980年(昭和55)に署名し、1984年(昭和59)の「国籍法」改正,1985年(昭和60)の「男女雇用機会均等法」制定、家庭科教育の見直しなどの後、同年7月25日に批准して、国内で発効しました。前文および30ヶ条から成り、政治的・経済的・社会的・文化的・市民的その他のあらゆる分野における男女同権を達成するために教育の分野も含めて、性差別の撤廃を規定し、締約国は女子に対するあらゆる差別を撤廃する政策を追求することに合意し、そのためのあらゆる適当な手段を遅滞なくとることが義務づけられています。2014年(平成26)9月現在、署名国は98ヶ国、締約国は189ヶ国となりました。
 以下に、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」の日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」1979年(昭和54)の国連第34回総会で採択、1981年(昭和56)発効

この条約の締約国は,
国際連合憲章が基本的人権,人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認していることに留意し,
世界人権宣言が,差別は容認することができないものであるとの原則を確認していること,並びにすべての人間は生まれながらにして自由であり,かつ,尊厳及び権利について平等であること並びにすべての人は性による差別その他のいかなる差別もなしに同宣言に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることを宣明していることに留意し,
人権に関する国際規約の締約国がすべての経済的,社会的,文化的,市民的及び政治的権利の享有について男女に平等の権利を確保する義務を負っていることに留意し,
国際連合及び専門機関の主催の下に各国が締結した男女の権利の平等を促進するための国際条約を考慮し,
更に,国際連合及び専門機関が採択した男女の権利の平等を促進するための決議,宣言及び勧告に留意し,
しかしながら,これらの種々の文書にもかかわらず女子に対する差別が依然として広範に存在していることを憂慮し,
女子に対する差別は,権利の平等の原則及び人間の尊厳の尊重の原則に反するものであり,女子が男子と平等の条件で自国の政治的,社会的,経済的及び文化的活動に参加する上で障害となるものであり,社会及び家族の繁栄の増進を阻害するものであり,また,女子の潜在能力を自国及び人類に役立てるために完全に開発することを一層困難にするものであることを想起し,
窮乏の状況においては,女子が食糧,健康,教育,雇用のための訓練及び機会並びに他の必要とするものを享受する機会が最も少ないことを憂慮し,
衡平及び正義に基づく新たな国際経済秩序の確立が男女の平等の促進に大きく貢献することを確信し,
アパルトヘイト,あらゆる形態の人種主義,人種差別,植民地主義,新植民地主義,侵略,外国による占領及び支配並びに内政干渉の根絶が男女の権利の完全な享有に不可欠であることを強調し,
国際の平和及び安全を強化し,国際緊張を緩和し,すべての国(社会体制及び経済体制のいかんを問わない。)の間で相互に協力し,全面的かつ完全な軍備縮小を達成し,特に厳重かつ効果的な国際管理の下での核軍備の縮小を達成し,諸国間の関係における正義,平等及び互恵の原則を確認し,外国の支配の下,植民地支配の下又は外国の占領の下にある人民の自決の権利及び人民の独立の権利を実現し並びに国の主権及び領土保全を尊重することが,社会の進歩及び発展を促進し,ひいては,男女の完全な平等の達成に貢献することを確認し,
国の完全な発展,世界の福祉及び理想とする平和は,あらゆる分野において女子が男子と平等の条件で最大限に参加することを必要としていることを確信し,
家族の福祉及び社会の発展に対する従来完全には認められていなかった女子の大きな貢献,母性の社会的重要性並びに家庭及び子の養育における両親の役割に留意し,また,出産における女子の役割が差別の根拠となるべきではなく,子の養育には男女及び社会全体が共に責任を負うことが必要であることを認識し,
社会及び家庭における男子の伝統的役割を女子の役割とともに変更することが男女の完全な平等の達成に必要であることを認識し,
女子に対する差別の撤廃に関する宣言に掲げられている諸原則を実施すること及びこのために女子に対するあらゆる形態の差別を撤廃するための必要な措置をとることを決意して,
次のとおり協定した。

第1部

第1条
この条約の適用上,「女子に対する差別」とは,性に基づく区別,排除又は制限であつて,政治的,経済的,社会的,文化的,市民的その他のいかなる分野においても,女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し,享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう。

第2条
締約国は,女子に対するあらゆる形態の差別を非難し,女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により,かつ,遅滞なく追求することに合意し,及びこのため次のことを約束する。
(a) 男女の平等の原則が自国の憲法その他の適当な法令に組み入れられていない場合にはこれを定め,かつ,男女の平等の原則の実際的な実現を法律その他の適当な手段により確保すること。
(b) 女子に対するすべての差別を禁止する適当な立法その他の措置(適当な場合には制裁を含む。)をとること。
(c) 女子の権利の法的な保護を男子との平等を基礎として確立し,かつ,権限のある自国の裁判所その他の公の機関を通じて差別となるいかなる行為からも女子を効果的に保護することを確保すること。
(d) 女子に対する差別となるいかなる行為又は慣行も差し控え,かつ,公の当局及び機関がこの義務に従って行動することを確保すること。
(e) 個人,団体又は企業による女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとること。
(f) 女子に対する差別となる既存の法律,規則,慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること。
(g) 女子に対する差別となる自国のすべての刑罰規定を廃止すること。

第3条
締約国は,あらゆる分野,特に,政治的,社会的,経済的及び文化的分野において,女子に対して男子との平等を基礎として人権及び基本的自由を行使し及び享有することを保障することを目的として,女子の完全な能力開発及び向上を確保するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとる。

第4条
締約国が男女の事実上の平等を促進することを目的とする暫定的な特別措置をとることは,この条約に定義する差別と解してはならない。ただし,その結果としていかなる意味においても不平等な又は別個の基準を維持し続けることとなってはならず,これらの措置は,機会及び待遇の平等の目的が達成された時に廃止されなければならない。
締約国が母性を保護することを目的とする特別措置(この条約に規定する措置を含む。)をとることは,差別と解してはならない。

第5条
締約国は,次の目的のためのすべての適当な措置をとる。
(a) 両性いずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため,男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること。
(b) 家庭についての教育に,社会的機能としての母性についての適正な理解並びに子の養育及び発育における男女の共同責任についての認識を含めることを確保すること。あらゆる場合において,子の利益は最初に考慮するものとする。

第6条
締約国は,あらゆる形態の女子の売買及び女子の売春からの搾取を禁止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとる。

第2部

第7条
締約国は,自国の政治的及び公的活動における女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし,特に,女子に対して男子と平等の条件で次の権利を確保する。
(a) あらゆる選挙及び国民投票において投票する権利並びにすべての公選による機関に選挙される資格を有する権利
(b) 政府の政策の策定及び実施に参加する権利並びに政府のすべての段階において公職に就き及びすべての公務を遂行する権利
(c) 自国の公的又は政治的活動に関係のある非政府機関及び非政府団体に参加する権利

第8条
締約国は,国際的に自国政府を代表し及び国際機関の活動に参加する機会を,女子に対して男子と平等の条件でかついかなる差別もなく確保するためのすべての適当な措置をとる。

第9条
締約国は,国籍の取得,変更及び保持に関し,女子に対して男子と平等の権利を与える。締約国は,特に,外国人との婚姻又は婚姻中の夫の国籍の変更が,自動的に妻の国籍を変更し,妻を無国籍にし又は夫の国籍を妻に強制することとならないことを確保する。
締約国は,子の国籍に関し,女子に対して男子と平等の権利を与える。

第3部

第10条
締約国は,教育の分野において,女子に対して男子と平等の権利を確保することを目的として,特に,男女の平等を基礎として次のことを確保することを目的として,女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。
(a) 農村及び都市のあらゆる種類の教育施設における職業指導,修学の機会及び資格証書の取得のための同一の条件。このような平等は,就学前教育,普通教育,技術教育,専門教育及び高等技術教育並びにあらゆる種類の職業訓練において確保されなければならない。
(b) 同一の教育課程,同一の試験,同一の水準の資格を有する教育職員並びに同一の質の学校施設及び設備を享受する機会
(c) すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃を,この目的の達成を助長する男女共学その他の種類の教育を奨励することにより,また,特に,教材用図書及び指導計画を改訂すること並びに指導方法を調整することにより行うこと。
(d) 奨学金その他の修学援助を享受する同一の機会
(e) 継続教育計画(成人向けの及び実用的な識字計画を含む。)特に,男女間に存在する教育上の格差をできる限り早期に減少させることを目的とした継続教育計画を利用する同一の機会
(f) 女子の中途退学率を減少させること及び早期に退学した女子のための計画を策定すること。
(g) スポーツ及び体育に積極的に参加する同一の機会
(h) 家族の健康及び福祉の確保に役立つ特定の教育的情報(家族計画に関する情報及び助言を含む。)を享受する機会

第11条
締約国は,男女の平等を基礎として同一の権利,特に次の権利を確保することを目的として,雇用の分野における女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。
(a) すべての人間の奪い得ない権利としての労働の権利
(b) 同一の雇用機会(雇用に関する同一の選考基準の適用を含む。)についての権利
(c) 職業を自由に選択する権利,昇進,雇用の保障並びに労働に係るすべての給付及び条件についての権利並びに職業訓練及び再訓練(見習,上級職業訓練及び継続的訓練を含む。)を受ける権利
(d) 同一価値の労働についての同一報酬(手当を含む。)及び同一待遇についての権利並びに労働の質の評価に関する取扱いの平等についての権利
(e) 社会保障(特に,退職,失業,傷病,障害,老齢その他の労働不能の場合における社会保障)についての権利及び有給休暇についての権利
(f) 作業条件に係る健康の保護及び安全(生殖機能の保護を含む。)についての権利
締約国は,婚姻又は母性を理由とする女子に対する差別を防止し,かつ,女子に対して実効的な労働の権利を確保するため,次のことを目的とする適当な措置をとる。
(a) 妊娠又は母性休暇を理由とする解雇及び婚姻をしているかいないかに基づく差別的解雇を制裁を課して禁止すること。
(b) 給料又はこれに準ずる社会的給付を伴い,かつ,従前の雇用関係,先任及び社会保障上の利益の喪失を伴わない母性休暇を導入すること。
(c) 親が家庭責任と職業上の責務及び社会的活動への参加とを両立させることを可能とするために必要な補助的な社会的サービスの提供を,特に保育施設網の設置及び充実を促進することにより奨励すること。
(d) 妊娠中の女子に有害であることが証明されている種類の作業においては,当該女子に対して特別の保護を与えること。
この条に規定する事項に関する保護法令は,科学上及び技術上の知識に基づき定期的に検討するものとし,必要に応じて,修正し,廃止し,又はその適用を拡大する。

第12条
締約国は,男女の平等を基礎として保健サービス(家族計画に関連するものを含む。)を享受する機会を確保することを目的として,保健の分野における女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。
1の規定にかかわらず,締約国は,女子に対し,妊娠,分べん及び産後の期間中の適当なサービス(必要な場合には無料にする。)並びに妊娠及び授乳の期間中の適当な栄養を確保する。

第13条
締約国は,男女の平等を基礎として同一の権利,特に次の権利を確保することを目的として,他の経済的及び社会的活動の分野における女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。
(a) 家族給付についての権利
(b) 銀行貸付け,抵当その他の形態の金融上の信用についての権利
(c) レクリエーション,スポーツ及びあらゆる側面における文化的活動に参加する権利

第14条
締約国は,農村の女子が直面する特別の問題及び家族の経済的生存のために果たしている重要な役割(貨幣化されていない経済の部門における労働を含む。)を考慮に入れるものとし,農村の女子に対するこの条約の適用を確保するためのすべての適当な措置をとる。
締約国は,男女の平等を基礎として農村の女子が農村の開発に参加すること及びその開発から生ずる利益を受けることを確保することを目的として,農村の女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし,特に,これらの女子に対して次の権利を確保する。
(a) すべての段階における開発計画の作成及び実施に参加する権利
(b) 適当な保健サービス(家族計画に関する情報,カウンセリング及びサービスを含む。)を享受する権利
(c) 社会保障制度から直接に利益を享受する権利
(d) 技術的な能力を高めるために,あらゆる種類(正規であるかないかを問わない。)の訓練及び教育(実用的な識字に関するものを含む。)並びに,特に,すべての地域サービス及び普及サービスからの利益を享受する権利
(e) 経済分野における平等な機会を雇用又は自営を通じて得るために,自助的集団及び協同組合を組織する権利
(f) あらゆる地域活動に参加する権利
(g) 農業信用及び貸付け,流通機構並びに適当な技術を利用する権利並びに土地及び農地の改革並びに入植計画において平等な待遇を享受する権利
(h) 適当な生活条件(特に,住居,衛生,電力及び水の供給,運輸並びに通信に関する条件)を享受する権利

第4部

第15条
締約国は,女子に対し,法律の前の男子との平等を認める。
締約国は,女子に対し,民事に関して男子と同一の法的能力を与えるものとし,また,この能力を行使する同一の機会を与える。特に,締約国は,契約を締結し及び財産を管理することにつき女子に対して男子と平等の権利を与えるものとし,裁判所における手続のすべての段階において女子を男子と平等に取り扱う。
締約国は,女子の法的能力を制限するような法的効果を有するすべての契約及び他のすべての私的文書(種類のいかんを問わない。)を無効とすることに同意する。
締約国は,個人の移動並びに居所及び住所の選択の自由に関する法律において男女に同一の権利を与える。

第16条
締約国は,婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし,特に,男女の平等を基礎として次のことを確保する。
(a) 婚姻をする同一の権利
(b) 自由に配偶者を選択し及び自由かつ完全な合意のみにより婚姻をする同一の権利
(c) 婚姻中及び婚姻の解消の際の同一の権利及び責任
(d) 子に関する事項についての親(婚姻をしているかいないかを問わない。)としての同一の権利及び責任。あらゆる場合において,子の利益は至上である。
(e) 子の数及び出産の間隔を自由にかつ責任をもって決定する同一の権利並びにこれらの権利の行使を可能にする情報,教育及び手段を享受する同一の権利
(f) 子の後見及び養子縁組又は国内法令にこれらに類する制度が存在する場合にはその制度に係る同一の権利及び責任。あらゆる場合において,子の利益は至上である。
(g) 夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)
(h) 無償であるか有償であるかを問わず,財産を所有し,取得し,運用し,管理し,利用し及び処分することに関する配偶者双方の同一の権利
児童の婚約及び婚姻は,法的効果を有しないものとし,また,婚姻最低年齢を定め及び公の登録所への婚姻の登録を義務付けるためのすべての必要な措置(立法を含む。)がとられなければならない。

第5部

第17条
この条約の実施に関する進捗状況を検討するために,女子に対する差別の撤廃に関する委員会(以下「委員会」という。)を設置する。委員会は,この条約の効力発生の時は18人の,35番目の締約国による批准又は加入の後は23人の徳望が高く,かつ,この条約が対象とする分野において十分な能力を有する専門家で構成する。委員は,締約国の国民の中から締約国により選出するものとし,個人の資格で職務を遂行する。その選出に当たっては,委員の配分が地理的に衡平に行われること並びに異なる文明形態及び主要な法体系が代表されることを考慮に入れる。
委員会の委員は,締約国により指名された者の名簿の中から秘密投票により選出される。各締約国は,自国民の中から1人を指名することができる。
委員会の委員の最初の選挙は,この条約の効力発生の日の後6箇月を経過した時に行う。国際連合事務総長は,委員会の委員の選挙の日の遅くとも3箇月前までに,締約国に対し,自国が指名する者の氏名を2箇月以内に提出するよう書簡で要請する。同事務総長は,指名された者のアルファベット順による名簿(これらの者を指名した締約国名を表示した名簿とする。)を作成し,締約国に送付する。
委員会の委員の選挙は,国際連合事務総長により国際連合本部に招集される締約国の会合において行う。この会合は,締約国の3分の2をもって定足数とする。この会合においては,出席し,かつ投票する締約国の代表によって投じられた票の最多数で,かつ,過半数の票を得た指名された者をもって委員会に選出された委員とする。
委員会の委員は,4年の任期で選出される。ただし,最初の選挙において選出された委員のうち9人の委員の任期は,2年で終了するものとし,これらの9人の委員は,最初の選挙の後直ちに,委員会の委員長によりくじ引で選ばれる。
委員会の5人の追加的な委員の選挙は,35番目の批准又は加入の後,2から4までの規定に従って行う。この時に選出された追加的な委員のうち2人の委員の任期は,2年で終了するものとし,これらの2人の委員は,委員会の委員長によりくじ引で選ばれる。
締約国は,自国の専門家が委員会の委員としての職務を遂行することができなくなった場合には,その空席を補充するため,委員会の承認を条件として自国民の中から他の専門家を任命する。
委員会の委員は,国際連合総会が委員会の任務の重要性を考慮して決定する条件に従い,同総会の承認を得て,国際連合の財源から報酬を受ける。
国際連合事務総長は,委員会がこの条約に定める任務を効果的に遂行するために必要な職員及び便益を提供する。

第18条
締約国は,次の場合に,この条約の実施のためにとった立法上,司法上,行政上その他の措置及びこれらの措置によりもたらされた進歩に関する報告を,委員会による検討のため,国際連合事務総長に提出することを約束する。
(a) 当該締約国についてこの条約が効力を生ずる時から1年以内
(b) その後は少なくとも4年ごと,更には委員会が要請するとき。
報告には,この条約に基づく義務の履行の程度に影響を及ぼす要因及び障害を記載することができる。

第19条
委員会は,手続規則を採択する。
委員会は,役員を2年の任期で選出する。

第20条
委員会は,第18条の規定により提出される報告を検討するために原則として毎年2週間を超えない期間会合する。
委員会の会合は,原則として,国際連合本部又は委員会が決定する他の適当な場所において開催する。

第21条
委員会は,その活動につき経済社会理事会を通じて毎年国際連合総会に報告するものとし,また,締約国から得た報告及び情報の検討に基づく提案及び一般的な性格を有する勧告を行うことができる。これらの提案及び一般的な性格を有する勧告は,締約国から意見がある場合にはその意見とともに,委員会の報告に記載する。
国際連合事務総長は,委員会の報告を,情報用として,婦人の地位委員会に送付する。

第22条
専門機関は,その任務の範囲内にある事項に関するこの条約の規定の実施についての検討に際し,代表を出す権利を有する。委員会は,専門機関に対し,その任務の範囲内にある事項に関するこの条約の実施について報告を提出するよう要請することができる。

第6部

第23条
この条約のいかなる規定も,次のものに含まれる規定であって男女の平等の達成に一層貢献するものに影響を及ぼすものではない。
(a) 締約国の法令
(b) 締約国について効力を有する他の国際条約又は国際協定
第24条
締約国は,自国においてこの条約の認める権利の完全な実現を達成するためのすべての必要な措置をとることを約束する。

第25条
この条約は,すべての国による署名のために開放しておく。
国際連合事務総長は,この条約の寄託者として指定される。
この条約は,批准されなければならない。批准書は,国際連合事務総長に寄託する。
この条約は,すべての国による加入のために開放しておく。加入は,加入書を国際連合事務総長に寄託することによって行う。

第26条
いずれの締約国も,国際連合事務総長にあてた書面による通告により,いつでもこの条約の改正を要請することができる。
国際連合総会は,1の要請に関してとるべき措置があるときは,その措置を決定する。

第27条
この条約は,20番目の批准書又は加入書が国際連合事務総長に寄託された日の後30日目の日に効力を生ずる。
この条約は,20番目の批准書又は加入書が寄託された後に批准し又は加入する国については,その批准書又は加入書が寄託された日の後30日目の日に効力を生ずる。

第28条
国際連合事務総長は,批准又は加入の際に行われた留保の書面を受領し,かつ,すべての国に送付する。
この条約の趣旨及び目的と両立しない留保は,認められない。
留保は,国際連合事務総長にあてた通告によりいつでも撤回することができるものとし,同事務総長は,その撤回をすべての国に通報する。このようにして通報された通告は,受領された日に効力を生ずる。

第29条
この条約の解釈又は適用に関する締約国間の紛争で交渉によって解決されないものは,いずれかの紛争当事国の要請により,仲裁に付される。仲裁の要請の日から6箇月以内に仲裁の組織について紛争当事国が合意に達しない場合には,いずれの紛争当事国も,国際司法裁判所規程に従って国際司法裁判所に紛争を付託することができる。
各締約国は,この条約の署名若しくは批准又はこの条約への加入の際に,1の規定に拘束されない旨を宣言することができる。他の締約国は,そのような留保を付した締約国との関係において1の規定に拘束されない。
2の規定に基づいて留保を付した締約国は,国際連合事務総長にあてた通告により,いつでもその留保を撤回することができる。

第30条
この条約は,アラビア語,中国語,英語,フランス語,ロシア語及びスペイン語をひとしく正文とし,国際連合事務総長に寄託する。

以上の証拠として,下名は,正当に委任を受けてこの条約に署名した。

   「外務省ホームページ」より

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 今日は、昭和時代後期の1972年(昭和47)に、 四日市公害訴訟で津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を下した日です。
 四日市公害訴訟(よっかいちこうがいそしょう)は、大気汚染により引き起こされた健康被害に対して公害病認定患者が、四日市石油コンビナート6社を相手どって損害賠償、慰謝料などを請求した訴訟でした。1960年(昭和35)に四日市市塩浜にコンビナートが建設されると、翌年夏から開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状を訴えて駆け込む患者が急増します。
 1964年(昭和39)に東海労働弁護団への相談を契機に、裁判提訴の動きが出ますが、翌年には、磯津地区を中心に塩浜地区、港地区などコンビナート周辺で硫黄酸化物など大気汚染物質により、激しい咳や呼吸困難など呼吸器系の疾患の被害が続出するようになりました。1965年(昭和40)に、“公害病認定制度”が発足したものの、1966年(昭和41)には、公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出ます。
 そこで、1967年(昭和42)9月に、県立塩浜病院入院中の磯津の公害患者9名が原告として第1コンビナート企業6社を相手に裁判を起こしました。その後、審理が続き、1972年(昭和47)7月24日には、津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を出しましたが、原告らの喘息等の疾病と大気汚染との因果関係を肯定し、各工場の大気汚染源の排出と疾病との因果関係については民法第719条1項の共同不法行為の規定を適用してこれを肯定し、さらに被告らの過失をも肯定して、結局被告6社全部に連帯して合計8,800万円余りの損害賠償を支払うよう命じたものです。
 その後、被告である企業は控訴を断念したことにより、判決が確定しました。この判決により、被告の共同不法行為を認めたことは、集合公害救済への道を開くものとなり、国に「公害健康被害補償法」を制定させる契機となるなど、その後の公害被害者の救済面に大きな影響を及ぼします。
 以下に、「四日市公害訴訟津地方裁判所四日市支部判決」(要旨)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「四日市公害訴訟津地方裁判所四日市支部判決」(要旨)1972年(昭和47)7月24日

・判決主文(要旨)

 被告昭和四日市石油、三菱油化、三菱モンサント化成、三菱化成工業、中部電力、石原産業は各自連帯して原告塩野輝美ら十二人に対し計八千八百二十一万一千八百二十三円を支払え。
この判決は仮に執行することができる。

・判決理由(要旨)

第一 不法行為
一 原告らは、四日市市南東部の通称磯津地区の住民であリ、被告ら工場は、鈴鹿川をはさんで磯津地区の西北西ないし北東約四○○ないし二、六○○メートルの間に所在し、石油精製、石油化学製品・化学肥料・酸化チタン等の製造、火力発電などの企業活動をしている。
二 被告ら工揚の設立の経過と稼動状況
1 わが国の石油化学工業は、近代的な石油精製施設を前提として、ここから得られるナフサをおもな原料としているが、その工程は、流体物質を原料とするため、経済的技術的に同一地域内に原料供給部門から各種誘導品製造部門までが体系的・集約的に建設され、各工程間の原科等の供給をパイプで行なうのが合理的である。
しかし、各工程を一企業で行なうのは資金的に困難なので、いくつかの企業が集まって一つの生産上の体系を形成するところとなった。
このようにして、企業集団―コンピナートの出現は、石油化学工業の生成と発展においていわば必然的であった。
2 四日市においては、旧海軍燃科廠跡の払い下げをめぐって各企業間に激しい競争が行なわれたが、昭和三○年に被告化成を筆頭とする三菱グループとシェル石油と資本提携をもつ昭和石油(株)とに、石油化学工業建設の用に供する目的で払い下げられることとなった。
これよリ先、被告化成は、昭和二七年モンサント・ケミカル社との合弁で被告モンサントを設立したが、右払下決定後の昭和三一年四月、他の三菱グループ各社と共同出資してナフサセンターとしての被告油化を設立した。
さらに、昭和三二年に昭和石油とシェル石油で七五パーセント、三菱グル-プ二五パ-セントの出資で被告昭石を設立した。
被告中電三重火力は昭和三○年に建設されたが、四日市第一コンビナ-ト工場群の需要の増大に応えるため、逐次、発電能力を増強していった。
3 被告ら工場は、相互に原料等を供給し、その大部分はパイプによってなされているが、これは、単に輸送の便宜のためにとどまらず、パィプによることが不可欠ともいうべき受け渡しについては、当該被告ら工場が生産活動の面で機能的に緊密に結びついていることを示す。この観点からみると、特に、被告昭石・油化・化成・モンサントの機能的な結合関係が緊密である。
右被告三菱三社は、そのほか資本的人的関連がみられ、かつ、被告油化から他の二社へその工程において必要な蒸気がそれぞれ相当量送られ、または送られていたのであって、右三社の結合関係は、これらの点からも、きわめて緊密である。
4 コンビナートに属するといわれることは、共同不法行為の関連共同性を考えるうえで指標となるものであるが、コンピナートが発展すると、その包合される工場の範囲は必ずしも明確ではなくなリ、また、同じコンビナ-ト構成員といわれても、その結合の程度は異なるから、右関連共同性については具体的な結合関係に即して判断しなければならない。
三 磯津地区におけるばい煙による大気汚染とその原因
1 被告ら工場は、その企業活動を行なうに当リ、それぞれ施設を稼動して原料や燃料を使用し、これに伴って、いおう酸化物等のばい煙を大気中に排出してきた。
そのうち重油等を燃料として使用した過程のみに限っても、昭和三五年ころから同四二年まで被告ら工場の排出したいおう酸化物の量は、約二三万七、一五二トンに達する。
2 三重県立大学医学部は、昭和三五年一一月から四日市市内の大気汚染の測定をしたが、そのうち磯津地区における昭和四二年までのいおう酸化物の測定結果を、六か月ごとの平均をとってみると、○・○五ないし○・一四ppmである。
右測定結果を、いおう酸化物の環境基準値の年平均値と比較すると、比較的濃度の低い五月から一○月までの期間でも右基準値を上回リ、一一月から四月までの平均値は、二ないし三倍近い値を恒常的に示してる。
3 磯津地区における汚染の特徴として、冬期に濃度が増大し、風速が比較的速い四ないし八メートルのときに高濃度の出現頻度が多くなること、濃度の振幅の大きいピーク性汚染が生ずること、およぴいおう酸化物中の硫酸ミストの占める割合が他の汚染都市に比ぺて多いことが挙げられる。
4 磯津地区の大気汚染は、被告ら工場のばい煙が主な原因である。その理由は次のとおリである。
イ 被告ら工場は、磯津の西北西から北東方にわたり、これに近接して所在する。
ロ 被告ら工場を中心とする第一コンビナート工場群が本格的操業にはいったのは、昭和三三ないし三五年ころであるが、四日市で大気汚染が問題にされ、市政の中にとり上げられたのが昭和三五年であリ、両者は時期的に符合する。
ハ 磯津地区におけるいおう酸化物鰻度の経年変化と被告ら工場の排出いおう酸化物量の経年変化とが、資料の存する昭和三六年から四二年までの間において、よく対応している。
ニ 磯津地区では、被告ら工場の主風向下になる冬期において、いおう酸化物濃度が高くなり、反対に被告ら工場の北ないし西方にこれに近接して所在する三浜小学校では、右工場の主風向下になる夏期にいおう酸化物濃度が高くなる。
ホ 四日市におけるいおう酸化物等量線は、磯津地区など被告ら工場に近接した地域に高濃度を示し、そこから遠ざかるに従って濃度がてい減している。
へ 汚染の特徴として、比較的風速の速い時にピーク汚染が現われるのは、コンビナート関係工場の大容量燃焼施設が集中して設置されているため、ばい煙があまり拡散稀釈されないまま主風向に従って競合して流れる、特に比較的風速の速い時に建屋等の風下側に減圧空間を生じ、各工場の排煙が巻き込まれて排出源のよリ近傍に集中的に流れ出るためであると考えられる。
四 原告らの罹愚と大気汚染との関係
1 昭和三七年ころから厚生省、三重県、四日市市の委託等によって、三重県立大学医学部産業医学研究所が主になって四日市市の疾病について疫学調査をした。そのおもなものは、次のとおリである。
イ 四日市市内の種々の汚染段階の地区を選び、国保請求書によって各疾病の罹患率を調査した。
その結果、いおう酸化物濃度が高い地区ほど感冒+気管支炎、咽喉頭炎、気管支ぜんそくの累積罹患率が高くなることが認められ、また、これら疾患の経年変化をみると、昭和三六年以降上昇しており、年齢別には、幼・高齢層に大気汚染の影響がよリ大きいことが認められた。
ロ 厚生省が昭和三九年ころ大阪と四日市において、汚染地区と非汚染地区の四○歳以上の住民を対象として行なったばい煙等影響調査の結果によると、慢性気管支炎症状の有訴症率は、男女とも汚染地区が高く、統計上有意の差が認められ、息切れ・ぜんそく様発作の頻度においては、特に四日市において汚染地区に高い有訴症率が認められた。
右に準じて行なわれた産研・四日市市共同調査においても、同様の結果が認められたが、ぜんそく有訴症者については、汚染地区において五年以内に発病した者の割合が非汚染地区のそれに比べて高率であった。
ハ 学童検診の結果では、汚染地区にある小・中学校の生徒が非汚染校の生徒に比べて気道抵抗が高く、急性呼吸器疾愚による欠席率が高く、呼吸機能の低下傾向が認められた。
ニ 死亡率調査の結果、閉そく性肺疾愚(慢性気管支炎、気管支ぜんそく、肺気腫)による死亡率は、汚染地区において昭和三八年ころから急激に増加して、非汚染地区のそれを上回ってきている。
ホ 磯津の開業医のカルテによる調査およびこれに基づく集団検診の結果によれば、磯津地区においては、気管支ぜんそく患者の発生率が異常に高く、そのうち多数の者がコンピナート稼動後の発病であることが認められた。
へ 公害病認定患者で他に転出した者の病状を調査した結果、大多数の者が経過良好であリ、転地効果が認められた。
また、昭和三五年以後に発病した患者については、空気清浄室の効果が認められた。
2 低濃度いおう酸化物が慢性気管支炎、気管支ぜんそくの原因として作用する機序が、生物学的に矛盾なく説明される。
そのうち気管支ぜんそくについては、いおう酸化物のピーク汚染による過敏性気管支の惹起、あるいは、硫酸ミスト等が気管支粘膜を破壊して抗原性をもち抗体産生が高まり、再度いおう酸化物を吸入することによって抗原抗体反応を起す、と説明されている。
3 亜硫酸ガスは、ばいじん等の他物質と共存することによって、人体への影響力が相乗的に強められる。
また硫酸ミストは、亜硫酸ガスに比べて人体への影響力がずっと大きい。
また、いおう酸化物の人体影響は、すでに閉そく性肺疾愚に躍憩している
既有症者によリ強い影響を及ぼす。
4 動物実験では、カニクイザルやモルモット等を使用した一部否定の実験例もあるが、マウスやラットを用いて、低濃度亜硫酸ガスの慢性暴露により気管や肺組織等に影響を認めた例、汚染地区での野外暴露実験で軽度の気管支炎の罹患等を認めた例、モルモットを用いたぜんそく発作の実験でいおう酸化物の影響を認めた例、人体実験で亜硫酸ガスによる気道抵抗の噌大等の影響を認めた例がある。
5 以上の調査研究の結果によれば、四日市市、特に、磯津地区において昭和三六年ころから閉そく性肺疾患が激増したことは紛れもない事実であるが、その原因は、いおう酸化物を主にして、これとばいじんなどとの相乗効果をもつ大気朽染であると認められる。
このことは、右大気汚染以外に、右疾患の激増という動かし難い事実を説明しうるよリ良い仮説が存在しないことによっても裏付けられる。
6 閉そく性肺疾患の原因に関係のある因子は、大気汚染のほかにも多数あリ、各因子の疾想に及ぽす影響も区々であるが、大気汚染と原告らの罹患または症状増悪との間の因果関係としては、大気汚染がなかったなら、原告らの罹患または症状増悪がなかったと認められるか否かを検討する必要があり、かつ、それでたりる。
そして、原告らおよび亡今村善助・瀬尾富子は、いずれも閉そく性肺疾患に罹患し、または、これによリ死亡しているが、同人らは、いずれも長年の間、磯津地区に居住し大気汚染にさらされてきた者であって、磯津地区集団のもつ疫学的特性をそなえている以上、大気汚染以外の罹患等の因子の影響が強く、大気汚染の有無にかかわらず、罹患または症状増悪をみたであろうと認められるような特段の事情がない限り、大気汚染の影響を認めてよい。
そして、原告らについては、ハウスダスト皮内反応、家族歴をはじめ喫煙等大気汚染以外の因子は、いずれも大気汚染の影響を否定するにたりるほどのものではないことが認められ、これらの事実に担当医師の証言を総合すると・同人らの右疾患の罹患および症状増悪の主要因子は、前記のような大気汚染であると認められる。
五 共同不法行為
1 狭義の共同不法行為における各人の行為と結果との間の因果関係については、各人の行為が、それだけでは結果を発生させない場合においても他の行為と合して結果を発生させ、かつ、当該行為がなかったならば結果が生じなかったであろうと認められればたリる。
そして、共同不法行為の被害者において、加害者の行為の間に関連共同性があることと共同行為によって結果が発生したこととを立証すれば、加害者各人の行為と結果発生との間の因果関係が推定され、加害者において各人の行為と結果との間に因果関係が存在しないことを立証しない限リ責を免れない。
2 関連共同性については、客観的関連共同をもってたりると解されている。
右客観的関連共同の内容は、結果の発生に対して、社会通念上全体として一個の行為と認められる程度の一体性あるを要し、かつ、それでたりると解されるが、本件の場合は、磯津地区に近接して、被告ら工場が順次隣接して旧海軍燃料廠跡を中心に集団的に立地し、時をだいたい同じくして操業を開始し、ばい煙の排出を継続していることによってこれを有すると認められる。
また、各人の行為が、それだけでは結果を発生させないが、他の行為と合してはじめて結果を発生させた場合、関連共同性の内容として、他の原因行為の存在およびこれと合して結果を発生させることの予見可能性を要するが、被告ら工場は隣接しコンビナート関連工場として操業しているからであるから、磯津地区との位置距離関係、気象条件等からして、右の予見可能性があったと認められる。
3 右のような関連共同性をこえて、より緊密な一体性がみられるときは、ある工場のばい煙が少量で、それ自体としては結果との間に因果関係がない場合にも責任を免れないことがある。
被告油化、化成、モンサント三社工場は、前記のように一貫した生産技術体系の各部門を分担し、自社の製造工程に不可欠な蒸気を相当量他から供給を受けるなど機能的、技術的、経済的に緊密な結合関係を有し、他の生産活動を利用し合いながらそれぞれの操業を行なっている。
のみならず、前記のような設立の経過や資本的な関連も認められるのであって、これらの点からすると、右三社のばい煙の排出は強い関連共同性があり、自社のばい煙のみでは結果の発生との間に因果関係が認められない場会にも、他社のばい煙の排出との関係で結呆に対する責任を免れない。
4 被告昭石、中電、石原は、各自のばい煙の磯津到達量が少量で原告らの罹患等との間に因果関係がないと主張するが、認め難い。
また、被告化成、モンサントの同様の主張については、一応これを認めうるが、前記の理由で結局採用できない。
のみならず、同被告らの責任が右のような強い関連共同性に基づくものである以上、その分割責任の主張も理由がない。
第二 貢任および被告らの違法性不存在の主張について
一 戦前におけるわが国のいおう酸化物による煙害事件、亜硫酸ガスによる職業病とその研究例、外国における疫学的研究、日本公衆衛生協会の厚生大臣に対する生活環境許容値の答申などの事実からして、わが国において昭和三○年ころまでに、いおう酸化物によって気管支炎などの健康障害が起ることが知られるようになリ、その濃度として○・一ppmを越えると、右健康に与える影響が問題になりうることが認識可能であった。被告らの操業の内容、資力、設備等からすれば、被告らに右の予見可能性はあったと認められる。
二 石油を原料や燃科として使用し、その生産過程においていおう酸化物などの汚染物質を副生することの避け難い被告ら企業が、新たに工場を建設しようとするとき、特に、本件の場合のようにコンビナ-ト工場群として相前後して集団的に立地しようとするときは、事前に排出物質の質と量、排出施設と居住地区との位置距離関係、気象条件等を総合的に調査研究し、付近住民の生命・身体に危害を及ばすことのないように立地すべき注意義務がある。
また、右のような被告ら企業が操業を継続するに当っては、その排出するばい煙の付近住氏に対する影響の有無を調査し、右ばい煙によって住民の生命・身体が侵害されることのないように操業すべき注意義務があリ、特に、被告ら工場は、操業開始後、逐次施設を増大していったのであるから、なおさら、右の義務が要求されるといわなければならない。
被告らは、これらの調査研究をなさず、漫然と立地し、操業を継続した。
三 本件の場合は、被告ら工場のばい煙が複合して原告らに損害を生ぜしめたものであリ、被告ら工湯がそれぞれ排出基準を遵守していることが窺われることからすると、被告らが、それぞれ故意をもってばい煙の排出をしていたとまでは断じ難い。
四 不法行為の違法性については、被侵害利益などの被害者側の事情と侵害行為などの加害者側の事情とを総合較量し、被害者の被害が、社会通念上受忍すべき限度をこえないときにおいて、違法性が阻却される。
被告ら主張の行為の公共性、排出基準の遵守、揚所的慣行性、先住関係等の事由も、本件の被侵害利益が人の生命・身体というかけがえのない貴重なものであることを考えると、違法性を失わせるものではない。
五 結果回避のための最善(または相当)の防止措置を講じたか否かをもって、直ちに責任の有無を決するのは、損害の公平な分担という不法行為制度の目的に照らして妥当ではなく、他の要素をも総合して受忍限度をこえた損害があったと認められるか否かによって決すべきものである。
そうであるとすれば、前記のような本件被害の重大性からして、被告ら主張の最善の防止措置に前記事由を総合しても、原告らの被害が受忍限度内のものとは解し難い。
六 仮に、最善の防止措置を講じたときは免責されると解するとしても、人の生命・身体に危険のあることを知リうる汚染物質の排出については、企業は、経済性を度外視して、世界最高の技術・知識を動員して防止措置を講ずべきである。
被告らが右のような努力を尽したとは認め難い。
また、被告らが四日市に進出したについては、当時の国や地方公共団体が、経済優先の考え方から公害問題の惹起等に対する調査検討を経ないまま旧海軍燃科廠の払い下げや条例で誘致を奨励するなどの落度があったことは窮われるが、被告らの立地上の過失を否定するにたリない。

第三 損害
一 公害事件における賠償責任の特質として、第一に、被害者と加害者の立場に互換性のないこと、第二に、公害は付近住民にとって回避不可能であること、第三に、被害が広範囲にわたリ社会的影響が大きいとともに、企業側にとって賠償額が莫大になること、第四に、加害行為が企業の利潤追求の過程でなされるのに対し、被害者である付近住民は、右企業の生産活動から直接えられる利益は存しないこと、第五に、被害者の被害の平等性が挙げられているが、この理は本件の場合にも妥当する。
また、賠償責任を考えるうえでの本件疾患の特徴として、本件疾患は、肺気腫を除いて一般に可逆的であるが、根本的治療法がまだなく、対症療法によって苦痛を押えているのが現状であり、一旦、軽快して退院しても、大気汚染が継続する限リ早晩再入院を免れ難いこと等が挙げられる。
二 喪失利益
1 右のような公害事件の特質や本件疾患の特徴等からして、本件の場合は、労働能力の喪失自体をもって損害と認めるのが相当であり、また、全労働者の性別・年齢階級別平均賃金による原告らの損害額の主張にも理由がある。
2 原告らは、すべて塩浜病院に入院しているのであるが、原告らの一部の者は、入院中においても労働に従事し、病院側でも患者の病状等を勘案してこれを黙認していることが窺われ、主治医の証言や鑑定人の鑑定の結果をも総合すると、右入院中であることから労働能力が全くないとすることはできない。
3 労働能力の鑑定の結果に入院中であることから受ける制約を合わせて勘案すると、原告らの労働能力の喪失割合は、人により時期により異なるが、三○パ-セントないし一○○パ-セントであると認められる。
各原告らについて、昭和四○年七月一日以後の喪失利益を、将釆の分についてはホフマン式計算法により中間利息を控除して現在額を算定すると、原告塩野輝美八二七万二、二六五円、同中村栄吉七○九万三、二六○円、同柴崎利明一、一四一万六一五円、同藤田一雄七六一万三、八六五円、同石田かつ一三七万九、○九三円、同野田之一、八八七万五、五九六円、同石田喜知松三○二万二、二一三円、亡今村善助一三七万五、三○五円、亡瀬尾宮子七一五万三五二円である。
三 慰謝料
前記の公害事件の特質や本件疾患の特徴、原告らの被害の程度、過去および将釆にわたる長期間の肉体的精神的苦痛、家庭生活の破壊、その他本件証拠に表われた諸般の事情を総合すると、慰謝料として亡瀬尾宮子に対し五○○万円、亡今村善助に対し四○○万円、原告藤田一雄に対し三○○万円、その他の原告らに対し各二○○万円が相当である。

第四 結 論
よって、被告らは、各自、原告らに対し、右喪失利益およぴ慰謝料の合計額にその一割の弁護士費用を加算した損害賠償金を支払う義務がある。

☆四日市公害訴訟関係略年表

・1960年(昭和35) 四日市市塩浜にコンビナートが建設される
・1961年(昭和36)夏 開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状を訴えて駆け込む患者が急増する
・1964年(昭和39) 東海労働弁護団への相談を契機に、裁判提訴の動きが出る
・1965年(昭和40)頃 磯津地区を中心に塩浜地区、港地区などコンビナート周辺で硫黄酸化物など大気汚染物質により、激しい咳や呼吸困難など呼吸器系の疾患の被害が続出する
・1965年(昭和40)5月 “公害病認定制度”が発足する
・1966年(昭和41) 公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出る
・1967年(昭和42)9月 県立塩浜病院入院中の磯津の公害患者9名が原告として第1コンビナート企業6社を相手に裁判を起こす
・1972年(昭和47)7月24日 四日市公害訴訟で津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を出し、被告である企業は控訴を断念する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代前期の1651年(慶安4)に、兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画(慶安の変)が発覚した日ですが、新暦では9月7日となります。
 慶安の変(けいあんのへん)は、由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛らが江戸幕府を転覆しようとした陰謀事件で、慶安事件、由井正雪の乱とも呼ばれてきました。江戸幕府第3代将軍徳川家光の時代までは、いわゆる武断政治が行われた結果、多数の大名の改易・減封が続いて多くの浪人が生じたものの、元和偃武(えんぶ)以降、家臣召抱えが控えられるようになり、市中に浪人があふれることとなります。
 一方、慶安年間 (1648~52年) には、大地震や洪水が続発し、世上は極度に不安の相を呈し、さらに、1651年(慶安4年4月20日)に家光が亡くなり、幼少の家綱が第4代将軍となり、幕政にも隙が見られました。その間隙をついて、2千人とも言われる浪人を集め、丸橋忠弥らは江戸城を正雪らは駿府城を奪い。金井半兵衛らは大坂で騒乱をおこして、幕府の政道を改めようと計画します。
 しかし、同年7月23日に、江戸で密告をうけた町奉行が浪人丸橋忠弥を逮捕尋問したところ、幕府の転覆計画を自白して発覚しました。同月26日に、正雪は駿府の旅宿で捕手(とりて)に包囲され自殺、同月30日に由井正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害、8~9月に関係者の大量逮捕と処刑が行われ、決着します。
 これを契機に、幕府は浪人対策を重視し、養子縁組の制を緩和(末期養子の禁の緩和)し、大名家断絶の機会を少なくし、浪人の発生を防ぐこととなりました。

〇慶安の変関係略年表(日付は旧暦です)

<1651年(慶安4)>
・4月20日 第3代将軍徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱が継ぐこととなる
・7月 先の三河刈谷城主松平定政が幕閣を糾弾して処罰される
・7月22日 幕府転覆計画実現のため由井正雪は江戸を出発する
・7月23日 町奉行が浪人丸橋忠弥を逮捕尋問したところ、幕府転覆計画を自白して発覚する
・7月25日 由井正雪が駿府に到着する
・7月26日 早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、由井正雪が自決する
・7月30日 由井正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害する
・8月10日 丸橋忠弥が磔刑など一味とその親族35人が処刑される

☆由井 正雪(ゆい しょうせつ)とは?

 江戸時代前期の軍学者で、1605年(慶長10)に、駿河国由比(毛現在の静岡県静岡市清水区)の農業兼紺屋の家に生まれたと言われています(駿府説もあります)。数え年17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出て、楠木正辰の弟子となり軍学を学び、その婿養子となりました。
 その後、神田に楠木流軍学塾「張孔堂」を開き、旗本や大名の家臣、浪人など多くの門人を集めます。1651年(慶安4)の江戸幕府第3代将軍徳川家光の死に際し、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義らとはかり、浪人を糾合して、幕府覆滅を図りました。
 しかし、内部からの訴人によって事前に漏れて、一党が捕縛され、同年7月26日に、駿府茶町(現在の静岡県静岡市)の旅宿梅屋において、数え年47歳で自害します。この事件を慶安の変(由井正雪の乱)といい、大名の減封・改易で増加していた浪人救済のための企てとも言われてきました。
 この直後に第4代将軍となった徳川家綱が、武断政治を文治政治に転換する契機の一つになったとも考えられています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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 今日は、大正時代の1917年(大正6)に、作曲家・作詞家浜口庫之助の生まれた日です。
 浜口庫之助(はまぐち くらのすけ)は、兵庫県神戸市において、建設会社を経営する実業家の家に生まれましたが、幼い頃から音楽に親しみ、小学校2年生の時に一家で東京へ引っ越しました。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、1935年(昭和10)に早稲田大学高等予科(現在の早稲田大学高等学院)に入学したものの、翌年に中退し、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動します。
 1939年(昭和14)に青山学院高等商学部(現在の青山学院大学経営学部)に入学、1942年(昭和17)には、戦時下で繰り上げ卒業し、ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任しました。戦後、1946年(昭和21)にインドネシアから帰国、友人とハワイアンバンドを組んで、進駐軍めぐりを行います。
 1953年(昭和28)に「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としてNHK紅白歌合戦に出場(3年連続)したものの、1957年(昭和32)には、バンドを解散して作詩・作曲家としての活動を開始しました。1958年(昭和33)にコロムビア専属作曲家となり、1959年(昭和34)にスリーキャッツの「黄色いさくらんぼ」の作曲や守屋浩「僕は泣いちっち」を作詞・作曲して大ヒットさせます。
 1965年(昭和40)に和田弘とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」を作詞・作曲して大ヒットさせ、翌年には、「恍惚のブルース」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。その後、1967年(昭和42)に石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」、1968年(昭和43)に島倉千代子の「愛のさざなみ」、1971年(昭和46)ににしきのあきらの「空に太陽がある限り」、1972年(昭和47)には、石原裕次郎の「恋の町札幌」を作詞・作曲してヒットさせます。
 1973年(昭和48)に女優の渚まゆみと再婚、1985年(昭和60)にのどの腫瘍で療養後復帰し、1987年(昭和62)には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットしました。1989年(平成元)にテレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当、生涯で四千曲余を作曲しましたが、1990年(平成2)12月2日に、東京都豊島区の病院において、喉頭癌のため73歳で亡くなっています。

〇浜口庫之助の主要な作詞・作曲作品

<作詞・作曲>
・「僕は泣いちっち」(1959年)
・「涙くんさよなら」(1965年)
・「愛して愛して愛しちゃったのよ」(1965年)
・「恍惚のブルース」(1966年)
・「星のフラメンコ」(1966年)
・「夕陽が泣いている」(1966年)
・「バラが咲いた」(1966年)
・「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)
・「愛のさざなみ」(1968年)
・「空に太陽がある限り」(1971年)
・「恋の町札幌」(1972年)

<作詞>
・「有難や節」(1960年)

<作曲>
・「黄色いさくらんぼ」(1959年)
・「人生いろいろ」(1987年)

☆浜口庫之助関係略年表

・1917年(大正6)7月22日 兵庫県神戸市において、建設会社を経営する実業家の家に生まれる
・1935年(昭和10) 早稲田大学高等予科(現在の早稲田大学高等学院)に入学する
・1936年(昭和11) 早稲田大学高等予科を中退、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動する
・1939年(昭和14) 青山学院高等商学部(現在の青山学院大学経営学部)に入学する
・1942年(昭和17) 青山学院高等商学部を繰り上げ卒業し、ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任する
・1946年(昭和21) インドネシアから帰国、友人とハワイアンバンドを組んで、進駐軍めぐりを行う
・1953年(昭和28) 「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としてNHK紅白歌合戦に出場(3年連続)する
・1957年(昭和32) バンドを解散して作詩・作曲家としての活動を開始する
・1958年(昭和33) コロムビア専属作曲家となる
・1959年(昭和34) スリーキャッツの「黄色いさくらんぼ」の作曲や守屋浩「僕は泣いちっち」を作詞・作曲して大ヒットさせる
・1960年(昭和35) 「有難や節」を作詞しヒットさせる
・1963年(昭和38) 妻の邦子と死別する
・1965年(昭和40) 和田弘とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」を作詞・作曲して大ヒットさせる
・1966年(昭和41) 「恍惚のブルース」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で第8回日本レコード大賞作曲賞を受賞する
・1967年(昭和42) 石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」を作詞・作曲して大ヒットさせる
・1968年(昭和43) 島倉千代子の「愛のさざなみ」を作詞・作曲してヒットさせる
・1971年(昭和46) にしきのあきらの「空に太陽がある限り」を作詞・作曲してヒットさせる
・1972年(昭和47) 石原裕次郎の「恋の町札幌」を作詞・作曲してヒットさせる
・1973年(昭和48) 女優の渚まゆみと再婚する
・1985年(昭和60) のどの腫瘍で療養後復帰する
・1987年(昭和62) 島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットする
・1989年(平成元) テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当する
・1990年(平成2)12月2日 東京都豊島区の病院において、喉頭癌のため73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1549年(天文18)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する(新暦8月15日)詳細
1878年(明治11)「郡区町村編成法」、「府県会規則」、「地方税規則」(地方三新法)が制定される詳細
1922年(大正11)応用化学者・企業家高峰讓吉の命日詳細
1924年(大正13)「小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1953年(昭和28)「離島振興法」が公布・施行される詳細
1974年(昭和49)国営公園の最初の一つとして、国営武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町・熊谷市)が開園する詳細
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